【1 .消毒技術】

手術用の手袋を考案した事でおそらく一番有名なハルステッド。

彼が医療に携わったとき辺りに消毒液を使うようになり、ヨーロッパでの知見を合わせて手術の際の無菌状態を作る設備とシステムを確立していきます。

■①フェノロサの世代■

ニューヨークの裕福な家庭に1852年に生まれました。

世代的には1878年にエドワード・モースの招きで日本にきて日本美術を再評価したアーネスト・フェノロサ(1853年)と近いです。

フェノロサはマサチューセッツ湾のセイラム出身なのでニューヨークとは近いと言えば近いです。

■②リスターの消毒技術■

1874年にコロンビア大学に入学し、外科と手術を専門に学びました。

マンハッタンにあるベルビュー病院にインターンシップを申請し、成績優秀であったため参加できることになりました。

そのとき1867年にイギリスのジョセフ・リスターが考案した消毒技術の使用を紹介され、ハルステッドは関心を持っています。

このジョセフ・リスターの消毒技術はまもなくフランスのパスツールの細菌の発見によって裏付けが取られるようになりました。

■③ヨーロッパでの研修■

1878年には、医大を卒業後ドイツ・オーストリアに研修に行っています。このときアメリカにおいて医大卒の卒業後のキャリアを積む教育制度が充実していなかったため、ヨーロッパにいったようです(後にハルステッド自身がそのような教育システムを創設する)。

この時期のヨーロッパは癌がより広く研究され始めたばかりであり、ハルステッドがアメリカで次々と考案するアイディアの源泉となりました。

研修先には、コッヘル鉗子のコッヘルや、後に鼠径ヘルニアの術式を初めておこなうバッシーニなど著名な方から学びます。

因みにコッヘル鉗子のような止血鉗子をハルステッドは後に少し改良して自然治癒を考慮した手術を行っていて、また鼠径ヘルニアを1892年にアメリカで初めてハルステッドが行います。

■④無菌空間のテント■

1880年にニューヨークに戻り、複数の病院で手術を行う訪問医を務めました。

ベルビュー病院においては、消毒の無菌空間を作るためのテントを張る事を考案しました。

このように、手術空間の無菌状態や消毒状態をいかに確保して手術するかという方法をハルステッドは模索していき、その過程としても手術手袋も考案していきます。そして、それを実践する手術システムを考案していきます。

※客観的なデータはウィキペディアにまとめてあります。そちらも参照してくださいませ。

【2.アメリカ初の手術】

1882年は非常にハルステッドにとって豊作な年です。

アメリカで初の胆嚢手術、アメリカで初の緊急輸血、さらにアメリカで初の乳房切断術を実施した年になります。

どれもこれも1878年のドイツ・オーストリアでの研修の賜物とともいえます(因みに同じ世代のフェノロサは1878年に来日しています)。

■①胆嚢手術、緊急輸血■

胆嚢手術と緊急輸血は、計画的に実施に移そうとしたというより、突如必要性が生じ、大胆にも実施したという側面が大きいようです。

胆嚢手術の患者は母親で、台所のテーブルで手術したといわれています。その際、7つの胆石を取り除いたといいます。

緊急輸血の患者は妹でした。出産により失血で瀕死状態になっていたため、自分の血を抜き妹に輸血したといいます。

たまたま生じた事がそれも肉親であったため、必死であり、そして大胆に実施できたということなのでしょうか。

■②乳房切断術■

根治的乳房切断術とは、乳癌を取り除くために、乳房そのものを取り除く手法です。これは乳房だけでなく、さらに大胸筋、鎖骨近くのリンパ節、脇の下近くのリンパ節まで切除したようです。

ハルステッドは癌(がん)は血流を介して広がるという考えを持っていたため、乳癌であるなら乳房そのものを抜本的に切除してしまえば、転移はおこらず、癌を除去する事ができるというのが基本的な考えのようです。

当時は乳癌に対する治療法がなかったため、この手術は革新的な手術とみなされたようで普及していきます。

ただ、これは再発しなかったという客観的なデータがあったというよりは、抜本的に取り除いてしまえば取り除けるだろうというイメージと、そこまで患者に負荷を抱えたため取り除けているだろいうという期待からデータをみた結果、効果があるようなイメージが伝わったということが大きいようです。

実際はハルステッド自身があつめたデータにおいても自然に癌を放置したときと同じように再発し転移する傾向があると解釈する人も多いようです。そして現在、乳癌の生存率は手術中に除去される量よりも、手術前に癌が広まっている量と密接に関係していることが通説のようです。

もっとも、かといってこの治療法も消えたわけでなく、ある程度広がっている乳癌の場合は抜本的に切り取って、シリコンによって再建する方法も復活しているようです。

※乳房切除法の解釈は『患者よ、がんと闘うな』近藤誠と『総説-乳癌』菰池佳史などを参照。

【3.局所麻酔】

精神分析で有名なフロイトはかつて、眼科医カール・コラーに局所麻酔について有効な原料を紹介しました。これによって今までエーテルによる全身麻酔が一般的でしたが、眼だけという局所的な部分に麻酔をかけることに成功しました。

全身麻酔は痛みは消えるものの、身体の動きは止まらないようです。例えば眼の手術をするとき目の反射などの動作が起こってしまうため、上手く眼の治療ができなかったのが成功したようです。

このオーストリアでの発見をウィリアム・ハルステッドも早速知り、局所麻酔を取り入れます。これによってハルステッドも成功し名声を得るのですが、この局所麻酔には中毒作用があり、ハルステッドは(コラーも)自らを実験台に使ったため中毒に悩みます。

■①オーストリアでの局所麻酔の発見■

フロイトは1884年に、もともとコカインは発見されていたのですが、局所麻酔としての価値を見出します。しかし、フロイトはコカインの局所麻酔としての価値よりも、神経症(神経衰弱と憂うつ症)に対する画期的な治療薬になると確信し、昨年婚約して幸せな世帯を持つために研究に没頭しました。

局所麻酔としての価値は、フロイトは論文に示し、それを眼科医カール・コラーに紹介したようです。眼科治療として局所麻酔の登場は望まれていたため、コラーがコカインを使って手術に成功すると世界的なセンセーションを起こしたようです。

しかし、1886年になると、コカインの常習(嗜癖)と中毒の症例が世界各地から報告され、やがてコカインは、アルコール、モルヒネと並んで人類の天罰とよばれるようになり、フロイトもコラーも非難の的になったようです。ただフロイトは幸いにも中毒症状を引き起こさなかったものの友人が中毒になってしまい、これが強い悩みとなり、精神分析の素地となっていくようです。

■②ハルステッドの中毒症状■

ハルステッドもこのコラーの成功を知り、1885年に神経ブロック法と表面麻酔法を発表してます。

但し、ハルステッドと同僚は互いに実験し合って、局所麻酔の価値を見出していたため、コカイン中毒になってしまったようです。

その兆候を、後に20世紀前半にアメリカを世界工場としての地位に導く企業家の一人として活躍するファイアストーン(エジソンやフォードと並び、共に過ごしたりもした)が1885年にそのハルステッドの兆候に気付きバトラー療養所に療養を強く勧めます。

そこでコカイン中毒のためにモルヒネを使ったたため、新たにモルヒネ中毒となってしまったため、生涯その中毒に悩まされます。

しかし、当時はコカインは合法的なものであったため、中毒症状に悩みつつもハルステッドは輝かしいキャリアを形成していきます。

1886年にはかつてマンハッタンにあるベルビュー病院などで知り合って以来の親友であるウェルチらとジョンズホプキンス病院の立ち上げに参加していきます。

そこでも、まずはウェルチは中毒症状を考慮して、役職が与えられたと言われています。

※フロイトについては『フロイト その自我の軌跡』小此木啓吾を参照。

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