脳が人間の活動にとって大事な部位であることは、意外に遅くなってからわかったようです。

 アリストテレスは脳は心臓から送られてくる熱を冷ます場所でしかないと考えていました。※4

 15世紀後半くらいからレオナルド・ダ・ヴィンチなどが人体の解剖などを行い、脳から神経が繋がっていることなどを観察し(ダ・ヴィンチは脳の中枢が中心になっていると自らの観察で実証している)、人体解剖図の祖ともされるヴェサリウスが丁寧の脳を観察し、脳の実質がもっとも重要な精神活動の座であると主張したようです。※9

 その後、デカルトは魂と脳の松果体が繋がっていて、脳からでる神経を操作するコントローラーのような役割であるという考えを示したりしています。これは逆に動物も人間も生理的機能を動かずメカニズムは同じで機械のように動いていて、魂の存在だけが動物と人間を分けると考えたようです。※8

 17世紀半ばイギリスのボイルやフックなどが活躍していた王立協会では、動物などとの解剖の比較から高等生物ほど脳の発達の違いがあるということは分かってきていたようです(トーマス・ウィリスの研究)。

 このように、脳が心の中枢であり、さらに脳は動物とかの比較から形態が違うことを見てから脳の場所によって機能を有していると分かりかけてきてはいました。

 それを幾分か断定的な手法でまとめ、解剖学的な観察からテストできるようにして、普及するきっかけを作ったのが解剖学者ガルです。

 このガルの発見が近代の脳メカニズム解釈に後々重要だった評されているようで、今回はこのガルについて論じます。

■①ガルの骨相学■

 1800年に「骨相学(cranioscopy)」という頭蓋骨のかたちから、人格、個々の発達、道徳観念などを決定づけるという方法を考え出したようです。※5

 機能局在説と言い、大脳皮質の機能が場所によって異なるという説を考え、大脳の発達により頭蓋骨が変形すると考えていたようです。※4

 ガルは単純なものから複雑なものに移行するとの原則を重んじ、神経系の成り立ちにおいても、脊髄の下位器官が発達して脳の上位器官が形成されると考えたようです。そこで、脳は脊髄の中心軸に沿って集積した神経節は機能上も区別の機能上も区分できる特有の器官であるとの立場をとったようです。それまでは脳は均質な実体と考えられていましたが、ガルはそれぞれの分節が異なる機能を持っていると主張したようです。※9

 脳のはたらきに興味をもったのは子供のときから学生時代にかけて、記憶力などが高い人は特徴的な頭の形をしていて、しかもその人たちには共通の頭の形の傾向があることに気付いたことのようです。※8

 そして、解剖学者になり、このテーマに挑むことになったようです。

 最初の研究テーマは「人の病的および健全な状態についての本質と“文化”に対する医学・哲学的研究」であったようです。※9

 当時は死者の脳を研究するしかなかったため※2、脳の内部を観察したのだが分からなかったようです。そこで、大脳皮質が精神機能とどのように関連しているのか理解するためには、頭の大きさや形を調べてみるしかないと思ったようです。

 400人以上の頭蓋骨をその性格ととともに調べた結果、色彩感覚から動物的直観委至るまで27の機能について、その関連部位を識別できるようにしたようです。※8

 

つまり、異なる脳器官と構造と精神機能を類推して結びつけるほかはなく、その結果頭蓋骨の形状とも結びつけることになったようです。ただ、精神領域の特定は恣意的に行われたようです。※2

■②フランツ2世による異端視■

 ガルの脳の概念は革命的なもので、聖職者や科学者たりから異端視されることとなったようです。※5

ローマカトリック教会は神によって作られたはずの心が脳の中にその場所を持っているなどという考えは教義に反し、破門に値すると考えたようです。※5

 そのため1801年には最後の神聖ローマ皇帝だったフランツ2世は、頭のかたちに関するガルの学説の公表を禁じたようです。

 ちなみに、フランツ2世はマリ―・アントワネットの兄弟でもあり、イタリア戦役のときからナポレオンと戦っていていましたが、1804年ナポレオンがフランス皇帝に即位すると、神聖ローマ帝国はなくなり自らはオースリア皇帝フランツ1世を名乗る事になっています。そして娘マリー・ルイーズはナポレオンに嫁ぐはめになっていたりします。

 そんな革命期のフランスに、オーストリアにおいて学説の公表を禁じられたため逃れ、フランスで名声は得れなかったものの、革命期の自由な気風があるサロンで学術活動は続けられたようです。

■③能力心理学からの影響■

 ガルは心の機能と脳神経が対応することを考えました。※1

 心の機能とはガルは「能力心理学(faculty psychology)の影響が強いとみられているようです。※9

 「能力心理学」の創始者はクリストファー・ヴォルフ(Wolff.C)のようです。ヴォルフはライプニッツ(ニュートンと対峙し、微分積分の記号考案者)の弟子で、心は一つの実態であるが、種々異なった心的過程を引き起こす可能性をもっており、その可能性を「能力」とよんだようです。そして能力は経験によるものではなく、心の構造の中に備わっているものであるとする理性主義の立場をとったようです。※11

 このヴォルフの「能力心理学」はカントに引き継がれ、ヴァルフはライプニッツとカントの橋渡してきな役割としても評されるようです。

 そしてガルは、これらの考えを脳の場所による局在に変換し、頭蓋骨から観察する脳の形態によってテストするという方向に換えたともいえるかもしれません。

 これにより個人差を測定する検査(テスト)という心理学に固有の専門領域の先駆でもあるとされるようです。※4

■④脳学への影響■

 脳を骨相学で用いる「より関連性のある自然な」手法、つまり有機的な構成要素をまとめながら切り離す方法は神経解剖学的に正しい側面があったようです。※3

 ガルは他のもののように無作為に脳を分断するわけではなく、脳の構成を丁寧に観察し、それぞれの分かれている繊維にそって分断したようです。この手法は将来の脳に関するさまざまな発見につながる可能性を秘めていたようです。

骨相学は現在では疑似科学だとされていますが、脳機能局在論は近代神経科学の下地になったようです。これは革命的なアイディアだったようです。※10

 このガルが作った流れは1861年、フランスの医師ブローカー(P.Broca1824-1880)の発見により、臨床的に裏付けられることになりました。脳卒中後に「タン」としか話せなくなった失語症(aphasia:言語障害ともいいます)の患者の左脳に特徴的な損傷があることを報告したようです。これは言語機能の一部が脳の特定領域と関連することが臨床的に示された初めての例となるようです。※4

 ガルの骨相学はブローカに影響を与えています。※10一方で、ブローカこそが最終的に脳機能局在説を確立したといえるようです。※7

 その後1874年、ドイツの医師ヴェルニッケ(C.Wernicka1848-1905)がさまざまなに異なるタイプの失語症例をまとめたようです。※4

 側頭葉第一側頭回に、他人の話を理解できない聴覚性の言語註するがあることを示したようです(ウェルニッケ失語)。※9

■⑤学問への影響■

 チェーザレ・ロンブローソにも影響を与えています。※5

 ロンブローソは、森鷗外が「ロンブローソが1864年に始めて表した『天才と狂人』は近世科学の基礎の上に、・・・(精神的な)病だとする思想を発展させようと試みたのである」(『天才と狂人』序)などと著作で書いている人で、近代病跡学の祖とも呼ばれているようです。ロンブローソの場合は当時流行りだしていた統計的手法を使って「特有の先天性」などを実証したようです。日本では大正時代にロンブローソの考えをベースにした犯罪学が流行したようです。※6

■⑥社会への影響■

 骨相学には、個人の行動のあらゆる細部まで予測する力があるという、これまでの常識にはなかった部分があったようです。

 骨相学は、店員や家事使用人の雇用が増大していた当時の中流階級の必要性ににも合致して、仕事の適性を試すためにも使われたようです。※3

 心的能力を点数化してさらに、どんな職業に向いているという所見が書かれていたようです。※4

 他にも階級の高い人やこの集団の知能は骨相学的にどうかなど、集団の格付けなどにも使われ、骨相学を一般に使いやすいようにマニュアル化や模型など様々なものが作られ一般にも普及したようです。

■⑦イギリスへの波及~進化論への影響と人種など統治の正統化へ■

 ガルの骨相学はイギリスでもっともよく受け入れられ、イギリスの支配階級は自分たちの植民地支配の劣悪さを正当化するために彼の教説を利用したようです。※5

 18世紀オーストリアのフランツ・ヨーゼフ・ガル(Franz Joseph Gall,1758-1828)によって唱えられた「骨相学」は、その弟子シプルツハイム(Johann Gaspar Spurzheim,1776-1832、実はガルは「頭骨観察」と呼んだが、この弟子が「骨相学」と命名し普及させる)を経て、スコットランド人クーム(George Combe,17788-1858)によってブリテン島に広まったようです。※1

 社会学や社会の進化論、また明治維新の思想的な影響を与えたハーバート・スペンサーも、骨相学もかなり心を引かれたようです。この流れを汲んだ骨相学に近いメスメリズム雑誌『The Zoist』(1843-1855刊行、イングランドの医師ジョン・エリオトスンJohn Elliotoson、1719-1868が主幹で、骨相学とメスメリズムを統合した雑誌)に1840年中盤に3本の論文を寄せているようです。脳機能局在論への批判(機能が局在することへの批判ではなく、どの機能が局在するかに対する批判)をしたり、1844年には「驚きの器官に関する一理論」では当時の骨相学の見解を批判しているようです。※1

スペンサーは、教育を経て鉄道会社(1830年代に旅客輸送を行う初の路線が英で成功し1840年代の鉄道熱狂時代が起きていた)に就職して鉄道工事の現場を見て地質学に興味をもったようです。そして、20歳頃(1840年頃)に当時よく読まれたライエル『地質学原理』(ダーウィンも1831年ビーグル号で旅立った際持って行っていっている)を読みラマルクの進化論を知ったようです。

もともとスペンサーはダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンが作った協会がある場所で生まれ、父が教育者でありこの協会の私的秘書の役割をしていてラマルクとも近いエラズマスの思想を何となく知っていて、ここでラマルクから進化論を再発見したようです。

その後、1844年にダーウィンも大きなショックを得た匿名の『創造の自然誌の痕跡(Vestiges of the natural history of creation)』(ここにもラマルク進化論思想があったようです)を1845年読んで批判検討を加え、進化思想を中核に据えて行っています。※1

そんな中、雑誌において骨相学関係の検討を行っていました。

一方、ダーウィンも1825年から入学したエディンバラ大学においては、この骨相学に関連する講義や、解剖学者の骨相学批評、他にも頭蓋骨を集めた博物館など、骨相学の影響化におかれました。ただ、ダーウィンは骨相学の民族や人種の格付けなどに関する側面位は馴染めなかったようです。※3

「知的能力は生まれつきのものだ」とクームは言ったようです。訓練で潜在的な能力を解き放つことはできても、それは定められた上限内でのことだという主張のようです。

そしてイギリスでの骨相学は特に頭蓋骨の形と人種の気質を結びつけることで、国の能力や運命を予想することなどを盛んにしたようです。

多くの博物館にはさまざまな地方の頭蓋骨が勢いよくたまっていったようです。外来頭蓋骨の収集は1820年代に全国に飛び火したようです。これは、海軍の地図製作が増えたことの結果という側面もあるようです(ダーウィンこの海軍の地図製作でさまざまな地域の海岸線に出向くたびに同行して恩恵を受けています)。※3

■おまけ■

 最後に冒頭のダ・ヴィンチとヴェサリウスの脳の発見についてと、ウィリスの研究についての蛇足です。

【ダ・ヴィンチの脳の解剖について】

 1490年、ダ・ヴィンチがフィレンツェからミラノに行き、ミラノ大聖堂のティブリオのコンペで案を考え、結局経験豊かなマルティーニがミラノに招聘されてきた時期に、ダ・ヴィンチは男性の頭部の解剖を想像したものを描いているが、目からの神経が全農質の共通感覚に結ばれて描かれています。1490年代はウィトウィルス的人間が書かれた時期で、パチョーリとの時代は1490年代後半。

 その後、チェーザレ・ボルジアの軍事技術者を終え、フィレンツェでミケランジェロの「ダヴィデ像」の配置を決める委員に参加した後に、再びミラノに短期で訪れた1506年に、脳室に溶かしたワックスを注入し、固定後、他の組織を除去して脳室の形を取り出し、感覚器からの神経が前脳室からでなく、中脳室の周り(現代の視床)に来ていることを自ら観察したようです。※9

【ヴェサリウス】

 ヴェサリウスはコペルニクスの名著と同じ年の1543年にパドヴァ大学教授時代に書いた『人体の構造について(ファブリカ)』におてい、彼はガレノス以来とらえられてきた脳室-生命の気の考えを捨て、神経内に中空の管はなく、脳の実質がもっとも重要な精神活動の座であると主張したようです。※9

 因みこの本により、パドヴァ大学の職は追われますが、カール5世の侍医になっています。

【トーマス・ウィリス】

 1664年、王立協会がチャールズ2世(1660年即位)から勅許状を経てから2年後、グレシャム・カレッジで活動していた頃、そして社会人向けの講座を開くことになりロバート・フックが講師になったころ、トーマス・ウィリスは『脳の解剖学(Cerebri Anatome)』を、ロンドン大火で都市復興に貢献する2年前のクリストファー・レンに挿絵を描いてもらって出版しています。

 ここでは脳の機能にはヒエラルキー(階層性)のあることが強調されていて、小脳およびその周辺のような低い機能の部位はどんな種類の動物にもみられるが、大脳皮質のような高度な機能をもった部位が発達しているのは人間だけだ、というようなことを書いています。※8

【ゲーテ】

 最後にガルは解剖者だが、18世紀後半には比較解剖学が基礎づけられ急速に発展しはじめていたため、その流れは恐らく知っていたと思います。

 その流れは「形態学」にも表れ、比較解剖などを通した「形態学」という言葉は1796年にゲーテが導入してるようです。1796年はシラーと交友を深め、「ヴェルヘルム・マイスターの修行時代」を出していた時期で、因みにシラーと親交を深めたのも植物学会で言葉を交わしたことのようです。

 

 ただ、ガルは他の動物と否定して頭蓋骨の鼻から顎のラインの違いによる知能分析は否定的で、あくまで脳の発達が観察できる部分での分析であったようです(こちらは出典を忘れてしまいました)。

※1…『ハーバート・スペンサーの感情論』本間栄男、2015桃山学院大学社会学論集

※2…https://www.genpaku.org/skepicj/phren.html/

※3…『ダーウィンが信じた道』エイドリアン・デスモンドら(訳)矢野真千子2009.6.30日本放送出版協会

※4…『心理学史 はじめの一歩』高砂美樹2011.9.25アルテ

※5…英語版wikipedia「Franz Joseph Gall」

※6…文京区森鷗外記念館特別展『ドクトル・リンタロウ』のパンフレット参照

※7…日本語版ウィキペディア「ブローカ」

※8…『科学は歴史をどう変えてきたか』マイケル・モーズリー&ジョン・リンチ(訳)久芳清彦2011.8.22東京書籍

※9…『心理学史への招待』梅本尭夫ら1994.1.25サイエンス社

※10…英語版ウィキペディア「Gall」

※11…http:s//kotobank.jp/word/「能力心理学とは」/

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