目次
1章・鉄道計画の意義とはじまり
➀大隈重信の鉄道の意義の回顧■ ■②ハリー・パークス経由の鉄道敷設の意見書

2章・大隈重信と伊藤博文の鉄道計画
➀大隈重信と木戸孝允と伊藤博文■■②大隈と伊藤の鉄道計画

3章・高島嘉右衛門の貢献と開業
➀高島嘉右衛門■ ■②レイ借款■ ■③嘉右衛門の埋立■ ■④開業

【1章・鉄道計画の意義とはじまり】

 日本の最初の鉄道は1872年の品川⇔横浜間の京浜鉄道と言われますが、この鉄道の計画から敷設までを、大隈重信・伊藤博文・パークス・高島嘉右衛門の4者を中心に記述していこうと思います。

■➀大隈重信の鉄道の意義の回顧■

 大隈重信は『大隈重信自叙伝』において、

 明治維新後の交通事情を「封建の世に在りては、その制度の例習として各藩何れもその境域(領域)を守り、相互の往来交通を厳重にするため、故らにその道路を迂回せしめ、且つ務めてこれを険阻の地に導きて開通せしめるのみならず、山脈の連亘(長くつながりつづくこと)したる島国の常として平地は至て少なく、山岳巉然(高く険しい様)として南方の海岸に突出せるを以て、道路の迂回険悪特に甚だしく、従って運輸交通の不便実にたえざるものあり」、、、と述べています。

 更に「且つ道路の険悪不便なる、かくの如くして修善するところなくんば、個々分裂したる大小の藩々を統率するに甚だ困難なるものあらん。…単に運輸交通の土より見るも、速やかにその険悪を治め、その不便を去り、四通八達の便を画るは実は今日の急務なり」、、、と交通の改善の意義を説いています。

 そして「四通八達の便を図り、運輸交通の発達を努めんには、鉄道を敷設し、且つこれと同時に電信を架設して全国の気脈を通ずること、実に最急の要務なり。而してこれただに運輸交通を便にするのみならず、その封建の旧夢を破り、保守主義連、言い換えれば、「攘夷家の迷想を開き、天下の耳目を新たにして、『王政維新』の事業を大成するに少なからず利益を与うることならん」」、、、と鉄道の意義を述べています。※3

■②ハリー・パークス経由の鉄道敷設の意見書■

 鉄道の模型などはもう少し早く伝わっていますが、1868年1月17日幕府老中小笠原長行がアメリカ領事館に江戸と横浜間の鉄道設営免許を与えたことが日本の鉄道の始まりとも言えるようです。

 その後1869年に英国公使ハリー・パークスが「鉄道建設を急ぐべきである」という意見を提出したのが直接的に影響するようです。※6

 これは1869年3月15日に灯台建設の指揮をとっていた鉄道技師フラントン(お雇い外国人第一号で神奈川沿岸の灯台建設のため来日している英国人)が、突如として鉄道敷設建白書を太政官政府に提出したことだと思われます。

 その内容は首都の東京と開港地の横浜を結ぶ短区間に≪見本鉄道≫を敷設するという上策として、その建設費用と輸送収益を見積もったものだったようです。

 この意見書は英国公使パークスが英国人のお雇い外国人であるフラントンに作用してなされたもので、パークスと大隈は多くの交流を持っていたため、大隈とパークスはこの建白書をもとに協議を持ったようです。※7 

【2章・大隈重信と伊藤博文の鉄道計画】

 今回は大隈重信と伊藤博文に重点をおいて論じます。

■➀大隈重信と木戸孝允と伊藤博文■

 大隈重信は佐賀藩の鍋島斉正の時代に父親が長崎の大砲に関わる仕事をしていた事もあり洋学を志向し、来日してきたフルベッキを佐賀藩が長崎に設置した「致遠館」で招いたりして学びを深め、明治維新後に井上馨が長崎裁判所にきて有能な人材を探していた際見出され木戸孝允に推薦されて政府の為に働くようになり、隠れキリシタンの浦上四番崩れなどの件で英国公使パークスとの交渉で手腕を発揮し(この後長らくパークスと交流を持ちこれがパークスの鉄道敷設の建言の協議と繋がる)、東京の政府で働くことを命じられ1869年には木戸派No.2であったため、巨大な権限をもつ大蔵省の実力者として殖産興業政策推進していきます。

 1869年7月8日、「大制度改革」により太政官、太政・左・右大臣・大納言と参議・神祇官並び、民部・大蔵・兵部・刑部・宮内・外務六省と長官(卿)に組織が整えられました。

 この改革が進めれる際、木戸孝允は改革を推進しようと大隈重信を「参与」にするよう建言しましたが実現せず、木戸は憤って、元来病気がちであったのを理由に休暇を求めています。

 結果として、大隈重信は7月8日に大蔵大輔(次官)に任じられたにすぎないこととなっています。

 その後、大隈重信は7月22日に民部大輔、8月12日に大蔵兼民部大輔となっています。

 そして伊藤博文は7月18日に大蔵小輔、8月11日に民部少輔となっています(~1870年10月)。

 また木戸は8月上旬に気を取り直しているようですが、これは大隈や伊藤を、大蔵省と民部省という財政と地方行政を担当する最重要長官の中枢に入れることができる見通しがついたからと推測されるようです。※5

 そして大蔵兼民部少輔の伊藤博文と、大蔵兼民部大輔である大隈重信とともに殖産興業政策の一環として鉄道建設を強力に推し進めました。※4

 パークスと交流を持っていた大隈は、1869年3月15日のパークスの作用によって作られたお雇い外国人フラントンの意見をもとに、協議を重ねたようです。

■②大隈と伊藤の鉄道計画■

 大隈・伊藤が鉄道計画を立てたのは1869~1870年と考えられます。

 その計画は井上馨(造幣局、後に大隈の仲介で結婚をしている)と渋沢栄一(民部省、大隈の説得があり入省している)に話したところ「賛成せざりしにあらざれども、時の情勢に危ぶところあり」が「斥けかかる反動の気焔を挫かんには、かかる大事業を企成して天下の耳目を新たにするに如くはなし」と答えています。※3

 また三条・岩倉・大久保を説きました。

これは1869年11月5日、右大臣三条実美の東京邸宅において、岩倉具視(大納言)、沢宣嘉(外務卿)、大隈重信(民部兼大蔵大輔)、伊藤博文(同少輔)がパークスと非公式に会談したことがあたると思います。

大隈と伊藤が事前にパークスと協議した脚本どおりに議事は進行します。

「折から東北・九州は凶作に見舞われ、北陸・近鉄は反対に豊作と聞く。鉄道があれば豊作地の米を凶作地に短時間で大量に輸送することが可能になり、以降の日本は凶作への不安から解放される」というパークスの主張に三条・岩倉ともに手を打って賛同したようです。

11月10日には鉄道敷設が正式に廟議決定されました。

その内容は「幹線として東西両京[東京⇔京都]を結び、支線として東京⇔横浜線ならびに琵琶湖⇔敦賀港線を敷設するが、その第一着手線としたのは、ときの政治拠点と外交拠点を直結するという意味以外に、爾後の鉄道拡張に必要な資材を外国から輸入する港湾の確保という意味もあったようです。※7

 12月には廟議で東京と関西を結ぶ幹線と、枝線として東京都横浜間の計画が決定し、手始めに東京~横浜間の建設になったようです。

 この時に決まった東京~関西のルートは、中山道沿いを通るものであったようです。山間部の開発に繋がることと、海に近い東海道では軍艦からの攻撃を受けやすいので避けたい、という陸軍の意向があったようです。※6

 ただ大隈重信は『大隈重信自叙伝』にて「その計画は、鉄道敷設の起点を東京とし、横浜より折れて東海道を過ぎり、京都・大阪を経て神戸に達するを幹線と為し、京都より分かれて敦賀に至る支線を敷き、この幹線と支線とを以て第一着手の敷設線路と為し、これより漸次してついに全国に及ぼさんと図りしなり。」と述べています。※3

 前述の1869年12月廟議の計画とは東海道ルートを通ることで変更をされていますが、中山道ルートは山間部の開発があまりにも大変なため中止になったようです。

 そして資金は外債募集に頼りました(後に記述する「レイ借款」にも頼ろうともしました)。

そのため「我が神洲の土地を典じて外債を募集する」という陸軍・兵部大輔の前原一誠を筆頭とする反対があったようです。「(鉄道を建てる試験のための)電信線を傷け電線を切断する」などの行為があったようです。※3因みに兵部の西郷隆盛の反対があり、最初の京浜鉄道は陸路を使う事ができず海を埋め立てて通したとも言われています。

 また枢密院議長たる黒田清隆はそのときは大反対であったようですが、1871年1~5月のアメリカ合衆国・ヨーロッパ諸国を旅行して鉄道の重要性を体感し、賛成に転じたと大隈は述べています。※3

【3章・高島嘉右衛門の貢献と開業】

 日本初の鉄道は大隈重信と伊藤博文の計画が実現したというだけでなく、高島嘉右衛門という人の意志によって私設による鉄道という精神が芽生えつつありました。

 今回は高島嘉右衛門の登場から、鉄道開業までを論じます。

■➀高島嘉右衛門■

廟議によって鉄道敷設が正式に決定した1869年11~12月の少し辺り(12月末か1870年1月半ば)に「高島屋」という政府高官や外国人を受け入れる旅館に、以前から常連だった大隈重信と伊藤博文が訪れた際、旅館の経営者・高島嘉右衛門は「(鉄道が敷設されたなら)全国 都鄙の往来は自在となり、物流も大いに促されて物価も平均となりましょう。諸県の数もまた減じて、国庫の費えも節約できます。一朝有事の際しては、兵の動員や兵站の輸送も円滑となりますし、維新回天によって失職貧窮の憂き目を見た士族を鉄道敷設に動員して衣食の糧を与えますれば、必ずや富国の基礎をなすことになりましょう。」と語りました。

更に「身を挺して鉄道敷設の任にあたりたき所存。私はすでに米人建築師ビジン(ブリジェンズ)と組んで何件もの普請請負をしておりますから、設計図さえあればどんな大建築も即座に予算を立てて仰せの期限どおりに仕上げて御覧にいれます。さしあたり横浜⇔東京間に路線を敷いてはいかがでございましょうか」と語りました。※7

 高島嘉右衛門(1832-1914)は父から材木店「遠州屋」を1855年に継ぎましたが財を成し、1867年に横浜には政府高官や外国人を受け入れる旅館がなかったことから、和洋折衷の大旅館「高島屋」を建設しました。そして政府高官などと人脈を作る社交場として利用されたようです。※2

 ただ、本業は土木建築の請負で異人館建築(このときブリジェンスやブラントンらと働いたようです)や土木事業で蓄えた私財を投じて和洋折衷の料理旅館を建てたようです(1869年夏から秋のようです)。そして旅館経営をしつつも材木商兼普請業も並行して以前行っていたようです。

 そのため、「高島屋」で大隈・伊藤に鉄道敷設の話を持ち掛けたようです。

 また嘉右衛門はブリジェンスや横山(ブリジェンズらの通訳)を介して、ブラントン(英国の鉄道技師でお雇い外国人一号)、パークス周辺の人びとから鉄道建設の動きをキャッチしていたと考えられるようです。

■②レイ借款■

 嘉右衛門自身は一個人での敷設を志向していたようです。

 そのためホレーシオ・ネルソン・レイ(パークスらに紹介された英国の紳士で、トラファルガーの海戦で有名なホレーシオ・ネルソンの末裔と自称)という英国人と鉄道建設の融資契約をして本格的に建設を考え始めます。

 しかし、ホレーシオ・ネルソン・レイは伊藤博文・大隈重信とも融資契約をしていました。

1869年11月10日鉄道敷設の正式決定した2日後には大隈重信と伊藤博文はレイと仮契約(レイ借款:100万ポンドの借款で、30万ポンドは鉄道敷設に使い、残りは外債償却につかったといいます)をしていました。※7

またレイによって「(大隈重信が外国では鉄道の軌間[ゲージ]基準がどうなってるか尋ねると)日本のような川や山が多く平地が少ないところでは、南アフリカなどに敷設されている3フィート6インチ(1067mm:ケープゲージ)が適当」と勧められて導入しています。

ただこれはレイが同じケープゲージを採用していたインドの中古資材を購入して、その利ザヤで儲けをたくらんでいたための回答で、通常の欧米よりも狭い軌道であったようです。そのため、後に大隈重信は「一生一代の不覚」と反省しているようです。※8

 そのため高島が鉄道敷設請願書を作成して大蔵大輔の大隈に提出したところ、この請願書は通らず、レイと高島の契約は破棄されたようです。

 ただ、1870年5月20日に英国から『タイムズ』大隈らのもとに届き、4月23日にレイがロンドンにおいて公債公募による詐欺を行っていた記事を読み、すぐにこの「レイ借款」を解除するという騒動になりました。

■③嘉右衛門の埋立■

 「レイ借款」の詐欺による騒動とほぼ同じくして、大隈は以前鉄道建設の打診を受けた高島に対して共同事業者としての打診をはかりました。

 ただ、このとき嘉右衛門は辞退して、「鉄道をできるだけまっすぐに敷くためにも、この高島嘉右衛門に同所(神奈川の青木橋[現在の京浜急行神奈川駅横]から横浜の石崎に至る深い入り江、工事の最大の難所)の海面埋立をお任せ願えないでしょうか」と申し出ています。

それを受けて一応公開入札という形で1870年5月26日に嘉右衛門と大蔵省が契約しています。鍋島家が工事に要する資金融通をしたといいます(佐賀とは普請業の昔からなじみがあったようです。途中から南部家が融通したといいます)。

そして1871年2月半ばに埋立を竣工しています。

 

この嘉右衛門の話によれば、線路短縮のため横浜港埋め立てを実行したようです。

ただし、埋立自体は陸軍の西郷らの反対によって陸地を使えなかったことが端をなしているようで(おそらく前原一誠らの外債の際の反対と流れ的には同じだと推測されます)、その埋め立ての中でも更に短縮を図るために難所を嘉右衛門が埋め立てたということだと思います。※7

また埋め立て開発したものには鉄道線路を除きその土地を永代拝領するという条件が新政府から出されていましたが、高島はそれを政府に献上したため、その偉業をたたえて線路が敷かれた土地の一部を「高島町」と名付けられたようです。※2

■④開業■

 1871年7月半ば、横浜港にイギリスから届いた機関車と客車が陸揚げされました(基本的にこの京浜鉄道は外国からの中古品や流れものによって構成されていたよう※8)。

 パークス経由の意見書を始めとして、全体的には日本最初の敷設はアメリカよりもイギリスが優位性を持ちました。

 そのためアメリカへの配慮として、横浜駅(現在の桜木町の駅の位置)はアメリカ人のブリジェンズが駅舎設計をしたとされるようです。

 11月6日には、岩倉遣欧使節により伊藤と岩倉は日本に不在になったため、日本初めての鉄道の開業は留守政府の大隈のもとで行われることになります。

 1872年5月7日(あるいは6月12日とも)に品川-横浜間で仮営業を始めました。

そして1872年9月12日(あるいは10月14日)に開業しています。

【参考文献】

※1…Wikipedia「日本鉄道」

※2…Wikipedia「高島嘉右衛門」

※3…『大隈重信自叙伝』岩波文庫

※4…Wikipedia「伊藤博文」

※5…『伊藤博文』伊藤之雄、2009.11.5講談社

※6…『鉄道の歴史』時空旅人Vol.19、2014年5月号臨時増刊・三栄書房

※7…『高島嘉右衛門』松田裕之、日本経済評論社、2012.8.10

※8…https://diamond.jp/articles/-/247303?page=2 「国鉄のレール幅を決めた大隈重信「一生一代の不覚」とは?」

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