キャッシュレジスターの登場から食料品チェーンストアの始まりまでを、レジスターの高いシェアを世界において獲得してく会社「NCR」と絡めて論じます。
目次 |
■➀キャッシュレジスターの登場■ ■②NCRの登場■ ■③パターソンの商売■ ■④トーマス・ワトソンとNCR■ ■⑤食料品チェーンストアの始まり■ |
■➀キャッシュレジスターの登場■
キャッシュレジスターは1879年にジェームズ・リッティによって発明されたと言われています。
ジェームズ・リッティ(1836-1918)は南北戦争を経験(オハイオ軍第四オハイオ騎馬隊)後、1871年はアメリカのオハイオ州デイトンに「ピュア・ウイスキーと美味しいワインとタバコのディーラー」と彼自身が称するサロンを開きました。
しかし、そのサロンの従業員で会計の際お金を横領するものがいて、なんとか防ぎたいと悩むようになりました。
1878年にヨーロッパ旅行の蒸気船の旅の間、蒸気船のプロペラ(スクリュー)が何回回ったかを数える機械に興味を持ち、この原理を使って自分の店の現金取引を記録するために応用できないか考えるようになりました。
そして1879年に「リッティの公正なキャッシャー(Ritty’s incorruptible Cashier)」という名称でレジスターの特許を取ったようです。
そして製品化されたレジスター(Ritty Model Ⅰ)は、レジ係が会計を始めるとベルが鳴るシステムで、数字のキーを押すと引き出し(ドロアー)が開くともにベルが鳴り、会計を行っていることを支配人(マネージャー)に知らせることによって監視できるような機械だったようです。
ただこのレジスター自体の機械の構造はあまり文献を調べた限りは、キーを押すことで金額を表示するとか単純な加算器だったという記述しか見つけられませんでした。
加算器だったとすると、一番キーボードを押すタイプでRitty Model Ⅰと見た目が近いキーで運用する加算器「コンプトメーター(Comptometer)」という機械が1887年にアメリカで商業的な成功を収めています。また1889年にコンピューターの原型とも言える「コンプトグラフ(Comptograph)」(こちらもキーで入力して計算するマシン)が登場しています。
このリッティのレジスターはコンピューターや計算機の歴史などでは調べた感じだとないので、おそらく技術的にはまもなく加算器やコンピューターが登場する背景となる当時あった技術を使って構成したのではないでしょうか。
■②NCRの登場■
その後、リッティはサロンを経営しながらレジスターの製造をする「ナショナル・キャッシュレジスター」という会社を作りましたが、サロンの経営に集中するため、キャッシュレジスターの事業は売却して1882年に「ナショナル・マニュファクチャリング・カンパニー」になっています。
そんな中、このリッティが作ったレジスターに惚れ込んだジョン・ヘンリー・パターソン(John Henry Patterson 1844-1922)が株式の過半数保有者となり、後にキャッシュレジスターの全世界の90パーセントのシャアを占めることになる「NCR(ナショナル・キャッシュ・レジスター:因みにパナソニックが海外で「ナショナル」ブランドを普及させられなかったのはNCRが「ナショナル」を商標登録していたため)」という名前の会社に変えました。
パターソンは、リッティのサロンがあったオハイオ州デイトンの近郊の農家で生まれ、リッティと同じく南北戦争の義勇兵として参加したが実戦は経験しませんでした。その後、ダートマス・カレッジを1867年に卒業し、運河の通行料金徴収係として働きました。
その際、石炭を販売する副業を始め(通行料金徴収所の事務所を利用したよう)、計量が正しく配達が迅速でかならずレシートを発行したためその小さな町の商売を独占し、遂には炭鉱を譲り受け1870年にはオハイオ州の南にあるジャクソン群では最大の「南オハイオ石炭&鉄会社(The Southern Ohio Coal & Iron Company)」の株を買い所有地の管理を引き受けるまで至りました。
そこで会社が経営している売店も管理することになったのですが、赤字であることに気付きました。商売の見込みとしては黒字になるはずなので、おそらく従業員による横領も視野にいれ、1879年にリッティによって特許が取得されたレジスターを発明したのを何かで読み、それを売るナショナル・マニュファクチャリング・カンパニー(1882年にリッティが株を売り払った会社)から「リッティの公正なキャッシャー」を二台注文しました。
そして見事黒字となり、このレジスターに惚れ込んだパターソンは、1882年にこの会社の株を買い取締役に名をつらね、更には営業陣を整えて国中に金銭登録機を売り込もうと目論みました。その後ひと悶着あり、遂に1884年この会社の株の大部分を買い経営権を譲り受け1885年に新社長となり、会社名をリッティの頃の「ナショナル・キャッシュ・レジスター(NCR)」に戻しました(リッティに思い入れがあったというよりは、おそらくレジスターを売る会社という志向性からだと思われます)。これが現在のNCRに繋がります。
■③パターソンの商売■
この頃にはレジスターの競合も多く登場してきたようですが、パターソンの当時最も大胆で独創的な商売によって差別化され圧倒的なレジスターのシェアを獲得していきます。
その商売とは、自社の営業マンとは自分の手でふさわしい形に作り上げようと考え、のちの世代の人たちが“企業イメージ”と呼んだものを作り出そうとし、現場の営業マン全部にそれを浸透させようとしたものでした。
NCRでも初期には、利益は製造者から生じるもので、販売者から生じるものではないという考えがはびこっていました。そのため、営業マンのイメージは悪いものでした。しかし、パターソンは製品は売られなくては価値がないのだから、営業マンは企業の不可欠なパートナーだ、と強く考えました。
そんな事もありNCRの営業マンは米国中でいちばん報酬が良かったので一生懸命働く意欲に燃えていたようです。
そして機械を生産するのと同じくらいの費用を、販売促進に注ぎ込みました。具体的には、パターソンの説によれば、米国は少なくとも国民四百人につき一台の金銭登録機を必要としているとしました。そこから担当地区と人口から見込み客を選出し、18通りのアプローチを変えた手紙を18日間毎日1通ずつ送りました。
またパターソンはよい顧客関係と最上の企業イメージの必要性を感じていたため、アフターサービスにも力を入れました。そこには自分が売るのは製品ではなくサービスであり、それが購入者の利益増大に結びつかなければ、NCRは一件一件の売上だけでなく、市場まで失うことになると考えがありました。
最上の企業イメージを作り出せば口コミが広がり、さらに一度買った顧客が新機種の更新もしてくれるとも考えたようです。
また1894年にはNCR独自の営業哲学徹底のため正式なトレーニング・スクールを作り、『NCR入門読本―いかにして金銭登録機を売り込むか』という基本教科書を義兄弟であり凄腕の営業をするジョーゼフ・H(おそらくヘンリー)・クレインの方法から学び作り、スクールで配り知識を叩き込みました(応用よりとにかく叩き込むことを重視したようです)。
■④トーマス・ワトソンとNCR■
このように独特な商売の教育を行ったため、パターソンと同じ型の経営者を何十人も育てた点で、米国経済界に与えた影響が大きかったようです。
その育てられた経営者の中にIBM初代社長になるトーマス・ジョン・ワトソン(1874-1956)がいます。ワトソンはトレーニング・スクールができた翌年1895年にNCRに入社しています。
ワトソンは1893年に田舎から大きな町ニューヨーク州バッファロー(Buffalo,NY)に仕事を求めてやってきました。田舎で営業をしていたのですが成績に関わらず一律の賃金であったため、営業による手数料を払ってくれるような仕事を求めにやってきたのです。
1893年はシカゴ万博が開かれた年でありましたが、今までにない経済恐慌(Panic of 1893)が起こった年でもありなかなか仕事が見つかりませんでした。しかし年配のセールスマンと知り合う機会があり、投資による儲け方や株の売りかなども学びました。
そして、丁度このころ食料品のチェーンストアが流行り出したところで、ワトソンもブームにのり、バッファローに肉屋の店を持ちチェーンストアを作ろうとしました。
計画としては、店員を雇い店の経営を任せ、ワトソンは店からの儲けを再投資し資金を増やし、さらに年配のセールスマンと行っていた株のセールスの手数料も含め、肉屋の資金に
していくという方法でした。こうして資金が大きくなり、次々と肉屋の店舗を作りチェーンストアとして機能させていくというものでした。
計画は良いもので実現可能性が高いものだったのでしたが、なんと最初の店を開いて間もなく年配のセールスマンがワトソンの資金まで横領して町から消え去ってしまい失敗に終わります。
ただこのとき肉屋の経営を店員に任せる際、売り上げを胡麻化されないように信用買いしたNCRのレジスターを返しに行くとき、ふと思い立ってNCRの営業に応募したのが、ワトソンとNCRの始まりでした。
この後、パターソンと合い独特な経営手法を学びIBMに繋がっていきます。
■⑤食料品チェーンストアの始まり■
さて、ワトソンがNCRと合流したという事も大切ですが、NCRがレジスターのシェアをパターソンに伸ばし始めた頃、食料品チェーンストアが流行り出したというのも重要です(後にレジとセルフサービスとチェーンストアなどが結びつきスーパーマーケットの本流となるため)。
チェーンストアは、19世紀後半には都市の中心地に百貨店が成立したが、中心地以外において新しい小売形態として勃興しつつあったもののようです。これは同一所有のもとに複数の店舗を所有し、中央での一括集中仕入れにより、薄利多売を目指すチェーンストアです。
登場した要因としては食料雑貨が差別化できない一般的なステープル商品(staple merchandise、必需品)であり、身近な店で買うのが消費者の購買慣習であったことから、都市人口の増大により、多数の店舗の追加が可能となったためと考えられるようです。本格的に発展するのは自動車の普及と中小都市が本格的に発展する1920年代ですが、19世紀後半には登場し始めていました。
方法論としては、百貨店が一店舗の規模を拡大したのに対して、チェーンストアは店舗を追加して成長したのです。また、多数の店舗で販売する商品を本部で一括購入するため、大量仕入れによる規模の経済を享受でき、薄利多売を最も強力に推進することができます。そして、廉価販売のために、従来おこなわれていた商品配送や掛売りなどのサービスを廃ししたり、また多数ある店舗は同じ設計で、買い物客はどこの店でも同じ商品が購入できるように、商品と店舗の標準化が行われ、販売の合理化が進められたのです。
具体的にはチェーンストアは一般的には1859年に紅茶やコーヒーを販売するA&P(The Great Atlantic & Pacific Tea Company)にから始まったといわれています。ただ、この時点では紅茶やコーヒーのみの販売であり食料品のチェーンストア(Grocery chainという概念で括られる)ではありません。
1878年からA&Pの支配人となったジョージ・H・ハートフォードによって始められたようです。
ハートフォードが支配人となった1880年代初めには、まだA&Pは紅茶とコーヒーと砂糖のみを販売していました。しかし、息子ラドラム(Ludlum1864-1957)が入社して、ベーキングパウダーなどを製造ラインに追加するように説得し、他にも提供するアイテム数を増やすための会社を立ち上げました。そしてこれによって、会社名を製品ラベルにつけることによりチェーンストアが自社ブランドで製品を販売するという形態を作りました(これがGrocery chainという概念になるようです)。
ただ、その後、コンデンスミルク、スパイス、バターなど他の自社ブランド製品を追加していきました(通信販売やワゴン・ルート・オペレーションなども導入)が、食料品チェーンストアを取り入れた競合が急速に成長し、1900年にはすでにA&Pの食料品チェーンストアの創始者の優位性はあまりなくなりつつあるようです。
そして、このA&Pが1880年代に作り出した食料品チェーンストアが1890年代に流行り始め、その流れでワトソンが肉屋のチェーンストアを経営したときと繋がるものと思われます。
※参照文献…Wikipedia「ジェームズ・リッティ」英語版「NCR」「Cash resister」「Comptometer」「John Henry Patterson」「A&P」「George Ludlum Hartford」「George Huntington Hartford」、『IBM 情報巨人の素顔』ロバート・ソーベル(訳)青木榮一1982.7.22ダイヤモンド社、『セブン―イレブンの経営史』川辺信雄1994.4.10有斐閣