目次 |
1話【森有礼の渡米と明六社創設】 2話【明六社時代の福澤諭吉とスペンサー】 3話【鹿鳴館時代の森有礼とスペンサーの忠告】 4話【板垣退助と『社会平権論』】 5話【森有礼、英国での斡旋と日本国憲法発布の事件】 6話【金子堅太郎とスペンサー】 |
1話【森有礼の渡米と明六社創設】
明治6年(1873年)に国民を啓蒙すべく、森有礼は「明六社」を創設しました。それは森有礼がアメリカに小弁務使として米国の有識者に教育に関して質問し考え、更には帰国する前にイギリスに行きハーバート・スペンサーと初めて対面し忠告を得た後での事でした。
■➀米国有識者への教育に関する質問■
1870年、森有礼は小弁務使として外山正一らをつれて渡米しています。
1871年10月頃から、公務の傍ら、スペンサーやミルの学説を研究していたようです。
そしてその後、教育に関する個人的な質問状を米国有識者15人宛に送っていて、この質問状の質問から、➀人間教育の三要素(Intelletually,Morally and Physically)に基づいて国民が涵養されてはじめて国家は文明の域に進む、②精神的効果よりも、むしろ商業、農業、工業、法律、政治といった形而下的なものに対して、教育が如何に作用するか、など森の関心が読み取れるようです。
この➀②両方ともハーバード=スペンサーの理論的影響は否めないあようです。1870~1880年代はスペンサーの出版がアメリカ人の援助で実現した関係で、アメリカではかなりのスペンサーのブームがあったのが影響していると思います。
1872年1月15日には岩倉使節団をワシントンで出迎えたようです。そのとき、森有礼は岩倉使節団からの信用が薄い事を感じたようです。1872年10月には弁務使解任の督促を出します。そして出版業に取り組み始めます。
またワシントンにて『日本における宗教の自由』を出版し、宗教的信仰は人類に進歩と幸福をもたらす基本的かつ本質的な要素であり、国家を文明の域に進めるためにも必要であると説いているようです。
1873年1月1日、1871年末に送った質問状をまとめたものを中心に構成した『日本における教育』の序文を書いています。
本文はハーバード大学学長チャールズ・エリオット(ちなみにフェノロサはこのころハーバード大学にいて、チャールズ・エリオットのもと就学している)など有識者の回答集が掲載されているようです。
一方序文で森有礼は、米国民に日本の歴史(神の時代、王政の時代、覇政の時代、王政維新の時代の4期で区分している)を紹介し、日本国民にも歴史の進歩の観念を教える目的で書かれているようです。
歴史は進歩発展するものごとの科学的認識(おそらく唯物的認識)に基づき、森は、人間の知識と能力とが歴史の重要な変革要因として作動している点を、この序文で主張したかったようです。
また「日本語廃止論」(日本語はa weak and uncertain medium of communication(弱く不確かなコミュニケーションの中間媒体)とも)を唱えていて、すべての面で国民が根底から作り変えられてはじめて、変革は達成され、国家は文明の域に進むものと考えられていたようです。※18
■②ハーバート・スペンサーとの初対面■
そして1873年4月日本へ帰国の際、岩倉使節団のその後と影響を受けたスペンサーに直接会って「日本の諸制度の再組織」について、その意見を聞きたいためヨーロッパによって帰国する事を決めます。
1873年(明治6年)4月、ロンドン中心部ポール・モールにあるスペンサーがよく利用するアシアーム・クラブAthenaeum clubにてスペンサーと、森有礼は会っているようです。
「彼が来て、日本の諸制度の改造に関する私の意見を求めた。私は彼に保守的な勧告を与えて、結局、今まで日本人が有していたものから著しく進んでいないような形態に帰着すべきこと、それから大きくそれるような試みを行うべきでないことを説いた」とあるようです。※1他の訳だと「私は彼に保守的な忠告(Conservative advice)を与え、日本人は結局は、彼らの進歩に余り先んじない形態に戻るであろうし、それから大幅にそれるような試みをすべきではないと勧告した」※18ともあります。
それから森有礼とスペンサーの親交がはじまり、森有礼暗殺の頃まで長く親交があるようです。そして森有礼はフランスで木戸孝允と一緒に、岩倉使節団より一足先に帰国したようです。
スペンサーがベンサムを初めとする前代の人々から区別されるのも、日本の自由民権運動における自分の役割を迷惑と感じたと推測されるのも、彼に対する明治政府の信頼が渝らなかったのも、すべて漸進主義のゆえであったようです。
日本の国内問題については、彼は今まで専制政治に慣れて来た国民に急に政治的権利を与えることの危険を指摘し、国際問題については、孤立を勧めはしなかったものの、諸外国の干渉を排し、中国の運命に陥らないようにと忠告していたようです。彼にとって、日本国民は、彼の著作に説かれているような、また、自由民権運動によって主張されるような、諸権利の主体としての自由な個人ではなかったといえるようです。※1
■③明六社■
1873年、アメリカから帰朝した森有礼の首唱によって成立したのが「明六社」のようです。これは西郷が下野したり、キリスト教が解禁した年であるのは偶然でなく、自由民権的思想やキリスト教的思想にどくされないため政府が作用した側面もあるようです。※5
単なる西洋文明の模倣ではなく、真に日本を文明国に導くためには、国民の蒙をたえず啓きながら、新しい時代に対応した科学的合理的な精神を涵養して行く必要があるという想いから作ったようです。そして、福澤諭吉、加藤弘之(文部大函丞)が応じたようです。※18
2話【明六社時代の福澤諭吉とスペンサー】
明六社時代の福沢諭吉は1872年『学問のすすめ』(~1876年)と1875年『文明論之概略』と有名な著作を執筆しています。そのとき、スペンサーの著作を読んでいて、多少影響も受けているようです(J.S.ミルに次いで影響力があったとも。但し研究としてはあまりないようです)。今回は、スペンサーの著作を読んだ時期と簡単な関りを紹介します。
■➀福澤とスペンサーの影響■
1874年『学問のすすめ』第四編「学者の職分を論ず」は、スペンサーの平衡説(equlibration)を想起させる「力の平衡」論を唱え、説明手段として社会有機体説を援用しているようです。※19
更に、第4編が森からの教示をも考慮して執筆されたことから―従って森はこの論説に礼讃を惜しまなかったようです。※19
1875年(明治4年)の『文明論之概略』では、報国心を偏頗心としているところは愛国心を“Bias(偏見-福澤の『学者安心論』における訳では「心情の偏重」)という可能性もあるようです。これもスペンサー『社会学研究』を参考にしている可能性もなきにしもあらないようです。※19
1875年5月13日から読み始め1876年3月14日にはスペンサー『社会学研究』(The Study of Sociology1874)を読了し(第13章教課論(Discipline)は1875年10月18日以降に読んだようです)、途中J.S.ミルの『功利主義』Utilitarianism1874)を二週間余りで読み終え、1877年2月13日にはスペンサーの『第一原理』を読了しているようです。※19※20
明六社においてアメリカでスペンサーを学び、実際イギリスでスペンサーと会ってきた森有礼から聞いたり、同じく明六社のメンバーの加藤弘之は後にスペンサーと社会進化論をもとに『人権新説』を書くのでその関係もあり福澤は読もうと思ったのかもしれません。
■②『第一原理』の影響■
1877年に読了した『第一原理』おいては、第二部可知論では、まず福澤はスペンサーを通じてギリシア哲学を理解しています。
その後、スペンサーは哲学とは知識の集大成というだけでなく実証性があり更に体系性があるものである―様々な真理が離れ離れになって、独立しているものと見做される限り、それらが如何に一般的原則を持っているとしてもそれは哲学ではない。これらを「ある究極的真理の系」(corollaries of some ulitimate truth)として考察するとき、哲学の固存性と呼び得るようになる。哲学の真理は従って…科学の最高の一般原則を包括して統合するということである。科学の哲学は粗末な観察の隗集から始まって、次第により広い、また特殊の事態と、より離れた命題を確定して行き、普遍的命題に帰着する過程の最終段階の所産である。
、、、というようなところを、福澤がスペンサーの書を読み、その物理学的有機体説を認識し、学問には「縁」-福澤の第一部における書き込みの用語を引き合いにだすならば「事物ノリレーション」-という「関係」をしならんければならないとして、この「関係」に学問営為のアクセントをおきはじめていることと恐らく関係するようです。スペンサーの総合哲学にとって正に「関係」の認識は、その有機体説との関係においても不可分なのであるからのようです。
ここから福澤は一体化された知識としての、即ちスペンサーの言う哲学の意義について、哲学という名辞こそ使用しないが力説しているといってよいようです。即ち「学問の要は唯物事の互に関り合う縁を知るに在るのみ」(『福澤諭吉全集』第20巻、421頁)がそれのようです。
第二章哲学の基礎(The data of philosophy)においては、すべての思想は諸々の思想の全体系(a whole system of thoughts)であって、各々の相関関係を断つならば、その思想は消滅するというところを受けて、福澤は学問には「縁」が必要であり、それなくしてはいわゆる「論語読みの論語知らず」ならなぬ「飯を食う字引」と化すからであると述べているようです(『福澤諭吉全集』第4巻、421-422頁:因みに『学問のススメ』第二編では「縁」よりも「物事の道理」の認識を訴えているが、スペンサーを読むことによって、より具体的表現に変ったと思われるようです)。
スペンサー哲学の基本は自然哲学というよりも物理哲学(力学的原理を中心とするものではあるが)であるようです。
スペンサーの物理学的宇宙論が、我が国の当時の知的世界を支配していたであろう儒学、取り分け朱子学的宇宙論にも一致する側面があり、日本の社会科学の分野において流行したとも言われます。
福澤の『分権論』(1877年)のテーゼにもなったようです。※19
■③丸山の研究■
丸山真男『福澤諭吉選集』第4巻(岩波1952年)の解題では「スペンサーの社会進化論、-とくにスペンサーが『第一原理』で展開した、不整合・不明確な同質性(
incohererent and indefinite homogeneity)から、整合・精密な異質性(coherent and difinitie heterogeneity)への分化(differentiation)という根本原則に基づいて、政府と市民社会・およびその各々の内部における機能の分化と精密化を社会進化の基本方向とし、しかも政府から市民社会(産業社会)への価値の移動を説いた点は、彼が統治組織を本来デスポティックなものと考えたことと相俟って、色々な面で福澤の所論と実によく符合していることは注目に値する」と論じ、『実業論』1893年にその社会進化論の影響があることを指摘しているようです。また、「偏頗心という言葉を屢々用いているのはスペンサーの『社会研究』の第9章に”The baias of patriotism”とあるbiasから暗示を得たものではないかとも思われる」としているようです。但し、偏頗心はスペンサー読書以前から使用されているようです。※20
3話【鹿鳴館時代の森有礼とスペンサーの忠告】
森有礼は1879年駐英公使になった後、日本では積極的な欧化を採用する鹿鳴館時代の幕開きが行われます(鹿鳴館も建設が始まったのは1880年辺り)。そんな中、イギリスにおいて森有礼は自己研鑽もかねて、米国で圧倒的な支持を受けていて、日本でもフェノロサ・外山正一経由で普及しつつあるハーバート・スペンサーの元へ学びに行き、日本の今までの諸制度の連続性を破壊しないようにという忠告を受けます。
■➀英国大使時代の研鑽■
1879年10月森は駐英公使に内定になり、英国駐在を命じられたようです。
1881年、「明治14年の政変」が起こり「民選議院設立の建白書」が認められた政変の直後、列強の圧力に屈服して井上外務卿は共同商議を今後の先例としないことを条件に、東京での各国合同予備会議開催を承諾する旨の回答書を、欧州諸国に発したようです。そして第一回条約改正予備会議が1882年1月25日に開かれることになり、井上が、改正交渉をユリに運ぶため、欧州各国代表に日本を信用させる手段として、積極的な欧化政策を採用するに至った、いわゆる鹿鳴館時代の幕開きが行われたようです。※18
条約改正予備会議開催中、ロンドン滞在の回訓を受けた森は、わずかの閑暇を利用して自己研鑽に励むことになったようです。そのため、ハーバート=スペンサーを中心とするサロンの有力メンバーの一人として、アシニアーム・クラブでの討論にも積極的に参加したようです。
1881年5月19日アシニアーム・クラブにおけるスペンサー主催晩餐会に招かれているようです。1883年の4月9日にはアシニアーム・クラブにてアーネスト・サトウとスペンサーと共に会談をしているようです(このあと5月5日板垣退助とスペンサーの会談が行われたようです)。
■②スペンサーからの忠告■
近代天皇制国家の再編が進んでいる今、日本が国際社会で真の主権国家として認められるためには、制度や組織の改変もさることながら、それに相応しい国民を創出する必要があると森は常に考えたようです。したがって、明六社もつくり、商法講習所も建て、多くの啓蒙書を著し、国家に自発的に協力する近代的国民の養成に努力してきたようです。
しかし、私的な啓蒙事業だけで、彼らに合理的な自立精神を植えつけることは不可能であり、国家的教育の枠の中ではじめてそれは可能だと考えるようになったようです。ただし、その場合でも個人の主体性は充分に尊重し、国家が個人に不当な干渉を加えることは極力避けられねばならない、と研究すべき課題があったようです。本来的意味での国民国家を形成するためには、日本の伝統的歴史的状況の中で、いかにして個人と国家とを結びつけたらよいかということであると考えたようです。
その研究テーマの解決のために、スペンサーやアシニアーム・クラブでの討論が役に立ったようです。
当時、『社会学原理』第二巻5部(Principles of Sociology Vol.Ⅱ,pt. V,Political Institutions)を執筆中であったスペンサーは、日本の歴史と文化に非常な興味を抱き、その情報の多くを森から得ていたといわれるようです。スペンサーの著作のため、こうした日本に関する情報を提供した森が、同じ『社会学原理』の第一巻第二部を興味深く、かつ熱心に読んだであろうことは想像に難くないようです。その第二章(A Society is an Organism)にはスペンサーの社会有機体説が最も詳細に述べられていたからのようです。
社会有機体説とは、社会を生物有機体との類推によって解釈しようとする学説のことで、ダーウィンの生物進化論からも強い刺激をうけつつ、十九世紀後半における社会学の基礎的な理論として一世を風靡したようです。
森は、彼自身、スペンサーと同様、産業社会の発展には楽観的な期待を抱いていたし、自由な経済競争や宗教に対する国家的不干渉が文明の進歩を促すと考えていたようです。社会が個々人の幸福のために存在する事も認めていたようです。だが、文明的に「半開」の状態にあるわが国が、彼の理論そのままに適用されるとは考えなかったようです。スペンサーの言葉を借りれば、日本はいまだ高度の社会有機体ではなかったからのようです。そこで、森は、以前スペンサーが語った「保守的な忠告」を率直に受け入れ、それを制度改革上の基礎理論として授用することを思い立ったが如くのようです。※18
この時のスペンサーの「忠告」とは、次のような内容のもののようです。
「森氏に対する私の忠告は、新しい諸制度は連続性を破壊することを阻止するために、できるだけ現在の諸制度に接ぎ木(grafted)されなければならない―新しいものによって古いものを取り換える(replacing)のではなく、古い形態を次第に大きな程度まで修正しなければならないということでした」(1892年8月23日付、金子堅太郎宛スペンサー書簡。山下重一『スペンサーと日本近代』)
すなわち、スペンサーは、自己の理論に含まれる漸進主義の見地から、社会諸制度はそれぞれの進化の段階に適応したものでなければならず、急速な変化はできるだけ避けねばならないと森に説いたようです。※18
森が正しい意味での近代的国民の造出を目的として、新しい教育制度の創設に実際的関心を抱き、それが具体的な政策論として新たな展開を見せ始めたのは、この頃からのようです。※18
4話【板垣退助と『社会平権論』】
板垣退助はスペンサーの『社会平権論』Social Staticsを「民権の教科書」と称して、自由党内のメンバーに読むことを推奨したようです。
そして「板垣死すとも、自由は死せず」の由来となる事件が起こった後、板垣退助はヨーロッパの自由主義を実地で確認するためにイギリスなどに外遊し、スペンサーと対面します。
■➀『社会平権論』■
スペンサーのSocial Statics(一番直訳だと『社会静学』)は、1877年に『権利提綱』として尾崎行雄が抄訳を出しています。これは、「訳書というよりはむしろ尾崎の著書といった方が適当かも知れない」というもののようですが、土佐出身の植木枝盛に影響を与えています。
植木は終生横文字は読まなかったようで、この本を1879年(明治12年)に読んでいます。
早速「男女同権ニ就キテノ事」という一文をかき、「女権論者の大先達」といわれた彼の活動が、丁度この頃から始まったとみられているようです。このスペンサーからの翻訳を「最大限に駆使したのが植木枝盛であった」のみならず、当時の他の婦人解放者たちも、この本を「頻繁に利用した」ということであるようです。※16
また1881年に松島剛がスペンサーのSocial Statics を1884年まで分冊で、『社会平権論』として訳を出します。
こちらは「明治初期の三大訳業と称すべき不朽の名訳」のようです。原文の文体と内容を極めて正確に表現しているようです。
土佐の立志社のごときは電報で多数の注文を発し、板垣は、この本を「自由民権の教科書」として推奨したようです。※16
この訳は1881年からですから、国会開設の詔が出た後の自由民権運動に使われたのだと思います。おそらく、スペンサーの『社会静学』はイギリスなど高度化した文明社会においての自由の在り方を主眼においたのですが、この時点ではスペンサーは日本はまだ高度化していない社会の為この『社会静学』で述べている自由はまだ早すぎる、と考えていた部分はあまり意識されず、ダイレクトにこの著作の自由論を受け取ったのではないでしょうか。
フェノロサや外山などはスペンサーをよく理解しているため、『社会静学』に触れる前に、『社会学原理』を触れて社会は有機的に進化していくという考えを捉えてから『社会静学』に触れているような気がします。
おそらくそのため、後に板垣はスペンサーと実際会う頃にはヨーロッパ体験で気付き始め、それを率直にスペンサーに質問したのではないかと、あくまで独自解釈ですが推測します。
スペンサーの自由の特徴は、スペンサー以前の近代自然法の論者は、自由とか平等といった理念が、すべてに早期に実現したいという前提から出発して、その後におけるその喪失と、恢復とを論証しようとする傾向にあるようです。一方、スペンサーは原子状態を「平等な自由」の理念からもっとも遠い状態に見るところから出発して、その後におけるその実現ないし実現性を論証していた点に特徴があるようです。※16
■②スペンサーとの対面■
1883年、板垣退助は自由民権運動において政府の画策もありヨーロッパに外遊することになった際(建前としては自由主義を実地で確認が目的)、森有礼の斡旋(画策)で、板垣退助がスペンサーと会見した時、板垣が「白色人種の語る自由とは、実質としては有色人種を奴隷の如く使役した上に成り立っている自由であり、これは白人にとって都合の良い欺瞞に満ちた自由である」と発言したことに対して、スペンサーは「封建制をようやく脱した程度の当時の未だ憲法も有していない日本が、白人社会と肩を並べて語るには傲慢である」と論を退け、尚も反論しようとする板垣の発言を制し「NO、NO、NO…」と席を立ち喧嘩別れのようになる一幕があったようです(wikipedia「板垣退助」)。
一方、板垣自身はスペンサーとの談論中止はスペンサーの神経症を理由としていて、森有礼はその場にいたわけでなく通訳から話を聞いた上で報告しているので、どんな対面だったのかは解釈が分かれるようです。
その神経症に関しては、スペンサーは1855年から医者には診断しがたい永続的な痛みと具合の悪さが永続的に表れる不治の心気症にかかっていたという記述もあります(英語版ウィキペディア「ハーバート・スペンサー」)。
ただスペンサーは自身の邦訳書を送ってくれるよう板垣に頼むと、後日森に託して新著一巻を贈ったようです※18(ただこれも、板垣との親交は後になさそうなので、日本の政治に興味のあるスペンサーが現状を把握するためにもらったのかもしれません)。
板垣はスペンサーとの談話を通じて、社会改良のためには社会を知る必要があり、そのためには集会が重要であると認識したと述べているようです(『民権派とヨーロッパの邂逅』板垣退助著より、1886年の板垣の『宗教進化論序』にも書いてあるようです)。※17
帰国後、板垣は「フランスという国は一言でいるならば非常に野蛮な国である。表向きは自由や平等を標榜しながら、実際には世界中に殖民地を有し、有色人種を使役して平然とし、世界の貴族階級であるかのように振舞っている。「天は人の上に人を作らず」と唱える自由と平等は、白色人種にだけ都合の良い自由と平等であると言えまいか」という感想をもっているようです(wikipediaおよぼび恐らく1813.8.20『欧州観光の感想』板垣著を引用している)。
そして、条約改正、政体法律あるいは海軍拡張、陸軍義勇兵論を語ったようです。※17
■③激化事件■
板垣が半年余りの外遊を終えて帰国したときには、自由党内が分裂し、もはや急進派の暴走を抑える手立てがなくなっていたようです。
そのため、「板垣生きて自由(党)は死せり」と揶揄されるようにもなったようです。
この分裂の原因としては、板垣のヨーロッパ外遊の資金源が三井から出ていることを当時の二大政党の一つ改進党がすっぱ抜き、またその報復として自由党が改進党とその代表大隈重信が三菱の岩崎弥太郎と癒着していることを書きたてたりして泥仕合になったことが一つのようです。
こうして自由民権運動は、完全な行き詰まりを見せ、急進派による「激化事件」はさらに過激化していったようです。
その「激化事件」として代表的なのが1884年の「加波山事件」と「秩父事件」です。※2
この加波山事件の一味に加わった或るものは、スペンサーの『社会平権論』を読み、一味に投ずることを決意したようです。
この本には「国家ヲ無視スルノ権理」という一節もあるようで、恐らくその辺りが政府転覆の思想と結びついたのかと思います。※1
つまりこの頃は、スペンサーの哲学とは別に『社会静学』の本の主張を日本人的な観点で独自にそれぞれが解釈して、行動の根拠としていたのだと思います。
■④スペンサーのSocial Statics『社会静学』■
スペンサーの1850年のSocial Statics(『社会静学』)は、 この本を、コント(Comete,A)の「社会静学」(Statique sociale)や統計学(statistics)と区別する意味でDemostaticsという表題にしたかったが、出版社やその他の人々の反対で、やむなくSocial Staticsとしたが、自分はこの本を「社会的、政治的な道徳の体系」Asystem of Social and political moralityとして提起したと言っているようです。※16
この『社会平権論』はおそらく、大英帝国を中心とした白人社会での「自由」の在り方を論じたものだと思います。後には『社会静学』とも訳され、骨相学などの認知論などから社会を論じたもののようです。
この『社会平権論』が書かれたのは1851年ですが、これより3年前の1848年にスペンサーは経済誌『エコノミスト』誌の副編集長となり、そこの編集者であるジョン・チャップマンに知的なサロンを紹介され、J.S.ミルと知り合っています。J.S.ミルは経済学で有名ですが、認知論からの心の在り方などについても論じており、その視点から書かれた『論理学体系』をスペンサーはこの頃くらいから本格的に読んでいるようです(ホップスやロックの頃からの伝統としてイギリスは認知の経験主義をベースとして法律を論じる流れがあり、これに基づいて自由が論じられると推測)。※3
またこの後もJ.S.ミルとは度々このサロンを通じてか交友しています。
そして、スペンサーの『社会平権論』が書かれた8年後にJ.S.ミルが『自由論』を出版しているので、この本と時代背景や思想が重なる部分があると推測されます。
この『自由論』は特にイギリスの政治・社会制度の問題を自由の原理から指摘することを試みたようです。ミルによれば文明が発展するためには個性と多様性、そして天才が保障されなければならないと考えていたようです。※4
そして、スペンサーは、国は進化の自然プロセスに干渉すべきものではない、と考えたようです。彼は、国家的干渉を敵として、飽くまでも個人の自由を擁護したようです。そこに、彼の学説が同時代の日本の自由民権運動にとって一つの救済と見える理由があったようです。※1
5話【森有礼、英国での斡旋と日本国憲法発布の事件】
日本では1881年に「国会開設の詔」を受けて、板垣退助が率いる自由党、大隈重信が率いる改進党などの政党が次々と結成され、自由民権運動は頂点を迎えたように見え※2、1882年「板垣死すとも、自由は死せず!」の由来ともなる事件が起こり、藩閥政府は自由民権運動を徹底的に弾圧する方向に向かい始めます。東大では加藤弘之やフェノロサが学生に向けて自由民権運動に参加することを批判したりしています。
そんな中、板垣退助は1883年、ヨーロッパの自由主義を実地で確認するためにイギリスに訪れ、それを接待した森有礼が政府の洗脳工作を行おうとしたりしました。
またそんな森有礼も日本国憲法発布のときに悲惨な事件に遭遇します。
■➀板垣退助への斡旋■
1883年、板垣退助が自由民権運が政府の弾圧などを受けている中、ヨーロッパへ自由主義を実地で確認するためにイギリスにも来ることになりました。
この外遊は政府が板垣の自由民権運動に関する考えを改めるために、政府の井上馨が繋がりの深い三井から資金を出させて、後藤象二郎を通して板垣が外遊を了承する事を説得した※2もので、森有礼は伊藤博文から要請を受けてイギリスにおいて板垣を洗脳工作する使命を帯びていて、洗脳工作として親交があり尚且つ板垣が理想としているスペンサーと会う事の斡旋を行っています。
森自身は国民が政治に走ることを「軽薄浮躁」として批判していて、自由民権運動に対してきわめて冷淡な態度をとっていたようです。※18
1883年5月に森有礼の尽力で、アシニアーム・クラブでハーバート=スペンサーと板垣退助が会談します。森有礼は駐英公使になり、1881年から自己研鑽のためにアシニアーム・クラブに通いスペンサーから学びを受けていました。そのため、スペンサーと板垣の階段を斡旋する事は比較的容易だったのでしょう。但し、今回は森有礼は会談の席にはいなかったようです。
ただ、この会談は森有礼が思っているように板垣の考えを変えることができず、5月10日、西園寺は「森公使よりも説得有レ之候得共、馬耳東風のよし也」と岩倉に報告しているようです。※18
■②森有礼と日本国憲法■
森有礼は大日本帝国憲法の起草についても、スペンサーに意見を求めたようです。※1
ただ、起草については、森の死後の1892年に、金子堅太郎にスペンサーが返した手紙において「当時に日本大使森氏から日本国憲法の草案を示された際、私は同紙に極めて保守的な勧告を申し上げ、今日まで専制政治に慣れて来た日本人がにわかに立憲政治の能力を得るというのは不可能であると申したのであります。私の勧告を十分に考慮されなかったのではないかと私は惧れています。」※1
、、、とありますがから、日本国憲法の草案に関するアドバスは充分に反映していないかのようにスペンサーは感じたようです。
その後、1889年2月11日帝国憲法発布の記念すべき日、森有礼・文部大臣官邸を書生姿の男・西野文太郎が訪ね刺され、森有礼は翌日出血多量で亡くなってしまったようです。
その前年に新聞、「東京電報」が、「ある大臣」が伊勢神宮を訪れた際、御簾をステッキで上げて中を覗き、拝殿に土足で上がったと報じ、大問題になったようです。この報道は事実無根だったとも言われているが人々は「ある大臣」とは森だと信じて疑わなかったようです。
西野が持っていた斬奸状も伊勢神宮の不敬事件を厳しく断罪しており、それが動機とも考えられるようです。欧化主義に突き進む政府に対する怨嗟が動機のようです。※2
6話【金子堅太郎とスペンサー】
金子堅太郎は、森有礼が小弁務使としてワシントンで出迎えた岩倉遣欧使節団と共にアメリカに渡りました。そして、フェノロサがハーバート大学院を卒業した年に、ハーバート大学に入学しています。帰国後には、ルソーの天賦人権論に対抗するような欧米の理論を問われ、イギリスのボルグの著作を紹介し、加藤弘之などがスペンサーの理論を使って社会進化論による政府の正当化を行う道を作ります。
その後、イギリスにも渡りスペンサーと交流するのですが、その交流の知らせが南方熊楠に影響を与えています。
■➀ハーバード大学時代■
1871年岩倉遣欧使節団に参加し、その後アメリカに留まり1876年からハーバード大学ロースクール(法学部)に通い(フェノロサがハーバード大学院を卒業した年)、小村寿太郎と同宿し勉学に励んだようです。
1876年にはセオドア・ルーズベルトもハーバード大学に入学しているようですが、ルーズベルトは教養学部(College of Liberal Arts)に入学したため、面識を持つことはなかったようです。
2学年の小村寿太郎が金子に同居を持ち掛けたようです。他にもボストン地域の上流社会やハーバート大学の他学部の教授たちと積極的交流を行ったようです。その中には、ジョン・フィクスやフェノロサが来日推薦に一躍買ったチャールズ・エリオット・ノートンもいたようです。※12
丁度、1876年にフィラデルフィア万国博覧会Centennial Exposition,Expo1876が開催され、自由の女神の右腕一部が展示されたり、日本の有田焼が注目されているようです。更にベルが電話を出展しているのですが、電話実験成功直後に金子賢太郎が通話体験をしているようです。
ジョン・フィクス(ハーバード大学哲学教授)にも個人的に教示を受け、ハーバート・スペンサーについても学んでいるようです。※13
他にも1877年ハーバード大学の時事問題討論会において、アイリッシュ系学生が盛んに中国人を攻撃し、中国人を米国から追放すると主張したのに対して、「同じく東亜同種の人として憤慨に堪えざれば起立し支那人逐放法は米支条約違反なるのみならず、人道に背き米国建国の主義に反する」としてその理由を詳細に陳述したというようです。その後、1880年には中国人の米国移住が停止されています(wikipedia「金子賢太郎」)。
そして帰国後、1878年頃から先に来日していたハーバード大学卒のフェノロサと会い、同じハーバード大学卒であっため話が合ったのか、交友を深め黒田家の日本美術などを見せるきっかけを作りフェノロサの日本美術への道へ一躍買っています。
■②『政治論略』■
当時のルソー的な自由民権派に対する保守漸進の理論がないか元老院副議長の佐々木高行から質問があり、金子賢太郎はこれに応えてエドマンド・ボルク(Edmund Burke1729-1797)の名前を挙げ、その著作のうち『フランス革命の省察』『新ウィッグから旧ウィッグへの上訴』の2書を名著として紹介したようです。
それにより、2書を抄訳し、保守主義の政治思想をまとめた『政治論略』を刊行し、伊藤博文のもとで、内閣総理大臣秘書官として、大日本帝国憲法・皇室典範、諸法典の起草にあたったようです。(wikipedia「金子賢太郎」より)
ボルグとはホイッグ党の幹部でした。但し、ホイッグ内の「旧ホイッグ」でフォックスの「新ホイッグ」に反対していたようです。
アメリカ独立革命運動を支持した一方、その後のフランス革命には反対していたようです。
1790年小ピット(後にナポレオンと戦う、トラファルガー海戦など)やフォックスがフランス革命を賞賛したことによって、初めて公に革命避難をしたようです。
1792年ボルクは、小ピットが革命後のフランスによる領土的侵略を警戒したのに対し、ボルクは英国の法と自由の崩壊ひいてはヨーロッパ文明の破壊という、フランス革命によるイデオロギー的侵略に重点を変更するよう警鐘を鳴らしたようです。(英語版Wikipedia「Edmund Burke」参照)。
そんなボルクを、金子賢太郎は1881年『フランス革命の省察(1790年)』『新ウィッグから旧ウィッグへ(1791年)』を妙訳し『政治論略』として元老院から刊行したようです。自由党のルソー主義への批判が目的であったようです。
この流れがやがて加藤弘之のスペンサーの社会進化論の弱肉強食を強調した『人権新説』に繋がっていくようです。
■③スペンサーとの交流と南方熊楠への影響■
1889~1890年には欧米諸国視察をしているようです。
1890年3月2日に金子はスペンサーのロンドン・リージェント・パークの寓居を訪ねたようです。今回の日本の憲法起草の際には「貴説の進化論の原則により、我が日本国の歴史と現今人民の進化の程度とを根本とし、傍ら外国の法律等を参考として」「現今の国情および民度に適当なる法律を作った」と挨拶したところ、スペンサーは「しからば即ち、この憲法は予のもっとも賛成するところなり」と答えて、両者間の話は「日本歴史編集の事に及」
ぶのであったようです。そしてスペンサーは「日本の歴史を編集してこれを欧文に反訳して出版することは日本今日の気運と相離るべからざるもの」であると、頗る熱心に勧められたというようです。※13
1892年、金子堅太郎は日本人として初の国際公法学会の会員に推挙され学会(スイス)出席のため三度目の米国経由の海外旅行に出かけました。
その際、イギリスによりました。
国際公法会に参列するということは、「日本国の条約改正ニ最モ重大ナル関係ヲ有スル」ので、まず米国に渡って、英国に赴いて同国の政治家や学士らの所説を探った後、「深思熟考シテ公法会ニ於テ為スベキ演説ノ方針及ビ順序等ヲ定メント予期シタ」からであったようです。
その際、おそらく日本で名が知れていたため、ハーバート・スペンサーからも意見を聞きたいと思ったのでしょうか、ハーバート・スペンサーとは、ロンドンから遠隔地の別荘にいるとの理由で直接の対面は出来なかったが、金子は書簡で「今回渡欧ノ目的ヲ通報」したところ、同氏から「其ノ意見ヲ郵送」してきたようです。※13
次のように書き始められているようです。
「当時の日本大使森氏から日本国憲法の草案を示された際、私は同氏に極めて保守的な勧告を申し上げ、今日まで専制政治に慣れて来た日本人が俄に立憲政治の能力を得るというのは不可能であると申したのであります。私の勧告を十分に考慮されなかったのではないかと私は惧れています。日本の国情に関する最近の報道によって推測する限り、貴国はあまり大きな自由を一度に与えたことに由来する禍害に直面しているように思われるます。」※1
と述べ、「森氏に対する私の忠告は、新しい諸制度は連続性を破壊することを阻止するために、できるだけ現在の諸制度に接ぎ木(grafted)されなければならない―新しいものによって古いものを取り換える(replacing)のではなく、古い形態を次第に大きな程度まで修正しなければならないということでした」(1892年8月23日付、金子堅太郎宛スペンサー書簡。山下重一『スペンサーと日本近代』)
、、、と1889年に日本国憲法の発布と同時に亡くなってしまった森有礼とスペンサーは何度も交友を重ねていたため、おそらく金子と話す際も森の実情を伝えることから始めたのだと思います。
なお、金子はスペンサーとの書簡でのやり取りによって、金子は、同氏が欧米を強者とし日本を弱者とする進化論の立場から日本の求める条約改正には反対であることを理解した。そこで彼は、同氏に対し一書を認めて、その厚意を謝するとともに、同氏の意見は、現行の条約を改正して治外法権を撤去し、全国を開放して外人の居住と外資の放下を許可するという「明治維新ノ原則」に悖ることになるとし、しかも日本人種は、古来から外国の文明に接触した時には、必ずこれをよく咀嚼して「適応利用」するという特性を有しているので、将来的にはそれほど憂えるに足りないと返書したようです。※13
1890年代のスペンサーは多くの親しい友が亡くなったり、政治制度の中枢に疑い深くなっているして、彼が築いてきた人間関係から見捨てられるカタチになり始めていた時代でした。そんなことももあり彼の政治に対する見通しは日に日に保守的になっていたようです。(英語版ウィキペディア「ハーバート・スペンサー」)
そのため、金子が訪れたときにはかつて森がスペンサーと交友していたロンドンのクラブには居らずロンドンを離れ、もともと日本に対しては特に漸進主義的見解だったスペンサーがより保守的な勧告を金子にしたのだと思います。
因みに、このスペンサーと金子が手紙のやり取りをしたというのはおそらくイギリスの新聞に載り、アメリカからイギリスに間もなく行こうとしていた南方熊楠が読み、スペンサーが日本では「社会学」と呼べるものがないのが残念といっていた発言に感化され、南方熊楠は自分自身を「スペンサーの生徒および研究者」と名乗り、大英博物館の図書館では多くの旅行記などを読み日本に社会学を作ろうと考えたとも言っているようです。※8
※1…『世界の名著36 コント・スペンサー』1970.20中央公論
※2…『大東亜論』2014.1.13小林よしのり、小学館
※3…『ハーバート・スペンサーの感情論』本間栄男、桃山学院大学社会学論集第48巻第2号より
※4…ウィキペディア「自由論(ミル)」
※5…『フェノロサ』保阪清1989.1.10河出書房
※6…『ラフカディオ・ハーンとハーバート・スペンサー』山下重一
※7…英語版ウィキペディア「Charles Eliot Norton」
※8…『南方熊楠 複眼の学問構想』松居竜五2016.12.30慶應義塾出版
※9…『南方熊楠を知る事典』1993.4.20松居竜五ら、講談社
※10…『外山正一先生小伝』1987.9.15三上参次大空社
※11…『加藤弘之』田畑忍1959.7.25吉川弘文館
※12…『フェノロサと明治文化』栗原信一1968六芸書房
※13…『金子賢太郎』松村正義2014.1.10ミネルヴァ書房
※14…『フェノロサ』山口静一1982.4.30三省堂
※15…『フェノロサと魔女の町』久我なつみ199.4.5河出書房
※16…『H.スペンサーの婦人論に関する覚え書』山室周平
※17…『板垣退助』中元崇智2020.11.25中央公論
※18…『森有礼』犬塚孝明1986.7.1吉川弘文館
※19…『福澤諭吉とH.スペンサー『第一原理』』安西敬三1994慶応義塾大学法学研究
※20…『福澤諭吉と西欧思想』安西敏三1997慶応義塾大学
※21…『心理学史への招待』大山正ら1994.1.28サイエンス社
※22…『ハーバート・スペンサーの感情論』本間栄男