世紀末のフランス・パリにおいて1889年ムーラン・ルージュがオープン。フレンチ・カンカンの発祥でした。
またムーラン・ルージュやカフェ・コンセールなどの風俗はロートレックや印象派の画家によって見事に描き出されました。
1.ムーラン・ルージュ
ロートレックが描いたミュージックホールとして名高い「ムーラン・ルージュ」。
ここは、「フレンチ・カンカン」の発祥の地でもありました。
■①1889年■
1889年に「ムーラン・ルージュ」はオープンしました。
1889年、日本においては大日本帝国憲法された年ですが、フランスにおいてエッフェル塔が目印として建てられた第4回パリ万博が開かれた年でした。
フランス革命100周年記念に開かれた万博でもありますが、おそらく多くの人がパリに訪れることを見越してオープンしたのではないでしょうか。
■②ロートレック■
「ムーラン・ルージュ」がオープンしたとき、ロートレックはポスターの制作の依頼をされました。ロートレックにとっては自分自身で自分自身の生活を支える収入源となったようです。
「ムーラン・ルージュ」側は、彼のために席を用意し、さらに絵を展示したりもしたようです。
イヴェット・ヴィルベールやラ・グリュなどのダンサーの絵も描きます。
■③イヴェット・ヴィルベール■
イヴェット・ヴィルベールは、フロイトのお気に入りの歌手でもあったようです。
フロイトは1885年、コカインの局所麻酔の助言者として、また精神医療への可能性を考えていた頃、フランスのシャルコーという催眠医療を行う医師のもとに留学していますが、そのシャルコーに勧められた「エルドラド」というクラブにて始めて舞台をみたようです。
ただ見たのが1889年なので、留学から帰国後精神分析の着想が固まりつつあるなか、催眠療法に関する方法を迷っていた際フランスに訪れたときかもしれません。
丁度、ヴィルベールは「ムーラン・ルージュ」で初出演を果たしたころだったのですが、以前から「エルドラド」というクラブでも歌っていたようです。
そして後に娘のアンナ・フロイトと、ヴィルベールが結婚した医師の姪が友人であったことから、1926年にフロイトとヴィルベールはウィーンで面会を果たし、その後も交流があったようです。このときフロイトは70歳で、アインシュタインと文通をしていた時期でもあります。
■④ラ・グリュ■
またラ・グリュは「フレンチ・カンカン」を普及させた女優ともいえます。
ルノワールとも接点を持っていて、「ムーラン・ルージュ」にデビューする前に、1883年くらいから(1881年からのエラスケスやドラクロアワ・ラファエロなどの名画を巡る旅に出て、さらにシチリアでワグナーの肖像を描いた後)モンマルトルに住み働いていたルのワーフがラ・グリュをアーティストや写真家のためのポーズをとるモデルグループに紹介しているようです。
そして「ムーラン・ルージュ」で出演し人気を博し、さらにロートレックが肖像画をポスターを描くことで普及の名声を博したようです。
ただ、彼女は「フランチ・カンカン」という「カンカン・ダンス」の始まりとも言えるものの発祥地に「ムーラン・ルージュ」がなるほどに大きく一躍買ったようです。
「フレンチ・カンカン」は1840年ごろからあったのですが、当初は男性のダンスだったようです。ムーラン・ルージュの初期のイラストにおいても「カンカン」を男性も男女で踊っているシーンもあります。
ただ、ダンス的に激しめの動きをして高い位置まで足をあげるため、次第に女性の性と結びついたダンスに発展していったようです。
特に「ムーラン・ルージュ」が発祥の地位を持ったのは、「ムーランルージュ」の誕生によって出演料が高価なためダンスや歌う事が専業となったスターが登場することが多きく影響するようです。
2.ポラーレ
ムーラン・ルージュが1889年にフランス・パリでオープンし、「フレンチ・カンカン」が流行っていくと、その流れを汲んだ女優が次々と登場していきます。
その中で、1890年初頭に登場したポレールはウエストが41cmとも伝えられるプロポーションを達成し、風変りなダンスによって人気を博してきた。
今でもコルセットの歴史などの女性のプロポーションの写真でポレールは良く登場します。
■①コルセットによるプロポーション■
コルセットによって自然な幅の胸郭から非常に小さなウエストへの突発的な移行というプロポーションはWasp Waist(直訳するとハチの腰、スズメバチのシルエットに由来する)と呼ばれ、極端なレーシング(38-46cm)は1870年代後半から1880年代にかけて流行し、1887年頃には終わっているため、ポラーレのシルエットは流行を体現したものではなかったようです。
ただ、コルセットによるシルエット作りはまだ続いており、舞台でみる印象的なシルエットという意味で人気を博したのではないでしょうか。
■②フレンチ・カンカン■
ポラーレは1890年代初頭にTa-ra-ra Boom-de-ayというフレンチ・カンカンの一種の曲で最初ヒットしました。もともとはアメリカで生まれた曲のようですが、フランス版が登場しその初期の演奏者がポラーレであったようです。
ポラーレは、痙攣するほど体をゆすったり、白眼を剝いたりした独特のダンスが人気になった理由の一つのようですが、フレンチ・カンカンの激しい動きと無関係ではないと思います。
■③クローディーヌ学校へ行く■
その後、1906年には後にオードリー・ヘップバーンを舞台に見出すことになる作家コレットの処女作『クローディーヌ学校へ行く』の舞台化講演でのキャスティングに選ばれました。
『クローディーヌ学校へ行く』はティーンエージャーの概念を作ったと言われている小説で、十代の女の子の性の目覚めを描いていて、女性に性欲はないと思われたた当時の通説に対してそれが事実でないとコレットが初めて公言した作品のようです。
■④ココ・シャネルとの関係■
さて、ココ・シャネルの「ココ」は、彼女がムーラン(ムーラン・ルージュとば別のパリとは離れた町の名前)において仕立て屋をしながら、その町に駐屯していた兵隊たちに連れられて、カフェ・コンセール(café concert)に観に行き、ついにはポーズ嬢(メインの歌い手の間を繋ぐ役割)として歌い人気を博した曲『ココリコ』に由来するという説もあります。
その町に駐屯していたのはかつて普仏戦争のときにフランス軍が大敗したライヒスホーフェンにて全滅されたとも言われていた軍隊です。この軍隊が軍服などのほつれなどを直しに仕立て屋にきて、この軍隊たちが入りびたっていたカフェ・コンセールに参加したようです。
カフェ・コンセール(音楽余興付きの喫茶店)自体はムーランルージュがオープンした1890年代あたりにパリで人気を博したのですが、ココ・シャネルが参加した1903年にはパリでは下火になっていましたが地方ではまだ人気があったようです。
このときココ・シャネルが歌った『ココリコ』は、ポレールが1898年にパリのカフェ・コンセール“ラ・スカラ”のシックなホールで喝采を博したレビューの一つだったようです。この時のココ・シャネルの踊りも、フレンチ・カンカンのような軽快な音楽で、ポレールのような独特な動きと性に結びついた印象のあるものだったようです。
※『シャネル ザ・ファッション』シャルル=ルー(訳)榊原、screenonline.jpの『コレット』を参照