目次
【1章.南アフリカの冒険】
【2章.天気予報の始まり】
【3章.『三匹の子豚』の普及と合成写真】

 統計学は、いつ始まったのかという問題は難しいものですが、基本的にはフランス革命などが起こり、王政が排され(或いは縮小)、近代的な人が多く集まる都市ができた頃の19世紀初めくらいから徐々に形成され、19世紀後半くらいに基礎となる考えが確立し始まったのだと思います。

 統計自体は17世紀のニュートンの時代にペストの流行などに合わせてジョン・グラントが地域ごとの死亡表を作った頃から始まってますが、19世紀になり近代的な人口集中による匿名性の高い都市ができることによって統計の必要性は増したようです。
 それは、今までの村などのように知っている顔の人で構成された集団でなく、隣人の事は良く知らない大都市になることによって、都市に住んでいる人の事を知りたいというニーズが高まったことが強いようです。

 もちろん都市の人の事を知ることは統計だけでなく、「骨相学」という頭蓋骨の骨格を見るだけで相手の事を知ることができる学問なども流行ったりもしました。

 ただ、今まで神の御加護を受けた王政によって統制されていた都市が、フランス革命のような王政を排する革命が起ることで新しくできた政府はその統制をする事ができるのかという問題が湧き始めたようです。また、どのように統制をする事が正しいのかという疑問も生まれてきたようです。

 そんな中、ケトレーという人が統計のデータを取ることで一つの調和が生じることを発見しました。地域ごとの身長などを計ったデータの散らばりを集めてみると地域ごとに必ず正規分布(ガウス分布)に従うことを発見したのです。つまり、データを集計すると必ず平均を頂点とした釣鐘型のグラフになるとケトレーは実感したようです。
 つまり、無秩序に集まっただけのデータが平均及び正規分布という一つの秩序によって勝手に調和する事を知り、これが一見無法で大規模化する都市の神が与えた秩序だと感じたようです。この考えは、かつて昔ルネサンスにおいて絵画を美しくする法則としてのウィトウィルス的人間像(ダ・ヴィンチ)を代表する比率の発見を新しくとらえ直した方法で、データを取ることで理想的な数字を正規分布によって見つけられるとした発想のようです。ナイチンゲールはこの考えをかなり信じ、「神の意志」として「統計」を利用したようです。

 ただこれだと、秩序を見出せるという考えは革新的であったものの、統計は平均値を取り出すというあまり発展性のない学問になってしまい、統計学の始まりとしては捉えがたい面もあるようです。

 そんな時に、1853年にダーウィンの『種の起源』が登場し、生命は神の意志によって計画されて作られるものでなくて、偶然による発生が環境などによって「自然選択」されることによって新しい種を作っていくという考え方が登場します。

 この偶然によって生じる現象を「どのように秩序を作り、またどのようにランダムに「ばらつき」が生じ、そしてどのようにまた秩序を作っていくのか」と解釈し直し数学的に捉える事で、魅力的な統計を使った学問が形成される可能性が芽生えたのです。

 この数学的な捉え方を行ったのがダーウィンの従兄弟であるフランシス・ゴルトンです。

 もっとも、フランシス・ゴルトンは政治的な思想面で今日では受け入れがたい部分があったり、統計学として形を成すまでの数学的知識がなく弟子のピアソンや更に弟子的なフィッシャーに学問としての体系化を譲ってしまった面もあり、統計学の始まりの人としては捉えられるか微妙の線の人でもあります。

 ただ、調べてみたら、➀ヨーロッパ人として初めて「暗黒大陸」であるアフリカを冒険した人の一人であり、②天気予報を初めて可能にした人の一人であり、③更には合成肖像を発明し三匹の子豚を普及させた人と交わったり、色々な始まりを作った人でもありました。

【1章.南アフリカの冒険】

 ジンバブエの観光名所である「ヴィクトリアの滝」ですが、これをヨーロッパ人で最初に発見したリウィングストンは、「暗黒大陸」とも呼ばれていたアフリカ大陸横断をヨーロッパ人で最初にした人でもありました。その影響で特に統計学で今日に名を残しているフランシス・ゴルトンも若き頃南アフリカの冒険を行っています。

■➀南アフリカ探検の始まり■

 南アフリカはリヴィングストンの第一次アフリカ探検(1849年)以前は、「暗黒大陸」という名が示す通り、一部を除きヨーロッパにはほとんど知られていなかったようです。しかし、リヴィングストンは探検中に天体観測による測量術(伊能忠敬も1800年に地図作成に天体観測を利用している)を身に付け、ほぼ正確に地図を作ることができたようです。

 一方リヴィングストンの「開拓した」交易ルートを最も利用したのは奴隷商人であったようです。この奴隷貿易がのちにヨーロッパ列強がアフリカ政治に介入する口実となり、列強はアフリカ分割へと突き進むことになるようです。※7

■②ヴィクトリアの滝■

1855年にデイヴィッド・リヴィングストンが「ヴィクトリアの滝」を発見しています。山も谷も無い高原のような場所に巨大な滝があることなど到底信じられない発見であったようです。(Wikipedia「ヴィクトリアの滝」)

リヴィングストンは、1830年代に紡績工場で働くかたわら中国で宣教活動を行ったドイツ宣教師カール・ギュツラフの恐らく中国に関する『The Journal of Two Voyages』(1833年)か1834年のそれに三回目の旅行を加えたものを読み、中国での宣教を志し、1836年にグラスゴー大学に入っています。

この影響を受けたギュツラフはその後、1834年パークスの従妹と結婚しその関係でパークスを中国に迎え、更に聖書の中国語訳を出版し太平天国でも使われるものを作り、1837年には漂流日本人を送り届けることを名目としたモリソン号に乗りモリソン号事件に関わり、更にはアヘン戦争に通訳として南京条約に関わり、その後中国人宣教師を育てる「福漢会」を設立したものの1844年に資金不足のためヨーロッパで講演しています。この講演は後に日本に来ることになるフルベッキやマルクスなども聞いているようです。

一方、リヴィングストンは1840年にアヘン戦争のため中国行きは頓挫して、アフリカの宣教を志し南アフリカの宣教をすることになったようです。そして1849年にボツワナのヌガミ湖をヨーロッパ人で初めて到達しています。これらも現地人の布教活動の拠点を見つけるための探検であったようです。また当時すでにヨーロッパでは禁止され非合法となっているものの、アメリカではスルタンたちによって公然と続けられていた奴隷貿易による搾取を廃絶するために、中央アフリカの交易ルートを探索いともあったようです。

そんな中1855年にヨーロッパ人として初めてヴィクトリアの滝に到達しています。

1857年には『南アフリカにおける宣教師の旅と探検』を著しベストセラーになっています。※7

■③フランシス・ゴルトンの南アフリカの冒険旅行■

一方、フランシス・ゴルトンもリウィングストンが切り開いた南アフリカの冒険をこの時期に行っています。

後にナイチンゲールのいとこと結婚(1851年)し、ナイチンゲールより大学への統計学口座寄付の相談を繋ぐことになるフランシス・ゴルトンの従兄弟ダグラス・ゴルトンが、フランシス・ゴルトンにアフリカの探検を勧めたようです。

親から相続した財力を使って何か偉業を成したいというゴルトンに対して、リウィングストンの影響で南アフリカの冒険が熱い事を聞いたのではないでしょうか。

1845~46年にかけてアフリカのスダン地方を旅行しているようです。

1850~1852年にかけて当時のヨーロッパの秘境南アフリカ奥地に冒険旅行。

ルートを開拓(アジアの西南に当たるダマランド地方の開拓を志していたようです※18)しているようです。※6

1850年にゴルトンは、スウェーデン生まれの冒険家チャールズ・ジョン・アンダーソンが世界を冒険するための資金を得るためにロンドンに渡ってたところに出会い、2人は南部アフリカの探検を行ったようです。

夏に喜望峰に渡り、現在のナミビアを探検したようです。1849年にダイヴィッド・リヴィングストンらが発見したンガミ湖を探したが、見つけることができなかったようです。ゴルトンはロンドンに戻りました。※7そして王立地理学会から『熱帯の南アフリカの冒険物語(Narrative of an Explorer in Tropical South Africa)』(『西南アフリカ熱帯に於ける一開拓物語』とも)を出版しているようです。※10そしてゴルトンは1853年に王立地理学会から金メダルを贈られ、地理研究家と冒険者としての評判を確立し『旅行の仕方』(The Art of Travel:1855)を書き始めているようです。※10 アンダーソンはその後も探し遂には1853年に到達し、1855年にロンドンで『Lake Ngami』を出版しているようです。ゴルトンと同じく王立地理学会から金メダルが送られているようです(Wikipedia「チャールズ・ジョン・アンダーソン」より)。

【2章.天気予報の始まり】

 ダーウィンがガラパゴス諸島などを見る事になるピーグル号の航海を行った船長・フィッツロイが「天気予報」という言葉がメディアに用いられた最初のケースを作ったようです。

 そして、この時代には天気予報で使われる天気図も作られた時でもありました。

■➀天気図の始まり■

 世界で初の天気図は1820年にドイツの数学者H・W・ブランデスが書いたものといわれるようです。嵐の正体が「気圧の低い空気の塊=低気圧」であることを始めて明らかにもしたようです。ただし同じ気圧の地点をつないだ“等圧線”は引かれておらず、しかも40年近く前の気象データを使ったもので、おおよそ天気“予報”とはほど遠いものだったようです。ただ、同時観測のデータを地図に描けば嵐の位置や様子を知ることができることを明らかにした意義は、非常に大きかったようです。

 その後、1831年にフランスのG・G・コリオリが地球の自転に起因する見かけの力である「転向力」を発表し、これが大気の運動に極めて重要な力であることが明らかになり、更に数学・物理学の問題として気象現象が扱える土俵ができあったようです。※11

そして、1858年にロンドン近郊のキュー天文台の台長になり、科学分野に数学的方法を導入することに興味を持ち、気象学の研究を行ったフランシス・ゴルトンが気象図の研究の際に同じ気圧の点を結んで等圧線を書いた。※6

 ゴルトンは気象学の創始者とも言われ、最初の気象図を考案し、ヨーロッパにおける高気圧の理論や短い期間での気象現象を完璧に記録する方法を成し遂げたようです。(英語版ウィキペディア)

■②天気予報の始まり■

 またダーウィンが参加してガラパゴス諸島などを見ることになるピーグル号航海の船長を努めた海軍軍人R・フィッツロイ(➀805-1865)が1860年に天気予報を始めて試み、毎日の予報が新聞に掲載され、「天気予報」という言葉がメディアで用いられた最初のケースのようです。※11

 当時の気象予報には怪しげな占星気象学を用いた物もすくなくなく、気象予報の発表には政府やイギリス科学界は信頼性を失墜させるものとして反発したようです。それもあってか、天文台の台長であるゴルトンはフィッツロイの死後(1865年)に組織された調査委員会の委員長として勧告を行い一般向けの気象予報は1866年5月28日に中止されたようです(Wikipedia「フィッツロイ」)。

 そして1868年に気象研究会議の会員に挙げられていたゴルトンは1875年にタイムズ紙に掲載された最初の天気図を作成し、現在では世界中の新聞の標準的な役割をなしているようです。他にもゴルトンは反対旋風の理論を発表しているようです。※10※18

【3章.『三匹の子豚』の普及と合成写真の登場】

 多くの人の顔を重ねて一つの顔を作り出す「合成写真」は、統計科学的な考え方から考案されたようです。

正規分布によって雑多なデータにも傾向性が見える、あるいは多くのデータもランダム化によってその平均値がみえるという考え方が近いと思います。

そのような分析は19世紀前半にベルギー独立の時期に国際統計を唱えたケトレーによって見出され、更にそれをダーウィンの同じ種の中でも環境によって変化していくという事を立証するために人体の測定を研究所を作って行っていたゴールトンだから見出したのだと思います。

■➀イギリスのフェアリーテールの普及とアンデルセンの影響■

1877年、『ジャックと豆の木』や『三匹の子豚』(1890年)など世界でよく知られているヴァージョンの英国民謡を普及させることになるジョセフ・ジェイコブスが英国に戻ってきた際ゴルトンのもとで人類学を学んでいるようです。この時点で、ジェイコブスは民間伝承への関心をさらに高め始めたようです。(英語版Wikipedia「Joseph Jacobs」)

 はるか昔を舞台に、現実世界では起こりえない出来事を描くフェアリーテール(妖精物語)は、イギリスでは子どもたちにとって宗教的観点からふさわしくないものとされてきました。しかし、18世紀後半にはチャップブック(行商人により安価で流布された通俗的な内容の印刷刊行物)の形式でさまざまな物語が子どもたちに人気を博するようになったようです。

 その背景には、日曜学校の普及などにより、幅広い階層にわたって「本を読む」という行為が普及する中で、これまでに口伝えで継承されてきた「自分たちの物語」への欲求があったようです。しかし、フェアリーテールを「無知な迷信」であるとして、宗教的・道徳的・教育的な観点からこれを排斥する動きも高まり、逆に教訓物語の流行にもつながったようです。

 そのような中、1823年には、グリム兄弟がいの作品集が、また1840年代に入るとアンデルセンの童話の英訳も始まり、また世界各地の童話・民話が英語圏の子どもたちのために翻訳されたようです。フェアリーテールの復興の動きは、より自由な発想による空想文学の新しい潮流を呼ぶことになるようです。※12

 …おそらくこのような流れの中、1890年にジェイコブスが『ジャックと豆の木』『三匹の子豚』などを自己流に解釈して普及させたのだと思います。また同じ頃に、ラフガディオ・ハーンも『怪談』などを書いていて、こちらも日本で仕入れた物語をハーン流に解釈して出版したものであるようです。

■②合成写真■

 1883年、王立協会のプレゼンテーションで、複合体が人間の理想的なタイプと外延の興味深い具体的な表現を提供する事を示唆したようです。合成写真は1880年代にゴールトンによって発明された技術で、ハーバート・スペンサーが人間のかの写真を2つの目で登録して、撮影されたグループ内のすべての人の「平均的な」写真を作成する事を提案したようです。スペンサーはオニオンスキンペーパーと線画の使用を提案していたようですが、ゴールトンは同じ写真乾板に複数回露光する手法を考案したようです。この王立協会のプレゼンでは犯罪者などの一般的なタイプの人類の特徴を調査するためにこの手法を使用することについて説明したようです。彼の考えでは、それは平均と相関の統計的手法の拡張であったようです。

 この合成写真の研究は、ジョセフ・ジェイコブスがゴールトンのもとで人類学と統計学を学んでいたときに始まったようです。ジェイコブスはゴールトンに、ユダヤ人のタイプの合成写真を作成するように依頼したようです。ゴールトンの合成画像を使用した自コブスの最初の出版物の一つに『ユダヤ人のタイプとゴールトンの合成写真』(1885年)があるようです。※10および(英語版Wikipedia「Compsite portrait」)

 19世紀は起源(オリジン)の概念に、人々がとりつかれていた時代だったようです。人々はあらゆる領域に、起源を探求し、その過去を進化の考え方にしたがって、合理的に再構成することが可能だと考えたようです。(※『南方民俗学 南方熊楠コレクション第二巻』中沢新一編・1991.7.25河出書房)

 オリジンという要素を抽出する方法論の一つとして合成写真があったのかもしれません。

※1…『統計学を拓いた異才たち』デイヴィッド・ザルツブルグ(訳)竹内恵子・熊谷悦生2006.3.20日本経済新聞出版社

※2…https://www.washingtonpost.com/archive/local/1994/06/30/statistician-churchill-eisenhart/

※3…『統計学が最強の学問である』西内啓・2013.1.24ダイヤモンド社

※4…『民族学の歴史』ジャン・ポワリエ(訳)古野清人、1970.5.2白水社

※5…『数学の文化史』モリス・クライン(訳)中山茂2011.4.20河出書房新社

※6・・『知の統計学②』福井幸男1997.6.30共立出版株式会社

※7…Wikipedia「リヴィングストン」

※8…ir.soken.ac.jp 8章『欧米における優生学とその影響』飯田香穂里

※9…日本語版Wikipedia「ゴルトン」

※10…英語版Wikipedia「galton」

※11…http://spacesite.biz/weathstoy.htm

※12…https://www.kodomo.go.jp/ingram/section2/index.html

※13…『統計の歴史』オリヴィエ・レイ(訳)池畑奈央子ら、原書房、2020.3.26

※15…『歴史と統計学』竹内啓2018.7.25日本経済新聞出版社

※17…『心理学史への招待』梅本堯夫・大山正

※18…『サー、フランシス、ゴールトンの伝記』永井潜、1931.1巻1号『民族衛生』創刊号

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です