19世紀中ごろのアメリカの奴隷制度を巡る議論は、「女性の参政権」の問題や「北部・南部・西部」の問題なども巻き込んで生じていきました。
1.女性の参政権~ルクレシア・モット~
フェミニズムはもともとフランス革命などの時期に芽生え始めたようですが、女性の参政権を求める運動は19世紀半ばにアメリカやヨーロッパで始まりました。
アメリカにおいては奴隷廃止運動に参加していたルクレシア・モットが、1840年のロンドンの第一回世界奴隷廃止会議で議会の代表に選ばれたものの、「女性であるため」議会に上がることが許されず、傍聴席で聞くことを強いられたことから始まりました。
■①女性が活躍していた故郷■
ルクレシア・モットは1793年にマサチューセッツ州のナンタケット島で生まれました。
クエーカー教徒であり、クエーカー教徒は他の宗派と違い女性はイヴの末裔であるため男性に従属するものという考えがなかったようです。
またナンタケット島は捕鯨で男性が不在の事が多く女性が他の地域に比べて生活における決定権が強かったようです。
さらに母は従妹が1790年に亡くなったベンジャミン・フランクリンの親戚であった関係か、経営もしており、そのような姿を見て育ったため、幼少期は女性が活躍する事におそらく違和感がなかったのだと思います。
■②女性の権利と奴隷廃止の関心■
しかし、クエーカー教徒の高等教育機関に通い、さらにそこの教師になったとき、周りの男性教師が多く給料をもらっていることに気付き、「女性の権利」への興味を持ったようです。
その後、同僚の教師と結婚し、フィラデルフィアに引っ越すのですが、フィラデルフィアはクエーカー教徒の街であり、女性の問題に関する議論も出始めていたようです。
そのため子育ての間も、イギリスのフェミニズムの先駆者であったメアリ・ウォルストンクラフトの『女性の権利の擁護(1792年)』を愛読書にし、さらにフレンド教会(クエーカー教)において女性の権利に関する話などもしたようです(後に牧師になってます)。
そして、1818年ヴァージニアに女性どうしで行った際、黒人奴隷の悲惨な姿を見て黒人奴隷反対運動に関心を強めます。夫はもともと奴隷廃止協会に属していたため、夫婦でそのような考えになり、奴隷を使って作られたサトウキビや綿布などの商品の使用をやめています。
■③運動の受難■
1833年にはフィラデルフィア女性反奴隷制協会が結成され、中産階級の黒人女性もメンバーに参加した協会が設立されました。
ただ白人と黒人がともに活動することに周りの反応が悪く暴徒化することもあり、この教会に会場を貸していくれる場所がなくなってしまいました。
そのため、1838年にペンシルバニア・ホールという会場を建ててました。
この会場は、アメリカ人女性の全国奴隷制反対条約(広範囲で女性が集まった奴隷廃止の会合は初めて)の第二回の会場としても使われました。
しかしその会場となったため、周りが1万7000人にも及ぶほどの暴徒化し、この会場は放火されてしまいました。
■④女性の参政権活動の始まり■
1840年、ロンドンで第一回世界奴隷制反対会議が開かれました。
これより少し前から女性を議会に参加させるか否かで意見が分かれていました。女性の権利を認めた急進派のウィリアム・ロイド・ギャリソンは会議の代表として五人選び、その中に女性のルクレシア・モットを選びました。
しかし、女性のモットはこの会議において議会に上がることが許されず傍聴席に座らされてしまいました。
こうしてモットは本格的に「女性の参政権」を考え始め、1848年にセネカ・フォールズ大会で「感情宣言」を共同執筆し、「女性の参政権」を訴えました。
ちょうど1848年ヨーロッパでは二月革命や諸国民の春が起こった年でした。
※『アメリカ フェミニズムのパイオニア』武田貴子、彩流社、2001.9を参照
また詳細はウィキペディアにまとめました。
2.北部・南部・西部
1848年にカルフォルニアがメキシコ領から割譲を受けてアメリカ領になる事になりました。そこでカルフォルニアで金鉱が発見されてゴールドラッシュが始まると共に、カルフォルニアは「奴隷州」とするか「自由州」とするかという議論が白熱しました。
19世紀前半のアメリカ政治史で奴隷制度が政治の争点となる時は、必ず西部の土地を州として連邦に加入させる問題が絡み合っていました。
■①北部南部西部の状況■
北部ではニューイングランドを中心に産業革命がどんどん進行中で、早くも産業資本家と労働者という階層の分化がはっきりしていました。
ただ、輸出品としては綿花が総額の半分をしめていました(1840年には南部の綿花が52%とも)。
綿花はイギリスで産業革命がすすみ、綿織物工業が発展するにつれ、綿花はますます必要とされたのです。
綿花はアフリカ奴隷を使用して栽培する性質を持っていて、南部では綿花の栽培が西南部方向に広がり、それにつれて黒人奴隷の数も増大していました。
一方、西部では開拓が急速に進んできていて、1830年頃には人口の重心が大西洋岸から早くも西へ向かって移動を始めていたほどでした。それはヨーロッパから毎年毎年多くの人々が移住してきたことも影響します。
■②ニューヨークの発展■
北部は確かに産業革命が進んで地域ではありましたが、1850年には人口約70万人の大都市ともなるニューヨークは貿易港として19世紀前半に発展してきた側面もあります。
1807年にハドソン川に蒸気船クラーモント号を走らせたことが蒸気船の成功になり、アメリカ各地に波紋を起こしました。
1811年にニコラス・ルーズヴェルト(セオドア・ルーズヴェルトの三代前の叔父)が平底の蒸気船を作ってオハイオ川を下ってニューオーリンズまで冒険の旅に成功しました。
1818年にニューヨークの船主たちは大西洋横断の旅客と貨物とを運ぶ定期便サーヴィスを始めました。そして1830年にはニューヨークはアメリカの最大の港となりました。その後、1840年には入港する船の総トン数は、ロンドン港に次いで世界第二になりました。
ヨーロッパからは上質の織物を運び、アメリカからは綿、小麦粉、たばこ、船舶用具などを運びました。
また1825年にはエリー運河が開通し、五大湖、エリー運河、ハドソン川とつながる水系が、北部と西部を直接結び付ける大動脈となりました。
こうして輸出する環境が整っていったのは事実なのです。
■③自由州と奴隷州の境界線■
北部は輸出は綿花に依存しつつも産業が発展してきたため、奴隷制度を廃止する州が増えてきました。その影響もあり、北部の人間が南部に生き奴隷を助ける「地下鉄」(地下通路のようなもの)が1812年には開通しているようです。
1820年には「ミズーリの妥協」といって、ミズーリを奴隷州として連邦に加入させるか否かが問題となり、当時11州ずつだった自由州と奴隷州との均衡を守るため、ミズーリのの自由州の加入と、北緯36度30分以北において奴隷制度は禁止とする話し合いが決まりました。
1845年にはテキサス共和国がアメリカの州として合併し、テキサスはメキシコ領の時は奴隷制度を廃止したのに、アメリカの州となると奴隷制度を復活させたりしています。
1846年にはメキシコとの戦争が始まり(米墨戦争)が始まり、新たにメキシコから領土を得たものはどうするのか争点になりました。
同時期、「ウィルモット条項」においてはメキシコから領土を購入するための支出を議会に要請する代わりに新たに獲得された領土においては奴隷制度は許さないという付帯条項も出されましたが成り立ちませんでした。
■④1850年の妥協■
そして1848年、カルフォルニアがアメリカの州になることが見込まれ、さらにその地でゴールドラッシュも起こり、1849年には自由州にするか否かで論争になりました。
カルフォルニアは西部でしたが、「ミズーリの妥協」で決められた「南部」と「北部」にまたがり、「ミズーリの妥協」のときの基準では判断できない側面も持っていました。
結果としては「1850年の妥協」となり、カルフォルニアは自由州として加入が認めれ、ワシントンの所在地であるコロンビア区での奴隷売買は禁止されたものの、逃亡奴隷取締法(奴隷州から自由州への逃亡を取り締まる)は一層厳格なものになりました。
当時、西部の開拓が進みテキサスまで奴隷州が広がったものの、北部からの圧力などにより南部にとっては奴隷の数を増やすことができないまま、栽培範囲だけ広がったため、逃亡させないだけでも重要な決議だったのだと思います。
この協議はテイラー大統領のときで議長がミラード・フィルモア(ペリー来航の時の大統領)でした。そして議会中にテイラーが急死しフィルモア大統領が就任し議決されたようです。
※『世界と日本の歴史 近代2』浜林正夫ら・大月書店・1988、『物語 アメリカの歴史 超大国の行方』猿谷要・中公新書・1911、『リンカーン』本間長世・中公新書・1968を参照
3.ディキンズの見たフィラデルフィア
ヴィクトリア朝を代表する作家ディキンズ。
彼は1842年(30歳)にアメリカを旅行した『アメリカ紀行』を出版しています。
そのとき、彼がふれたフィラデルフィアで出会いをベースに想像してみます。
■①第二合衆国銀行■
まずディキンズがフィラデルに夜遅くに着いた際見かけたのは「第二合衆国銀行」でした。
1841年に合衆国銀行の業務は停止しているため、「幽霊のような様相を帯びている」(※)と語っています。
第二合衆国銀行は、「アメリカ建築の父」ともいわれるベンジャミン・ヘンリー・ラトロープの元学生ウィリアム・ストリックランドガ作っています。師もギリシア復興様式をとっていたため、この建築も正面は太い白い大理石の柱が並んだ形態を取っています。
■②ベンジャミン・フランクリン■
フィラデルフィアには、「フランクリン」の名前を冠した図書館や郵便局・商取引所があるとディキンズは語っていますが、ベンジャミン・フランクリンはアメリカ独立前後にフィラデルフィアを中心に活躍しているため、現在までベンジャミン・フランクリンはフィラデルフィアで至る所に像が発見できるようです。
「アメリカの建国の父」の一人ともされますが、雷を電気だと証明する実験を行ったり、ダーウィンの祖父エラズマス・ダーウィンが主催していたルナ協会の初期に参加していたりと、科学者としての側面も強く持っています。
■③トマス・サリー■
またフィラデルフィアで生まれイギリスへ渡った画家「ベンジャミン・ウェスト」の絵にも触れ「巨匠にふさわしいお手本のような絵である」(※)と少し含んだ感じの評価をしています。
またそのベンジャミン・ウェストにイギリスで教えを受けたトマス・サリーについても触れています。トマス・サリーは逆にイギリスからフィラデルフィアにきてディキンズが訪れた時代もまだ活躍していました。「アメリカの傑出した芸術家」(※)と語っています
■④その他■
他にはフィラデルフィアは「クエーカー的影響」が強く、「壮麗な都市だが、人を当惑させるほど画一的」「ボストンあるいはニューヨークよりも田舎であるということ、またその美しい都市には趣味豊かな批評の精神が漂っている」(※)とも語っています。
そして「真水が非常に豊富に供給されている」とも、、、。
※引用は『アメリカ紀行』ディキンズ、伊藤弘之ら(訳)、岩波文庫、2005.11.16から。
他にはhttps://en.wikipedia.org/wiki/Second_Bank_of_the_United_States参照