アメリカでの心理学のはじまりの人物として、ウィリアム・ジェームズがいます。
ジェームズの生涯の中での心理学のはじまりは、学生時代ヨーロッパに留学し、ヘルムホルツやヴントの業績に触発されたことがきっかけです。
人は赤・緑・青の3つの色の割合によってさまざまな色を見分けているという認知に関する発見したヘルムホルツの生理学というのが、身体内部の反応を外部で測定するものでした。一方、哲学の一部としての心理学の場合は、外部から与えられた刺激に対してどう感じるかといった内的反応を観察するものであり、ちょうど測定の方向が反対になっているものでした。そこで両方の方向性をもった研究領域として「生理学的心理学」を提唱する事で「心理学」を独立した科学となりうるとしたのがヴントの考えだと思います。それはヴントがヘルムホルツの助手を辞めて『人間と動物の心に関する講義』という著作を発表した1863年でした。
ジェームズはその3年後(1866年)、医学部の学業を中断してドイツへ滞在したときに、ヴントに触れたのです。そして帰国後、ヴントの発想をもとに1875年に「生理学と心理学の関係」という題で講義を始め、アメリカで初めての心理学の実験所を設立し、アメリカの心理学の祖となったわけです。そして、1890年に『心理学原理』といういわば「生理学的心理学」の知識を体系的に詳細にまとめた著作を出すことでより権威となりました。
ただ、ジェームズはそれより後は、心理学よりも哲学の側面が濃くなっていきます。というより宗教や心霊現象を扱う超心理学の方面まで展開していきます。
これは『サイエンス』誌などで心理学の普及に務めていたキャッテルによって、「(ジェームズが注力している)心霊現象研究会は、心理学を傷つける多くのことをしている」と批判を受けます。
でもジェームズは、生理学的心理学ではまだ精神的な病は克服できなかったり、人間の本性というものは分からないと思い、宗教や心霊現象など超心理学を扱う事でその生理学的心理学では埋められない穴みたいのを埋めようとしたのだと思います。
ジェームズ自身、憂鬱などに悩まされていたこともあり、実感としてもあったのだと思います。
心身症に悩まされることも多かった夏目漱石も、最初は『心理学原理』などを読んでいましたが、後の『多元的宇宙論』などジェームズの後期の著作まで読んでいたのは、自身の心の平静を保つのに繋がると考えたからではないでしょうか?
ジェームズが超心理学的な要素に接したのは、おそらく生まれたときからでした。父がスヴェーデンボリというダ・ヴィンチのように万能人だが後期は霊界に関する著作に傾倒した人に影響を受けていたからです。ただスヴェーデンボリは神秘主義的でしたが影響を受けた知識人は多く、エマソン、カーライル、フーリエ主義など父親が接した人々も豊かな人達でした。
特に「歴史のスヴェーデンボリ」と自らを称したルヌーヴィエの著作に、1870年ジェームズは大きな影響を受けています。一元論的な迷信から自由になり多元的な考えを決定的なものにしました。
一元論から多元論への流れはさまざまな捉え方があると思いますが、僕が印象深く思うのは進化論の見方です。
ジェームズの時代に心理学が一つの科学になりつつあった背景として、「進化論」が大きな要素としてあります。動物や様々な人間などもともと祖先が一緒で枝分かれしてきたののなら、同じような部分はあるはずで、比較して「心」を分析する意味がある。これはダーウィンの自身が『人間の起源』(1871年)で示唆した部分でもありました。また、進化する事は環境と適応することであるから、心というものはそれぞれ環境とどのように対応して総合的に機能しているのか考える必要がある。これはジェームズなどの元から発展する生理学的心理学が機能主義と呼ばれた所以でもありました。
ただ、ジェームズが想定していた進化論はダーウィンのような一元的なものでなく、ジェームズが学生時代にブラジル探検でお世話になったアガシーの述べる多元的なものであった可能性が高いです。当時は南北戦争(1861~1865)と近い事もあり、奴隷制度を支持する支持しない根拠として進化論が持ち出されることがありました。実際、ダーウィンが進化の起源は一元的なものであるとした背景に、奴隷制を反対する目的があったという著作もあります。一方アガシーは奴隷制に関しては支持的ではなかったのですが多元論である故にそう見られることが多かったようです。
ジェームズが自身は奴隷制度反対派であり、それが故に南北戦争に参加しようか真剣に悩んだほどでした。そうでありながら、アガシーのもとで自ら学んだ時期もあるわけですから、多元的な進化論に何か根拠が欲しかったのではないでしょうか?その悩みを解決する糸口としてルヌーヴィエの著作に辿り着いたのではないでしょうか。
もっとも、一元論や多元論に限らずジェームズが進化論に影響を受けていた根拠としては1875年ジェームズがアメリカの祖となった年に、スペンサーの『心理学原理』を用いて授業をしていることです。スペンサー自身の方法論は哲学的なものでしたが、進化論を用いて「心理学」という学問のアウトラインを引いた分野は、多くのところで後の機能主義的心理学であったりソーンダイクの効果の法則など先取りをした面がありました。
他にもジェームズはミレーと交友のあったウィリアム・モリス・ハントという画家の下で学んでいたり、ジェームズの人生を形づくる豊かな環境や経験が、1909年フロイトと共にジェームズに会いに来たユングにとって魅力的に映る重層的な心理学をジェームズ作り出した理由でもあったのではないでしょうか。
1章.エマソンとフーリエ主義の影響
■➀エマソンとカーライル■
ウィリアム・ジェームズはニューヨークにて、父のエマソンとカールライルの親交の中に生まれている。
William James was born in New York City on January 11, 1842. He was the son of Henry James Sr., a noted and independenty weathly Swedenborgian theologian. Around 1841, James began to be interested in Swedenborgianism.(英語版wikipedia「Henry James Sr.」)
Swedenborgianとは、The New Church is any of several historically related Christian denominations that developed as a new religious group, influenced by Emanuel Swedenborg(1688-1772). (英wiki「Swedenborgian」)
In his quest, he met and befriended Ralph Waldo Emerson, but did not find much satisfaction in Emerson’s thought. Emerson introduced James to Thomas Carlyle. (英wiki「Henry James Sr.」)
1842, William James was born, and Emerson agreed to be his godfather. (英wiki「Ralph Waldo Emerson」)
この頃のエマソン(Ralph Waldo Emerson:1803-1882)は、1841,Emerson published Essays, his second book, which included the famous essay “Self-Reliance”. (英wiki「Ralph Waldo Emerson」)エマソンは1821年にハーバート大学を卒業し卒業礼拝式にてスウェーデンボルグに影響を受けた学生のスピーチに感銘を受ける。ハーバート神学校に入学しユニテリアン派の牧師になる(因みに1870年代にフェノロサもハーバード大学を卒業しハーバート大学付属のユニテリアン神学校に入っている。)。その後ユニテリアンの合理性に満足できず、渡欧しイギリス北部でカーライルと親交を結ぶ。1833年にアメリカへ帰国後、1835年にカーライルにアメリカ講演に来るように働きかけている。
1836年に超絶クラブを作り、評伝『自然』(Nature)を出版し超絶主義運動のバイブルとなる。超絶主義は、客観的な経験論よりも、主観的な直感を強調する。その中核は、人間に内在する善と自然への信頼である。一方、社会とその制度が個人の純粋さを破壊しており、人々は本当に「自立」(Self-Reliance)して独立独歩の時にこそ最高の状態にある、とする。1830代半ばから1840年半ばにかけての10年間はエマソンにとって最も実り多い時期であった。(wikipedia「エマソン」)丁度そのようなエマソンとジェームズの父はスウェーデンボルグ神学の繋がりで出会い、親交を持ち生まれてきたジェームズのゴッドファーザー(教父)となっている。因みにウィトゲンシュタインは第一次世界大戦中にエマソンの第二作目を収めた『エッセー』を読み宗教観に感化されている。ジェームズもエマソンの思想に影響を受けている。
一歩ジェームズの父はエマソンの思想には満足できず、カーライルを紹介されている。その頃のカーライル(Thomas Carlyle:1795-1881)は1840 in may, Carlyle gave his fourth and final set of lectures, which were published in 1841 as 『On Heroes, Hero-Worship &
The Heroic in History』. Carlyle had become frustrated by the facilities acailable at the British Museum Library. He developed an antipathy to the Keeper of Printed Books, Anthony Panizzi, and criticized him. Carlyle had chosen Oliver Cromwell as the subject for a book in 1840 and struggled to find what form it would take.(英wiki「Thomas Carlyle」)『英雄崇拝論』と『オリバー・クロムウェル』を描いていた時期のようだ。『英雄崇拝論』に代表されるように、「世界の歴史は英雄によって作られる」と主張した。明治以来多数日本語訳されてきていて、内村鑑三・新渡戸稲造などに影響を与えている。また夏目漱石は1901年イギリス留学中に池田菊苗が赴任していたイギリスの王立研究所のチアックに遭ったカーライルの家であった場所を池田と訪れている。
■②フーリエ主義■
But it was in the work of Emanuel Swedenborg(1688-1772), the Swedish scientist, religious visionary and teacher, that James found a sprit home.
In the late 1840s, James became interested in the former members of Book Farm, an experiment in communal living at West Roxbury, Massachusetts that lasted from 1841 to 1847, and in Fourierism(フーリエ主義), the school of utopian socialism(空想社会主義) that grew out of the thought of French social philosopher Charles Fourier(1772-1837) and which was a major influence in the lost several years of Brook Farm. James was interested in utopianism as a stepping stone to the spiritual life. (英wiki「Henry James Sr.」)
そもそもサン・シモン、シャルル・フーリエらは、一流の科学者で神秘主義者であったエマヌエル・スヴェーデンボリ(1688-1772)が描写した天界の様子に強い影響を受けて、「地上の楽園」としてのユートピアを思い描き、自らの世界観と教説を形成したと言われている。(Wiki「空想的社会主義」)このことから、父ヘンリーはスヴェーデンボリの影響を受けてエマソンやカーライルと親交を持ち影響を受けるも、活動の面では同じくスヴェーデンボリの影響を受けたフーリエ主義の方向に進んでいったのだろう。
父ヘンリーは子供たちが真に善を愛し、共感するがゆえに善を求めるような正しい人間となり、自由闊達な精神の持ち主となる(エマソン的に感じる)ことを願い、この方針のもとに子供たちは教育され、家庭生活は設計された。父ヘンリーがいくたび居を転じ、三たびまでも家族を伴って大西洋を渡りヨーロッパ各地を旅したのも、そのためであった。※5
William James received an eclectic trans-Atlantic education, developing fluency in both German and French. Education in the James house hold encouraged cosmopolitanism. The family made two trips to Europe while William James was still child. (英wiki「William James」)
■③ルヌーヴィエ■
余談であるが、父とは別に自らを「歴史のスヴェーデンボリ」と称したルヌーヴィエにジェームズは大学卒業し生理学の講師になる過程で大きな影響を受けている。
1870年4月30日日記、ルヌーヴィエ(Charles Renouvier)の自由意志説が光明を与える。「私の最初の自由意志の行為は、自由意志を信ずることであるであろう」。ジェームズの哲学の帰朝、哲学は彼が生きて行くための信仰ないし信念であった。※5
Renouvier became an important influence upon the thought of American psychologist and philosopher William James. James wrote that “but for the decisive impression made on me in the 1870s by his masterly advocacy of pluralism, I might never have got free from the monistic superstition under which I had grown up.”「1870年代に彼による多元論の見事な用語を読んで決定的な印象を受けていなければ、私は自らが共に育ってきた一元論的な迷信から自由になることなどできていなかっただろう」 (英wiki「Charles Renouvier」日本語版も参照)
スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも散見され、例えば哲学者イマヌエル・カントは『視霊者の夢』中で彼について多数の批判を試みている。一方で、カントは限定的に「スヴェーデンボリの考え方はこの点において崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である」(K・ ペーリツ編『カントの形而上学講義』から)と評価も下し、後のカントは「彼の不思議な能力の非常に多くが確実であり、彼は道理をわきまえ、礼儀正しく、隠しだてのない人物であり、学者である」と率直に語った。(Wikipedia「スヴェーデンボリ」)
■④スヴェーデンボリ■
スヴェーデンボリとメスメルの思想を背景として、19世紀にはスピリチュアル思想が起こっている。(Wikipedia「スヴェーデンボリ」)
死者と会話でき、遠く離れた場所の出来事を遠隔透視し、生きながら霊の世界に出入りして天国や地獄を実際に訪れたばかりか、火星や金星といった太陽系の他の惑星の霊界の模様まで見聞した、史上稀に見る霊能者として知られている。
しかし、彼が本格的に霊の世界に関わりはじめたのは、人生も晩年に入った55歳以降のことであり、それ以前には天文学や物理学など広範な分野に精通する科学者にして、数々の新機軸の発明を行った発明家、そして技術者、機械技師として、母国スウェーデンだけでなく、国際的にも知られた当時最高の知識人であった。同時に、スウェーデン王立鉱山局の役員や貴族院議員という、社会的にかなり高位の役職も務めていた。
その業績のごく一部を紹介すると、月の位置に基づいた正確な経度の測定法の発見、潜水艦や機関銃、飛行機、自動演奏装置や跳ね橋などの設計、鉱山で採掘された鉱石を自動的に地上に運ぶ装置の発明、スウェーデン各地の地質調査の実施、鉄と銅の溶解に関する分析などがある。
解剖学の分野では、大脳皮質の重要性や脳の局在性、そしてニューロンの存在を世界で最初に指摘し、脳脊髄液の性質も解明した。天文学の分野でも、イマヌエル・カントより20年も早く、宇宙創成論としての「星雲説」を唱え、この宇宙には太陽系が無数にあるとも主張した。
太陽系の他の惑星の生命体について詳しく述べた最初の人物であり、ほかにも、原子や磁気についても考察している。
そのスウェーデンボルグが、本格的に霊の世界に関わるようになり、生きたまま自由に霊界に出入りするようになったのは、1745年4月、ロンドン滞在中の経験がきっかけだった。この瞬間からスウェーデンボルグの前に、霊界や天国、地獄までもが門を開いた。1747年には、31年間務めた鉱山局を辞め、数々の霊界関係の著作に専念するようになった。
ただ以前にも1735年には、小著『無限なるものについて』を著し、霊がどのように肉体とつなげられるかを説明しようと試みている。さらに、1743年から翌年にかけては、夢の内容や内心などを書きつづった『夢日記』を記している。
霊界を自由に出入りするようになった彼の評判は、当時のスウェーデン女王ルイーゼ・ウルリーケの耳にも入ったようだ。ルイーゼ・ウルリーケは、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の娘で、有名なフリードリヒ大王の妹である。1744年にスウェーデン王アドルフ・フレドリクの妃として迎えられたためスウェーデンの女王となったのだが、スウェーデンボルグを召しだす数年前に死亡した弟、アウグスト・ヴィルヘルムの思いを告げる。
また1759年のストックホルムの大火災もライブで見事にあてる。
スウェーデンボルグに遅れて「星雲説」を唱えていたドイツの哲学者イマヌエル・カントも、1766年の著書『霊視者の夢』で、これらの事件を事実として紹介している。
このように、科学技術の分野、心霊研究の分野で多大な業績を残しているスウェーデンボルグであるが、彼が真に目指したのは、『聖書』の霊的な意味を説き明かし、キリスト教の真の教えを人々に示すこと、つまりは宗教改革だったようだ。
スウェーデンボルグによれば、現在のキリスト教は、本来の教えにはなかった考えが多く入り込んだため歪んでいる。彼は神の導きにより、それを正しく解釈し直し、人々に示したのだ。
彼の思想に基づくキリスト教の新宗派は「新エルサレム教会」、あるいは「新教会」と呼ばれ、1787年にまずイギリスに設立された。
一方で、『聖書』の内容を霊的観点から新しく解釈し直すという彼の試みは、「ニューソート」と呼ばれる思想潮流を生み、このニューソートは現在のニューエイジ運動の基盤のひとつにもなっている。
また彼の思想的影響は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテやオノレ・ド・バルザック、フョードル・ドストエフスキー、ヴィクトル・ユーゴー、エドガー・アラン・ポーなど多くの文学者の作品にも見られ、三重苦の聖女ヘレン・ケラーや近代看護教育の母フローレンス・ナイチンゲールも、スウェーデンボルグに強く感化されている。※9
2章.モリス・ハントとミレーの影響
■➀モリス・ハント■
1860年、ジェームズは父親のコスモポリタンな生活の影響でボンに滞在中、画家として立つ決心をし、そのためにジェームズ一家はアメリカに帰り、ウィリアム・モリス・ハントについて絵を学んだ。※5James wished to purse painting, his early artistic bent led to an apprenticeship in the studio of William Morris Hunt in Newport, Rhode Island. (英wiki「W.James」)
モリス・ハント(William Morris Hunt:1824-1879)は1845年以降パリで、歴史画家・トマ・クチュールから絵を学んだ(このときトマ・クチュールはサロンで出品した「愛と金」で最初の成功をおさめたばかりの頃)。フランスでは芸術家の集まったバルビゾン村で暮らし、バルビゾン派の画家、特にジャン=フランソワ・ミレーに影響を受けた。Hunt studied with Thomas Couture(『Romans During the Decadence』1847; Reminiscent of the style of Raphael, it is typical of the French ‘classic’ style between 1850 and 1900) coming under the influence of Jean-François Millet after being greatly inspired by Millet’s 『The Sower(種まく人)』 at the 1851 Paris Salon. Hunt then spent the next two years under the tutelage of Millet in Barbizon before his return to the states.(英wiki「Morris Hunt」)
1855年にアメリカに帰国した。“Talk on Art”(1857年)出版。
1859年に、モリス・ハントはロード島に家を買っている。
最終的にボストンに住み、美術学校で教え、また人気のある肖像画家として働いた。(Wiki「ウィリアム・モリス・ハント」)
On his return, Hunt painted some of his most handsome canvases, all reminiscent of his life in France and of Millet’s influence. Besides collecting himself, Hunt encouraged other Boston collectors to buy works by European artists such as Millet, Monet and others. The William Morris Hunt Library of the Boston Museum of Fine Arts is named in honor of this painter. Hunt was a founding member of the Museum of Fine Arts’ Museum school. (英wiki「Morris Hunt」)
この時にジェームズが習いに行ったわけである。
ジェームズがモリス・ハントの影響をどの程度受けたかは分からないが、モリス・ハントはミレーの作品を持っていた事やミレーと親交が深かったことから、ヨーロッパで知名度のあるミレーと親交があり更に美術学校で教えている由緒ある人がアメリカにいるため、父ヘンリーも納得しアメリカに帰国しモリス・ハントに学んだのかもしれない。
■②ミレー■
ジャン=フランソワ・ミレーは1845年パリに到着している。この時期のミレーは、女性の裸体画を多く制作して収入源としていた。『浴女たち』を眺めている人が「裸の女しか描かないミレーという画家だ」を聞き、裸体画をやめ、田園をテーマとした作品に向かった。
1848年、2月革命により第二共和政により、内務省からテオドール・ルソーと共に注文がされるようになる。
『箕をふるう人』が農民画の出発点となる。2月革命の原動力となった農民が、赤・青・白という共和国のシンボルであるトリコロールと同じ色をまとうというイメージが、内務大臣の意にかなった。
1849年、ナポレオン三世が大統領になり、ローマ侵攻に抗議する暴動が起き(大統領による)武力鎮圧され、左派の議員が一掃されミレーは政治的支援者を失うことになった。それによりバルビゾンの村に移住。
1850年『種まく人』がサロンに入選。
2月革命や普通選挙の実施によって政治的発言力を増した農民・労働者階級と、その脅威を抑え込もうとするブルジョワ階級との対立が高まっており、1851年頃「結局、農民画が私の気質に合っている。社会主義者とのレッテルを貼られることがあったにしても、芸術で、最も私の心を動かすのは何よりも人間的な側面なのだ。」と。
1853年、ミレーにはアメリカ人コレクターが付くようになり、『刈り入れた人たちの休息』は後のボストン美術館初代館長マーティン・ブリンマーが購入。(Wiki「ミレー」)
1853年、この時から彼の作品は、パリおよびバルビゾンにいるイギリス人とアメリカ人との、(貧困に対する支援でも)特別な注意を引きはじめた。そのうちでもとりわけ注目すべき人びとは“Talk on Art”(1857年)の著書で『羊を刈りこむ女』と『羊飼い』とを買い入れ、ミレーが「友人の中でももっとも良くかつ親しかった人」と言ったボストンのW・モリス・ハントであった。※6
■③ジョン・ラファージ■
モリス・ハントに学びに、ジェームズはニューポートのロード・アイランドに行っている。
Rhode Islandは、Beginning in the mid-nineteenth century, wealthy southern planters seeking to the heat began to build summer cottage. Most of these early families made a substantial part of their fortunes in the Old China Trade. (英wiki「Newport,Rhode Island」)のような状況であったようだ。
Between 1855 and 1860, the James household travelled to London, Paris, Geneva, Boulogne-sur-Mer, and Newport,Rhode Island, according to the father’s current interests and publishing ventures, retreating to the United States when funds were low. Their longest stays were om France, where Henry(ジェームズの弟:Henry James:1843-1916) began to feel at home and became fluent in French. He had a stutter, which seems to have manifested itself only when he spoke English, in French, he did not stutter. (英wiki「Henly.James」)
これらの情報をまとめると、ロード・アイランドはプランターの避暑地として使われていたため、モリス・ハントの芸術などにニーズがあったのか、そこでモリス・ハントは絵を教えていた訳である。
一方、ジェームズの家族は父ヘンリーSr.(弟とわけるためシニアをつけた)の興味に従ってヨーロッパを転々としていて、特にフランスには長く滞在し、資金が不足した時などにアメリカに戻ってきていたようだ。
そして、1860年にウィリアム・ジェームズが絵を学びたいがためニューポートのロード・アイランドに一家は戻っている。In 1860, the family returned to Newport. There, Henry became a friend of painter John La Farge, who introduced him to French literature, and in particular, to Balzac. (英wiki「H.James」)弟もフランスの特にバルザックの教養の持ち主として、ジョン・ラファージと親交を持っている。ジョン・ラファージはモリス・ハント同様にトマ・クチュールに師事して、さらにモリス・ハントに師事していたので、同じ人脈上にいた。そう考えると、ジェームズが絵を学びたいというのもあったかもしれないが、父ヘンリーSr.の意向でウィリアム・ジェームズや弟のヘンリーに芸術的に学ばせようとして、長く滞在していたフランスを生かした人脈を探してロード・アイランドに来たのかもしれない。
John La Farge(1835-1910)はニューヨークの裕福なフランス人家庭に生まれている。1856, His first visit to Paris induced him to study painting with Thomas Couture.(この頃のクチュールは政府からの依頼やナポレオン三世の宮廷画家など多忙を極めている頃。1855年パリ万博には10年も前の作品を出品※7)学生時代からラスキンに傾倒していたこともありイギリスではラファエル前派から影響を受ける。1857年に帰国。1858, Its architect Richard Morris Hunt recommended that La Farge study under his brother William Morris Hunt in Newport, Rhode Island. The artist Hunt was also a product of Couture’s atelier. そしてジェームズの弟ヘンリーと1860年に親交を持つ。この年にヘンリーを通じてペリー提督の兄の孫と結婚している。(英wikiと日本語版wiki「La Farge」を参照)
因みにラファージにモリス・ハントの下で学ぶことを勧めたリチャード・モリス・ハント(Richard Morris Hunt:1827-1895)は兄ウィリアム・モリス・ハントが家を買っていたリゾートから成功への道に繋がっている。Hunt’s professional trajectory gained impetus from his extensive social connections at Newport, Rhode Island, the resort where in 1859 Hunt’s brother William bought a house.(英wiki「Richard Morris Hunt」)1881~1886年に書けて自由の女神の台座を作っている。
1861年に地質学者パンペリーが持っていた浮世絵で葛飾北斎を知り、浮世絵の収集をはじめる。1870年にはパンペリーの著作「Across America and Asia」の中で、「An Essay on Japanese Art」という日本美術の章を執筆。英文としては初めての日本美術紹介と言われている。
La Fage is best known for his production of stained glass, mainly for churches on the American east coat, La Farge designed stained glass as an artist, as a specialist in color, and as a technical innovator, holding a patent granted in 1880 for superimposing panes of glass. The patent would be key in his dispute with contemporary and rival Luis Comfort Tiffany.ルイス・カムフォート・ティファニーとともに、アメリカにおけるステンドグラスのパオニア的存在で、2人でステンドグラス協会を作っていたこともある。
1886年に来日を果たし、日光、鎌倉、京都などを旅して3ヵ月滞在する。このとき岡倉天心とフェノロサと知り合う。帰国後も岡倉とは交流があり、1897年に書いた日本滞在記『An Artist’s Letter from Japan(画家東遊録)』を岡倉に献呈している。(英wikiと日本語版wiki「La Farge」を参照)
3章南北戦争
ウィリアム・モリス・ハントの門に入るが、半年で自覚がないことを自覚して断念した。
1861年に南北戦争が勃発するとジェイムズは奴隷制度に批判的であったにもかかわらず北軍への参加を躊躇する。結局、従軍するかい否かを迷っている間に南北戦争が終結してまい、このことがジェイムズに深い苦悩をもたらす。(wikipedia「w.ジェイムズ」)
一方で、弟(長男ウィリアム、次男ヘンリーにつぐ三男)のガース(Garth Wilkinson “Wike” James(1845-1883)は奴隷制度廃止論者であり南北戦争に参加している。
Garth Wilkinson “Wike” James was a younger brother of Henry James and William James, and an abolitionist. He served as an officer with the 54th Massachusetts Infantry Regiment(北軍(union Army)の初期のアフリカ・アメリカ人部隊) in the Civil War and was severely wounded at the Battle of Fort Wagner(1863.7.18ゲティスバーグの後の戦い).(英wiki「Gordon, Florida」)
54th Massachusetts Infantry Regimentはone of the Union Army’s earliest African-American regiments in the American Civil War。Authorized by the Emancipation Proclamation, the regiment consisted of Africa-American enlisted men commanded by white officers. (英wiki「54th Massachusetts Infantry Regiment」)
Her returned to service with the 54th before the end of the war, when the regiment was in Florida. After the Civil War, John Murry Forbes ( American National Committee during the administration of President Abraham Lincoln.), a stauch abolitionist and a friend of Wilkie Jame’s father, Henry James Sr., advocated the development of cotton farming in the South using the labor of freedmen. Most of the funds came from Henry James Sr., eventually taking a large part of his wealth. Garth Wilkinson “Wike” James established a cotton plantation in Gordon after the Civil War. James hoped that the plantation would help bring equality and education to the freedmen, writing that “the freed negro under decent and just treatment can be worked to profit by employer and employee.” Like thousands of other northerners who bought up cheap land in the South and tried to create new plantions employing freedmen ,Wilkie James had no experience farming. (英wiki「Gordon, Florida」)
4章.ハーバート大学でのチャールズ・エリオットとアガシ
■➀ハーバード大学とチャールズ・エリオット■
1861年(19歳)モリス・ハントのもと絵を学ぶも進路を変え、ハーバード大学の理学部に入学。
James then switched to scientific studies at the Lawrence Scientific School of Harvard School. (英wiki「W.James」)
化学者時代のチャールズ・エリオットから科学を教わる。※3
チャールズ・エリオットは後に1869年にハーバード大学総長となっていて、フェノロサが入学(1870年)したときの総長で、チャールズ・エリオットに推薦されて日本行きに繋がる(1878年)。また1870年に外山正一をつれて小弁使として渡米していた森有礼は教育に関する個人的な質問状を米国有識者に15人に送っていて、チャールズ・エリオットがその一人でもある。更に小村寿太郎と同居していた金子堅太郎もハーバード大学にいた際(1876年)エリオットと話している。
エリオットの総長時代は産業時代に即応する教育の「近代化」が推し進められ、大学は古典的教養と思索の立場から専門職業人養成の場へと変貌するのに一躍買っている。
■②アガシー■
ハーヴァードにおける研究は、化学から比較解剖学および生理学に移り、1864年(22歳)医学部に転じた。He took up medical studies at Harvard Medical School in 1864.生物学の教授ルイ・アガッシ(Louis Agassiz)を隊長とするアマゾン河流域の学術探検隊の組織されるにあたり、ジェイムズはこれに参加。He took a break in the spring of 1865 to join naturalist Louis Agassiz on a scientific expedition up the Amazon River, but aborted his trip after eight months, as he suffered bouts of severe seasickness and mild smallpox. His studies were interrupted once again due to illness in April 1867. (英wiki「W.James」)
採取とか分類とかその仕事の不向きさを知ることによってかえって自己の思索家的な素質を発見し、哲学を研究しようという気持ちを抱かせるにいたった。※5
だた、アガシーとジェームズの影響を伝える文献は見つからないが、アガシーがダーウィンの一元的な進化論に対して多元的な祖先を想定しているところは影響を受けたとも考えられなくもない。ただ、その多元的な物に対しての確信は1870年代のルヌーヴィエの著作を待つことになるが。更にはダーウィンの『種の起源』の出版後にも関わらずアガシーのもとということも、進化論の道にすすんだフロイトとは別方向で進んだ面であるかもしれない。
ルイ・アガシー(Lois Agassiz:1807-1873)は、With the aid of a grant of money from the king of Prussia, Agassiz crossed the Atlantic in the autumn of 1846 to investigate the natural history and geology of North America and to deliver a course of lectures on “The Plan of Creation as shown in the Animal Kingdom” by invitation from John Amory Lowell, at the Lowell Institute in Boston, Massachusetts. 1846, Upon arriving in Boston, Agassiz spent a few months acquainting himself with the northeast region of the United Staes. He spent much of his time with Samuel George Morton, a famous American anthropologist. One of Morton’s personal projects involved studying cranial capacity of human skulls from around the world.
Morton aimed to use craniometry to prove that white people were biologically superior to other races. Morton is a primary influence on Agassiz’s belief in polygenism.
Jhon Amory Lowell invited Agassiz to present twelve lectures in December 1846 on three subjects titled “The Plan of creation as shown in the Animal Kingdom, Ichthyology, and Comparative Embryology.” As a part of the Lowell Lecture series.
Agassiz believed that human did not descend from one single common ancestor. Agassiz never supported slavery and claimed his views on polygenism had nothing to do with politics. His views on polygenism have been claimed to have emboldened proponents of slavery.
1847, Agassiz’s engagement for the Lowell Institute lectures precipitated the establishment in 1847 of the Lawrence Scientific School (1861 James入学) at Harvard University, with Agassiz as its head. Harvard appointed him professor of zoology and geology, and he founded the Museum of Comparative Zoology(ハーバート自然史博物館の一つ) there in 1859. During his tenure at Harvard, Agassiz studied the effect of the last ice age in North America. Sticken by ill health in the 1860s, Agassiz resolved to return to the 1860s, Agassiz resolved to return to the field for relaxation and to resume his studies of Brazillian fish. In April 1865, he led a party to Brazil. After his return in August 1866, an account of the expedition, 『A journey in Brazil』, was published in 1868.(英wiki「Agassiz」)
ジェームズがアガシーのブラジル探検に同行した1865年の約5年前、後に日本に来ることになるエドワード・モース(Edward S.Morse:1838-1925)がアガシーのもとで働いていた。
He was a gifted draughtsman, a skill that served him well throughout his career. Morse was recommended by Philip Pearsall Carpenter to Lois Agassiz at the Museum of Comparative Zoology at Harvard University for his intellectual qualities and talent at drawing(種の起源が出版された1859年). After completing his studies he served as Agassiz’s assistant in charge of conservation, documentation and drawing collections of mollusks and brachiopods until 1862. (英wiki「Morse」)
アガシーは種の起源は単一でなくダーウィンの対立していましたが、モースはアガシーと疎遠になるにつれて進化論に傾倒していきます。1876年に講演家として活動していたモースの講演をミシガン大学に留学していた外山正一が聞いて感動し、翌年開学する東京大学で日本初の教授となる予定だった外山正一が推薦し、モースは1877年に専門の腕足類の収集をしたいというイーズが叶う事とそのために日本政府が「臨海実験所」を用意してくれることも相まって来日することになる。
この腕足類の興味だが、アガシーの教授を受ける中で、アガシーが腕足類を擬軟体動物に分類していたのを疑問に思ったのが、腕足類研究を思い立ったきっかけである。(wiki「エドワード・モース」)
5章・ヨーロッパでのヴントとスペンサー
■➀ヴントと心理学実験室■
1865年(23歳)のとき自分が思索的生活に向いていることを感じ哲学に、また医学部の学業を中断してヨーロッパ滞在しているときには心理学に興味をもつ(~68年帰国)。※3
1866年秋からドイツへ。
生理学の勉強を兼ねて療養のため。不眠、消化不良、眼疾、背中の痛み、憂鬱などになやまされており、彼は外遊という環境の変化によってそれらの病の治療を期待したのである。※5
1868年11月帰国。心理学への関心が高まり、さらに哲学への関心が頭をもたげたのであった。それはドイツでヘルムホルツやヴントの業績に触れ「心理学が一つの科学になりつつある」ことを感じる。※5
1869年医学の学位を得た。
大学卒業後、1869年から72年までの4年にわたる病弱と憂鬱症の時期がこの関心を決定的なものにし、ここにジェイムズは心理学者、哲学者としての道を歩みはじめる。
1870年4月30日日記、ルヌーヴィエ(Charles Renouvier)の自由意志説が光明を与える。「私の最初の自由意志の行為は、自由意志を信ずることであるであろう」。ジェームズの哲学の帰朝、哲学は彼が生きて行くための信仰ないし信念であった。※5
Renouvier became an important influence upon the thought of American psychologist and philosopher William James. James wrote that “but for the decisive impression made on me in the 1870s by his masterly advocacy of pluralism, I might never have got free from the monistic superstition under which I had grown up.”「1870年代に彼による多元論の見事な用語を読んで決定的な印象を受けていなければ、私は自らが共に育ってきた一元論的な迷信から自由になることなどできていなかっただろう」 (英wiki「Charles Renouvier」日本語版も参照)
1872年(30歳)のとき、1869年からハーバード大学の総長となったチャールズ・エリオットから生理学の講師に任命される。※3
教壇生活によってジェームズは憂うつ症から解放され、心身ともに救われることになる。※3
1875年「生理学と心理学の関係」という題で講義を始め、実験室も設置した。
アメリカの大学で提供された最初の心理学の講義であり、最初の心理学実験室となった(そう評価されているが、おそらくジェームズ自身は心理学実験室とは名乗っていないのではないか)。※3
一般的にはG.S.ホールが、ヴントの心理学実験室の創設に立ち会って帰国し、1881年アメリカではじめて心理学実験室と名のつくものを創設したといわれる。(ただし、スタンレー・ホールは1878年にウィリアム・ジェームズの下でアメリカで最初の心理学の博士号(学位)を取得しているため、正式な名前はともかく心理学実験室はジェームズのが先であるはずである。)またホールは1887年にアメリカで最初の『心理学雑誌』を発刊。1892年アメリカ心理学会を結成している。※1またスタンレー・ホールが1909年にクラーク大学創立20周年にジークムント・フロイトらを招いて講演の機会を与えている。
ジェームズはヴントの影響をヨーロッパ滞在中受けているが、ヴントの心理学実験室創設の前である上、実験よりも生理学的哲学的考察を重んじた所から、ヴントの心理学実験室が近代心理学の始まりとするなら、ジェームズよりもホールが初めて創設となると考えられる。
ヴィルヘルム・ヴント(1832~1920)は、1858年から5年間、ヘルムホルツの助手をつとめる。それまでの哲学的な心理学とは異なる実証的な心理学を構想し、実験心理学最初の書である『感覚知覚説貢献』を著す。(wiki「ヴント」)
ミュラーのような生理学者たちは感覚生理学の研究をしながらも、感覚のメカニズムが関心の中心で、それを感じる人間の側には関心を持ちませんでした。ヘルムホルツがそのよい例です。
1858年ヘルムホルツがハイデルベルク大学の生理学教授として着任したため、(
ハイデルベルク大学で私講師として生理学の授業を担当)ヴントはヘルムホルツの助手に応募し、ハイデルベルク大学で5年間働く。しかし、その間に感覚や知覚の問題の問題について、ヘルムホルツと自分の関心の相違に気づき、1863年には助手を辞めると『人間と動物の心に関する講義』という著作を発表。この本のなかにはフェヒナーの『精神物理学要論』の影響がすでに現れているだけでなく、進化論に基づく人間と動物の比較心理学や、民族間の比較心理学、言語や文化の問題など幅広いテーマが取り上げられている。
生理学を研究しながらも心理学の問題に関心のあったヴントは、この両分野が融合した領域を考案することにした。それが生理学的心理学physiological psychologyです。
生理学の方法論というのが身体内部の反応を外部で測定するのに対して、心理学の場合は外部から与えられた刺激に対してどう感じるかといった内的反応を観察するものであり(内観法)、ちょうど測定の方向が反対になっている。そこで両方の方向性をもった研究領域が生理学的心理学というわけである。※8
因みにヘルムホルツは三原色の理論が有名。
Trichromatic theory (Young-Helmholtz theory), 1850 Herman von Helmholtz developed the theory further in 1850. That the (young’s) three types of cone photoreceptors could be classifled as short-preferring(violet), middle-preferring(green), and long-preferring(red), according to their response to the wavelengths of light striking of the signals detected by the three types of cones are interpreted by the brain as a visible color. (英wiki「Trichromatic theory」)
■②スペンサーの影響■
1876年には生理学の助教授となり、「生理学的心理学」を開講し、教科書にはスペンサーの『心理学原理』を用いた。※1※3
ジェームズとスペンサーの関係は定かではないが、哲学に興味を持ちさらに心理学にヨーロッパ滞在で興味を持ったところをみると、ヴントとともにスペンサーの影響は大きかったのではないかと思う。
スペンサーは、ダーウィンの祖父エラズマスが組織した哲学協会で書記を務めた父の教育のもと育ち、ラマルク的な進化論を学んだ。その後、旅客輸送による鉄道の運用が始まったばかりのロンドン・バーミンガム鉄道の開通時(1837)の鉄道技師として働くかたわら著作活動を行い、経済誌の編集長となる。その後、1840年代にメスメリズムや骨相学に関する論文を出したり、1850年代にJ.S.ミルとの交友を通して連合心理学の影響なども受け、1855年に『心理学原理』を出版する。その後、心理学を基点として進化論や社会論へのなど哲学的に結びつけ論じるようになり1862年の『第一原理』でそれを体系化し始める。この体系化はアメリカのコーマンスの援助に成り立っていたため1870年代にはアメリカでスペンサーブームが起きる。ただそれより前に、1869年までには出版や連載によって単身生活できる程度の収入を得るようになってヨーロッパや北米各地で称賛を受けていた。
ジェームズのスペンサーの出会いが定かでないが、ヨーロッパ滞在中ならアメリカでのスペンサーブーム前になり、帰国後ならブームと重なる。
おそらくスペンサーに基づいた講義をジェームズがしたのは、社会や哲学を含む多くを体系化した中で「心理学」の位置づけを明確にしていた事が影響しているのではないか。スペンサーは日本においては「社会学」の著作は教科書にされる事もあり、スペンサーの著作は新しい学問を上手く定義して提案する形式であったのではないだろうか(また進化論を摂取している所がアメリカ的だったのかもしれない)。
またスペンサーが『心理学原理』を出版したのは1855年でメスメリズムと骨相学と生理学が多くの影響を与えていて、ヴントの生理学的心理学の発表が1863年で、『第一原理』は1862年に書きその後『心理学原理』も改訂している。同じ時代の空気の中でもあったと思う。
スペンサーは一連の行動過程は環境への有機体の適応過程である。心理学もこの枠とした(進化論と連合主義を合わせたもののように考えたため)。このような考え方は後の機能主義心理学(ジェームズやデューイら生理学に相当する)を先取りする者でもある。
有機体の適応を進化論的に考察したことは、比較心理学の始まりともいわれる。この辺は、多くの個体差を比較した「骨相学」などが関係するのだろうか。
また連合の中で快の結果を生むものは反復され、苦痛を生じるものは放棄されるといって、ソーンダイクの効果の法則を先取りした。※2ちなみにソーンダイクはジェームズの本を読んで心理学に興味を持ち、ジェームズのいるハーバート大学に進学したものの、児童を被験者とする教授法や学習の研究が難しかったため、動物を用いた学習研究を行う事になる。その後、コロンビア大学に移りジェームズ・キャッテルのもとで研究を行い「動物知性―動物における連合過程の実験的研究」で博士号を得る。この研究では、動物の行動に過度に的なものを読み込むのを戒める姿勢が貫かれている。動物の行動は、個々の行為を何らかの見通しのもとに行っているわけではなく試行錯誤にすぎない、ということが彼の強調点であった。しかし、試行錯誤ではあっても学習過程であることには変わりなく、試行錯誤学習という考え方はスキナーのオペラント条件づけの知的基盤となった。(Wikipedia「エドワード・ソーンダイク」)
これをみると、ジェームズはスペンサーの環境への有機体の適応過程である心理学的部分を生理学や哲学によって科学化した。しかし、一方でスペンサーにあった個体差や反応に関する考えはキャッテルやソーンダイクによって肉づけられていったと考える事もできるかもしれない。つまり、スペンサーは科学的ではないものの哲学的アウトラインは確かなものがあったのではないだろうか。
■③哲学教授ジョン・フィックス■
ジェームズは1880年に哲学の助教授になり、1885年に教授となっている。※3
この頃のハーバード大学ではフェノロサや金子堅太郎は哲学教授ジョン・フィックスからハーバート・スペンサーを教わっている。ジェームズが助教授だったときの教授はおそらくもうフィックスでないが、ジョン・フィックスが哲学とスペンサーに影響をされていることからジェームズ理解に繋がると思われる。
John Fiske(1842-1901)
He was heavly influenced by Hebert Spencer and applied Spencer’s concepts of evolution to his own writings on linguistics, philosophy, religion, and history. Influences: Charles Darwin, Francis Galton. From 1869 to 1871, he was university lecturer on philosophy at Harvard, in 1870 instructor in history there, and assistant librarian 1872-1879.
Nineteenth-century enthusiasm for brain size as a simple measure of human performance, championed by scientists including Darwin’s cousin Francis Galton and the French neurologist Paul Broca, led Fiske to believe in the racial superiority of the “Anglo-Saxon race”.(英語版Wikipedia「John Fiske」)
これを見る限りだと、スペンサーの進化論という観点と、脳のサイズなのを計測するゴールトンや脳機能局在を唱えたブローカの個体差の心理学や脳の生理学的なところは相容れるという事が考えられる。
6章ジェームズの心理学
ジェームズは『心理学原理』を発刊した。その影響は機能主義への展開、また個体差の研究などアメリカ的なムーヴメントに繋がった。
■➀心理学原理■
1878年、ホルト出版社のヘンリー・ホルトが、アメリカ人の学者による、進化論を共通の基盤とする「アメリカ科学叢書」の出版を企画とし、その1冊として『心理学原理』の執筆を依頼。1890年に出版。※3
1890年に『心理学原理』発刊。※1
心理学の目的は、意識状態(心的状態)そのものを記述し説明することである。そして説明するために、意識状態の原因、条件、結果などに関して、意識状態と内外の関係を支配する法則に発展しようとした。意識状態は外界の認識と動作との間に介在するものとして位置づけられており、すべての心の状態は単なる考えや感じでさえも、その結果的においては運動的であると考えれている。
ジェームズ心理学は、心的活動は常に脳の活動の関数であるとする生理心理学的作業仮説の上に立っている。
外界の認識と動作に関していえば、そこでは共に合理性と選択性が強調され、意識の帰納を重んずる進化論的立場が濃厚である。この混沌とした世界の中でわれわれが方向決定をするのに必要な能力のみでなく、情動や本能も生存を助ける形で準備されており、この順応は「心と外界が相たずさえて進化した」ことの結果であるという。また「われわれの様々な感じ方、考え方は、それがわれわれの外的世界に対する藩王を形成するのに役立つから現在のようなものになった」と心的生活の有目的性を唱えている。外界の認識に際して意識ははっきりとした選択性を発揮し、同時に存在する混沌たる全体の中からその一部を選び、他の大部分を無視するし、動作の遂行にあたっても目的追求性と手段の選択性が顕著である。逆に言えば動作が心的と認めれる基準は、その目的追求性と選択制にあり、同じ目的を達成するために異なる手段を柔軟に用いるところに心の表現を見ることができるのである。また習慣的動作についても、習慣はわれわれの運動を単純化し、これを正確にし、かつ疲労を減ずるという実用的効果について述べている。内省(内観)を用いているが、それは構成主義者のように要素を見だすことを前提とした内省ではなく、あるがままを見る自然な自己観察である。
この方法によって見いだされた意識の特徴は「意識の流れ」である。ジェームズの心理学の中心である。意識を要素に分かたず、まとまりのある全体としてとらえる。この姿勢は、後のゲシュタルト心理学を思わせる。ジェームズ・ランゲ説(情動の抹消起源説)…「泣くから悲しい」「逃げるから恐い」のであって、その逆でないという。※3
「脳の構造:胎生学的概観」の説明。
最初の両半球は、ただその各々の視床でもって結合されているが、胎生期の第4月、第5月の頃には視床の上で、両半球間とその正中を大きな橋のように横切る横行繊維の一大組織が成長し、両半球の壁内に放射し、左右両側の回の間に直接の結合を形成する。脳梁の下に脳弓と呼ばれるいま一つの線維の組織ができ、これと脳梁の間には特殊な結合がある。視床の直前、両半球の始まるところに線条体という神経節の塊がその壁にできている。その構造は複雑で、レンズ核および尾状核と呼ばれる2つの主要な部分から成り合っている。※3
『心理学原理』は夏目漱石がイギリス留学帰国後(1902年)に買っている。漱石はイギリス留学時代にスペンサーの著作とジェームズの著作を読んで心理学の影響を受けている。
1892年に教科書として短縮版を出版。
完成後は、ジェームズは心理学者と呼ばれることを好むようになり、心理学の実験室も譲る。※3
1897年に心理学教授の地位をゆずる。※5
■②プラグマティズム■
1898年、ジェームズがその年に行ったカルフォルニア大学の講演会で、当時、全く「無名」の人物であったパースが提唱した(1878年『通俗科学月報』1月号掲載「いかにしてわれわれの観念を明晰にすべきか」論文)新しい思想であるプラグマティズムを、「私たちが真理からそれないための指針である。私自身でその原理に従ってみて、ますます確信を深めた」と絶賛しつつ、紹介した。※4
「プラグマティズムの格率」は、ある対象の概念を明晰にとらえようとするならば、その対象がどんな効果を、しかも行動に関係があるかも知れないと考えられるような効果を及ぼすと考えられるか、ということをよく考察せよ。そうすれば、こうした効果についての概念は、その対象についての概念と一致する。※4
1902年、『宗教的経験の諸相』出版。宗教心理学ののみならず臨床心理学の古典。※3
心理学から哲学への過渡期を記念する労作。副題として「人間性の研究」としるされているように、ジェイムズにとって宗教は、人間の本性にねざす根本的な経験の事実であった。自然科学の経験も宗教の経験も同じように彼の世界観を規定すべき権利をもっていたのである。※5
■③機能的心理学と構成的心理学■
J・デューイは1896年論文『心理学における反射概念』において、行為は全体的に環境に適応するように協合されたものであって、感覚と運動ならびにその連鎖というように時間的に前後するものとみるのはたんなる解釈にすぎず、実際には感覚と運動は相関して同時に存在するものであり、したがって、感覚はそれだけを分離せずに協合または適応への機能という観点から扱われるべきだという主張であった。
1898年にE・B・ティチュナーは(生物学における形態学に相当する)「構成的心理学」に対し、デューイらを生理学に相当する「機能的心理学」であるが、後者は目的論的で非科学的になるおそれがある、と評した。「構成的心理学」はヴントの方法を受け継ぎ、心理学は純粋に意識のみの学問であり、したがって、意識の内容(感覚・心像・感情)を十分に訓練を積んで内省的に観察して分析し、その構成要素を分離したうえで、それらの結合の仕方の一般法則を見出すものであった。
一方、シカゴ大学のデューイ一門のJ・R・エンジェルは、生物学の細胞に相当する心理学的要素は見当たらないとし、1906年のアメリカ心理学会会長就任講演で、機能的心理学は心理的要素でなく心的作用の学であり、意識の基本的効用の学であるし、意識を、心が環境と生体の要求とを仲介するところと見なすならば、この心理学は心身統一体としての生体の無意識的な<行為(習慣)>も扱うことになる、と述べた。※1
■④進化論と個体差の心理学の展開■
この時期のアメリカ心理学のリーダーたちの多くは、直接・間接にドイツのヴントの影響を受けていたにもかかわらず、元来の経験的思潮にもとづいて進化論を摂取した、アメリカ国産のプラグマティックな考え方がむしろその心理学の基調となっていた。したがって、エンジェルの講義はそれらを代表したものであった。事実、このころはすでに、意識をよく内観できる正常成人とはかぎらず、異常者や児童そして動物が心理学の研究対象となりつつあり、個人差を研究する心理テストや、教育心理学の領域も開拓されはじめていた。※1
ダーウィンの『人類の起源』(1871)で動物心理学の主題である知能や行動について「心理的能力について人間と動物とでは、その程度こそ著しく異なりはするが、質的には異なるものではない」「下等な動物と人間との相違は、人間は非常に多様な音声と観念とを結び合わせるほとんど無限に大きな力をもっているということだけである。」
種間の知能的能力の際を連続的なものとみるダーウィンの示唆は、当時台頭し始めていた動物心理学の研究に大きな刺激となった。※2
とあるように、進化論は内省を重視していた心理学から、異常者や児童そして動物が心理学の対象になりつつある傾向はダーウィンの言論からも見られるのではないか。また、個体差や心理テストもダーウィンの従兄弟であるフランシス・ゴルトンが統計的・確率的手法で切り開いた側面もあり、進化論の立証は新しい心理学の立証にもつながったのではないだろうか。事実、ゴールトンの研究の集大成ともいえる『人間能力とその発達』(1883年)は、ダーウィンの自然選択理論の基礎概念である個体変異の考えを基礎にして、自から創案した数々の精神機能の実験や検査による個体差の心理学を扱っている。
ただこの、個体差の心理学をアメリカにおいて正当な科学としての地位を確立させたのは、ジェームズ・マックイーン・キャッテルが1900年に『POPULAR SCIENCE』誌などを買い取り編集者となり普及させたことが大きいようだ。キャッテルは1883頃からヴントのアシスタントとして働いた後、『人間能力とその発達』(1883年)以後のゴールトンの研究所で働く中で個体差の心理学を学び、アメリカに持ち帰っている。
ジェームズがヴントの実験心理学を導入し、その上で心の帰納的意味を強調するところからアメリカ心理学は発展しているため、当時のアメリカの学生の多数がヴントの下で学び、帰米して、各地に実験場を開設したようだ。そのため、キャッテル自身もこの流れでヴントのアシスタントをしていたのかもしれない。ただキャッテル自身はゴールトンの影響が一番強く、アメリカでは表面上はヴントのドイツ的であったが内容でゴールトン的であったようだ。
上記の「この時期のアメリカ心理学のリーダーたちの多くは、直接・間接にドイツのヴントの影響を受けていたにもかかわらず、元来の経験的思潮にもとづいて進化論を摂取した、アメリカ国産のプラグマティックな考え方がむしろその心理学の基調となっていた。このころはすでに、意識をよく内観できる正常成人とはかぎらず、異常者や児童そして動物が心理学の研究対象となりつつあり、個人差を研究する心理テストや、教育心理学の領域も開拓されはじめていた。」という言葉はキャッテルにも当てはまるように感じられる。
またキャッテルは、ジェームズの超心理学の研究は批判的で『サイエンス』誌上でジェームズと論争になり、更にジェームズへの手紙では「心霊現象研究会は、心理学を傷つける多くのことをしている」と書いている。
【参考文献】
※1…『心理学のあゆみ』大山正・岡本夏木・金城辰夫・高橋澪子・福島章、1977(新版1990)・有斐閣
※2…『心理学史への招待』大山正・梅本堯夫編、サイエンス社、1994.1.25
※3…『心理学』W.ジェームズ(訳)今田寛1992.12.16岩波書店
※4…『プラグマティズムの作法』藤井聡2012.5.25技術評論社
※5…『プラグマティズム』W.ジェームズ(訳)桝田啓三郎1957.5.25(2010.4.21改訂)岩波書店
※6…『ミレー』ロマン・ロラン(訳)蛯原徳夫1939.10.5改版1959.10.5岩波書店
※7…http://blog.livedoor.jp/kokinora/archives/101742019.html
※8…『心理学史 はじめの一歩』高砂美樹2011.9.25アルテ
※9…https://web-mu.jp/spiritual/552/ 霊界を往還した万能の科学者 エマヌエル・スウェーデンボルグ/ムーペディア