アーネスト・フェノロサは、1878年に日本で大塚貝塚を発見したエドワード・モースからの依頼で、東京大学で哲学・政治学の講義をするために来日しました。そのため、来日直後はフェノロサが大学時代影響を受けたハーバード・スペンサーの学説を演説で語ることで多くの日本人に反響がありました。
そんなフェノロサが大学時代はどのようなことを学び、日本での演説はどのようになし、そしてどのように日本美術の道に行きつくことになったのか、6つの話からアプローチしていこうと思います。
目次 |
1話【フェノロサのハーバード大学時代】 2話【フェノロサの神学校と美術学校時代】 3話【エドワード・モースと進化論】 4話【フェノロサと宗教の進化論】 5話【フェノロサと自由民権運動】 6話【フェノロサ日本美術の道へ】 |
1話【フェノロサのハーバード大学時代】
モースの招聘により1878年に来日し、東京大学の哲学教授として講義をし、次第に日本美術の評価者として名前を挙げていくアーネスト・フェノロサですが、哲学教授として講義するする程の知識をどのようにアメリカで身に付けたのか、という方向性で来日前のハーバード大学時代を辿ります。
■➀ハーバート大学時代■
1870年、フェノロサはハーバート大学に入学し、哲学を専攻します。
前年1869年に総長チャールズ・エリオットがハーバード大学総長となっているようです。
チャールズ・ウィリアム・エリオット(Charles William Eliot1834-1926)は化学者で、産業時代に即応する教育の「近代化」が推し進められ、大学は古典的教養と思索の立場から専門職業人養成の場へと変貌しつつあったようです。
またスペンサー「総合哲学」についても、科学はその「総合哲学」により明快な意義づけと解決が与えられるかに思われたようです。
他にもエマソンに著しく影響された汎神論的な詩を校内誌に発表されていたようです。※14
強いものが弱いものを淘汰して発展するというダーウィンの進化論を社会学的に敷衍したスペンサーの哲学は、フェノロサにも強い衝撃を与えたようです。※5
フェノロサはハーバート・スペンサー・クラブの設立に尽力したほどのようです。
スペンサーは1857年「総合哲学」という全ての学問を一つの哲学によって体系化しようという構想を立て、1862年から『総合哲学体系』という著作シリーズを1896年まで出すのですが、その出版がアメリカのコーマンス(Edward Livingston Youmans1821-1887)らの援助によって刊行が可能になったのであり、読者はイギリスよりもアメリカに多く、1870-80年代にはアメリカ全土に空前のスペンサー・ブームが起こっていたようです(コーマンスは後に1872年月刊ポピュラーサイエンス誌(『PSM』)などを刊行)。※6そのような流れもあり、スペンサーを調べることは時流であり、またスペンサークラブを創設する事が時流を捉えた取り組みであったのではないでしょうか。
他にも1864年に講師となったフィクスの進化論哲学の名講演にフェノロサも列したと思われるようです。このフィクスは、金子賢太郎が1876年にハーバード大学に入学した時も深く関りを持ちます。
他にもかつてはモースが助手をしていた教授アガシーの影響を受けていた可能性があるようです(社交界で人気だったようです)。※12アガシーは進化論に否定的でしたが、進化論を深く意識はしていたので、そこに影響を受けたのでしょうか。
■②ハーバード大学院時代■
大学院でのフェノロサの関心は、スペンサーへの心酔からヘーゲルに移って行くようです。スペンサーが「不可知的存在」とした宗教の問題を解明したいと考えたようです。
またクリスチャン・ユニオンの会員でもあったようです。※14
➀ウィリアム・ハリスWilliam Torey Harris1835-1909
またウィリアム・ハリスという、当時の米国思想界の大きな存在であり、へーゲリアンで、スペンサー『第一原理』の批評がのらず自ら『思弁哲学雑誌』The Journal of Spculatire Philosophyを1867年創刊した人も影響を受けた可能性があるようです。※12
ヘーゲル弁証法の存在をフェノロサに教えたようです。ハリスはアメリカでヘーゲル哲学の英文による翻訳祖述に専念もしたようです。宗教論のみならず、スペンサーもエマソンもあまり顧慮しなかった美と芸術の占める位置をもヘーゲルは明確に示してくれたようです。※14
この美と芸術の占める位置をヘーゲルが明確にしたことは次のノートンにもつながると思います。
②ハーバード大学美術教授ノートン(Charles Eliot Norton 1827-1908)は1859年に『イタリアの旅行と研究の覚書(Note of Travel and Study in Italy)』を刊行したり、教会建築に関しての研究をしていました。
このイタリアの教会建築は、イギリスのラスキンが1849年に『建築の七灯』でイタリアのヴェネツィアなどの教会(特にゴシック建築)の研究したものと流れ的には同じだと思います。ラスキンは1843年に着工されたビック・ベン(エリザベス・タワー)を設計したピュージンのゴシック・リヴァイヴァルの流れに影響を受けた関係もありイタリアのゴシック建築を研究したようです。
そしてラスキンはその後『ヴェネツィアの石』などを書き、ゴシック建築の定義などを定め、それを読んだ学生のウィリアム・モリスは建築事務所に一時入り、その後美術工芸運動とも言える「アート&クラフト運動」を行います。
ノートンも1851年にラスキンおよびラスキンも評価したラファエル前派の画家たちの影響を受けたヨーロッパ旅行をし、1855-1874年にはヨーロッパ大陸とイギリスでの旅行も多くしラスキンとも交友を持ち、『ヴェネツァ、シエナ、フィレンツェ(Venice,Siena,Florence)(1880)』を書いたり、ラスキンも評価したターナーのドローイングの展示会をカタログとしてまとめるために組織したり(1874)、また1879年にはラスキンのドローイングの展示会も組織したようです。更には友人ラスキンのように、労働者階級の人々のためにできる最善のことの一つは、機械のように単調な日常労働とは対照的に、仕事に従事することで満足を得る機会を与えることだと信じていたようです。そして、ウィリアム・モリスらが起こしたアーツ&クラフト運動のアメリカでの最も重要な支持者であったようです。
後、ノートンはラスキンのアメリカ版の出版物の多くの序文を書き、ラスキンの文学的遺言執行者に任命されています。
ノートンは1875年にハーバード大学の美術史の教授となり、美術史の黄金時代である古典的なアテネ、ヴェネツァの建築のイタリア的ゴシックスタイル、そして早期ルネサンスのフィレンツェについて講義していたようです。※7
そのような流れの教授にフェノロサは興味を持っていたようです。
スペンサーも1857年『進歩について』、1859年『教育論』においてラスキンやラファエロ前派について書いているので、そのような観点から興味を持ったのかもしれません。
他にも哲学者のCharles Carroll Everett1829-1900も影響を受けたようです※14
2話【フェノロサの神学校と美術学校時代】
ハーバード大学を卒業したフェノロサは、スペンサーの「不可知論」から宗教の在り方を模索し挫折するものの、スペンサーやヘーゲルが示した美術による可能性を念頭に美術学校に通い始めたりします。
一方で、アメリカは自国で万国博を開催する者の自国の美術の貧弱さに気付き、文明の高度化に芸術は欠かせないと考えメトロポリタン美術館やボストン美術館を建てて、更には美術学校まで作り始めていた時期であったという時代の流れが後のフェノロサを形作っていくような気もします。
■➀ユニテリアン神学校■
ユニテリアン神学校とは、神のみに聖性を見てイエス・キリストの神聖を否定する教派のようです。※15
ケンブリッジ地区にあったハーバード大学所属のユニテリアン神学校に大学院卒業後にフェノロサは通っています。※14
フェノロサの宗教に対する興味は、一つの社会現象としての、宗教学的乃至は社会進化論的な学問的立場からきたものと推測されるようです。※12
■②ボストン美術館付属絵画学校■
ユニテリアン神学校の後、フェノロサは方向転換としてノートンに教えられた美術の道に進むことを考えたようです。
南北戦争後美術は経済復興、文化の象徴として急速に国民の関心を集めていたようです。1871年にメトロポリタン美術館から開設されて以来、各都市に美術館が続々と生まれているようです。そして何よりも、この年フィラデルフィアの万国博(1876.5-11)でアメリカ美術の貧困さが美術教育普及の必要性を証明したようです。
フェノロサはスペンサーの社会学と心理学、それにヘーゲルの美学を中軸とし、ある程度の絵画の技法を習得することによって、時代の要求する美術教育家あるいは美術批判家として身を立てるべく、決意を固めたようです。
万国博でも連日美術作品をみていたようです。
そして1876年に開設されたボストン美術館に付置された絵画学校に1877年に入学したようです。※14
ボストン美術館付属の美術学校は、建国百年祭記念事業としての万国博の一つの建物を使ってできたボストン美術館が1876年に公開され、その地階の3室を無料で借りて開校したもののようです。米国のこの種の学校中最も古いもののひとつのようです。
この頃、再びドイツ派がさかんであったため、この学校の主宰はドイツ人だったようです。
そのためフェノロサは一般のアメリカ人として最も早く国内で美術教育を受けた一人であったようです。※12
また後に『東亜美術史網』でフェノロサはホィスラーを激賞していますが、ホィスラーはフェノロサと同州出身で1834年生まれ、パリでナポレオン三世落選展で評判となった方で、「金屏風」という作品では日本のキモノが登場している作品もあり、1877年にはラスキンが激しく攻撃し、ホィスラーは訴訟し勝訴しているなど話題にっていたため、フェノロサもホィスラーはこの頃知り得たという見方もあるようです。※12
■③来日への道■
1877年に東京大学教授として招聘されたエドワード・モース(Edward S.Morse 1838-1925)が1878年にアメリカに帰る際、東京大学で哲学を教える人材を依頼されていました。
モースは来日前にフェノロサとは面識がなかったようで、ハーバード大学総長チャールズ・W・エリオット氏とハーバード大学美術教授ノートンらに頼みフェノロサが哲学教授として推薦されたようです。
東大の条件としては「A Philosopher was wanted, not a missionary(宣教師ではない哲学者を望む)」と書いてあったようです。※5
おそらくフェノロサが選ばれた理由は、宣教師ではなかったことと、モースが日本において「進化論」の講義をして反キリスト教的世界観で学問を語る側面が人気を博していたことなどもあり、大学時代にスペンサーを深く学んだフェノロサは適役だと思ったのだと思います。
最終的には1878年に父親が突然自殺をしてしまったことや、結婚を考えていたこともあり、待遇の良いこの来日の話にのったようです。※5
3話【エドワード・モースと進化論】
1877年に開学した東京大学に合わせて、モースは来日し東京大学で講義をし始めます。
東京大学で講義するきっかけとなるのは、日本で初めての教授となる外山正一がミシガン大学に留学していた頃、モースの講演を聞いて感銘を受けたためと言われています。
■➀師・アガシー■
モースは1859年にハーバード大学教授アガシー(Louis Agassiz1807-1873)に見出され、21歳で学生助手となります。アガシーはキュヴィエとフンボルトに師事したりした生物学系の教授でした。また氷河期という時代の発見者でもあるようです。
ダーウィンも地層の調査などが進化論の着想に役に立っているようですが、アガシーもおそらく生物だけでなく、地質などの調査によって古い時代の生物の研究も含めて行っていたため氷河期を発見したのだと思います。モースが日本で大森貝塚を発見するのもこのような流れによるものだと思います。
一方、モースの学生助手着任とほぼ同時にダーウィンの『種の起源』が出版され話題になります。しかし、アガシーは進化論を受け入れなかったようです。ただ、モースは次第にアガシーと疎遠になるにつれて進化論へ傾倒していくようです。
そして、多くの大学で講演などをしてまわり、講演が非常に巧みで人気があったようです。
そんななか、1876年にミシガン大学のモースの講演を聞いた外山正一が感動し、翌年開学する東京大学で日本初の教授となる予定だった外山正一が推薦し、モースは1877年に専門の腕足類の収集をしたいというニーズが叶う事とそのために日本政府が「臨海実験所」を用意してくれることも相まって来日する事になったようです。※8
モースの講演は米国でも実に有名で、日本でも弁舌の巧みとして評価されていたようです。
■②来日■
モースは江ノ島に政府の助けもあり「臨海実験所」を作り、後に南方熊楠は1885年4月それを意識してか江ノ島旅行をしています。また熊楠はモースが発見した大森貝塚やその次の小石川植物園の貝塚などもモースの影響を受けて発掘に向かっています。当時は貝塚などはさほど保護されず、個人でも自由に発掘できたようです。※8
「当時本国の学校に雇われて居た教師連には宣教師が多かったので、先生(モース)の進化論講義は彼れ等には非常な恐慌を来した」と『モースの日記』E.S.Morse.Japan Day by Day 1917の序文で書かれているようです。※5
1878年11月2日の記事では、モースが東京に来てわずかに1年2.3ヵ月の間に、すでに大学外の一般社会にまで非常な人気を集めていた事が具体的に分かるようです。※12
キリスト教に対する一般的な反発も根強かった日本では、こうした(進化論vs創造論)論争は西洋人の文化が必ずしも常に優位にあるわけではないことを示す格好の材料としてとらえられたようです。モースはそのような日本人の反応も見越して、進化論導入のための方便として、キリスト教などの宗教の頑迷なことを話の枕としていたようです。※8
山路愛山によると、「モールス(モース)井生村楼を始め各所に進化論を演説し、人類の猿に似たる原始の動物より進化したることを説き、而して其通訳者たるものが多くは大学教授菊池大麓たりしことを」といっているようです。※8
菊池大麓はイギリスに留学していとき、カール・ピアソンと交友を持っている人で、カール・ピアソンは優生学の創始者ゴールトン(ダーヴウィンの従兄弟)の後を継ぐものといっても過言ではなく、さらにマルクスにも影響を受けた人であり、それらの思想がやはり進化論と接近しているのだと思います。
4話【フェノロサと宗教の進化論】
フェノロサは1878年に来日してから、大学時代に慣れ親しんだ英国学者ハーバード・スペンサーの学説をもってキリスト教を反論する講演を行ったところ好評だったようです。それは、東京大学の教師が宣教師が多かったというだけでなく、キリスト教解禁や自由民権運動がキリスト教勢力と結びつく可能性など、日本政府が抱えていた様々な問題の対処と合致していたようです。
■➀来日直後の講演■
1878年11月2日のある記事には「モールス(モース)の演説につき同氏の友人哲学教師米国フェノロサ氏が、動物変遷論と常に抵抗せる宗教と雖ども今日に至るまで既に自ら幾多の変遷ありと云う、論を不日演説せらるゝとの事」と報道されているようです。※12
フェノロサはモースとある意味では同様、日本人が当面もっとも反論しにくい外国思想やキリスト教に、ほかならぬ外国人をもって当たらしめることに利用されたお雇いが外国人のひとりであったようです。※5
1878年9月21日に新講談会(福澤諭吉やモース、外山正一、菊池大麓、加藤弘之も参加)において、フェノロサは宗教の進化を論じています。
また江木高遠主催浅草須賀町の江木学校ニ於テ演説では、キリスト教聖書の内容から見て、およそ荒唐無稽の迷信であり、この種の愚論がいかに近代文明の障害になっているかを熱っぽく語りかけているようです。
このときモースと友人でチャールズ・ダーウィンとも友人の宣教師ヘンリー・フォールド(モースと貝塚に行った際指紋も発見している)は、「反論」のチャンスを求めるが主催から拒否されているようです。※5
1878年11月に公開講義「宗教論」では宗教を純然たる人間社会の一つの現象とみなし社会進化論的立場から宗教学的検討を加えたもののようです。※12おそらく、「不可知論」の立場からキリスト教以外の世界の解釈も認め幅広く検討する志向だと思われます。
1880年2月21日浅草須賀町井生村楼(加藤弘之・菊池大麓も参加)においては、フェノロサは「万物の進化」を論じて天地万物が神によって創造されたとするキリスト教の荒唐無稽を難じたようです。※5
ハーバード・スペンサーは、社会進化論として語られることが多く、自然淘汰を始めとした弱肉強食による社会の在り方を強調される部分が多いです。しかし、スペンサーは世界をまたにかける大英帝国の情報を使い、未開社会の文化や宗教なども多く集め比較し、未開の状態ではどのような宗教観を持ち、高度な社会になっていくとどのように宗教観を持っていくかというような研究がその社会進化論を支えるベースとなっています。特にキリスト教は宗教の相対性を許していないため、宗教の比較から宗教の在り方を分解し、宗教の社会の進化とともに変化する考えを示したスペンサーにとっては、キリスト教は反対すべきものだったようです。
フェノロサも基本的にはそのスペンサーの議論をもとに「宗教の進化」を語り、キリスト教を反論したようです。
来日直後の講演では、スペンサー『社会学原理』第一巻第一部第18章および第12章と同じ論法で語ったようです。
『社会学原理』第1巻は全体として宗教・人類学的な観点から未開社会における信仰の発生について説いているようです。※8
フェノロサがスペンサーの『社会学原理』第1・2部に基づいた第7巻第36.37.39冊「世態開進論」というのもあり、井上哲次郎らが訳して『学芸志林』掲載された講義もあるようです。※8
■②キリスト教に立ち向かう意味■
1869年にお雇い外国人の初期の人としてのフルベッキが政府顧問になり1873年に失墜しました。
1873年アメリカ・テトガース大学の教授マレーが顧問として、1872年学制実施の立役者森有礼が招き来日してフルベッキの後を継ぎました。
当初の教育理念の基本にあったものは、キリスト教的「自由・平等・博愛」であったようです。そのため万世一系の天皇への信仰を国家統合の機軸に据えることを不動の基本理念とする明治政府は複雑な思いがあったと思います。
同時に、1873年にキリスト教が解禁しました(明六社はキリスト教的概念に日本人が毒されないよに民間人の啓蒙を狙った政府の作用もあると言われています)。
1874年に民選議院設立の建白書が出されました。
そのような事情を背景に、政府=東京大学が進化論を大上段に構えてキリスト教に立ち向かったことには、二重の意味があったようです。
➀真正のキリスト教の根本に潜む本質的にアナーキイな反国家主義思想への深刻な猜疑と警戒のゆえ(キリスト教宣教師の監視)
②こうした外部勢力と結んで維新機構への参入あるいは変革を迫る自由民権勢力への阻止
、、、の2点があるようです。
5話【フェノロサと自由民権運動】
フェノロサは1878年に東京大学の政治学と哲学の講義を担当しました。東京大学の初の教授・外山正一と同じくフェノロサもスペンサーの学説を紹介したようです。
ただ、イメージとして外山はスペンサーの社会学の見方をベースに様々な西洋の歴史を学ぶことに重点においていたということに対し、フェノロサはスペンサーの社会の見方をベースに哲学と政治理論を結びつけ最終的には現在の政治の在り方にアプローチする方向に重点が置かれていたようです。
そのため、大隈重信の立憲改進党に大いに影響するのですが、それが故に政治学の講義担当を降ろされてしまいます。
■➀東京大学での講義■
外山正一といっしょに教壇にたったフェノロサも、スペンサーの学説を紹介したようです。※1
一方で実験的英国風学派として外山・モース、理論的ドイツ派(デカルト、カント、ヘーゲル等哲学を祖述として鼓吹)フェノロサという分類の史料※10もあり、フェノロサはスペンサーそのものよりもヘーゲルよりになっていたのかとも思います(哲学講師であったので、哲学的な方面から社会進化論にアプローチする方向性だったのかもしれません)。
1878年~1879年の講義では、「無関(レーセフ)論」を論じ、「該無関論ハスペンセル氏自ラ可実施ノ理論ト明言セル其所著ノ社会静象学書ヲ以テ教科書トシ」言っているようです。※16基本的に政治の権利関係は、スペンサーの『社会静学』がベースとなっているようです。
フェノロサの初期の講義内容で三年次・理財学では、ミルJohn stuart Mill 1806-73『経済学原理』、ケアリーHenry Charles Carey1823-1875、ジェヴォンズWilliam Stanley Jevons1835-1882、ウォーカーFrancis Amass Walker1840-1897を使っていて、政治学ではスペンサーの『社会学原理第一巻』(人類学的な観点から未開社会の信仰の発生がテーマ)、バジョットWalter Bagehot1826-1877『物理学と政治学』やモーガンLewis Henty Morgan1818-1881『古代社会』、スペンサーの『社会静学』を使って論じたようです。※14
方法的には、政治学ではその基礎としてスペンサー『社会学原理第一巻』など最新の社会学論を学生たちに読ませて社会進化論、社会有機体説の徹底を計り、その上で近代哲学史と政治理論との関係を論じ、最後に『社会静学』を読ませたようです。※14
■②フェノロサと自由民権運動■
1881年(明治14年)、フェノロサはもともと政治学の講義のために招聘された面もあったようですが、政治学担当を下ろされました。
学外では立憲制、民権獲得、民選議院の設立を標榜するいわゆる自由民権運動と、これを弾圧しようとする藩閥政府との間に、熾烈な闘争が展開されていたようです。
そんななか大隈重信はかねてから、保守的な政府首脳のうちただひとり、国会の早期開設を考えているという風評があったようです。
一方、フェノロサは、政治学講義でイギリス式代議政体論を演説していました。
そして、鷗渡会という団体がフェノロサの講義を叩き台に討論を繰り返していて、イギリス民主主義の理論を日本で実践するための政治網領を制作して、参議・大隈重信の直系ともいえる小野梓に提供していたようです。
鷗渡会は実際的な政治活動を展開したわけではなかったが、自由民権運動の知的中核を形成するものとして、国会開設に関しては漸進主義を執る政府の当然忌諱に触れる政治結社であったようです。
「明治十四年の政変(1881年)」という北海道開拓使の官有物払い下げ問題に端を発し、大隈が参議を罷免され、小野梓を含む大隈一派はことごとく政府から追放されたようです。1882年3月彼らは大隈を中心に立憲改進党を創設するが、鷗渡会の作った政治網領が立党宣言や改進党網領の基礎になっている事を考えれば、フェノロサの実際政治に対する影響力も決して小さくはなかったと言わなければならいないようです。
そして、災いの根元を立つために、政府の意向で政治学教授フェノロサが更迭されたと考えても、あながち考え過ぎではないように思えるようです。※14
6話【フェノロサ日本美術の道へ】
フェノロサは東京大学の哲学・政治学の講義をするために来日したものの、自由民権運動との関わりや、明治民族主義などの流れからその職も1881年頃から危うくなってしまいました。そこで、フェノロサはその後の新たな道を政府との関係の中で見出していくようです。
■➀法理文学部学位授与式でのフェノロサの演説■
1881年明治14年度の改正は、表面的には法理文学部と医学部との二本立てであった東京大学を統合し、一名の総理の下に各学長、教授、助教授の職制を確立することだったか、それに伴うカリキュラム改訂は、従来のように西洋学術摂取のみ目標を置かず、日本の学問の伝統をも継承しつつ、今後の日本の体制づくりに役立つような人材を育成せよ、という社会的要請にこたえるためのものであったようです。そのため留学から帰国した日本人の専門家が次第に外国人教師に代るようになったようです。
大学のこの方針転換が、この頃台頭し始めた明治民族主義の世論に強く影響されたもののようです。※14
1882年(明治15年)10月28日東京大学学位授与式におけるフェノロサの演説は、1881年に政治担当をドイツ人に譲らなければならなくなり、文学部でフェノロサの哲学講義を聞くものは2.3人というありまさまからなされたようです。
演説では自由民権運動に、おそらく外国人お雇い教師としてはじめて明白な嫌悪を示すことによって、これを抑圧する側の堂々たる代弁者を買って出たようです(『学芸志林』M15.12月号にも掲載)。※5
この学位授与式の法文学士の多くは大なり小なり政治運動に関与して大学側の就職斡旋を拒絶しているようです。日本の大学が初めて経験する政治の季節だったようです。※14
そん中、学位授与式における祝辞が行われ最初は東京大学総理の加藤弘之が述べました。
加藤は立憲制の樹立を唱和するモノは実は浅学で、民権運動に染まる新学士とくに法文両学部の卒業生に対して批判と警告を加えたようです。※14
この総理の加藤弘之は、かつては『真政大意』や『国体新論』においてルソー的な天賦人権・自由平等を説いていましたが、この年に明確に政府側の思想に立つ『人権新説』を発表した人でした。
この『人権新説』は、スペンサーの社会進化論をベースにしたものです。
一方、フェノロサの社会進化論の解釈は、「フェノロサ流の解釈としての社会進化論によれば、この日本国家は強力な専制権力による統治が必要で、フランスでいま流行しているJ.J.ルソーの「人民の政府」などはもってのほか、という論旨のようです。社会進化論的国際社会の中で日本が存在していくためには、強力な専制者への人民の服従が必要で、むしろ人民は、こうした専制主義的政府の保護の下ではじめて自由となりうる」と論じたようです。
「フェノロサが東京大学において、もっとも多くの共鳴者をえたのも、まさにこの「弱肉強食」の政治学、あるいは自然淘汰論にあったというべきである」とも述べられている文献がありました。※5
これよれば、フェノロサの社会進化論の政治における解釈は加藤弘之の解釈と非常に近いような感じを受けます。もっとも加藤はもともとは兵学でドイツの学問を修めている内に天賦人権論のよりも今の時流は社会進化論が必要と感じスペンサーに辿り着いたのに対し、フェノロサはスペンサーを熟読し哲学や社会学を援用して政治学の結論に至ったという点から内面的な部分は全く別物だと思いますが。
さらに、この日祝辞を述べたのは学長を初め学部長ないしは学部長級の教授ばかりのようです。その中で、政治担当を降ろされ学内では言わば落ち目になったフェノロサが抜擢され、文学部長―外山正一-の代わりに演壇に立ったようです。※14
この外山正一が演壇に立たなかった理由は定かではありませんが、外山正一はこの後加藤弘之の『人権新説』を巡って加藤弘之と論争をします。外山正一もスペンサーを支持していましたが単純な社会進化論ではなく広範な社会を見る目としてスペンサーを用いていて、更に政治哲学に関しては加藤弘之より詳しい印象を受けます。それが故加藤弘之を批判するのですが、もしかしたらそのようなスペンサー解釈の立場だったため、当時の東京大学総理・加藤弘之が政府の思想のバックボーン(『人権新説』はかなり世間に受け入れられた)となっている事から少なくとも当時の政府の意向は加藤弘之にあり、外山よりも加藤に近いフェノロサが選ばれたのかもしれません。
また、その年の5月フェノロサは政府に近い日本美術振興団体「龍池会」の意向を受けて有名な美術演説を行い主催者と政府筋から役に立つ外国人、もっとも端的に言えば利用し得る外国人として注目され始めていたようです。学生の反政府的政治活動の根元を断つには最適な人材だったに違いないようです。その結果、自ら蒔いた種を刈り取らされる破目に陥ったようです。※14
フェノロサの演説は今日には英文では残っておらず、訳者の意向が入った(当時では珍しくないらしい)『学芸志林』第11巻「文学教師エル子スト、フヱノロサ述学位授与式祝辞」が基本的にその祝辞の史料となるらしいのですが、そこでは真剣一途に学生の将来を思い、かなり強い言葉で縷々政治活動を戒めたようです。またそれはアメリカにおける政治の現実から体験した実感に基づいたもののようです。※14
しかし、そのフェノロサの真摯さはあまり当時の人には伝わらず、フェノロサが政府に利用され学生運動を戒めたというように解釈され、現在でもそれが主軸にこの祝辞について語られるようです。
■②日本美術の鑑定家として■
1882年5月14日龍池会(絵画だけでなく国粋思想普及団体)の依頼の上野公園教育博物館観書室で行われた『美術真説』で日本美術への肩入れを成していくようです。※5
ただし、この演説は主催者と政府筋にとって利用しうる外国人として着目されるようになったようです。フェノロサにとっても東京大学での哲学・政治学講師としての地位が危うくなっている以上、新たな拠点を見つける意味では利用されることは悪い話ではなかったよづえす。
日本美術への興味は、モース(陶器に興味を持った)などの来日している外国人の収集熱に影響されての事ですが、元老院議官・金子賢太郎(フェノロサと同じ生まれで、フェノロサがハーバード大学院卒業の年、ハーバード大学に留学している)のお膳立てにより筑前の旧藩主・黒田家にて狩野探幽を見たとき、眺め入ったようです(これは年号がはっきりしませんが1878年と来日の年とも)。※15
1886年(M19)東京上野でフェノロサが開いた第二回鑑画会大会に、伊藤博文内覧で狩野芳崖「仁王捉鬼」を雄弁に語り、伊藤博文の援助を得るようです。※15もともとフェノロサを東京大学教授承認をしたのも伊藤博文であったりもしたようでう、ただ伊藤博文はフェノロサの最初の奥さんと親交があり再婚後は伊藤博文が首相のときはフェノロサは日本に行きづらくなったりもしていたようです。
ただ、フェノロサは日本美術の「研究者」というよりは「鑑定家」であったようです。論文や書物は驚くほど書いておらず、代表作とも言える『東亜美術史網』も訳の文章がどの程度入っているかという疑問が現在でも晴らされていないようです。そのため欧米でのフェノロサの学者としても名声はほとんどなかったようです。
しかし、当時日本で輸入超過となっていた現状に、有力な輸出品として日本美術作品があると主張したフェノロサの主張が多く取り入れられ、実際はそうはなりえない現状が明らかになるまでフェノロサの日本国内での名声は高かったようです。※5
※1…『世界の名著36 コント・スペンサー』1970.20中央公論
※2…『大東亜論』2014.1.13小林よしのり、小学館
※3…『ハーバート・スペンサーの感情論』本間栄男、桃山学院大学社会学論集第48巻第2号より
※4…ウィキペディア「自由論(ミル)」
※5…『フェノロサ』保阪清1989.1.10河出書房
※6…『ラフカディオ・ハーンとハーバート・スペンサー』山下重一
※7…英語版ウィキペディア「Charles Eliot Norton」
※8…『南方熊楠 複眼の学問構想』松居竜五2016.12.30慶應義塾出版
※9…『南方熊楠を知る事典』1993.4.20松居竜五ら、講談社
※10…『外山正一先生小伝』1987.9.15三上参次大空社
※11…『加藤弘之』田畑忍1959.7.25吉川弘文館
※12…『フェノロサと明治文化』栗原信一1968六芸書房
※13…『金子賢太郎』松村正義2014.1.10ミネルヴァ書房
※14…『フェノロサ』山口静一1982.4.30三省堂
※15…『フェノロサと魔女の町』久我なつみ199.4.5河出書房
※16…『H.スペンサーの婦人論に関する覚え書』山室周平