目次
1話【フロイトの幼い頃の憧れとその後の影響】

2話【フロイトの初めてのイタリアと近代神経学への道】

3話【シャルコーとフロイトのパリ留学】

4話【フロイトのフランス留学とムーラン・ルージュ】

5話【ヒステリー研究】

6話【フリースについて】

1話【フロイトの幼い頃の憧れとその後の影響】

 フロイトは幼時、カルタゴ人ハンニバルと、ナポレオンの司令官といわれるユダヤ人マセナ(Massèna)が英雄であったようです。

 フロイトはイタリアに憧れを見出し、1876年に大学生のときに学びにいったイタリアの動物研究所を皮切りに、何度かイタリア旅行をしていますが長い間ローマに行くことに躊躇していました。

 「私のローマへの憧れは深くて神経症とさえなっている。それは私の学校時代のユダヤ人、ハンニバルに対する英雄崇拝と関係があり、事実今年私は、ハンニバルがトラシメノ湖からやって来られなかったと同様に、ローマに行けなかった(※タイバー河までしか行けなった)。」(1897年12月3日『ヒステリー研究』出版の2年後・友人フリース宛の手紙)

 そしてようやく『夢判断』を出版した1901年になってローマに行くことができるようになったようです。

「ローマを訪れるということは、フロイトの無意識の中では明らかに敵の都市の制服、世界の征服を意味した。ローマはハンニバルの目的地であり、ナポレオンの目的地(イタリア戦争のときとかのことか!?)であり、またフロイトが心から嫌っていたカソリック教会の首都であった。フロイトはハンニバルと自分を同一視していたために数年後、最後の一歩を進めてローマに入るまで、すなわち自分の傑作、夢判断を出して、象徴的には勝利と自己確信を手に入れるまでは、彼の英雄をのりこえることができなかった。」※2より引用

■①出生と家族■

 フロイトは、1856年オーストリア・ハンガリー帝国領モラヴィア(現・チェコスロバキア)で生まれているようです。

 父ヤーコブ・フロイトは40歳・人並程度の成功者にすぎぬ羊毛商だったようです。父に対しては反対感情が並存し、憎悪が愛情だけでなく、恐怖や憐憫とまじりあっていたようです。※1

 母は二度目の妻であり、フロイトが生まれた当時は20歳だったようです。

 さらに父ヤコブが最初の結婚で生まれた2人の異父兄がおり、その一人はすでに息子ジョンがいて、フロイトの幼年時代の友達で、いわば<犯罪>の相棒となっていたようです。※2

 その後、1860年にウィーンに移り住んでいるようです。

■②ダーウィンとフロイト■

 1866年にはギムナージウムに進学し、当時話題をよんでいたダーウィンの進化論に強く心をひかれ(後にウィーン大学ではダーウィニズムの先生のイタリアのトリエステの研究所で短い期間だがウナギなどから生殖器の研究をしています)、この学説こそ世界の理解をいちじるしく促進するもののように思われたようです。※3

 1859年ダーウィンの『種の起源』が発刊され予想外の人気を博し、1860年に大英博物館・館長リチャード・オーウェン(1841年「恐竜」という語を創設していたりします)とダーウィン派のハスクリー(ダーウィンのブルドックとあだ名されたりもする)の論争でハスクリーが打ち勝つことで進化論の知名度がかなりあがり、学会だけでなく大衆文化にまでおよんでいたようです。

 おそらくこの流れの空気をフロイトは受けたと考えられます。※4

■③政治への関心とオーストリア社会民主党■

 その後、1870年14歳のときに普仏戦争が起こりフロイトは興味を示したと言います。これも政治的関心を示しているといいます。※2

 また、父が中産階級(当時「ブルジョア内閣」の時代だったようです。この頃からオーストリアは遅ればせながら新興中産階級が力をつけて来ています)の政治家達(ヘルブストHerbest、ギスカGiska、ウンガーUngerやゲルガーGergerやその他の人たち)の肖像画をうちへ持って来て、家に飾っていたようです。

1873年17歳のときには、ハインリッヒ・ブラウン(Heinrich・Braun後にドイツ社会党員の作家)というギナジウムからのクラスメートと交友を深く持ち、ブラウンは指導的なドイツ社会主義者になる志向があり、フロイトも同じく政治的指導者になる考えを抱いたようです。その政治への興味からか法律を勉強しようとまじめに考えたようです。※2

 

 オーストリア帝国はナポレオン後、ロシアと共同して「ウィーン体制(1814~1848)」を築いて従来の君主制に立脚することを中心に自由主義・国民主義運動を抑圧していました。1848年には「諸国民の春」とも言われるヨーロッパの広域において起こった自由主義革命が波及し、オーストリアも自由主義の流れが入りましたがそのときはフランツ・ヨーゼフが皇帝につき君主制の継続で鎮圧する事になりました。ただし、1853年にクリミア戦争によってロシアとの関係が悪化すると、ウィーン体制の影響は更に弱まっていたようです。

 一方、オーストリアの産業が紡績業から鉄鋼業にかわりつつありました。その象徴的鉄鋼業の成功者としてはウィトゲンシュタインの父親がいます。ただ鉄鋼業は他国に対抗するため独占的に市場によって発展してしまい、短期的には恐慌を防いでいましたが結果的には1873年の大恐慌などを起こすなど自由主義の陰りも見え始めたようです。因みにこのとき、個人消費の観点から新しい経済的視点を考え出したカール・メンガーなどの「均衡理論」を使った「限界革命」なども起こっています(メンガーは当初はルドルフ皇太子の家庭教師をなどをして皇室内からの自由主義転換を試みていましたがそちらは失敗します)。

 そして恐慌が起こった1873年の翌年、ノイドルフルでオーストリア社会民主党の原型ともなる社会主義者と労働主義者の協会の会議が開催されています。※6

 フロイトが政治的指導者を志向したときのクラスメートもドイツ社会民主党員になったことや、1889年にオーストリア社会民主党を統一するのに大きな役割を果たしたヴィクトル・アドラーをかなり尊敬していた事や、1901年のフロイトの著作『夢判断』でドイツ社会主義者ラサールの『イタリア戦争とプロシアの課題』から言葉を引いていることなどから、おそらくフロイトは社会民主党的な方向性であったと考えられます(但しナポレオンのマセナの憧れも思想的な物なら違う方向性かも、、、)。

 因みに大学に入り、医学の道に入ったのは、ほんの最後の一瞬においての判断であったようです。※2

■④フロイトの住居とヴィクトル・アドラー■

 また、ウィーン大学を卒業しウィーン総合病院から一般開業医になりブロイアーと「アンナ・O」の共同研究をしている時期の1891年にウィーンのアルザーグルント区ベルガッセ19番地に引っ越しています。

 1891年までフロイトは家族と共にショッテンリンク(Shottenring)に住んでいたが、子供(おそらくオリバー・フロイトのこと。アンナ・フロイトの兄の一人)が生まれそうだったし、引っ越すことを決めたようです。

 この地は、1889年までオーストリア社会民主党の指導者で(熱烈な社会主義者で後にはオーストリア社会主義の比類なき指導者となる)ヴィクトル・アドラーが住んでいた地でした。住んでいたときにフロイトはアドラーが住んでいたときに訪れていて(招待されたよう)、更にフロイトは衝動的にこの地に家を建てようと思ったのはアドラーが住んでいたということが大きく影響していて(住むのには結構不便があったのに合理性を書くような判断をしたよう)、さらにこの地に長らく住んでいたのもアドラーが住んでいた地という自負からだったようです(現在ジークムント・フロイト博物館となっています)。おそらくフロイトは1938年のロンドン逃亡までこことに住んでいたと思われます。※2

 因みにヴィクトル・アドラーは第一次世界大戦の時はオーストリア社会民主党の当主になり、二重帝国領内で一時拘束されていたレーニンのスイス脱出を手助けしたりしています。※5

参考文献

※1…『現代の思想家 フロイト』リチャード・ウォルハイム(訳)伏見敏則1973新潮社

※2…『フロイトの使命』エーリッヒ・フロム(訳)佐治守夫1959みすず書房

※3…『自伝』フロイト(訳)菊森英夫1970…著名な医学者の生涯の記述をもったぱら20世紀医学の発端と進展にしぼあってくりひろげることを目指したR・グローテ博士編の『自伝風現代医学』叢書の一冊のようです。

※4…『まんがで読破 種の起源』原作ダーウィン、バラエティ・アート・ワークス、2009.7.10

※5…日本語版・英語版ウィキペディア「ヴィクトル・アドラー」

※6…英語版「オーストリア社会民主党」

2話【フロイトの初めてのイタリアと近代神経学への道】

 イラストは、フロイトがイタリア旅行で気になった女性をスケッチしたものに、色を付けてみたものです。

 フロイトは、イタリアがとても好きでした。

 そのため生涯で20回以上、旅行しています。

 

 フロイトの記念すべき第一回イタリア旅行は、20代の始まりともいえる20歳のとき、イタリアの最北東部にあるトリエステに、ウィーン大学の医学生の奨学生として、付属の海洋生物学実験所があったため、送り込まれたときです。

 このときのフロイトの感想は、 

 「本当にトリエステの第一日目は、この町にはイタリアの女神しかいないのではないかと感じられるほどで、感嘆ばかりしていたよ。」

 「女性たちはとりわけ独特だ。…スリムで背が高くて、長い鼻と黒い眉毛、それにやや太目の上唇ではほっそりとした顔立ちをしている。…そのなかには、一房の巻き毛を額から片目の上まで垂れるにまかせて、おしゃれを決め込んでいる者もいる。僕が思うに、こうした非対称的の極端なかたちのスタイルは、かなりいかがわしい社会階層に広がっているようだ。」(※学友に送った手紙から引用)※1

 

。。。で、その女性がイラストの女性です。

 フロイト先生の若かりし頃の思い出です。

■①フロイトのウィーン大学時代■

 フロイトはウィーン大学に17歳のときに入学しました。

 フロイトは法律を勉強しようと思っていましたが、医学部に入学することになりました。

  医学部においては、哲学ではフランツ・ブレタ―ノ( Franz Brentano)、生理学ではブリュッケ(Ernst Brücke)、更にはダーウィニストであるカール・クラウス教授(Carl Claus)らのものとで学んだようです。

 そして、冒頭の初めて体験するイタリアは、1876年にフロイトが4週間ほどイタリアのトリエステにあるクラウスの動物研究所で数百ものウナギの解剖をして男性の生殖器に関する決定的な研究をしたときのことでした。※2

■②脳の神経細胞の研究とニューロン■

 その後、1877年にフロイトはエルンスト・ブリュッケErnst Brüke)の生理学研究所に移り長い間(1881年まで)人間やカエルのような脊椎動物や、ザリガニやヤツメウシ(lamprey)のような無脊椎動物の解剖により脳を比較する研究を行っています。

 このフロイトの神経組織の生物学に関する研究は1890年代のニューロン発見に影響を与えたと言われているようです。

 生き物が細胞の集合で構成されているという認識はずっと以前からあったのですが、当時の人々は、脳だけは神秘性を帯びた特別な存在だから例外であろうと考えていたようです。そして、その不思議な能力は科学の力で解明できるはずがないと考える研究者が多かったらしいです。さらに、宗教的な立場から、畏敬の対象である聖域に科学のメスを入れることをタブーとする人も少なくなかったようです。

 そうした時流の中、イタリアの解剖学者ゴルジとスペインの組織学者カハールの二人は、脳の構造を科学的に調べあげ、「神経細胞(ニューロン)」という細胞が、脳の複雑で精巧な機能を担っていることを発見したようです。これによって近代神経学の基礎が作られたようです。

 ゴルジとカハールによって神経細胞が詳しく記述されて以降、神経科学の技術進歩はめざましく、現在では脳神経をより詳しく研究することができるようになったようです。※3

 つまり、このようなパラダイムの変換の付近にフロイトは研究を行っていたと考えられます。

 そして 1881年に医学博士を取得し、ウィーン大学を卒業しました。

3話【シャルコーとフロイトのパリ留学】

 1860年代は精神病の教科書は精神病の臨床的記述と種類しか書いてなかったようです。大学においては哲学やヴントの実験心理学などを教えていたようです。※1

■①シャルコーの時代■

 そこに現れたのがシャルコー(Jean-Martin Charcot 1825-1893)です。

 神経病理学に新たな見地を開くと言われ、「ヒステリー(器質的外傷が無くても精神的偏重が起きている状態とも受けられる感じがします)を催眠によって人為的に作りだす」ことができたようです。※7

 催眠によってヒステリー症状(現在の精神医学では解離性障害と呼ぶ。自己同一性を失う神経症の一種)を出すことが可能とシャルコーは考えたようです。そして、ヒステリーとは催眠とお暗示状態に陥って起こるものだと考えたようです。催眠療法があるわけではなく、催眠にかかりやすいという事は病気であるからと考えたようです。※7

 神経に外傷を受けて麻痺が起こる場合、体の半分など広範囲に起こることが多いようです。これは神経が束になって体を通っているためにひとつの神経のみを傷めることがないためのようです。

 そして器質的な麻痺の場合、麻痺はより脳から遠い体の部分に起こるようです。腕よりも手・指・胴よりモモさらにそのひざ下のほうに強い麻痺が起こるようです。

 一方、ヒステリーは腰が麻痺して動けないなど、一部の神経に麻痺が起こることが一つの特徴のようです。※7

 他にも言語だけ忘れてしまったり特定の色や音だけを感知しなくなったり、これらは主に脳のなかに外傷があって起こる症状ですが、ヒステリー患者には身体的外傷は見つかっていないようです。

 ヒステリー症状をは身体的外傷を持って起こる麻痺・障害患者とは微妙に違った症状となって現れる傾向があるようです。※7

 つまり、局所的で中心に近く、外傷が見られないのに神経に異常をきたしている、、、みたいな感じでしょうか。

 シャルコーは1861年にパリのサルペトリエール病院の医院長の一人だったようです。いわば養老院ともいう状態になっていたようです。生体磁気説(おそらく人間のコンディションは天体などの時期の影響によって影響されるという説)に根拠をおいたようです。そして、催眠療法及び解離データの収集を行っていたようです。

 催眠療法としては大催眠は磁気理論による本物の催眠で、小催眠とは暗示によるトランスのことのようです。

 1889年にはパリの催眠に関する国際学会において「ナンシー学派」(おそらくシャルコーの系譜)の正当性が証明されたようです。

 シャルコーの時代は、①神経症状が「心因的」性質のものである、②暗示によってすべてのヒステリー症状を現出させることができる、③知覚脱失・虚脱・麻痺・健忘の如きヒステリー性の発作現象の心的機構上の諸条件などもわかってきていたようです。※1

 ただし、「ヒステリー症がどんな風にして心から出てくるのかはわかっていなかった」ようです。※1

■②シャルコーの元へ留学したときのフロイト■

 フロイトは、シャルコーのもと1885年に留学して学んでいます。

【フロイトのウィーン総合病院時代】

 フロイトは1881年にウィーン大学で医学を修め卒業し、1882年にウィーン総合病院(Vienna General Hospital)で医療に関するキャリアを積み始めます。

ここでは2つの方向の研究が後の活動に影響しているようです。

①脳解剖学の研究は、後のコカインの緩和効果に関する一時かなりの影響力を持った1884年の論文に繋がるようです。※3

 ②失語症の研究は1891年の『On Aphasia:Critial Study』に繋がるようです。

 

3年を超えるとフロイトはさまざまな病院の部門んで経験を積みます。Theodor Meynert`s psychiatric clinic(精神科クリニック)や地元の精神病院での研修を経る内に、臨床研究への関心が高まりました。

出版された研究により、大学の講師や神経病理学の講師へ誘いがきて、1885年には無給でしたがウィーン大学で講義を行う資格が与えられました。

 

 つまり、このようにウィーン大学時代に研究した脳神経に関する研究からウィーン総合病院での勤務でコカインの研究や失語症の研究に生かし、出版や評価を受けていたということだと思います。

 ただ、この時期は学会において名声は受けていたモノの収入的には厳しいものがあったようです(ユダヤ人であるため適切な評価を受けなかったとも※7)。そのため、ウィーン総合病院に入社する1882年にマルタと結婚していますが、そのために経済的成功を収める突破口として「コカイン研究」(おそらく精神病治療としての有用性を研究)に期待を寄せていたようです。※4

 そんな学会での期待を受けていた中、フロイトは選考を経て留学奨学金が与えられたためパリのシャルコーの元へ行ったようです。※2

参考文献

※1…『無意識の心理(1916年)』ユング、(訳)高橋義孝、1977.1.1人文書院

※2…wikipedia「フロイト」

※3…英語版wikipedia「Freud」

※4…『フロイト その自我の軌跡』小此木啓吾、1973.3.20、日本放送出版協会

※5…『精神分析と自閉症』竹中均2020.9.18講談社選書メチエ

※6…『フロイトの使命』エーリッヒ・フロム(訳)佐治守夫1959みすず書房

※7…『精神分析入門・夢判断』原作フロイト2010.5.10バラエティ・アートワークス

4話【フロイトのフランス留学とムーラン・ルージュ】

 1889年、エッフェル塔で有名なパリ万博の年に、「印象派」などで触れられることもある「ムーラン・ルージュ」がオープンしました。

その「ムーラン・ルージュ」にはフロイトのお気に入りの歌手もいました。

■①イヴェット・ヴィルベール■

「ムーラン・ルージュ」がオープンした時に歌っていたイヴェット・ヴィルベールが、フロイトのお気に入りの歌手であったようです。

 フロイトは1885年、フランスのシャルコーという催眠医療を行う医師のもとに留学していますが、そのシャルコーに勧められて、「エルドラド」というクラブにて初めてイヴェット・ヴィルベールの舞台をみたようです。

 ただ見たのが1889年なので、留学中に見たのではなく、留学から帰国後精神分析の着想が固まりつつあるなか、催眠療法に関する方法を迷っていた際、改めてフランスに訪れたときかもしれません。

 丁度、その頃、ヴィルベールは「ムーラン・ルージュ」で初出演を果たしたころだったのですが、以前から「エルドラド」というクラブでも歌っていたようです。そのため、フロイトがみたときは「ムーランルージュ」でも「エルドラド」でも歌っていたのでしょう。

 そして後にフロイトの娘のアンナと、ヴィルベールが結婚した医師の姪が、アンナと友人であったことから、1926年にフロイトとヴィルベールはウィーンで面会を果たし、その後も交流があったようです。このときフロイトは70歳で、アインシュタインと文通をしていた時期でもあります。

【ムーラン・ルージュ】

ロートレックが描いたミュージックホールとして名高い「ムーラン・ルージュ」。

ここは、「フレンチ・カンカン」の発祥の地でもありました。

■②1889年■

1889年に「ムーラン・ルージュ」はオープンしました。

1889年、日本においては大日本帝国憲法された年ですが、フランスにおいてエッフェル塔が目印として建てられた第4回パリ万博が開かれた年でした。

フランス革命100周年記念に開かれた万博でもありますが、おそらく多くの人がパリに訪れることを見越してオープンしたのではないでしょうか。

■③ロートレック■

 またムーラン・ルージュやカフェ・コンセール(カフェにコンサート場がついたようなもの)などの風俗はロートレックや印象派の画家によって見事に描き出されました。

 「ムーラン・ルージュ」がオープンしたとき、ロートレックはポスターの制作の依頼をされました。ロートレックにとっては自分自身で自分自身の生活を支える収入源となったようです。

 「ムーラン・ルージュ」側は、彼のために席を用意し、さらに絵を展示したりもしたようです。

イヴェット・ヴィルベールやラ・グリュなどのダンサーの絵も描きます。

■④フレンチ・カンカンを普及させた女優■

 またラ・グリュは「フレンチ・カンカン」を普及させた女優ともいえます。

 ルノワールとも接点を持っていて、「ムーラン・ルージュ」にデビューする前に、1883年くらいから(1881年からのエラスケスやドラクロアワ・ラファエロなどの名画を巡る旅に出て、さらにシチリアでワグナーの肖像を描いた後)モンマルトルに住み働いていたルノワールがラ・グリュをアーティストや写真家のためのポーズをとるモデルグループに紹介しているようです。

 そして「ムーラン・ルージュ」で出演し人気を博し、さらにロートレックが彼女の肖像画をポスターに描くことで普及の名声を博したようです。

 そして、彼女は「フランチ・カンカン」という「カンカン・ダンス」の始まりとも言えるダンスの発祥地に「ムーラン・ルージュ」がなるほどに、大きく一躍買ったようです。

 「フレンチ・カンカン」は1840年ごろからあったのですが、当初は男性のダンスだったようです。ムーラン・ルージュの初期のイラストにおいても「カンカン」を男性も男女で踊っているシーンもあります。

 ただ、ダンス的に激しめの動きをして高い位置まで足をあげるため、次第に女性の性と結びついたダンスに発展していったようです。

 特に「ムーラン・ルージュ」が発祥の地位を持ったのは、「ムーランルージュ」の誕生によって出演料が高価なためダンスや歌う事が専業となったスターが登場することが多きく影響するようです。

※英語版「ムーランルージュ」「フレンチ・カンカン」「イヴェット・ヴィルベール」「ラ・グリュ」参照

5話【ヒステリー研究】

1895『ヒステリー研究』ブロイアー、フロイト共著。

1880年初めに、組織的失語(失明)症は「機能の脳部位になんらの障碍も認められなかったのにも関わらず、そういう諸障害を解剖学的に解明しようとした」動きがあったようです。そして、「英国に由来する「神経ショック」の説(シャルコオはこの説を極力支持した)が生じた」ようです。※1

 1861年にブローカ氏が脳のしわの中に言語機能を発見したように神経症患者の脳にも何か異変があるのではないかと思ったようです。※7

 『ヒステリー研究』ではこのような例を記載したようです。

 「最初はブロイアーの共同研究者であったフロイトは、このブロイアーの発見を数多くの事例について実証したようです。」※1

■①一般開業医への道■

1886年にフロイトはウィーン総合病院から出て、精神病専門の一般開業医となります。ユダヤ人であったため病院内での出世は難しかったとか※7、コカインの研究で悪評がたったためとかからでしょうか。

1886論文『男性のヒステリーについて』では、※7パリから帰国して医師会で発表した論文のようです。しかし、当時のウィーンでは新しい同行として自由主義、科学的合理主義が現れ始めていたのだが、古くからの伝統と因習が根強く残っていた。そのため女性の病気とされいたヒステリーが、男性にも起こりうるという事実を容認できなかったようです。※8

 ヒステリーの語源は女性の子宮を表す“ヒステロン”であり、子宮の炎症と考えられている節もあったようです。※7

 シャルコーから学んだ催眠によるヒステリーの治療法を一般開業医として実践に移したようです。治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが自由連想法であったようです。これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、この治療法を精神分析(Psychoanalyse)と名付けたようです。※8

妄想や思い込みに近いするならば催眠による「暗示」で症状を緩和することができるとしていました。しかし、催眠にかからない患者を発見しヒステリーの患者が催眠にかかりやすいという理論もくつがえされたようです。

■②アンナ・O■

 そんな際、神経症専門医ブロイエルから6年以上前に催眠術で成功した患者「アンナ・O」の話を聞く。

 重度のヒステリー症状を抱えた少女で、彼女の症状が現れはじめたのは父親が病気でなくってからで、最初の症状は失神だったようです。彼女は長い間つっききりで父親の看病にあたっていたためにかなり憔悴しきっていたようです。回復の兆しの見えない状態の様子にひどく苦しんでもいたようです。

 それから次々と症状が現れだしたようです。まず麻痺が彼女の首からはじまり、続いて腕・足へと転移したようです。次にせきがはじまりむせて苦しむようになり、食事も拒むようになったようです。それから視界がぼやけて見えていることがわかったようです。幻覚を見ることもあったようです。

 またあるときは自国語であるドイツ語を話せなくなったり、人を見分けられないこともあったようです。

 毎日決まった時刻になると一種の催眠状態に陥り、うなされ「ひどいめに遭っている!」と叫んだようです(ヒステリー患者によくみられる典型的な催眠状態)。その催眠状態のときに「何が君をひどいめに遭わせているんだい?」と質問すると、「お父さんが時間を聞いてくるの…けど私涙で目がかすんで時計がよく見えなかったの…お父さんとっても苦しそうにしていたから…」と話し終えると泣き崩れ、催眠上から目覚めて「なんだか気持ちが軽くなった」と答えたようです。

 これによって目のトラブルはなくったようです。

 その後、彼女の話を聞き続けると、ひとつひとつきっかけとなった出来事を話し終えるたびに症状は回復していったようです。

 途中自然に記憶をたどれなくったときは催眠を使って呼び起こさせたようです。

 何度も記憶を呼び起こして完全なものにするまでに時間がかかったが、その記憶にかかわる症状はすべてなくっていたようです。※7

■心的外傷■

 「アンナ・O」の話を聞いてフロイトは、「心的外傷(トラウマ)」という仮説を立てます。

 それは身体的外傷と同様に破壊的に作用し身体に障害をもたらすものと考えたようです。

 人間は身体の病気に冒されることと同じように精神も病気になりうると考えたようです。しかし、これらは人間の精神的な弱さも原因の一つとなっていると考えたようです。

 人間は自身でも承認できない感情を抱いたとき、その感情をなかったものにしようと「抑圧」すると考えたようです。そうして、自身の精神を傷つけるものに立ち向かうより病気として考えることを選んだと考えたようです。

 しかし一度生じた感情エネルギーは進展しようとするし、心の外に出ようとして別の発散を見出そうとするようです。隠された感情は姿形を変えて病気や恐怖・脅迫といった形で現れると考えたようです。そうすることで常に自分に注意を引きつけていると考えたようです。※7

6話【フリースについて】

➀ヨーゼフ・ブロイアー

 1889年フロイトは再びフランスに行っている。催眠カタルシスが催眠暗示療法どちらをとるか迷っていたため、催眠暗示で名高いフランスのナンシーに数週間滞在した。帰国した彼は、以前から交流のあった催眠カタルシスの先輩ヨーゼフ・ブロイアーと共同研究を始めた。

 その中で、回想の連鎖の行きつく先が必ずと言ってもいいほど幼児期の性的体験に辿りついていたため、カタルシス療法から自由連想法を発想する(wiki「フロイト」)

 

 ヨーゼフ・ブロイアー(Josef Breuer)はカタカナで書くとユングの師でもあるオイゲン・ブロイラーと似ているが別人である。

 1842年ウィーン生まれ(~1925)。

 1858年ウィーン大学医学部入学(フロイトは1873年入学)。

 1867年に内科医ハン・オッポルツァー(Johann Oppolzer)の助手

 オッポルツァーは1860~1861年にウィーン大学学長をしている。

 オッポルツァーの生徒にAdam Politzer(1835-1920)がいる。

 Adam Politzer was Austrian physician and one of the pioneers and founders of otology. Politzer was a prolific inventor of new medical devices for the diagnosis and treatment of ear diseases. One of his biographers, Albert Mundry, stated that Politzer was “ the greatest otokigist of the 19th century and one of the greatest of all time, he covered all field of otology.” ブロイアーも影響を受けているだろうか。

 

 更にhttps://www.politzersociety.org/index.php?func=Content&ID=686によると、Johann von Oppoltzer(1808-1871), one of Politzer’s teachers, was a great promoter of specialization and of its young represaentatives(代表者). He encouraged the Viennes medical school to promote otology and proposed to train an otologist through contact with the most prominent European specialists of the subject. He choose Politzer in this role to render the Viennese school of medicine able to compete in this field with other European. 1860 Politzer began his training in otology.オポルツァーが1860~1861年鵜ウィーン大学の学長をやっている。

 1868年に軍医学校でエヴェルト・ヘリングの下で働き、呼吸と迷走神経の関わりを示す研究報告を行った。

 へーリング・ブロイウェル反射(Hering-Breuer reflex)というのがあり、外呼吸に関する反射のひとつ。吸息時に肺が進展すると肺進展受容器が刺激され、その信号が迷走神経を通って延髄に届くと、吸息が抑制されるというもので、肺の過度の膨張を防ぎ、また呼気リズムの発生に役立っている。Wikiより

②ヴェルヘルム・フリース(1858-1928)

 

 フリースは1887年にたまたまウィーンにきて、ブロイアーの紹介により、フロイトと出会ったようです。

 フリースはただの耳鼻科医ではなく、有名なヘルツホルム学派の信奉者として、生理学と医学は、究極的には、物理学と数学によって解明されることを理念として、神経症理論に興味を持っていたため、フロイトは親交をもったようです。

 これはあくまでも個人的な推測でしかないのですが、近代心理学の祖であるヴントはヘルツホルムの助手をしていて、その後1879年に心理学の実験を行っています。また1882年にクレペリンがヴントの実験に参加して、クレペリンはその後精神病を「早発性痴呆」と「躁うつ病」に分類し、さらにクレペリン検査などの作業曲線を作っています。そのため、心理を読み解く科学としてヘルツホルムはフロイトにとって興味があったのではないでしょうか。

『心理学草案』は1895年(無意識の発見と同時期)にフリースに個人的に書き送った原稿になります。フロイト自体は処分したと思っていましたが、フリースの死後に愛弟子マリー・ボナパルトが購入し、フロイト亡命の手配と同じくロンドンへ渡り現在まで伝えられた草稿のようです。※5

『心理学草案』を送ったころ、フロイトはブロイアーと学問上の意見を異にしはじめていたようです。O・アンナの治療から退却し、ブロイアーは性愛の役割も賛同していなかったようです。

そしてブロイアーの支持を失い、学界からも(おそらくコカイン研究で中毒性が報告されていたため)孤立してから、フリースはフロイトにとって唯一の精神的支柱となっていたようです。※5

フロイトのこの著作は、大部分臨床的なアプローチに基づいており、彼の出発点は治療、中でもヒステリーの治療であったが、まもなく彼は、幾つかの仮説や基本的概念や『原則』を設定する事が不可欠であり、それがなければ現実の臨床は理解できない、と考えるようになっていたようです。※5

[草案の内容]

 第一部は、心の働きを「量Q」の増減均衡によってとらえたようです。

 この均衡は1900年前後のゴールトン・ピアソンらの統計学の標準偏差やワルラス・メンガーの一般均衡理論などと視点が似ているようにも感じます。

 ①外界(知覚)からの刺激はφニューロン(透過性)によって、②内界(記憶)からの刺激はΨニューロン(非透過性)によって①φニューロンからの量(φとΨの共同)と②再生あるいは想起によって、量Qが与えられると考えたようです。

 一方、量Qでは質を書くため、ωニューロンが外的量を質へと転換するための仕組みから成っているようです。周期は時間的性質のようです。これは感性的質の諸系列と考えるようです。

 一方、「量Q」は快・不快感覚の系列とし、快原理が神的装置にとって基本原理であるのはすなわち、質的ではなく量的メカニズムこそが心的装置の核心をなしていることを意味するようです。

 心的装置の「一時的な」傾向として、(外界からの刺激による)動的攪乱状態をできるだけ避けようとする、つまり涅槃原理とし快が絶対量と関わっているという解釈を下敷きにしているようです。

 Ψの水準が量的に高まるとωにおける備給は時間的変化から増大し、逆にΨの水準が低下すると減少するというもののようです。

 現実原理として快原理が何らかの変形を被って、そのメカニズムに部分的修正が加えられて初めて、現実を考慮する2次的な原理が出来上がるようです。

 夢を一次過程(快原理)とし目覚めを二次過程とするようです。

 

 エディプス・コンプレックスの克服とは快原理から現実原理への転換で量の変化速度(部分係数)の世界から、積分された量の大きさの世界への転換のようです。

 通道(一次過程において最初に記憶が生成する過程)とは「接触障壁」のメカニズムには、「自由エネルギー」(内包量)一次過程においては、量を次々に足していくという加算操作が成り立たないようです。通道はおそらく一回kりの大きな量の【SE/GE経過】成果であるようです。

 二次過程「拘束エネルギー」(外延量)とは「側面備給」メカニズムのようです。ニューロンを流れる量を「拘束」(binden)するようです。その結果、複数回の小さな量の繰り返しが「束ね」られて、一回の大きな量と同じ効果をもたらすようになるようです。

 一次過程から二次過程への転換は不可逆的な一回限りの変化ではなく、最強度の部分の抑圧が続いている限り維持されているにすぎないようです。つまり、二次過程は一次過程の「緩和」に過ぎないようです。

 一次過程・快原理に基づき快不快を外界と内界から受け、二次過程は現実原理で知覚と表象によって受けると考えられるようです。

 

※1…『無意識の心理(1916年)』ユング、(訳)高橋義孝、1977.1.1人文書院

※2…wikipedia「フロイト」

※3…英語版wikipedia「Freud」

※4…『フロイト その自我の軌跡』小此木啓吾、1973.3.20、日本放送出版協会

※5…『精神分析と自閉症』竹中均2020.9.18講談社選書メチエ

※6…『フロイトの使命』エーリッヒ・フロム(訳)佐治守夫1959みすず書房

※7…『精神分析入門・夢判断』原作フロイト2010.5.10バラエティ・アートワークス

※8…https://navymule9.sakura.ne.jp/Freudian_narcissism.html

フロイトの生涯

1900年『夢判断』

1905年性理論に関する論文

第一次世界大戦

『夢解釈』が敷いた路線の大きな断絶のきっかえとなったのは、第一次世界大戦の惨禍であるようです。

「シェル・ショック」と呼ばれた戦争神経症が登場し、「死の欲動」という新しい考え方を導入し、快原理の解釈事態を考え直す必要性を感じているようです。※5

第一次世界大戦の時に、フロイトは、熱烈な愛国者であって、まず、オーストリアの、次いでドイツの攻撃を自慢したようです。そしてほとんど四年間というものは、戦争主義とその中心勢力の目的に対して、批判的な疑問を持ったことは一度もなかったようです。※6

紹介文献

●『無意識の心理』1916年ユングが出版

…1912年にユングが論文『心理学の新しい軌道』において、専らフロイトによって唱えられた心理学的把握方法の紹介していたようです。

 ただ、ユングはその後、フロイトと訣別しているため、以下のような修正を加えたようです。

 そしてそれに校閲を加えたのが本著のようです、「フロイトに対する様々な議論は短縮したが、その代わりにアードラーの心理学の紹介にも努め、著者自身の諸見解の一般的入門書たらしめようとした」ようです。また「本書を書いた意図は、無意識の心理学の本質に関する最新の諸見解のあらましをご紹介しようというにあった」ようです。

 また「現在の戦争(第一次世界大戦中)に伴う色々の心理的事象…は、秩序を持った意識の世界の下に不穏にまどろむ混沌の無意識という問題を精神的人間の眼前に据え置くのにこの上もなく適している」と述べ、無意識というものが語るのに有効な時期にきていると述べているます。

 「個人の心理は諸国民の心理に照応している。人類の大問題の数々はただ一度といえども一般的な法則によって解決されたことはなかった。それはつねにただ個々人の態度の更新によってのみ解決されたのである」と個人と諸国民の心理の関係も述べています。※1

参考文献

※1…『無意識の心理(1916年)』ユング、(訳)高橋義孝、1977.1.1人文書院

※2…wikipedia「フロイト」

※3…英語版wikipedia「Freud」

※4…『フロイト その自我の軌跡』小此木啓吾、1973.3.20、日本放送出版協会

※5…『精神分析と自閉症』竹中均2020.9.18講談社選書メチエ

※6…『フロイトの使命』エーリッヒ・フロム(訳)佐治守夫1959みすず書房

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