ニコライ1世の時代を、「ナポレオン戦争」「プーシキン」「プチャーチン」「ルー・ザロメの父親」「ナポレオン三世」「ドストエフスキー」「ナイチンゲール」など織り交ぜて、その時代と人の繋がりを中心に紹介していきます。

①日露和親条約とクリミア戦争

ペリーが日本に来航する情報を聞き、1853年ロシアも日本と国交をとるために使節を送ることにした。

選ばれたのは、1842年のイギリスが清国に勝利したアヘン戦争の頃から、日本との交渉に出たいと申し出ていた海軍のプチャーチンである。

1854年に長崎を訪れた後、蝦夷地で交渉の場を持つことを約束したものの、ロシアが前年からオスマン・トルコと始めたクリミア戦争により、この年からイギリス・フランスもオスマン・トルコ側として参戦する事を決め、蝦夷地の少し上のロシア領カムチャッカ半島などを攻撃し始め、プチャーチン使節も警戒レベルを上げて、蝦夷地の交渉の場には訪れなかった。因みに日本交渉側の一人に後に函館戦争で蝦夷地に国を作ろうとする榎本武揚もいた。

その後、秋ごろからクリミア戦争が激化し、クリミア半島が集中的な激戦の場となった。

ロシア側の要塞は北側の海岸線からの防衛は固めていたが、南からの陸路は手薄であったため、イギリス・フランス側は1週間ほどの決戦でロシア側に勝てると踏んでいた。しかし、想像以上に戦闘は長期化してしまい、イギリス側の戦地病院では十分な衛生状態を保つことができず戦死者よりも病死者を増やす結果を招いてしまった。

そこで10月イギリス本国から、クリミア半島から黒海を通した反対側のスクタリというイギリスの基地に衛生環境の改善で驚くほどの実績を上げていた看護師・ナイチンゲール一団が派遣されることになった。ナイチンゲールはもともといた軍医などの反対もありつつも当時の先端の思想である衛生学の考えを熱心に実行し、次第に本国の助けもあり、環境を改善していく。またクリミア戦争終結のパリ条約付近にはクリミア半島自体に赴き、戦争後も環境作りに努めている。

クリミア戦争を起こしたロシア皇帝・ニコライ1世は、クリミア戦争が終わる少し前に病死で亡くなっている。

②ニコライ1世の即位とデカブリストの反乱

ニコライ1世は、1825年にナポレオンを1812年に破り英雄となった兄・アレクサンデル1世の後を継いで皇帝として即位した。アレクサンデル1世は兄といっても20歳近く年齢は離れていて、アレクサンデル1世が祖母のエカチェリーナ(ニコライ1世が生まれた頃には亡くなっていた)の自由主義的な教育を受けたのに対して、ニコライ1世は父パーヴェルの保守的で厳格な性質を引き継いだ。

当時ロシアは、ナポレオン戦争に勝ち、オーストリアと共に自由主義から君主制を守り抜いた勢力としてヨーロッパの空気を作り、「ウィーン体制」として進めていた。

しかし、ナポレオン戦争のときナポレオンに勝つためプロイセンやイギリスなどの外国と協調して戦ったため、貴族の中にはヨーロッパに広まりだしていた自由主義的な影響を受けたものもいた。

1825年、アレクサンデル1世が亡くなったものの、アレクサンデル1世がニコライ1世の跡継ぎの話をしていなかったために混乱を生むことになる。その混乱に乗じて、自由主義的な立憲と農奴制の廃止を目指す貴族を中心とする集団がデカブリストの反乱を起こす。

それに対して、ニコライ1世は徹底的な弾圧によりこの反乱を鎮め、皇帝と就任する。この反乱によってニコライ1世の政治的方針は形作られ、翌年には皇帝直属官房に第三部を設けて、徹底的な監視体制を作る。またこの反乱には近代ロシア文学を形作ったプーシキンもいたが、プーシキンは少し前に政治的な詩によって南ロシアに追放されていたため、処罰は逃れた。そして、ニコライ1世の監視下に文学の才能を発揮していくのである。

③ギリシャ独立戦争

ウィーン体制によって幅を利かせたロシアは更なる勢力の拡大を目論んでいた。そして1826年からオスマン・トルコ領であったギリシャ独立戦争に参加し、1827年決定的な戦争であるナヴァリノ海戦にイギリス・フランス(この時はまだロシアと共にオスマントルコ対策を行っていたがこの後、ロシアに対する領土拡大に警戒レベルを高める)とともに勝利し、ギリシャの独立を果たした。ギリシャのキリスト正教を信仰するロシアにとってギリシャの独立は意義深いものであった。そして、この後更にロシアとオスマントルコは戦争を行い、トルコに対するロシアの優位的な立場を獲得し、これが特にイギリスの警戒心となる。

このナヴァリノの海戦は帆走船主力同士の最後の戦いと言われているが、後に日露和親条約の使節としてくるプチャーチンが参加している。プチャーチンは1805年のトラファルガーの海戦あたり位のネルソン艦隊にロシアの名を受けてゴローニンらとともに視察していたラザレフを船長として海軍士官学校卒業後世界周航に出ていた。その後の海戦として参加したのだ。それ以降コーカサス海戦や1840年に黒海を渡ってイギリスに軍艦交渉を行ったり、ペルシアとの通商交渉を行う中で、1842年のアヘン戦争から東洋に対する重要性に気付くようになり、日本への使節を望むようになるのだ。

④七月革命とポーランドの反乱

1830年、フランスではナポレオン戦争後王政復古が起こっていたが市民革命である七月革命が起った。後にナポレオン3世となるルイ・ナポレオンはスイスの砲兵隊に入っていたが、一時的ではあるがナポレオン家の復興を夢見た。

7月革命はウィーン体制を揺り動かし、ベルギー独立の後押しにもなった。更にニコライ1世がロシアに次ぎ王位を兼任しているポーランドを揺り動かすことになった。経済面ではロシアよりも進んでいて、更にカトリックであり、ニコライ1世皇帝就任後の厳しい取り締まりに対する反発でもあり、ポーランド動乱が起こる。しかし1831年9月おワルシャワ強襲により占領して反乱を鎮圧することになる。このワルシャワ強襲で活躍したロシア陸軍兵に、後にニーチェと交友を持つことになる娘ルー・ザロメの父親グフタス・ザロメがいる。この活躍によってニコライ1世の注目を引き、世襲貴族の仲間入りを許され、後々には陸軍のトップとなっていき、晩年ニコライ1世が亡くなり大改革が起こり農奴制廃止された時期に一人娘ルー・ザロメが生まれるのである。

⑤諸国民の春とドストエフスキー

1848年、フランスで二月革命が起りナポレオン3世が皇帝に就く。この革命は、多くのヨーロッパでの自由主義的革命を促した。ロシアは「ヨーロッパの憲兵」として鎮圧に乗り出すが、オーストリアにも革命が起りウィーン体制の主導者でもあった宰相メッテルニヒが追放される事態になる。ロシアは早速加勢してオーストリアに借りを作る。

一方、この動乱に対してニコライ1世は国内の監視体制を強め、フランスのサン・シモンやシャルル・フーリエの蔵書を多く持っていた巨大秘密組織ともペトラシェフスキー・サークルを検挙する。

このサークルに、陸軍のエンジニア学校を出て、工兵製図局にも一時勤めながら、バルザックの翻訳や小説を書き「第二のゴーゴリ」とも称された処女作を出したドストエフスキーもいた。ドストエフスキーはこれによってシベリアの流刑となり、つらい日々を送るが、この経験が小説の題材として生き、後々に『罪と罰』や『カラマーゾフ兄弟』などの名作を世に送り出す。

⑥クリミア戦争

オスマン・トルコは、以前はロシアの影響力が強かったがフランスやイギリスなどの影響力が強くなっていく。ナポレオン3世がエルサレムの管理権を、管理していたオスマン・トルコから得ることによってヨーロッパのカトリック教徒とオスマン・トルコの関係が深まっていく中、ギリシア正教を信仰するロシアのニコライ1世が反発する。

ニコライ1世にしてみれば、1848年の革命の際、革命阻止の手助けをオーストリアとプロイセンに行い、更にはフランスは革命による混乱によってまだままならなく、イギリスと上手く領土の分割際できれば、ロシアにとって有利な戦争ができると読んでいた。

しかし実際は、イギリスは想像以上にロシアの領土拡大に警戒していて、オーストリアやプロイセンは援助できるほどの力が革命の余波でなく、ロシアにとっては不利な戦いとなっていた。

ただ、戦況は簡単にはいかず硬直した長期戦になり、1854年にはカムチャッカの方でロシアとイギリス・フランスの戦争が起きたり、国際的な局所戦となり、最終的にはクリミア半島の要塞にて長期的な持久戦が繰り広げれてゆくのである。

そんな中、ニコライ1世は亡くなっていく。

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