目次
1話【外山正一とスペンサー】

2話【加藤弘之とスペンサー】

3話【南方熊楠と進化論】

4話【南方熊楠とスペンサー】

5話【ラフガディオ・ハーンとハーンとスペンサー】

1話【外山正一とスペンサー】

 1876年、開成学校でアメリカからの新帰朝者・外山正一は、西洋史を講ずるにあたって、スペンサーの社会学を説き、その著作を用いたようです。※1

 

 日本の大学における社会学は、社会学史の順序とは関係なく(基本的にはコントが先に「社会学」を提唱)、日本の社会学は、同時代のスペンサー(スペンサーは生きていたがコントは亡くなっていた)の学説を輸入することから出発したともいわれ、この外山の開成学校での講義が日本の社会学のはじまりといえるようです。※1

 スペンサーの社会学は「社会有機体説」の代表ともされていて、生物学の進歩を通じて、生物有機体の構造や機能が細部にわたって明らかにされるようになったことから生まれた発想のようです。※1

■➀アメリカ時代■

 外山は1866年に勝海舟の推挙により幕府派遣留学として渡英し、1870年には森有礼の少弁務使の秘書として渡米しています。

 この後、森は岩倉遣欧使節団をワシントンでもてなしたりするものの自己の政府からの信頼が薄いと感じ、少弁務使をやめるのですが、少弁務使のときにアメリカの知識人(ハーバード大学学長エリオットなど)にあてた日本の教育の在り方の手紙の返書をまとめた著作を書き、その序文には日本語を廃しして英語にすることを唱えたりしています。そして、日本に帰る前にイギリスによりハーバード・スペンサーと会ったりしています。

 一方、外山は学問の素養を深めたいと思い、1872年ミシガン州アンナーバー高等学校に入学し、1873年にミシガン大学に入学しています。

 ミシガン大学は1871年にエンジェル学長(James Burrill Angel,1820-1916)になってから、急速に一流大学の仲間入りをし、ハーバード大学、エール大学と共に、著名な州立大学として知られるようになったようです。更に、アメリカでは最も早い時期に、黒人(1868年)および女性(1870年)にカレッジの門戸を開放していて学長も更に押し進めていたため、東洋の留学生にも好意的であったようです。

 また、エンジェル学長は国際法の大家で、法学部の評判が高く、条約改正問題をかかえていた日本からも、少なからぬ法学部希望者を呼び寄せることになったようです。※9

 後に1887年にミシガン大学に籍は置かないが引き寄せられた南方熊楠の時代には日本人の学生は多くいたようです。

 外山はそんなミシガン大学の日本人の最初の人にあたるようです。

 ただ、外山がミシガン州アンナーバーを選んだのは、ワシントンやニューヨークより生活費の低廉なるところを選ぼうと思って決められたようです。

 またミシガン大学ではエンジェル学長の客となって家を訪ねたこともあったようです。ただ国際法というよりは理科、哲学の両方面に渡って、広く諸学科を修められ、中にも理科の方を好まれ、遂に化学科で卒業したようです。

 著作としてはスペンサー、ティンダル、ハックスレーなどの著作を読んでスペンサーの学説は最も影響を受けたようです※10から、化学を学べど生物学としての進化論から社会論まで興味の幅はあったのだと思います。

 就中スペンサーの学説は、最も之を尊尚して之を紹述せられたように見えるようです。※10

 またこのミシガン大学時代にエドワード・モースのミシガン大学の講演(おそらく進化論の)を聞いて感銘を受けて日本で東京大学が開学するのに合わせて、教授として迎えたようです。※8

■②東京大学でのスペンサー講義■

 1877年日本人初の教授として開学した東京大学の教授となります。

 「亜米利加では外山先生、英吉利では菊池大麓などは、夙くその名が聞えて居た」ようです。※10

 外山正一の東京大学での講義は徹頭徹尾スペンサーの輪読に終始したようです。そのため、『スペンサーの番人』とも学生には呼ばれていたようです(Wikipedia「外山正一」より)。

 西洋歴史(文学部第2年生向け)では、歴史を学ぶ者は、社会学の原理を知らなければならぬとの見地に基づいて、先生は、先づスペンサー氏の社会学原理によて、簡単に社会学を講じ、次に英国の憲法史を講ぜられたようです。※10

 1878年(M11)、一ツ橋外の文学講義室の開室演説に於て、民選議院尚早論を駁する主意の演説を試みられ菊池大麓らの諸君と政治的公開演説に出席したようです。

 1880年、『民権弁惑』(ピューリタン革命もある程度詳細に論じている)において、政府にして無暗に民権を暦服せんと務むるならば、民権は却って発達するのであると考えられたようです。また民間の人も政府の圧制を滅ぜんとして、無暗に之に反抗すること今日の如くならば、却って益益圧制の度を増加するのみであって双方共に反対の結果を見るであろうと論じているようです。※10

 1882年10月における東京大学学位授与式において、学部長が祝辞を述べるも、文学部長の外山は欠席し、代わりにフェノロサが学生運動を戒める演説をしました。祝辞は学長・加藤弘之が最初に行い加藤も学生に対して警告と批判をしています。このとき東京大学初めて自由民権運動の影響で官へ就職を拒否する卒業生が多発してたようです。※14

 1883年1月~3月に行われた加藤弘之と外山の『学芸志林』(南方熊楠も購読)にも載った論争では、「人権新説の著者に質し、併せて新聞記者の無学を賀す」と書き、天賦人権説の誤りなる事は早く、バルク、ベンサム、ウルジー、レウイス、エモス等の人々が、論破し盡して居る。しかるに加藤君は、之を前人未発の議論かの如くに自惚れて居らるる」と冷笑したようです。つまり、人権「新説」ではないと論じたという事です。※10

1887及び1888年から1891年及び1892年まで外山はいよいよスペンサー氏の書物を多く用いられたようです。即ち、『第一原理』をはじめ、倫理学、生物学、社会学等に於いても、皆スペンサー氏の著書を教科書とせられたようです。※10

2話【加藤弘之とスペンサー】

 帝国大学第2代総長ともなる加藤弘之は1873年、アメリカから帰ってきた森有礼がスペンサーの影響も受けて国民の啓蒙の必要性を感じて開いた「明六社」に参加しています。明六社には福沢諭吉や西周なども参加しています。

 このときの、加藤はこの頃から疑念は持っていたものの「天賦人権論」を唱えた代表的な人として認知されていたようです。『真政大意』『国体新論』などの著作は「天賦人権論」の名著として多く普及していたようです。「天賦人権論」はルソー的発想で人は生まれながらにして人権を与えられているという考えのようです。

 しかし、1881年にそれら「天賦人権論」の『真政大意』『国体新論』を絶版にしたうえで、1882年に『人権新説』という「天賦人権論」を否定した「社会進化論」を唱え始めます。

 1882年の『人権新説』は第一章では進化論を根拠として自由民権思想を徹底批判していたようです。※8

■➀『人権新説』■

 1874年1月「民選議院設立建白書」は野に下った板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らが名を連ねて提出したもののようです。加藤弘之は「東京日日新聞」「明六雑誌」で反論し、明六社の「明六雑誌」では福澤・森有礼など「時期尚早」を合唱していたようです。※5

 1877年(M10)には開成学校(後の東京大学)総理嘱託となっているようです。

 1881年「国会開設の詔」。そして自由党(代表・板垣退助)が結成され、また改進党(代表・大隈重信)の結成となり、民権運動が正統運動の形で展開されることになって、政治闘争の近代化ができ上がったようです。

 政府的・権力的な立場に立つ弘之が、天賦人権論に矛盾を感じることは当然であり、ドイツ学(元々兵法系の専門家でプロシアの研究もしていた)によって用意した実証主義的進化論を自らのものとして、権利自然法説に強く対抗したようです。

 以前の『真政大意』『国体新論』の思想の拠りどころは、過激なる天賦人権思想であって、自由民権を叫ぶ或者は彼の著作を立論の根拠としたようです。

 加藤は元老院議官・開成学校総理・東京大学総理等として政府的立場を保ってきたのであるから、1874年以来の朝野(政府と民間)の思想的対立と、保守的・反動的となった政府の天賦人権論忌避及び取り締りをみて、時勢への天性的順応性を発揮して、新しく仕入れた進化論的権利論を唱えるにいたったことは不思議なことではないようです。

 1877年(M10)、モースが東京大学で進化論を説いたことも、彼の転向の一つの動機になってのではないかと推測されるようです。

 1881年11月22日「内務省達乙第59号」によって初期三部作中二著の流布取締りをしたようです。※11

 1881年(M14)は国会即開論者といわれた大隈重信とその一派は政府を追われ、憲法制定の方針として岩倉具視の日本主義的立憲主義の確立した年であったようです。※11

 大隈が伊藤との権力闘争に敗れた背景には、急激な輸入超過と金貨の流出=激しいん府レーションに対する強引な財政引締め政策「大隈=松方財政の失敗」といわれるようです。

 それで伊藤は国策遂行のための財貨は、これを国内から絞り出す方向にいったようです。大事なのは国家であって、国民個人ではないと考えたようです。なによりも国力をつけない限りは条約改正も勝ち取ることはできないと考えたようです。※5

 社会的進化説は加藤が民撰議院設立尚早論を唱えた時にその萌芽をあらわした思想的変更のようです。

 『人権新説』はかような政府の方針の学問的弁護であり、正当化であり、それは弘之の御用学者ぶりを露骨にしめしているものであったようです。天賦人権主義を妄想に過ぎずとして、社会的不平等の合理化を説き、絶対主義と支配階級の弁護に熱を入れたのであるようです。※11

 加藤はルソー(Jean-Jacques Rossena1712-1778)を「古来未曾有の妄想論者」としているようです。※9

 ただし、加藤の『人権新説』は、進化論の社会への応用としては、当時の水準から見ても粗雑な論旨が目立つものだったようです。※8

 また1881年は加藤が東京大学総理に任ぜられたとしてもあったようです。

 加藤の尚早論は僅かに数年ならずして国会開設の詔により否定されるに至ったものであるようです。そしてこの頃、兵学より文学にも転向しているようです。

 加藤は東京大学の教授であったのではないようです。ただ、大学総理としての、その行政的公務の傍ら、すでに変説した思想を成熟せしめるための読書と思索とをつづけていたようです。

 ブルンチュリ及びビーデルマン(ドイツの学者)の研究によって、天保人権説の「迷夢」から脱してた弘之が、保守化した政府の権力主義の選手として、バックルを読み、ダーヴウィンを学び、スペンサー及びヘッケルの進化思想に教えられて、金子賢太郎(英米流の国権論者・ボルク「政治論略」を公けに)と同様に、進んで決定的な反天賦人権論者として、自らを運命づけていたようです。※11

■②社会進化論■

 明治期とおして、この社会進化論は加藤弘之らによる「優勝劣敗」式のイデオロギー化とあいまって、人間社会の変遷を説明する一大原理としてまたたく間に滲透していたようです。

それは、アジアにおける生存競争に勝ち残らねば欧米の植民地となるほかないという、当時の日本の置かれた厳しい国際情勢を端的に示す理論であったようです。※9

当時の日本の言論界にあっては、スペンサーは民権派にも国権派にも、自説を裏付けるものとして利用されていたようです。スペンサーが日本に受け入られた時、自由民権論を唱えた人々は、その理論的根拠としてスペンサーの自由主義をとり、東京大学を根成した官学アカデミズムは、社会進化論の側面を取り入れたようです。

そして「官学アカデミズム」を代表する存在が、当時の東京大学文理学部総理・加藤弘之であるようです。※8

 「エドワード・エス・モール氏本邦に来朝せるあり。理科に教鞭をとって、大に進化論を鼓吹す。又殆んど之と同時に外山博士帰朝し、理科の矢田部博士等と共に進化論を唱ふ。

 されば更にフェ子ロサ氏…来りて進化論を衝動するや、殆んど帝国大学の思想界は進化論を以て充溢せるの有様なりき。而して加藤弘之博士帝国大学の最初の総理として相共に進化論者となるに及びて、正に本邦の学界を風靡せりき」と東京大学1908年「哲学雑誌」にあるようです。

■③その後の加藤■

1882年に『人権新説』を出版すると共に、彼が総理をする東京大学の卒業生の多くが自由民権運動の影響で官への就職を拒否するという事がおこり、10月の法理文学部学位授与式の祝辞では学生の自由民権運動への影響に警告と批判をしています。

1883年1月~3月、外山正一と加藤弘之が『人権新説』を巡って論争。『学芸志林』に掲載されたようです。共に東京大学内での争いだったのでしょうか。

 1890年(M23)には日本国憲法に対しては、「政事の本色は圧政なり、圧政を離れて政事なし」と言い、「社会の輿論とは凡そ当該社会の中流以上に位して社会を制する勢力ある人衆、即ち所謂社会の強者の中に行はるう輿論を云ふなり」と欽定憲法であるということで、賛成の態度をとったようです。※11

3話【南方熊楠と進化論】

 渡米するまでの南方熊楠は、モースから、また加藤弘之から、ハックスリーから様々な方向から進化論と触れていたようです。

■➀モースの影響■

 1885年4月にモースの江ノ島の「臨海実験所」をおそらく意識して、江ノ島に旅行しています。※8

 1885年にはモースが発見した大森貝塚に2度訪れて発掘を行っているようです。更にモースが発見した二番目の貝塚(小石川の東京大学付属植物園)なども訪れて発掘したようです。※8

■②加藤弘之の影響■

 1886年10月23日松寿亭送別会上演説にて、加藤弘之のような「優勝劣敗」式のイデオロギー化とあいまって、人間社会の変遷を説明する社会進化論をベースに渡米の理由を述べているようです。このとき、石器時代の話の際には自分で発掘した石器を見せながら講演したようです。※8※9

 社会進化論を国家間の競争としてとらえた加藤弘之(1836-1926)の『人権新説』(1882年)がこの頃の熊楠の蔵書としてあるようです。※8

  1882年の『人権新説』は第一章では進化論を根拠として自由民権思想を徹底批判していたようです。熊楠は1885年12月5日に『人権新説』第3版を購入しているようです。

『東洋学芸雑誌』1881~1886分を熊楠は購入していて、1883年1月~3月の外山正一と加藤弘之の『人権新説』論争も読んでいるようです。※8

この熊楠の演説もある程度、優勝劣敗を強調する加藤の議論に沿うもののようです。

但し、加藤はルソー(Jean-Jacques Rossena1712-1778)を「古来未曾有の妄想論者」としていて『珍事評論』第一号で自分のルソーに例えた熊楠は複雑な思いもあったと思われるようです。※9

1894年1月19日土宜書簡においては、アメリカでよくスペンサー・ダーウィンを勉強した後の熊楠が、「加藤弘之などは進化論聞きかなり、社会の事はみな自勢の勢なりなどといふ」などと書き出し、批判的にも読むようになっているようです。※8

■③ハックスリーの影響■

この頃読んだ記事に、グラッドストン(William Ewat Gladstone1809-1898)とハスクリーのキリスト教と進化論の対立をめぐる論争が載っていたようです。

 1885年11月~1886年に『19世紀』(Nineteenth Century)誌上でおこなわれた論争が、『PSM』に転載されたようです。

 ちょうど第三次グラッドストン内閣の政権奪還を行う選挙中に行われた論争で、グラッドストンは敬虔な英国国教徒として『聖書』の記述が地質学と矛盾しないことを解こうとしたようです。※8

 一方、トマス・ヘンリー・ハクスリー(Thomas Henry Huxley1825-1895)は初期の頃は動物の分類の研究に心血を注いでいました。

 1869年『動物分類序説』An introduction to the classification of animalsでは、キュヴィエを「近代博物学の王子」と読んで、注意深くその成果を研究した成果となっているようです。

 一方、熊楠は1880年和歌山中学校時代に『動物学』という自作教科書を作った時期に、鳥山啓経由で間接的にハクスリーの情報に触れ、ハクスリーによるキュヴィエ分類学の修正版について知ったようです。キュヴィエは脊椎動物を分類した際に、「哺乳類」「爬虫類」「鳥類」「魚類」の四つに分けており、「両生類」は「爬虫類」の一部と見なしていたようです。これに対して、ハクスリーは「両生類」を含めた5つの分け方を提唱していたようで、この影響が熊楠に見られるようです。※8

グラッドストンとの論争の時は、グラッドストンの主張は科学的には全く根拠がないとして反論したようです。※8

ただ、もともとハクスリーは「ダーウィンの番犬」として異名を持っていましたが、進化論が科学的で聖書の創造説が非科学的という論理ではなく、科学でも捉えることができない全ての現象のバックボーンにある「不可知(Unknowable)」は誰にも断定して語ることができず、聖書のみが独断で語り得るということを論じるのは科学的に全く根拠がないとしていたのではないかと思います。

1889年にハスクリーがカンタベリー大聖堂の首席司祭であるウェイヌ(Henry Wace 1836-1924)などとの間でおこなった論争「キリスト教と不可知論」を熊楠は『フンボルト叢書』The Humboldt libraryで読んだりしているようです。

ここでは、ハクスリーは人知によって知り得ぬことには言及しないという「不可知論angnosticism」の立場を表明して、信仰の問題と実証的な科学の問題を明確に切り分けようとしたようです。※8

他にも熊楠は東京予備門時代、1885年5月に『生種原始論』Thomas Huxley,On our knowledge of the causes of the pahenomena of organig natureというて1860年という『種の起源』出版翌年にハクスリーが勤労者大学でおこなった6回の講義をまとめており、題目通り、ダーウィンの『種の起源』の正しさを議論したものを読んでいるようです。※8

4話【南方熊楠とスペンサー】

 南方熊楠は東京大学予備門時代から、『学芸志林』を通してスペンサーの論文の翻訳や抄訳を読み、フェノロサや加藤弘之経由でもスペンサーに触れています。渡英する際は自由民権運動の流れを受けた後、スペンサーの著作を購入しついには「スペンサー研究家」と自称した時期もあったようです。

■➀『学芸志林』とスペンサーの論文■

 東京大学予備門時代は、東大法文理学部の共同紀要『学芸志林』を通して、『PSM』(月刊ポピュラーサイエンス)の記事を翻訳・抄訳したものが多く載っていたようです。

 『PSM』は1872年にニューヨークでコーマンス(Edward Livingston Youmans1821-1887)が創刊したもので、コーマンスはスペンサーの『総合体系哲学』シリーズという著作の出版を援助した人であったためスペンサーも多く論文を投稿したものだと思われます。※8※23

 他にも『学芸志林』は1877~1885年全ての巻を熊楠がそろえていたと推定されているようで、第5巻28・29冊ではスペンサー「婦女の権利」、第10巻55冊「気候と文明の関係」、更にはフェノロサがスペンサーの『社会学原理』第1・2部に基づいた第7巻第36.37.39冊「世態開進論」も掲載されていたようです。※8

■②自由民権運動と熊楠■

 『新日本』という新聞が、1887年日本国内の自由民権運動に失敗・挫折し、新しい活動の基盤を新大陸に求めようとしていた人たち(在米民権家)が創刊したものがあるようです。

 アメリカでもその周囲に支持する留学生たちが集まり、翌年1月には正式に在米日本人愛国同盟会が結成され、色々刊行されているようです。

 アンナーバーに集まった人びとは、当初からの『新日本』の賛同者、後援者と目されるようです。熊楠も途中からの定期購読者であったようです。

 国権意識が強く、日本国内や留学生内に横行している欧化主義などに反対しているようです。

 1889年2月1日それを踏まえた『大日本』が発行され、それに熊楠も参加しています。アンナーバーの日本人留学生社会を牛耳ろうとしていた一派を糾弾します。

 更に1890年9月4日は熊楠主幹で『珍事評論』を作っています。自分をルソーに例えたりしています。※9

■③南方熊楠とスペンサー■

 スペンサーが鉄道技師から一念発起して学者になったスペンサーが、生涯、学位と関わらずに自己の力で学問活動をおこなっていたことに対する敬慕の念をもっていたことが1893年11月の土宜法竜との書簡で語られているようです。ちょうとアメリカからイギリスに向かう時期になります。

 またイギリス時代の1898年5月16日に大英博物館員リード(Charles Hercules Read 1857-1929)から民俗学者ゴンム(George Laurence Gomne1853-1916)への紹介状ではハーバート・スペンサーの生徒であり研究者(Student of Herbaet Spencer and his studies)と言われているようです。※8

 アメリカ時代から英国時代にかけての熊楠にとって、スペンサーは、自分が目指す学問のモデルであり、また乗り越えるべき対象であったと言っても過言ではないようです。※8

1888年1月24日アナーバーで『動物崇拝起源』(1870年)を購入。1885年刊行の『フンボルト叢書』「三つの試論」に収録されているもののようです。

 「未開人」savageあるいは「文明化されていない種族」uncivilised vacesの間に見られるトーテミズムに関して分析し、「ある部族が崇拝の対象物の子孫である」という「奇妙な信仰」がどのようにして生じたのかを推測しようとしているもののようです。

熊楠は、みすからの父祖が代々伝えてきた習俗(藤白王子神社の「楠」「藤」「熊」)を、スペンサーという近代的な学問の眼を通してみる二重性を、必然的に背負わざるを得なかったようです。※8

アメリカ時代に1888年4月1~16日にかけて「サイエンティフィック・メモワール」The Science Memoirs誌の抜書を行っていますが、これらの記事は1885~6年に書けて『PSM』(月刊ポピュラーサイエンス)誌に掲載された論文の転載が多いようです。

1888年8月8日にスペンサーの『社会学研究』(1873)を購入し、1890年6月5日に読んだようです。※8

そこでは社会学の妨げとなる状況に関して説明があり、その中で「愛国主義による偏見」というものがあり、愛国主義が社会現象を科学的に扱うために必要な公平さを失わせると論じられているようです。奴隷貿易、原住民への虐殺などへの公平性などがそれに関係するようです。

また「客観的な難しさObjective difficalties」とは事実をひどく曲解することにより、観察と推測を無意識のうちに混同してしまうことのとも述べられているようです。※8

1888年11月26日、アナーバーにてスペンサーの『第一原理』を購入したようです。

第10章「運動の律動性The Rhythm of Motion」軌道を回る惑星の運動やエーテル粒子の波動であれ、演説の抑揚や物価の高下であれ」運動の律動性がみられるとスペンサーは要約するようです。

熊楠は「小生はかくのごとき大原則を事の中より見出したきなり」と言っているようです。

スペンサーは人間の精神活動にまでこの波動の律動性を見ようとしているようです。※8

1889年8月17日の『珍事評論』第一号では、「人が自らをスタンダードとして万事万界を計り量ることの非は、ケプラール、コペルニクスが天文上の発見より、近来スペンセルに至て大に世に開明せられたりといふべし」と文化相対主義を評価しているようです。※8この『珍事評論』では熊楠は自身をルソーと例えています。

1890年5月スペンサーの『社会学原理』(1883年~1896年断続的に出版)をアメリカからロンドンへ滞在する中購入したようです。※8

 『社会学原理』第1巻は全体として宗教・人類学的な観点から未開社会における信仰の発生について説いているようです。※8

 「スペンセルは、政治するものを始め人間の人間として処世するには社会の学が一番必要ぢやといへり」と土宜宛の書簡で言っているようです。※8

1892年9月に渡英しています。

 1892年8月ハーバート・スペンサーが金子堅太郎に日本にこれまで社会学の歴史がなかったのはたいへん残念なことだと述べた新聞記事に大きな刺激を受けたようです。※8

 熊楠は「日本における記述社会学descriptive sociologyの完成に向けての道程を歩んでいこうと考えた」として、そのため「比較の対象として、いくつかの別の民族について知識を得ることが不可欠だと思った」ようです。

そして人類学や民族誌に関する情報収集の一つのモデルが、スペンサーの記述社会学シリーズであったようです。※8

 ただし、1892年8月にジュネーブ行きの際、途中でイギリスにより金子堅太郎はスペンサーと手紙のやり取りをしていますが実際は会っていないようです。そのためおそらく1890年3月2日に金子がスペンサーと会った時の話を一緒に載せたのだと思います。

1894年『ネイチャー』での熊楠の2つの英文論考もこの『社会学原理』第一巻を参照しているようです。※8

【ラフガディオ・ハーンとスペンサー】

■➀ハーンとスペンサー■

 1882年7月~11月にスペンサーはアメリカを訪れて各地で熱狂的な歓迎を受けていたようです。

 『総合哲学体系』シリーズ(1862~1896)はアメリカのコーマンス(Edward Living Youmans)らの援助によって刊行が可能になったのであり、読者はイギリスよりもアメリカに多く、1870~1880年代にはアメリカ全土に空前のスペンサー・ブームが起こったようです。※6

 1884年に高峰譲吉がニューオーリンズ万博に派遣されたときに、日本のコーナーにハーンが通い詰め、日本の分化に魅せられたことが切っ掛けとなって、後年彼が来日したようです。

 1885年、ニューオーリンスに赴任中に海軍大尉クロスビー(Lieutenant Oscar Crosby)の奨によりスペンサーの著述を精読し、特に『第一原理』に全面的に傾倒するようです。

 18886年4月、スペンサーを読んだ感想を手紙で「he has filled with the vague but omnipoten consolation of the Great Doubt(彼は曖昧で満ちているが大きな疑念の全能的慰めとなる)」と書く。当時彼は、ニュー・オーリンズで新聞記者をしながら、中国会談やクレオールの伝説の研究に没頭していたようです。

 

 1890年4月に来日し、島根県尋常中学校と師範学校の教壇に立つようです。※6

■②第一原理に基づく不可知論■

 1891年5月30日『ジャパン・ウィークリ・メール』ハワード教授(Professor B Howrd)の帝大生向けの講演「キリスト;科学的メゾットによる審議(The Christ;Judged by Scientific Method)」(本郷教会)の記事に対してハーンは議論しています。※6

 松江に定住してから1年余りのことであり、「unfamiliar Japan」の宗教文化の研究に没頭していた時であったようです。

 ハワード教授はスペンサーは『教育論』において、ハックスリー教授の連続講演での言葉を引用して「真の科学と真の宗教は双生の姉妹で、引き離せば確実に両方とも死にます。科学の成功はその宗教性に正確に比例し、宗教の繁栄は、その基盤の科学的な深さと堅固さに正確に比例します。哲学者の偉大な業績は知性の成果ではありません。むしろ、勝れて宗教的な精神的態度によって知性が導かれた成果であります。真理は、哲学者の論理の鋭さに応じたのではなく、むしろ、その忍耐力、愛、誠意、自制に応じたのです」※1

 この言葉を引用してキリスト教の科学性を証明しようとしました。

 この時点ではハーンは『教育論』を持っていなかったので『第一原理』から引用して返答します。

●信仰のあらゆる対立の中で、最も古く、最も深く、最も重要なものは、宗教と科学の間の対立です。(Of all antagonisms of belief, the oldest, the most profound and the most important is that between religion and science.)

●宗教は科学によって、その教義(自分たちが立証させることができなかった仮定された認識)を次々とあきらめざるを得なかった。(Religion has compelled by science to give up one after another of its dogmas- of those assumed cognitions which it could not subsatantiate.)

●万物が存在するものを不可知なものとみなすのは、私たちの最高知恵と最高の義務に似ています。(It is alike our highest widom and our highest duty to regard that through which all things exist as the unknowable.)

●自己存在型宇宙を構想できず、しがって創造主を宇宙の源として想定する人々は、自己存在型創造主を構想できるのが当たり前だと考えています。(Those who cannot conceive a self-existent universe, and who therefore assume a creator as the source of the universe take for granted that they can conceive a self-existent creator.)

●しかし、彼等は自分自身を欺く、自己存在は厳密には考えられません。無神論的仮説が自己存在という不可能な考えを含むので支持できないことに同意する人は誰でも、有神論的仮説が支持できない考えであることを認めなければなりません。(But they delude themselves self-existence is rigorously inconceivable. Whoever agrees that the atheistic hypothesis is untenable because it involves the impossible idea of self-existence, must perforce admit that the theistic hypothesis is untenable idea.)

 、、、とどれも第一部「不可知なるもの」(Part 1, The Unknowable)より引用しています。

●人類の普遍的な感情としての宗教は、確かにスペンサー氏によって科学との相関関係として語られてきました。それは単に、科学も宗教も、宗教が何の目的もなく百万人の名で呼ぶ、理解できない究極の存在を認識したからです。しかし、宗教について語るときでさえ、世界で偉大な哲学者は、普遍的な宗教について、人間の意識の歴史の段階としてのみ語っているのであり、いかなるささいな信条や宗派のいわゆる宗教ではなく、とりわけ「キリスト教」と呼ばれるものでもないということが、非常に厳密に観察されています。(Religion as a universal sentiment among mankind has certainly been spoken of by Mr.Spencer as a correlative to Science- and why? Simply because both Science and Religion have recognized the existence of that incomprehensible ultimate, which Religion calls by a million names to no purpose. But, be it very strictly observed that even in speaking of Religion, the world’s greatest philosopher speaks of universal religion only, as a phase in – the history of human consciousness, – not the so-called religion of any petty creed or sect, and least of all, the thing called “Bibe Christianity”.)

 と語り、ハーンの真意としては、スペンサーが科学と両立し得ると主張した宗教がキリスト教ではなかったことを述べています。

 

 また同じく投稿に参加したティングという人も『教育論』におけるスペンサーのハックスリーの引用は、聴衆の心から宗教を論議する価値のない問題だと考えやすい偏見を取り除くため、講演の序説として使ったと述べてます。

■③ティングのスペンサーへの疑念■

 ただしティングは以下のようなスペンサーに対する矛盾を表明しています。

➀スペンサーは、すべての現象の背後にある力を不可知なるもの(the Unknowable)と名付けて、宗教と科学との唯一可能な和解にはこの不可知なるものを共通に認識することにあると主張した。

②スペンサーは、絶対に不可知なるものを証明するに当たってマンスルの議論を採用した。マンスルは、「A cause cannot, as such, be absolute; the absolute cannot, as such, exists only in relation to its effect; the effect is an effect of the cause.(原因は、そのようにして絶対的であることはできない。絶対は、そのようにして、その結果に関連してのみ存在する事はできない。結果は原因の結果です。)」に求めるスペンサーの立場と矛盾する(『第一原理』13)。それにもかかわらずスペンサーは、あらゆる現象に原因として現れる力をUltimate Causeと名付ける(『第一原理』31.32)。

③スペンサーは、万物の起源説として自己存在(self-existent)、自己創造(self-created)

、外的作用による創造(created by an external agency)の3説を挙げて、すべてを否定する。しかし、彼が信じるthe Unknowable Power without beginning or end in time)も同様の反論を免れない。

④スペンサーは、the Unknowableに神のみならず、時空と空間、運動、力、意識の連続など多くのものを含める。

⑤スペンサーは「知識の相対性」すなわちわれわれは物自体のみならず、われわれ自身の定義状態も知ることはできないという理論を持っている。

、、、と述べています。

それに対してハーンは1891年7月18日『ジャパン・ウィークリー・メール』にて返答しています。

 万物の本体を不可知なものとすると共に、その発現としての諸現象を説明する普遍的な原理を追求したスペンサーの総合哲学の性格の適確な理解に基づいて、「すべてのことの究極な性質が不可知であるからといって、われわれが現象について全く認識し得ないということにはならない」と。

 スペンサーは、万物の本質の不可知性についてはマンスル(Henry Longueville Mansel カント哲学の影響を受けた神学)説と同一であったが、マンスルの人格神と啓示への信仰は全面的に否定した。万物の不可知の神秘性を認めること独断的な神学に勝る「真の宗教」であると主張したようです。

■④ハーンと『教育論』■

 ハーンは1891年7月21日に『教育論』を入手しているようです。

 そして以下の引用によってスペンサーの矛盾をといています。

●「誠実な科学者[単なる距離の計算、化合物の分析、種の分類に携わる人のことではなく、低次の真理を求め、究極的にには最高の真理を求める人を意味する]、すなわち真の科学者のみが「自然」「生命」「思考」として現れる宇宙力は人間の知識、人間の思考の彼岸にあることを正しく知り得る。」

●「真の科学が本して鵜的に宗教的である理由は以上に尽きない。万物に見られる作用の斉一に対する深い尊敬と暗黙の信頼を生み出すという理由によっても、科学は宗教的である。科学者は、経験の築盛に助けられて、現象の不変的関係、不動の因果関係、結果の善悪の必然性を完全に信ずるようになる。人間が自らの不従順を忘れて漠然と望み、漠然と嫌う伝統的信仰の賞罰の代わりに、科学者は、神により定められた事物の構造に内在する賞罰、不従順が否応なく生む悪い結果を知る。人間の従うべき法則を冷酷なもの、しかし同時に慈悲深いものとして知る。こうして科学者は、事物の永遠の原理、それに従う必要を説き、自らの本質的宗教性を証明するのである。」

●「おびただしい生贄を捧げ、邪悪な神々を宥めていたことであろう。しかしながら、この科学—事物に関する恥ずべき思考を排し、創造の偉大を洞察する力を与えてくれたこの科学を、神学は非難し、聖職者は嫌うのである。」

その後、スペンサー氏は『教育論』で『第一原理』の主張を再説して、神学を信じないことが宗教的であり、神学は科学の敵であると主張したようです。

またスペンサーは、『第一原理』第一部において、科学と宗教との究極的な和解を主張したが、「不可知なるもの」(the Unknowable)に対する畏敬としてのすべての宗教は何等かの真理を含んでいるとして、キリスト教を唯一の宗教とは考えていなかったし、万物の本質を不可知のものと見做しながら人格神と啓示に対する信仰を擁護したマンスルの哲学を否定し、科学の進歩は宗教的独断論を打破し、宗教の純化を助けると主張したようです。

スペンサーが企図した科学と宗教の和解は、不可知な本質の現象を方法論的に探究する科学は不可知な本質に対する畏敬の表現である宗教と矛盾しないという理論に立脚したものと説明したようです。

スペンサーは、さまざまの形態の宗教を基本的に「不可知なるもの」への畏敬の表現として相対化し、キリスト教を唯一絶対的な信仰とは考えなかったようです。

各信条が心理のこの神髄(不可知論)を体現している具体的な諸要素は、絶対的な基準で測られる時には間違っているとしても、相対的な基準によって測られる時には正しいようです。

ハーンは、キリスト教に対して終始否定的な態度を取り続けたが、スペンサーの不可知論に立脚する宗教の独特の理解に全面的に共鳴したようです。

ハワードの講演に端を発した論争に参加した彼の立場は、彼のスペンサーへの傾倒を明らかに示したものとして注目に価するようです。※22

 彼がスペンサーから得た教訓は、科学がいかに発達しても「不可知なるもの」は依然として神秘であり、各国、各時代の宗教的信仰は科学の入り込む余地のない領域であることであったようです。彼はキリスト教に対する懐疑が宗教の否定ではないことをスペンサーから学び、自己の本来の関心が非西欧的世界の「不可知なるもの」への畏敬の表現としての宗教の研究であったことを自覚したのではないかと推論できるようです。※22

※1…『世界の名著36 コント・スペンサー』1970.20中央公論

※2…『大東亜論』2014.1.13小林よしのり、小学館

※3…『ハーバート・スペンサーの感情論』本間栄男、桃山学院大学社会学論集第48巻第2号より

※4…ウィキペディア「自由論(ミル)」

※5…『フェノロサ』保阪清1989.1.10河出書房

※6…『ラフカディオ・ハーンとハーバート・スペンサー』山下重一

※7…英語版ウィキペディア「Charles Eliot Norton」

※8…『南方熊楠 複眼の学問構想』松居竜五2016.12.30慶應義塾出版

※9…『南方熊楠を知る事典』1993.4.20松居竜五ら、講談社

※10…『外山正一先生小伝』1987.9.15三上参次大空社

※11…『加藤弘之』田畑忍1959.7.25吉川弘文館

※12…『フェノロサと明治文化』栗原信一1968六芸書房

※13…『金子賢太郎』松村正義2014.1.10ミネルヴァ書房

※14…『フェノロサ』山口静一1982.4.30三省堂

※15…『フェノロサと魔女の町』久我なつみ199.4.5河出書房

※16…『H.スペンサーの婦人論に関する覚え書』山室周平

※17…『板垣退助』中元崇智2020.11.25中央公論

※18…『森有礼』犬塚孝明1986.7.1吉川弘文館

※19…『福澤諭吉とH.スペンサー『第一原理』』安西敏三1994慶応義塾大学法学研究

※20…『福澤諭吉と西欧思想』安西敏三1997慶応義塾大

※21…『心理学史への招待』大山正ら1994.1.28サイエンス社

※22…『ハーバート・スペンサーの感情論』本間栄男

※23…英語版ウィキペディア「Edward Livingston Youmans」

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