【序・アレクサンデル1世の時代とゴローニン】

ゴローニン事件は、1811年千島列島を測量していたロシア軍人ゴローニンを、国後島で捕縛・抑留された事件だ。

そのゴローニンは調べてみると、1802~5年にかけてロシア皇帝アレクサンデル1世の命により、イギリスのネルソン艦隊などの中で訓練を受け、更にイギリスとフランスの争いをネルソン艦隊のもとについて視察していたようである。

1805年というとトラファルガーの海戦の年である。ナポレオン率いるフランス海軍にイギリスのネルソン艦隊が圧倒的な勝利を遂げた歴史的な海戦ある。そこまでゴローニンが視察していてかは分からないが、その付近までゴローニンはイギリス海軍の元で戦いを視察していたようである。

つまり、ゴローニンはナポレオンと戦っていたロシアの時代の人であるのだ。

日本史の流れで開国前にロシアが何度か日本に上陸して外国船の打ち払いをしたというのは、おぼろげに覚えていたが、考えてみればそのロシア人がどのような状況の国から来たのかなんてあまり考えたことなかったな、と思った。

そこで、当時のアレクサンデル1世のロシアと日本に訪れたロシア人の関係を考えつつ、伊能忠敬や間宮林蔵との繋がりも加味して、その時代を改めて調べてみました。

【第一章・ラクスマン×レザノフ×ゴローニン、間宮林蔵×伊能忠敬の繋がり】

1792年、漂流してロシアの女帝エカテリーナ2世に謁見した大黒屋光太夫をつれて日本に訪れたラクスマン。ラクスマンの父は、1775年に日本の出島を訪れたリンネの植物分類を引き継いだツンベルクの弟子であった。そして、父はツンベルクの影響から日本の植物になどに興味を持っていたため、大黒屋光太夫らに親しく付き合い、息子であるラクスマンに大黒屋光太夫を日本に送るように取り計らったらしい。

更にそのラクスマンが訪れた事を受けて、蝦夷地の地図測量を提案したのが、伊能忠敬の師である高橋至時のようである。千葉県佐原の商人であり代表者でもあった伊能忠敬は晩年天文学に興味を持ち高橋至時のもとで天文学を学び始めていた。そして、正確な子午線弧をもとめるために長い距離の正確な測量を必要としていた。そのタイミングでラクスマンが蝦夷に現れたため、ロシアとの外交の為に測量をすることを提案したようである(そして、自身の子午線弧の立証もしようとも思っていた)。こうして日本地図作成の一歩が始まった。

そして1800年蝦夷で測量を始めようとして伊能忠敬は赴き、丁度蝦夷に幕府の命で赴任していた間宮林蔵がいて、間もなく間宮林蔵は伊能忠敬の弟子になり、測量の技術を学びつつ蝦夷の測量を手伝った。

1804年、大黒屋光太夫の少し後に漂流した津太夫(一度ロシアで大黒屋光太夫と津太夫は合流している)を連れて、レザノフは長崎を訪れた。更にラクスマンが日本に訪れたとき得た長崎の入港許可証を持っていた。しかし、ラクスマンが日本と交わした国交樹立は松平定信のときのもので、時代が変わりレザノフは結局出島で待たされたまま、日本から追い返される形となってしまった。そのため、出島で見た限りでは日本へは武力行使をすれば容易く攻略できるため、武力行使にでるしかないと皇帝アレクサンデル1世に助言。レザノフ自体は武力行使の発言を後々撤回したらしいが、一部のロシア人は共鳴し、日本に対して攻撃を仕掛ける露寇事件が1806年と1807年に起きる。

その1807年の方をシャナ事件と呼び、そこでは間宮林蔵が当事者としていて徹底抗戦を訴えかけた。徹底抗戦自体は認められなかったが、その発言が功を成し樺太の徹底的な調査をする機会が与えられた。そこで、1809年、間宮林蔵は樺太と大陸の間の間宮海峡を発見し、さらに大陸に渡り現地調査を行った。そしてその報告を1811年江戸に届けた際、間宮林蔵は師・伊能忠敬の家を訪れ、九州の測量を終え地図を作成していた伊能忠敬は、一週間、間宮林蔵に測量技術をみっちり教えた。そして、間宮林蔵が蝦夷に戻ると、レザノフが出島にいた頃イギリスのネルソン艦隊の視察をしていたゴローニンが千島列島の測量を皇帝から任ぜられていたところ日本側が捕まえるゴローニン事件が起きた。間宮林蔵は捉えられていたゴローニンを何度か訪問し、測量機材について質問したりゴローニンをスパイだと疑って接していたという。

その後、間宮林蔵は1828年幕府の隠密として全国を各地を調査し始め、1830~36年にかけて竹島を密貿易に使っていることを発見した竹島事件が起こっている(これが現在の竹島騒動の議論の根拠の一つになっている)。そして、その蝦夷地の知識があったころから、幕末にかけて活躍する川路聖謨や江川英龍、そして蝦夷地支配を画策していた徳川斉昭や藤田東湖とも交流したという。

【第二章・アレクサンドル1世の時代】

1777年ロシア皇帝アレクサンデル1世はエカチェリーナ2世の息子・パーヴェル1世のもとで生まれる。ただ、パーヴェルはエカチェリーナに対して反発していたため、エカチェリーナはアレクサンデルを幼少期から寵愛して教育を叩き込んだという。そして1796年にナポレオンの第一次イタリア遠征に参加したフランス将軍ラアプルの従弟を家庭教師とし育ち、家庭教師はルソーや自由主義に影響を受けていたためアレクサンデル1世もその影響を受ける。

1801年にロシア皇帝に即位し、自由主義に基づいた農奴解放などの国政改革を試みようとするが保守的な貴族の反発や次第にナポレオンと全面的に戦うために保守的な貴族の協力も必要になり1812年までには完全に国政改革は放棄される。

1801年に即位後すぐに父の中立路線を翻し、イギリスと同盟を結ぶ。更にもともと家庭教師であったラアプルもナポレオンの現状を見て警戒する手紙をアレクサンデル1世に届けたこともありプロイセン王フリードリッヒ・ヴェルヘルム3世と同盟を結ぶ(プロシア王国ポツダムのフリードリッヒ大王の墓標をヴェルヘルムと妃ルイーズとともに視察する有名な絵画がある)。

1805年には、前年ナポレオンが皇帝に即位した関係もあり、イギリス・オーストリア・ロシアで第三次対仏同盟を結ぶ。そして、ナポレオンがオーストリアの主戦力ウルムを武力を行使せず迅速な行軍によってのみ勝利する。しかし、その次の日、ネルソン艦隊がなナポレオン海軍に圧勝するトラファルガーの海戦が起こる(この年付近にロシア海軍ゴローニンはネルソン艦隊につきフランスとの闘いを視察している)。この海戦は帆走船同士の最後の大会戦となり、後は海上封鎖という地味な戦いになる。

その後同じ年、ナポレオンの陸戦での戦争芸術の“粋”ともされるアウステリッツの戦いが起こる。丁度ナポレオン戴冠一周年で、フランス陸軍が兵力では優勢なロシア陸軍を圧勝する。これにより第三次対仏同盟は崩壊し、イギリスのピット大統領は急死。ハプスブルク家の神聖ローマ帝国も崩壊していく。

1806年にイェーナ・アウエルシュタットの戦いによりプロイセンがフランスに敗北する。その関係もあり、プロイセンはフランスに協調路線を結ぶ中でフランスに反対したクラウゼヴィッツ(1812年にロシア、またフンボルトもプロイセン国政改革に教育によって携わっておりクラウゼヴィッツも接点を持っている)やニーチェと親交を持ったルー・ザロメの祖父もプロイセンからロシアに移っている。

ロシア側の方は1807年のアイラウの戦いでフランス軍と痛み分けした関係でティルジットの和約で初めて、ナポレオンとアレクサンデル1世が顔を合わし、オーストリアなどの対仏同盟から離脱し、イギリスへの海上封鎖に参加することを約束する。

ただ、その後プロイセンなどの勢力と協調し、ナポレオンをロシアは破る。そこで、ナポレオンを倒した救世主として名声を獲得し、新領土も獲得したが、そのため農奴制など保守的な部分の改革をしなかったため、後々のには自由主義の経済発展に乗り遅れることになっていく。

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