認知論と脳科学などの生理学と進化論が出会う事で「心理学」が登場したようです。この空気をちょうどその時代に生きたスペンサーを通して描けたらと思います。

目次
【1章・スペンサーと進化論の出会い】
【2章・イギリスの骨相学】
【3章・進化論とメスメリズムの心理学への貢献】
【4章・J.S.ミルの影響】
【5章・心理学原理】

【1章・スペンサーと進化論の出会い】

 日本で自由民権運動が盛んになり始めた頃、アメリカでハーバート・スペンサーの社会進化論が流行り、日本においても政府は鹿鳴館外交の根拠として、民衆は自由民権運動の根拠としてこの思想を受け取ったようです。

 この社会進化論を唱えたハーバート・スペンサーは初期の段階からラマルク的進化論とであっているようです。

■➀ダーヴィとダーウィンの祖父■

 1820年にイングランドのダーヴィで生まれています。

 ダーヴィ―はダーウィンの祖父にあたるエラスムス・ダーウィンが1782年から1802年まで住んでいて、ダーヴィ哲学協会にもエラスムスの影響が少なからず残っていて、そのダーヴィ哲学協会の秘書をしていた父からスペンサーはラマルク的なエラスムスの進化論を教わったようです。※3

 ハーバート・スペンサーは、短期間、父親の経営する学校の生徒であった以外、パブリックスクールへも通わなかったし、大学にも入らなかったようです。父親と叔父とが教師であったようです。※1そのため、父親の教えは色濃くスペンサーに現れ、さらに政治論なども自由に論じられるようになるのは、当時の教育に毒されていなかったからとも考えられるようです。

■②バーミンガム鉄道と鉄道狂時代■

 1837年にはバーミンガムの鉄道技師(土木技師とも)として働くかたわら、著作活動も始めるようです。

 イギリスにおいては、1825年に世界初の鉄道としてストックトン&ダーリントン鉄道が開業が鉄道の始まりとなっています。

 スペンサーが働いたのはおそらくロンドン&バーミンガム鉄道で、ロンドンに建設された最初の都市間路線であり、1838年に公式にロンドンからバーミンガムまで開通しています(encyclopedia「London&Birmingham Railway」。そのため、スペンサーはこのロンドン&バーミンガム鉄道に勤めたのは1837年ですから、建設途中か、試運転のかなり早い時期に勤め出したことなります。

 そして、1830年代後半から鉄道網の整備が進み、1840年代には鉄道狂時代(Railway Mania)へと進んでいきます。この鉄道狂時代はやがてバブルの崩壊となりますが、結果としてはイギリスの鉄道網の充実に繋がったようです(wikipedia「鉄道狂時代」)。

■③『地質学原理』と進化論■

 鉄道の技師には、最初から特別な熱意を示し、いろいろな装置も発明しているようです。※1

 そして1840年頃、鉄道工事の現場を見て地質学に関心を持ち(スペンサーは土木技師であったという記述もある)、ライエル『地質学原理』(1830-1833)を手に取ったようです。そこから第2巻ラマルク主義進化思想を徹底的に批判していたところからラマルクを知ったようです。定向進化、用不用説(よく使用されるものが発達し、そうでないものが衰退する)を学びました。※22

 ラマルクの『地質学原理』はチャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島航海の際(1831年出発)に持っていき進化論の発見に影響を与えたといわれる著作として有名ですが、地球の大地を形づくる自然現象は過去も現在も同じ…つまり斉一であるという近代地質学の基礎となる「斉一説」が主張されていました。かつてニュートンは聖書を研究し世界は6000年前に作られたと考察しましたが、「斉一説」に基づくとそれよりもはるかに長い年月が必要であるとされる結論が導かれるようです。また長い年月をかけて現在につなっていったと考える事も出来て、化石などの動物も現在につなっていったと考える方向にも繋がっていくようです(氷河期なども定義されたのこの時代)。(『まんがで読破 種の起源』2009.7.10イースト・プレス参照)。

 スペンサーは、「進化」という考えによって、あらゆる現象を捉えることができる考えを後に生みますが、幼少期に父親から教わったエラズマス・ダーウィン的な考えと、鉄道技師になりライエルの『地質学原理』から触れたラマルクの考えの再発見などから、ベースが作られた考えられるようです。

【2章・イギリスの骨相学】

 心理学の発祥はさまざまな解釈がありますが、基本的には認知論を中心とした哲学が、生理学と進化論に出会う事で、心理学という独立した学問になったと言えるようです。※23

 心理学と進化論を論じたハーバート・スペンサーもこの渦中にいたと考えられます。

 今回は、スペンサーの心理学のベースと一つなった骨相学を扱います。

■➀骨相学■

 スペンサーは1846年には骨相学に傾倒し、頭骨を計測する装置セファログラフを設計しるほど入れ込んだようです。

 骨相学は、19世紀初めにオーストリアとフランスで活動した解剖学者ガルが創始したようです。骨相学とは頭蓋骨の形から脳の発達具合を読み取り、それによって観察対象者の性格や能力を診断するという学問だったようです。

 当時の人々がガルの骨相学(観相学)を頼ったのは、産業が発展し都市化が進むことで、すれ違う人は見知らぬ人ばかりという全く新しい状況になり、相手を知ることで安心するというかつての共同体での経験で対処しようとしたことを示しているようです。※24

■②イギリスの骨相学者■

 この骨相学はイギリスにはジョージ・クーム(George Combe、1788-1858)によって主に普及されたようです。

 ジョージ・クームは、醸造業者の息子で法学を学んでいました。

 1824年には『骨相学体系』(System of Phrenology)を著し、1828年医は『人の構造』(The Constitution of Man)によってベストセラー科学本を出しています。

 「精神の発現は構造しだいである」という考えがあったようです。ただ、顔面角度(猿人から人に至るにつれて垂直になったみたいな話)は骨相学者には容量を得ないものだったようです。それは頭部前面の話で、全体の話ではなったようです。

 クームの本を代表したように1820年代にイギリスに骨相学が広がり、骨相学の本はモラルが蝕まれたとされる器官の解剖図とともに、その持ち主がいきていたときの淫猥な人物伝を載せることで売り上げ伸びたようです。

 他にも精神異常を扱う医者なども患者の脳の奇形度を診断する新しい方法に見えたようです。更に新興富裕層や商人は性格診断の科学を使って地縁が薄いという弱点を補えると考えたようです。

  この1820年代はチャールズ・ダーウィンが学生だった時代と重なり、ダーウィンもこの骨相学のブームの渦中にいたようです。※25

■③骨相学とアメリカ南部■

 クーム自身は決定論的(骨相によって脳骨相学を真面目に信じ実践し論じたようですが、クームの『骨相学体系』においても「ホイッグ党員は一般的にトーリー党員よりも尊敬に関する器官が小さい」というような一般受けするような記述があるようです。

 更に、クームは「征服者と被征服者」のテーマに執着していたようです。そして殖民地支配力を骨相学で説明できるとしていたようです。

 そのような側面もあってか。1838~40年にかけてクームはアメリカを旅行していますが、クームの決定論的体系はアメリカ南部の「固有制度」を補強するために利用されたようです。

 ただしそれはアメリカの1830年代後半は北部の奴隷反対の論調が強まり(1840年にはロンドンで第一回世界奴隷反対会議が行われます)、奴隷制を保つための南部の論調に利用された部分があるようで、クーム自身は首都ワシントンにさえ奴隷制度が存在する事を目の当たりにして、震撼したようです。

 クームは依然は奴隷解放のあとで戦争が起こると思っていましたが、実際原住民を目の当たりにすると「ニグロは、自由になった場合でも有害な存在にはならない」と自分の骨相学に忠実に評価し判断したようです。

 但し、クームはインディアンが「獰猛な」民族だというイメージまでかえたわけではなかったようです。そのため、モートン『アメリカの頭蓋骨』(1839)というアメリカ先住民の頭蓋骨について記述し、土地から放逐する事を正当化する、また新たな証拠となった本の書評を匿名で書いたようです。そしてこの書評をダーウィンは読み『アメリカの頭蓋骨』という本をダーウィンが知るきっかえになったようです。※25

■④スペンサーの着眼点■

 さて、スペンサーは骨相学を学んだのは1846年ですから、まさにこのような流れの中の事になります。

 なんとなくな推測ではありますが、ダーウィンが骨相学とアメリカ南部の問題などを触れた事は、進化論により人間の祖先の一元論を唱えることに大きな影響を与えたように、骨相学は単に能力診断という枠にとどまらずに社会や政治の格付けや根拠などに寄与した幅広い可能性を持ったものでもあったのだと思います。

 スペンサーは、骨相学からは心の機能と脳神経が対応することを学んだようです。更には骨相学で唱えられている機能の局在は、局在する場所や仕様が違うのではないかという議論まで真剣にしているようです。※3

 一般的には骨相学は、骨相学という手段は疑似科学的なものではあるが、頭蓋骨の形という観察できるものから能力診断を行うという、近代的な能力診断のさきがけとも言われるようです。また、脳の機能は脳の場所によって局在しているということや、脳の機能局在ごとの丁寧な解剖を示したという功績などがあるとされているようです。

【3章・進化論とメスメリズムの心理学への貢献】

 近代心理学の成立を知る上で、進化論は個体差の研究に、メスメリズムは精神医学の治療の原型に影響を与えたという評価はあると思います。

■➀進化論と個体差の研究■

 1844年に匿名の著者が『創造の自然誌の痕跡』という本を出します。

 この本は太古の化石生物は人間に繋がる進化を示していて、すべての動物は人間を頂点に枝分かれしたと主張されていました。

 当時は、基本的に生物などの分類の「種」は不変であるという説が主流であったため、この著作は当時話題になったようです。

 チャールズ・ダーウィンもこの本を同時代に読んでいて、スペンサーも1845年までにこの著作を知っています。※3

 ダーウィンが『種の起源』を出版するのはもっと後になりますが、ダーウィンは種の進化という事実を説明するのに、個体差の存在に注目したことは良く知られているようです。

 そして、ダーウィンは個体差の変異が自然環境の中で適応や生存の選択を受け(自然選択説)、個体差から変種、変種から種の形成が行われるという進化論を唱えたようです。

 この進化論は、種の形成の源を個体差に求めるという意味で、個体差の存在意義を強調することになったようです。

 これは心理学の一つのテーマである個体差と個性の研究に影響しています。※21

■②メスメリズム■

 スペンサーは1840年代中盤に『ザ・ゾイスト誌』(1843-1846)という骨相学とメスメリズムの融合を考えた雑誌に3本の論文を寄せているようです。※3

 こちらの『ザ・ゾイスト誌』の創業者は元々骨相が学であるのと、「人間の精神構造を支配する法則を少なからず理解するための実践的な科学との接続と調和」をテーマとして考えていた雑誌のようです(encyclopedia「The Zoist」)。

 メスメリズムは、かつては人間の精神が異常とも言える傾向を「悪魔に取り付かれた」など神などの関係などで解釈していたものを、天体や磁気の影響で解釈しようとした学問です。天体や磁気などは現在では非科学的なものではありますが、今までの宗教的支配から自由になって科学的思想を取り入れたこと…昔は悪魔のなせる業とされた(精神的)「病気」を「磁気」という「原因」によるものに置き換えたことなどが評価されているようです。

 また治療と患者の間に心理的関係を結んだ(唯物的治療を施した)ことも、後々のカウンセリングなどの治療の始まりと考えられるようです。※26

 スペンサーはこの『ゾイスト誌』に1844年に『驚きの器官に関する一理論』という論文を投稿しています。※3

 基本的には骨相学と合わせてメスメリズムにも触れ、脳の構造的な部分とその精神構造を理解する方法として学んだものと思われます。

 メスメリズムは精神医学の方向性にも大きな影響を与え、フロイトが精神分析をまだ作り出す前にフランスに留学したシャルコーもその一人で、催眠によって精神的偏り(当時はヒステリーと総称していたようです)を治すのではなく、精神的偏りが催眠を発現させると考えた治療を法を唱えていてフロイトも一時は強く影響を受けているようです。

 またシャルコーがいたサルペトリエール病院で同じ頃トゥレット症候群も見つかっています。※27

【4章・J.S.ミルの影響】

 経済学や社会学・論理学などそれぞれ一人の人間が一生かかるほどのことを見事になしとげたとも評されるJ.S.ミルに大きくスペンサーは影響されていたと思われます。今回はその接点とJ.S.ミルを紹介していきます。

■➀『論理学体系』■

 ハーバート・スペンサーは1843年にジョン・スチュアート・ミル(J.S.ミル)の『論理学体系(1843年)』をダーウィ哲学図書館で読んだようです。※3

 その後、1848年にスペンサーは経済誌『エコノミスト』誌の副編集長となり、そこの編集者であるジョン・チャップマンに知的なサロンを紹介され、J.S.ミルと実際に知り合いになっているようです。そしてまたこの後もJ.S.ミルとは度々交流しています。

 特に1860年代はミルとスペンサーの直接的交渉があった時期のようです。※16

 そのため、スペンサーとJ.S.ミルとの考えは思想的に一致していたわけではないようですが※3、考えてみることは大切だと思います。

 この『論理学体系』は、J.S.ミルが1837年頃に帰納法の論理を書き上げて一時中断していものを、コントの『実証哲学講義』(当時は2巻までしか出版されていない)を読み、「逆演繹法」(コントは「歴史的方法」と呼ぶ)を着想することによって完成に向かっているようです。ミルはこのコントの「逆演繹法」はいずれ自分が考え出していたかもしれないが、コントのお陰で早く着想する事ができたと言っています。※29※28

 「逆演繹法」とは歴史的事実からの機能によって経験法則を引き出したあと、人間性の原理に基づく演繹法によってそれを検証するもののようです。コントは社会科学を「一般社会学」と「特殊社会学(経済学を含む)」に分けていて、「一般社会学」への方法として唱えているようです。※29

 スペンサーは後にコントの影響を受けたと当時の人に指摘される事が多く、スペンサー自身はコントとは違う文脈で発見しているものの、後の著作ではコントとの違いを明確にしながらコント支持者に反感を貰わないために注意深く言葉を選び触れているようです。

 スペンサーは1854年『科学の起源』はこのコントの『実証哲学講義(完結出版は1852年)』への攻撃を兼ねて執筆しているようです。更に1855年『社会静学』はスペンサー自身は違う題名を考えていましたが出版社の意向でコントが唱えた「社会静学」を取り入れた題名にしているようです。1862年『第一原理』ではイギリスに「自然哲学」が起こりその発達したものとしてコントが「実証哲学」を生んだとしています。1864年には『コント氏に反対する理由』という著作を書き、J.S.ミルがスペンサーに対してJ.S.ミル自身はスペンサーとコントの違いについて理解を示した手紙を送っているようです。

■②『経済学原理』■

 また同時期(1843年)にスペンサーは友人への手紙では「もし或る国民が武力によって自己を解放し、これらの道義的試練(絶対主義など)を経ずにゴールに到達するような場合には、彼らの自由は長く続くとは考えられません」と「漸進主義」gradualismを表明しています。※1

 この「漸進主義」はJ.S.ミルも『経済学原理』(1848年出版)に述べていて、要約すると「社会の変革を可能ならしめるには、あるいは望ましいものたらしめるには、現在の労働大衆を構成する無教養な下層階級の側にも、また多数の雇用者の側にも、相対応する性格の変化が必要である」※28という立場のようです。※29

 …そのように考えると、この頃からスペンサーはJ.S.ミルの影響は「論理学」(認知論)だけではなく、社会学や経済学的な部分の影響を受けていたと考えられるかもしれません。

のちの『社会静学(1851)』では、16章で婦人の権利を述べいて、一方J.S.ミルは1865年国会議員として自ら婦人参政権法案を上提して敗れたりもしています。

 J.S.ミルは、経済学のイギリス古典学派(アダム・スミス、リカードなど)が商工階級の代弁者となりうるなか、労働者の問題を考え古典学派の経済理論に修正を加えた経済学者ともいえると思います。

 1825年以降、イギリスはしゅっきて的な恐慌に見舞われたが、一部の知識人たちは、この資本主義体制に何か内在的矛盾が潜んでいるのではないかという疑いを真剣に抱くようにさえなっていたようです。

 そして、1832年には選挙法改正がグレイ伯爵の首相のときにイギリスでなされます。グレイ伯爵はアール・グレイの名前の由来として有名で1830年に首相になります。1830年はフランス七月革命の年でもあり自由主義な気風が蔓延し、後に「自由党」と名前をかえることにもなる「ホイッグ党」が政権をとった関係でグレイが首相になります(パーマストンもこのとき外相になります)。そして1832年にバートランド・ラッセルの祖父ジョン・ラッセルが尽力し選挙法改正がなされました。

 因みにJ.S.ミルもデモクラシーにおいてどういう人を選挙民とすべきか、の問題を取り上げています。そこではベンサム流の功利主義の考えから投票者のうちで他の投票者によって利益を守られる投票者―たとえば妻の利益はその夫によって守られるとミルは信じた―をのぞいて、40歳以上の男子のみが投票すべきである、と彼は結論したようです。※30

 しかし選挙法改正によって産業ブルジョアジーが議会に進出したが、この改正の恩恵を与えられなかった労働階級は、それ以後、チャーティスト運動を展開するようになります。※29

 一方で、イギリス古典学派のリカードの後継者の経済学者は、現状肯定の色彩を強め、このような時代が提起する問題に応えることができなかったようです。

 というのは、イギリス古典学派は、経済学者の仕事は法則をたしかめ、それを主張するkとにあったようです。これらの経済理論には、数学的精神から発する演繹と、公理があったが、社会の経済的疾患を是正する法則はなかったようです。これらの経済学者は無意識にしろ商工階級の代弁者となっていたためのようです。

 それに対して、ミルは若い頃ににサン=シモンの思想に触れて以来(コントもサン=シモンの影響があったと言っていた時期がある)、社会主義の様々な流派に通暁し、社会革命への情熱を示したようです。ただし、社会主義者にはならず、資本主義体制の過渡的性格を明確に認識した思想家となったようです。※29

 …スペンサーも後に社会学に「進化」の考えを持ち出し社会体制の過渡期的性格を考えていますから、このような辺りもミルの影響があるのかもしれません。

■③功利主義■

 J.S.ミルは1806年に生まれ、リカードと親友で更にベンサムとも交流の深かった父ジェームズ・ミルのもとで生まれました。そして父から父に継ぐ功利主義者になるための英才教育を施されます。

 また1821~22年にかけてベンサムの弟サー・サミュエル・ベンサムの招きでフランスに滞在して、1821年冬にベンサムを読み「世界の改革者になろろうと」生涯の目的を定めています。

 そのため、J.S.ミルを考えるにはベンサムの功利主義を考えることが有意義だと思います。

 また、スペンサーも1851年の『社会静香学』の冒頭部分で功利主義批判と道徳感覚論擁護を行っていますから、功利主義を考える事は有意義だと思います。

 功利主義は、ジュレミー・ベンサム(1748-1832)によって、快楽と苦痛は人間行為の底によこたわり、それを決定する実在である、というベンサムの人間本性に関する基本公理から始まります。

 人間はつねに幸福を追求し、苦痛をまぬがれようとすると考えたようです。そこでベンサムは、彼の論理で、人類の幸福を増進せしめる行為を正、減退せしめるものを不正というように考えたようです。

 ベンサムの倫理学の展開には当時支配的であった思想が反映し、適切に表現されているようです。その上彼は、この思想の結論を追求し、数学的害片の導入によってそれを精密化したようです。

 彼の目的は快楽と苦痛を測り、「幸福を最大にする」ことであったようです。重要なことは、ベンサムがかつて権威と因襲の支配していた思想の領域に、理性の旗を大胆に押したと、合理的な庶民倫理を求めたことにあるようです。ここに、宗教や既存の社会形態の合理化によらず、人間の本性の科学にもとづく倫理の科学ができたようです。神の意識ではなく、人間の本性があたらしい倫理をおこしたと考えたようです。とくに、徳というものは天国で報いられるものではなく、それ自体報いられるべきものとなったようです。

 ベンサムは『道徳および立法原論』(1789年)では、単なる政治技術とは異なる道徳哲学の一分野としての政治科学を作り上げているようです。ベンサムは自然法と神の意志をすて、政治に対する純粋に合理的な基礎を求めたようです。彼にあっては、政治の分野における根本的真理、基礎的公理は、政府は最大多数の人々の最大幸福を求めるべきである、とういことにあるようです。

 この基本原理から、彼は多くの結論をみちびき出したようです。正義そのものは目的ではない…むしろ幸福の総量を増すための手段であると考えたようです。法律は、行為の動機に目をつけるのではなく、その結果のみを考えねばならない…なぜなら社会の幸福におよぼす行為の影響のみが重要だからと考えたようです。

 但し、ベンサムはこのように政治科学を天体の数学理論のようにまとめあげたが、結局のところしっかりと基礎づけることはできなかったようです。おそらく彼らは世間の政治事件を正当化し主張する以上のことはできなかったようです。しかし、合理的探究によって、少なくとも彼らは民主主義的運動の目標、理想、スローガンを明確にすることができたようです。

そしてそこからあたらしい経済学という科学が、数学的精神を持つ倫理学、政治学の理論家たちの引いた基本線上におこって来たようです。その根本となるものはベンサム同様人間本性の科学であったようです。※30

そのため功利主義に影響を受けて生まれたイギリス古典学派の経済学の発達は、同じく正当化し主張する事しかできなかった限界の側面もあったのだと思われます。

またスペンサーの特徴として、スペンサー以前の近代自然法の論者は、自由とか平等といった理念が、すべてに早期に実現したいという前提から出発して、その後におけるその喪失と、恢復とを論証しようとする傾向にあるようです。一方、スペンサーは原子状態を「平等な自由」の理念からもっとも遠い状態に見るところから出発して、その後におけるその実現ないし実現性を論証していた点に特徴があるようです。※16

…このようなところも自然法を前提としなくなった功利主義と関係があるのかもしれません。

■④連合主義心理学■

 最後に、スペンサーは心理学史などでは連合主義心理学として分類されることがありますが、J.S.ミルも連合主義心理学として分類されることがあります。そのため、ミルの連合主義心理学的な部分を簡単に紹介します。 

 J.S.ミルは連合主義心理学の文脈で、単純観念の連合から複合かんえんができる場合、虹の七色の融合が白色をつくることを例にあげ、部分の寄せ集めではない新しい性質が生まれることを強調して、「心の化学」(mental chemistry)という言葉を作ったようです。これは後に全体が部分の単なる総和でないことを、ゲシュタルト心理学者たちによって強調されるようです。※21

 丁度この時期は、スペンサーがライエルの『地質学原理』によりラマルク的進化論に触れ、なおかつ骨相学やメスメリズムによって脳の構造と共に精神構造を支配する方法に興味を持ち始めたころです。このように考えると哲学の認知論である連合主義心理学と進化論と生理学が結びつくことによって近代心理学ができる丁度時代の境目にスペンサーがいたように考える事もできると思います。

 連合主義心理学とは、意識の形成の問題について、あたかも物理学において物体を少数の原子や分子の化合として説明したように、意識もこれをその要素である観念の連合の法則によって説明していこうというものであったようです。但し、このような観念の連合過程の帆総則を知るためには伝統的方法である内省によって自分の意識を分析する方法が主であったようです。※21

【5章・心理学原理】

 スペンサーは心理学の体系的な書物が書かれ始めた時期に『心理学原理』を執筆しています。しかし段々と社会学でのスペンサーの取り組みなども影響し、第二版では全く新しい形になっています。その『心理学原理』第二版を夏目漱石が『文学論』で引用しています。

■➀『心理学原理』初版■

 スペンサーは1855年には『心理学原理』初版を出版します。1862年に総合哲学体系シリーズというのを出して『心理学原理』という本を書いていますが、それよりも前のものです。こちらの初版自体はほとんど売れていないようです。※3

 初期の心理学が能力心理学とわれたように、人間は普遍的なさまざまな精神機能や能力の集合とみなされ、人間を知・情・意の構成要素に分けたようです(夏目漱石も知情意で捉えていたりします)。そのため初期の心理学は、それらの構成体とする中世スコラ哲学の伝統を引く形式論であったが、人間を神や動物と区別して人間の独自性を主張する一つのヒューマニズムであったようです。※21

 スペンサーの『心理学原理』初版もその伝統を引き継ぎました。但し、83%弱が知性論、情と意は6%と偏りはあったようです。これは哲学の分野から派生した連合心理学の形式を踏襲しているようです。

 全体的には経験の蓄積自体は連合心理学の理論で上手く行くとスペンサーは考えたようです。それが世代を超えて伝えるのがラマルク主義進化思想であり、その結果道徳感覚論のような生得的センティメント論が成り立つと考えたようです。※3

 道徳感覚論とは、スコットランド常識哲学によって人間には生まれつき道徳的に振舞う能力が備えられている…すなわち道徳を人間本性の一部とするものであるようです。ヒュームやアダム・スミスなどもこの道徳感覚論に関係していると思われます。

 また進化の過程における分業後の協働という思想は、サムエル・テイラー・コウルリン(Samuel Taylor Coleridge1772-1834)を通じてフリードリヒ・シェリングの思想から、個体化と部分の相互依存という思想を受け取ったようです。※3

その後、1857年には『音楽の起源と機能』という論文を出していて、主要なテーマは音楽として現れる感情であると考えたようです。そして社会進化と道徳進化が音楽の進化すなわち感情進化として捉えられると考えたようです。

 この音楽論で、スペンサーは感情が洗練・進化していくことの社会的重要性を強調したようです。知性論に傾きすぎた『心理学原理』初版から大きく転換して、感情転回が起こったとも言えるようです。※3

■②アレクサンダー・ベイン■

 1860年にはアレクサンダー・ベインの『感情と意志』の書評を1月にスペンサーは書いているようです。※3

 アレクサンダー・ベイン(Alexander Bain1818-1903)はスコットランドのアバンディーンに生まれ、そこの第g買う教授として一生を過ごした生粋のスコットランド人のようです。連合心理学もベインに至ってその最後を迎え、また現代心理学との接点をもつようになったようです。初めて心理学の体系的な教科書を書いた人でもあるようです。

 1876年からは心理学の初めての学術雑誌「マインド」を創刊したようです。

 ベンサムの功利主義の考え方を取り入れて、快楽と苦痛が行動を統制する2大要因であることを主張したようです。

 ベインはダーウィンの研究の重要さに気づき、彼の情緒の研究に取り入れたが、進化論そのものは認めなかったようです。しかし時代は意識の要素だけを研究する連合主義の時代から、人間も動物もその行動全体を研究するという方向へ次第に変化していったようです。※21

 そんなベインからスペンサーは学ぶことがあったようです。ベインが感情をその自然言語である身体表出と内観による分析から自然誌的に分類しているのに対し、スペンサーは元々の自然誌でさえ分類には曖昧さと頻繁な変更があるので頼りにならない点を指摘し、自らの方法として感情の発達を考慮する事を提案したようです。

 発達史を考慮するスペンサーの手法は「比較心理学」であるようです。ベインは「知性・感情・意志」と心を分けたが、「感じ」と「認知」にスペンサーは二分割したようです。現前的から表象的ヘ、そして再表象的と前のものを包摂する関係になっていて、発達してゆくと考えたようです。

 1860年3月には『笑いの心理学』を書いていて、<笑い>という身体表出(各種筋肉の動きや発声)が何故起こるかについて生理学的に論じているようです。ここでも心的エネルギーの流れという考え方自体もベインから由来してるようです。※3

■③『心理学原理』第二版■

 1870年から1872年に『心理学原理』第二版を出しています。第一版とは題名が同じだけの全く違う著作ともなっているようです。初版出版以来、散発的に発表されてきた生理心理学的心理学による感情論をまとめているようです。

第二巻はダーウィンの『ヒトと動物における感情の表出』(1872)と同じ年に発刊されています。※3

ダーウィンは『種の起源』(1859)においても「心理学は個々の精神的な力や可能性が、しだいに変化しつつ獲得されたという新しい基礎的な考え方のもとに、作り上げられることになるだろう」と述べていて、代表的な分野は比較心理学であったようです。※23

そう考えると比較心理学的スペンサーの心理学が進化論とも繋がっていることも考えられます。

■④夏目漱石への影響■

余談ですが夏目漱石の『文学論』という著作は、心理学的感情から文学表現を博物的にまとめた著作として、特にベント的な志向性を感じますが、このスペンサーも引用しているようです。

 

 ベインに関しては、夏目漱石は第一高等中学校時代に、英語・歴史の教授であったマードック(James Murdoch1856-1921)から、その師ベインの『論理学』(Logic、1870)を読めといって貸し与えられた想い出を語っているようです。

 また『文学論』では恋についての部分で「触は恋の始にして終なり」と言ったとベインを引用しています。

 

 スペンサーに関しては恐らく『心理学原理』第二版を引用して、スペンサーの恋の解剖を「両性を結合する情は普通一種の単純感情の如く論ぜらるれど、これを外にして他に、かく複雑にして、しかも勢力あるものはあらざるべし。如何となればその純生理的材料以外に個人美による幾多複合印象を算入さざるべからず。しかもその周囲には種々の快感つき纏り、これらはそれら自身において恋愛的ならざれども結局、恋愛感に組織的関係を有し、尚ほ愛情と名くる複合感情もまたこれい結合しつつあることをみとめざるべからず。凡そ愛情は同性の間にも、よく存立し得るものなれば、一種独立の感情とすべきも、この場合にありては著しく昇上の域にあることを忘るべからず。尚賞讃、尊敬等の感情混入し来り、さなきだに有力なるこれら諸勢力はこの場合において、高度の活動を試みるものなり。次に加入すべきは是認の愛とも称すべく、即ち全世界より挙げられ、万人にまさりて賞したるものの愛を受くるの自覚にして、その力は全て過去の諸経験の上に出づ。而してその内には第三者の人々より公平なる眼を以て自己の成功を認識せらるることの間接的快感をも混入するものとす。ここにおいて自重の総合情緒起る。即ち一個の人格の愛を独占し或はその上に全権を有する事の自覚を生ず。この自然に湧き出づる自重心は一変して一個人の自愛となるものなり。加之(しかもみならず)所有の快感あり。およそ個人の間には犯し難き壁ありて、相互の行動は常に多少の制限を必要とすれども、恋人は所謂一心両体にして全ての垣は取り払はれ、自由活動の愛が、ここに遂行しうるを認むべし。自己の快感に恋人の快楽加はるものなりとす。加此(かくのごとし)、生理的感情が骨子となりその周囲に人体美の諸感情蝟集して始めて恋を構成するものにして、前者は単に愛着の因となり、後者は尊敬、是認、自重、所有、自由、同情の愛に導くものとす。しかしこれらのもの著しく興起しその活躍たる作用が相互に呼応する時、全てこの心的現象を総括して「恋」と名く。然るにこれら諸感情はそれ自身において既に意識の雑多方面に含蓄するを以て、吾人もし上述の状態に陥る時は吾人が具有する殆どあらゆる興奮的作用は混じて一団となるの理なるを以て、所謂恋の力が至大なるは毫も怪むに足らざるべし」と(孫引きのようですが)引用しています。漱石は「かのSpencerが指摘せる如き幾多複雑の分子あつて始めて興味津々たり得べし。」とも述べています。

 『文学論』の準備に当たり漱石が参考にした心理学や社会学の本の多くは、ダーウィンに影響を受けた(スペンサーなどの)進化論を受け継いだものが多かったようです。そのため、漱石自身もしばしば濃厚に進化論的な考え方を表しているようです。

 

 他にも1904年のAcademiy and Literatureの投書で、文学の価値を科学思想の発達によって考えようとするスペンサーの考えに感銘を受けた人のものを引用しています。スペンサーは芸術の価値を科学的根拠に求めた場面もありますから、そのことでしょうか。スペンサーの『第一原理』(1862)は高等学校時代の友人の想い出を『硝子戸の中』「九」で語る中で借りた事を漱石はあげているようです。

 更に1882年スペンサーの『文体論』からも引用していて文学の大目的を生ずるに必要なる第二の目的の幻惑についてで、内容に関係なく二個以上の文素の結合せる状態としての形式をスペンサーが詳述しているところであげてもいます。※31

 漱石は1901年4月5日にイギリス留学中、後に「うま味」を発見する池田菊苗と同宿し(6月に寺田は下宿をさる)、9月に寺田寅彦宛の手紙で池田に言及し「僕も何か科学がやりたくなった」と語っています。

 その影響もあり、帰国後ラフガディオ・ハーンの後の東京帝国大学の授業を受け持つ際に心理学と社会学から体系を構成し、博物的に文学の引用などもした講義をしたものが『文学論』として形になっています。

 当時は社会学と心理学は相互に関連しながら発達し、それが人間の営みのすべてを解明しうる普遍性をもつ学問であるかのように、受け止められる傾きも生じたようです。※31

※1…『世界の名著36 コント・スペンサー』1970.20中央公論

※3…『ハーバート・スペンサーの感情論』本間栄男、桃山学院大学社会学論集第48巻第2号より

※4…ウィキペディア「自由論(ミル)」

※16…『H.スペンサーの婦人論に関する覚え書』山室周平

※21…『心理学史への招待』大山正ら1994.1.28サイエンス社

※22…『ハーバート・スペンサーの感情論』本間栄男

※23…『心理学史はじめの一歩』高砂美樹2011.9.25アルテ

※24…『統計の歴史』オリヴィエ・レイ(訳)池畑奈央子ら2020.3.26原書房

※25…『ダーウィンが信じた道』2009.6.30エイドリアン・デスモンド+ジェイムズ・ムーア(訳)矢野真千子+野下祥子・日本放送出版協会

※26…『マンガ ユング「心の深層」の構造』さかもと未明1999.2.15講談社

※27…『科学は歴史をどう変えてきたか』マイケル・モーズリー&ジョン・リンチ2011.8.22(訳)久芳清彦、東京書籍

※28…『ミル自伝』朱牟田夏雄1960.2.5岩波書店

※29…『経済学の歴史』根井雅弘2005.3.10講談社

※30…『数学の文化史』モリス・クライン(訳)中山茂2011.4.20河出書房新社

※31…『文学論』夏目漱石2007.4.5岩波書店

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