佐賀藩は、1808年フェートン号事件で警備の脆弱さを実感し、いちはやく西洋砲術である高島流砲術に注目します。そんな関係もあり、佐賀藩は外国人宣教を積極的に招き、特にフルベッキからは多くを学んでいます。

今回は

➀フェートン号事件:日・英・蘭の視点

②高島流砲術を学んだ鍋島茂義

③フルベッキの日本に来るまでのオランダとアメリカ時代

を論じていきたいと思います。

【➀フェートン号事件:日・英・蘭それぞれの視点】

1808年、オランダ船を装ったイギリスの軍艦フェートン号が長崎の出島に現れ、オランダ商館員を人質に取り食料と水・薪を要求し、長崎奉行は抵抗できず要求に応じた事件です。

日本にとっては太平の無力さと外国の理不尽を感じたのだと思いますが、イギリスにとっては大陸封鎖から東南アジア方面の制海権を確保した上での貿易に重要であり(また若い青年の出世の絶好のチャンスでもあった)、オランダにとってはフランスに属国にされイギリスに東南アジアが排除される中唯一残っていたオランダとして誇りを感じる場であったのではないでしょうか。

■①日本人にとっての記憶■

このとき、長崎の警護は佐賀藩・福岡藩が担当していたため、長崎奉行が応戦を要請しました。

しかし、佐賀藩は太平慣れしており駐在兵力を減らしていたため、武力で対抗することが難しい事が判明しました。

そこで、長崎奉行はフェートン号の要求に応えつつ(出島にいるオランダ商館員が人質に取られれているため、オランダとの手前、人質の安全を優先する必要がありました)、時間稼ぎをして九州の他の藩の応援を要請しました。

しかし、イギリス船は去ってしまいました。

長崎奉行は、結果的に武力抵抗する事もできずに要求に応じることしかできなかったことになってしまい、その行為は国威を辱めることになってしまうため、責任を取って切腹しました。また、佐賀藩のものも何人か切腹し、更に藩主・鍋島斉直(9代目・鍋島真正の先代)は一時幽閉を命じられました。

これによって、出島の防衛強化の機運が高まり、出島の台場を任されたのが西洋砲術の祖・高島秋帆の父・茂起(長崎会所という出島の貿易を司る役所の頭取)でした。この茂起は強化のために和流砲術を学び始め、オランダ人のとの交流の中西洋砲術の必要性を感じて息子の秋帆が西洋砲術をマスターし、高島流砲術を完成させていくのです。

この強化の時期におそらく佐賀藩の長崎砲台の司令官になったのが、大隈重信の父親です。また、佐賀藩はこの事件の経験から砲術に貪欲になったのか、佐賀藩の請役をしていた鍋島茂義は高島秋帆の砲術をかなり早い時期から注目します。

■②19歳のフェートン号の指揮官■

フェートン号の指揮官をこの時していたのが、19歳のフリートウッド・ペリューでした。父がイギリス海軍の東インドの地域の総司令官であり、父の担当している東インドで父のように出世すべく若いながら異例の出世をしてた青年でした。

【①父のアメリカ独立戦争時代】

父エドワードは、最初はアメリカ独立戦争において活躍して出世した軍人でした。1776年のヴァルクール島の戦い(イギリス海軍がアメリカ軍と初めて衝突した戦争)で活躍し、1777年のサラトーガの衝突(アメリカ軍がイギリス軍に対する勝利が決定的になった戦争)において捕虜になりました。1780年のフランスの私掠船との交戦において活躍が認められ指揮官に出世します。

【②父のフランス革命戦争時代】

その後、フランス革命戦争に参加します。1793年(ナポレオンがまだ砲兵長として活躍し始めたトゥーロン攻囲戦の頃)にフランスの軍艦を捕獲しイギリスにおいて英雄視され(この戦いはイギリスとフランスのフリーゲート艦のフランス革命戦争中に最も有名な衝突)、1797年(ナポレオンがイタリア戦役で活躍した終局の頃)のフランスとのフリーゲート艦の小競り合いでは悪天候の中見事な操縦をしてフランスの砲火を逃れました。この辺りの1799年、息子のフリートウッドが父の艦に士官候補生として乗り、さらには1803年には軍艦トナントにおいてネルソン艦隊と合流し行動をしてます。

【③東インド地区の時代】

そして1804年に父エドワードは海軍少尉になり、東インド地区の総司令官になります。そして父と共に軍艦カローデンに乗って東インドに向かい、フリートウッドは軍艦セプターに配属されます。

③-1ジャワ遠征

しかしすぐに軍艦カローデンに戻り、父エドワードが主導した1806年のバタヴィアの襲撃に参加します。1802年にアミアンの和約によってイギリスはフランスの植民地を奪ったものを変換したものの、1803年にフランスの属国オランダ領を攻撃したことによってフランスとイギリスの植民地の互いの攻撃が始まります。このバタヴィアの襲撃は1804年のプロ・オーラの戦いにおいて、イギリスの中国貿易を守るためにフランスと戦争する際、当時フランスの統治下であったオランダが植民地としている東南アジアからの攻撃がやっかいであると気付いたことから始まり、東南アジアのオランダ領を駆逐する作戦でした。

東南アジアは、1623年のアンボイナ事件以来オランダとの争いに負け、イギリスは撤退していました(この時日本のイギリス商館も撤退)。しかし、このフランスの属国としてのオランダとして攻撃対象となり、久しぶりのオランダとイギリスの東南アジアの争いとなったようです。

1807年12月のグリーシー襲撃においてかなりイギリスがオランダに対して東南アジアで有利になったようです(1806年にフランスがイギリスに大陸封鎖令を発令しているため特に東インド方面の貿易が重要視されたと思われます)。父エドワードが主導となり、息子フリートウッドが軍艦プシュケにおいて活躍し、父は息子をこの時期に大絶賛し正式な指揮官となるようです。

この辺りから、オランダ領の東南アジアからフランス領が多いインド洋諸島に攻撃はシフトしていき、1808年にデンマークとイギリスの衝突を耳にした父エドワードは軍艦コーンウォリス(1805年にエドワードが発注)でデンマークがインドに初めて交易所を設けたトランゲバーの基地を敏速に襲撃しています(フリートウッドも参加しました)。そして1809~1811年モーリシャス遠征として本格的になっていきます。

東南アジアのオランダは、1810年のスパイス諸島の侵略によりほぼ排斥され、1811年にはジャワを侵略しています。

③-2フェートン号事件

そして、フリートウッドはインド洋諸島戦争の走りとなった攻撃に軍艦コーンウォリスで参加した後、軍艦フェートン号の指揮官となり、東南アジアのオランダの駆逐の流れに戻ります。つまり、フェートン号事件はオランダ船を駆逐するために出島に現れたようです。

もともとオランダは1795年にフランスの衛星国パダヴィア共和国となって以来、イギリスからの攻撃を受けることになり(フランス革命戦争の一環)、1797年中立国でイギリスの攻撃を受ける心配がないアメリカの船を雇って貿易を継続する方法を始めました。そんな事もあり、結局イギリスはアメリカの船からも略奪を行うようになりました(これはフランス船もアメリカに対して略奪している)。そのため1807年(文化露寇事件の年)に、アメリカはフランス・イギリスの経済に打撃を与えるため外国との通商を禁ずる「通商禁止法」をトマス・ジェファーソン大統領が発布します。ただ、アメリカの貿易会社は行き場がなくなり、オランダの東南アジアの貿易の依託を多く受けるようになりました。

そんな事もあり、出島にはオランダから委託を受けたアメリカ船が渡航するようになっていました(オランダとの貿易と共に日米貿易も行い始めていたようです)。それをおそらく聞きつけたフリートウッドが出島に赴き、オランダから委託を受けたアメリカ船を装い出島に入り、停泊しているオランダに委託を受けたアメリカ船を駆逐しようと考えたのだと思われます。

結局は、オランダに委託されたアメリカ船が通常来航する時期はもう少し後で会った為、目的であるオランダ船は発見できず、食料と水・薪などを要求して去ったのだと思います。

この後、フリートウッドは昇進しているため、この作戦自体は認められたのだと思います。

■③オランダ商館ドゥーフ■

さて、フェートン号が訪れたとき、オランダ商館のドゥーフが対応しています。フェートン号にオランダ商館員が人質に取られたので、長崎奉行には積極的に介入したようです。

ドゥーフは、「ドゥーフ・ハルマ」という日蘭辞書で有名ですが、それもナポレオン戦争のためフランスの属国となっていたオランダはイギリスからの攻撃対象になっていて、さらにイギリスが1811年には東南アジアのオランダ領ジャワ島を制圧したため、船が途絶えてしまい15年近く出島に留まる異例の長い日本滞在となったため、日本人との交流が深まった事が影響するようです。

1803年と言いうと丁度アミアンの和約をイギリスが破棄する年であるためか、ドゥーフはオランダの東インド会社が委託したアメリカ船で出島にきます(1804年のロシアのラスクマンの書状を持って現れたレザノフの対応もしている)が。そして、基本的にはオランダ商館はアメリカ船を使って日蘭貿易を行っていて、また日蘭貿易のついでにアメリカ船は委託事業だけでなく自国の日米貿易も行っていたようです。そのため、その事情を知ってかイギリスのフェートン号はオランダから委託を受けたアメリカ船を偽装して出島にきたのだと思われます。

1810年には東南アジアからオランダはほぼ排除され、1811年にはジャワ島まで支配されてしまい、アメリカ船を使った貿易も完全に途絶えてしまったようです。そのため、ドゥーフは帰ることができなくなります。またこの時イギリスから出島を引き渡すように要求されたとも言われています。

貿易の機能を成さなオランダ商館は日本にとっては意味のないものではあったのですが、ドゥーフがもはやオランダがフランスに併合されたのにもかかわらず、オランダ国である誇りを忘れなかったため慕われたこともあり、日本人と親交を深める異例の結果となったようです。

【②佐賀藩の西洋砲術】

「高島平」という地名は、高島秋帆が1841年に始めて西洋砲術を用いた演習を江戸幕府に対して披露した平野であったため、名付けられたと言われています。

■①高島流砲術■

高島秋帆は長崎生まれであったため、出島などから蘭学を学びやすい環境にいたようです。また、長崎の貿易の関税所ともいえる長崎会所の頭取を父から継いでおり、メインの貿易と共に、サブの貿易として蘭学関係の物などを取り入れられる脇差貿易を行っていたようです。

そのため、高島秋帆はオランダ人からいち早く砲術を習う機会をえて、次第に高島流砲術を確立させていきます。

■②茂義の蘭学■

佐賀藩は、福岡藩と共に1年交代で長崎の警護役に任命されていました。そのため、1808年のフェートン号事件や、1828年のシーボルトの事件などでは色々と処理に加担したため、財政状態は非常に悪い状態でした。

そして、1830年から佐賀藩となった10代目鍋島真正のもとで請役をやっていた鍋島茂義(武雄鍋島家という鍋島家に仕えていた一族の人)は、9代目・斉直の出費について色々と財政的に余裕がないと厳しくしたため、何度か同じような理由で罷免されましたが、結局1834年には3度目の罷免にあってしまいました。

しかし、この茂義は自分の武雄領に戻った時、請役から学びだしていた蘭学に没頭することにしました。

■③免許皆伝■

茂義は佐賀藩の請役をしていたため長崎にも通じていて、1830年頃から蘭学を学びだし(シーボルト事件での文献の取り扱いなどから始まったようである)、さらに長崎の高島秋帆に砲術を学びました。

高島秋帆がまさに高島流砲術を確立している途中というかなり早い時期に家臣を使わせ、さらに請役を罷免された1834年には自身が習い高島流砲術の免許皆伝を得ています。

また1835年には高島秋帆が鋳造した青銅製モルチール砲(迫撃砲)を献上しています。

■④アヘン戦争と西洋砲術■

茂義は砲術をさらに研究しつづけ、1840年には佐賀藩主・鍋島真正が演習の視察に来ます。

その後、1841年にはアヘン戦争がほぼ決着がつきそうになったため、高島秋保は幕府に火砲の近代化を訴える意見書を出して、「高島平」の語源ともなる日本初の西洋砲術の公開演習を行いました。

そんな関係もあり、11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座をしてまさに天保の改革を始めていた水野忠邦も西洋砲術に興味を持っていることを佐賀藩においても察知し、茂義の家臣を砲術稽古および大砲鋳造のために取り立てています。また江川英龍も茂義の武雄領に演習の視察にこの時期来ていると言います。

しかし、1843年天保の改革が終わる水野忠邦の老中罷免の年に、水野忠邦失脚のきっかけを作った鳥居耀蔵の企てにより、長崎会所のずさんな経営を指摘されて高島秋帆は捕縛されてしまいます(水野忠邦が原因説もある)。

そのため、佐賀で沸き上がった茂義を通した高島流砲術の熱は一旦冷めてしまいます。

■⑤ペクサンス砲■

しかし、その後1845年、当時のフランス、イギリス、ロシア、アメリカなどで次々と取り入れられていた艦砲「ボンベカノン(ペキサンス砲)」の基礎資料である1824年の試射実験報告書のオランダ語版を茂義は手に入れています。

ペキサンスはフランスの将軍なのですが、ナポレオン戦争に参加した後、1823年に「ペキサンス砲」を開発しています。

「ペキサンス砲」は艦砲で、平らな軌道を描きながら炸裂(県爆発)する弾道を初めて実現し、木造の艦隊に圧倒的に有効で、造船のパラダイムを鉄性(装甲艦)にシフトさせたほどの物のようです。特に1853年のクリミア戦争のイギリスやフランが参入するきっかけとなる砲撃による艦隊のオスマン帝国の壊滅を起こしたシノープの海戦において、印象付けられるようです。

またペキサンスは、1832年はモンスター・モルタルという迫撃砲も開発しており、1830年のベルギー独立戦争の終焉ともなる1832年のアントワープの戦いでフランスがオランダに圧倒的砲撃戦を実現したようです。

、、、この1824年のペクサンスの報告書は1840年に出島付近で出回っていたようで、茂義がいち早くオランダ語版を手に入れたようです。

■⑥茂義の砲術のパラダイム■

そんな鍋島重義の先見性があったため、1850年前後には佐賀藩は反射炉・製鉄所・理化学研究所などの設備を整え、蒸気船や西洋大砲をいち早く自作していくことに繋がっていくようです。

因みに、1854年に福沢諭吉が長崎に少年時代遊学しているのですが、その居候先の家の砲術家は、1843年に高島秋帆が捕縛された際に押収された資料が保管されており、それの貸し出しもしていたようです。そこには大村益次郎も訪れているようです。

また大隈重信の父も佐賀藩士で長崎砲台の司令長官をしていたようです。時期的には高島秋帆の登場より少し前なので、父は西洋砲術との関係は薄いかもしれませんが、大隈重信が佐賀藩の弘道館において途中から鍋島真正の勧めもあって蘭学を学ぶのですが、その蘭学を学ぶ想いとして父が砲術家であったため、西洋砲術を学びたいという思いもあったようです。そのため、大隈重信は砲術に関しては語ることができると自叙伝において語っています。

※鍋島茂義の西洋砲術関係の話は、武雄歴史資料館のホームページを参考にして色々調べていきました。

【③フルベッキのオランダ・アメリカ時代】

明治期の大学の創設において活躍したフルベッキ。高橋是清や大隈重信との交流でも名を知られています。そのフルベッキはもともとはオランダで生まれ、アメリカに渡り、ブラウンと会い1859年来日しました。そのオランダ・アメリカ時代を取り上げていきたいと思います。

■①ギュツラフの講演■

フルベッキは1830年にオランダのザイストで生まれました。

そして、1850年ヨーロッパに資金調達のため講演にきた、中国において宣教師を育てていたギュツラフの講演をきいて、海外伝導に興味を持ったようです。

ギュツラフは、1837年にモリソン号事件で日本に訪れたことで多少知名度がありますが、イギリスにおいてモリソン号の名前の由来となったロバート・モリソンが東洋の宣教の可能性を1823年に説いていたのを聞いて、東洋に行くことを志しました。

ロバート・モリソンはいち早く中国にきてキリスト教の布教と聖書の中国語の翻訳を始めた人ですが、息子のジョージ・モリソンにイギリスで教育を受けさせるために1820年前半にイギリスに帰国していたのですが、その際プロイセンからきたギュツラフはロバート・モリソンの話を聞いて東洋の布教を関わろうとしました。

ギュツラフは1830年代には、東南アジア・中国と着き、上海や沖縄・日本などを見学したようです。そして1834年にロバート・モリソンが亡くなったころには、息子のジョージ・モリソンも寄稿することになる東洋に関するジャーナルを発行していたようです。

この時期には東洋にきていたイギリス関係の商人や宣教師などみな一体となってグループを作り交友を深めたようです。そしてギュツラフもその一員になっていました。

また、後に駐日大使になるパークスの従妹とギュツラフは結婚してきて、そもそもハリー・パークスが少年時代に東洋にくるのはその従妹を頼っての1841年の事だったという。

そして1842年南京条約の際には、ポッティンガーのもとでパークスとロバート・モリソンの息子ジョージ・モリソンが通訳としていたようです。またギュツラフも東インド会社の通訳として南京条約に貢献したようです。

この頃、ロバート・モリソンが訳した聖書の中国語版を解説した本を読んで後に太平天国の乱を起こす洪秀全がキリスト教に感化されています。

そして1844年、ギュツラフは中国では外国人に対して排他的で、中国人の宣教師を育てて中国の宣教を進める必要感じ、「福漢会い」という組織を作ったようです。その後その会の資金が厳しくなり資金援助を得るためにヨーロッパを訪れ講演をしたようです。

この講演をフルベッキは聞いて海外伝導を考えたようですが、ロンドンにおいてはカール・マルクスとデイヴィッド・リヴィンストンが聴いているようです。

カール・マルクスは1848年の革命のあとフランスなどを追放されようやく1850年初頭イギリスのロンドンに辿り着いた時代の事でした。マルクスはこのギュツラフの中国に関する話を反皇室・反政府に関する見識として聞いて引用もしているようです。

また、デイヴィッド・リヴィングストンも同じ時期にロンドンで講演を聞き東洋の宣教を考えるが、アロー戦争勃発によってアフリカへの宣教に変わり奴隷解放などに貢献していくようです。

■②モラヴィア派■

さて、フルベッキが生まれたオランダのザイストですが、モラヴィア派というキリスト教の一派と関りの強い土地であったようです。

ただ、モラヴィア派は一派でありますが、もともと育った土地の宗派から離脱する必要がないという寛容なものであり、フルベッキの両親や息子でさえもモラヴィア派であったわけではないのはそのような影響のようです。

そのモラヴィア派でオットー・タンクという人がいて、南アフリカのスリナムなどで「奴隷解放のパイオニア」として知られた人が、1849年ザイストで結婚式を挙げます。このときフルベッキも目にしたと思われますが、両親の親戚関係の繋がりで、フルベッキの義弟はオットー・タンクの援助を受ける事になっています。その後、オットー・タンクはアメリカのウィスコンシンでモラヴィア派のコロニーを設立するための土地を購入します。

その関係もありフルベッキは1852年にアメリカのニューヨーク州オーバン市にいたオットー・タンクの援助をうけている義弟に招かれて渡米しているのですが、すぐにオットー・タンクが設立してウィスコンシンのモラヴィア派のコロニーに向かっています。

フルベッキはオランダにおいては鍛冶屋で弟子入りしたという記録もあるようですが正式な工業系の教育を受けていなかったのですが、このコロニーにおいて蒸気船の造船に携わります。

オットー・タンクが汽船使った商売や宣教師を乗せるための汽船を作っていたようです。しかし事業自体は鉄道の発達により上手くいかず、更にオットー・タンクとコロニーの人たちで意見が合わずオットー・タンクが孤立し始めていた時期でもあり、フルベッキは居心地の悪さを感じて妹が以前住んでいたニューヨーク州のブルックリンにいったようです。

■③フィルモア大統領■

そしてすぐにアンカーソー州ヘレナにいき土木技師となったようです。

アンカーソー州はミシシッピ・デリタという地域でもあり、ミシシッピ川に近く、さらに綿花の栽培とアフリカ人奴隷が最も多い地域でもあり、そこで南部奴隷たちの状況をみてヘンリー・ウォード・ピーチャーの教えに心を動かされたようです。

1853年のペリー来航の際(フルベッキがアンカーソー州にいたのはまさにこの年)、日米和親条約でアメリカ側の大統領であったのがミラード・フィルモア大統領ですが、フィルモア大統領は奴隷制に関する取り決めの中、1850年に大統領になっています。

その取り決めは1850年協定というもので、米墨戦争でアメリカ合衆国がメキシコから得た新領土における奴隷制度問題について、南部の鎮めるために、それらの州の奴隷制度を支持した条項を含んだものです。

協議し始めはテイラー大統領で議長がフィルモアだったのですが、テイラーが急死しフィルモア大統領が就任し議決されたようです。この協定は南北の分裂の動きを食い止めようとした当面の融和政策であったのですが、フルベッキが心動かれたピーチャーはこの1850年協定を批判して、「自由と奴隷制は共存しない」と痛烈に批判しています。またこのような批判は周りから多く、フィルモアが属していたホイッグ党は衰退に向かい、この後自由党と共和党でしか大統領がでなくなったといいます。

このフィルモア大統領はアメリカ東西横断鉄道を推進した人でもあり、オットー・タンクの事業の失敗とも重なります。

また、奴隷制の解放という点ではオットー・タンクとも重なり、フルベッキの海外伝導は未開の地における自主性を重んじた布教というビジョンがあったのではないでしょうか。

■④サミュエル・ロビンス・ブラウン■

1854年、フルベッキはコレラにかかります。

その際、回復したら宣教師になることを誓い、渡米した最初の地・オーバーンに戻りそこの長老派のユニオン神学校に入ります。そして、そこの牧会でサミュエル・ロビンス・ブラウンと出会い来日することになります。

ブラウンは、1836年に長老派のユニオン神学校に入り、モリソン号事件(1837年)が起こった翌年、1838年にモリソン号に乗ってマカオにあるモリソン記念学校(Morison Education Society)の校長として招かれます。因みにギュツラフはモリソン号にのってモリソン号事件の当事者になりましたがイギリス系の宣教師だったので、このブラウンの学校はアメリカ系の学校だったのではないでしょうか。生徒は6名だったといいます。

その後、1841年テキストを作るためにシンガポールを訪れた際、ヘボンと合っています。ヘボンは中国への宣教医として東洋に来ていたのですが、アヘン戦争で中国には入れず、またその後中国は外国人に排他的であり(ギュツラフも苦労して中国人宣教師育成会を作る)シンガポール周辺で活動した後、1846年にニューヨークに戻り病院を開業しています。

ブラウンもその翌年、1847年に夫人の病気のため、三人の中国人生徒を連れてヘボンと同じくニューヨークへ帰国しています。因みにフルベッキも1853年にニューヨーク州のブルックリンにきていたりしてますから、同じニューヨーク内に偶然三人いた時期もあったのだと思います。

そして1856年にフルベッキがブラウンの牧会(ブラウンは帰国後ニューヨーク州ローマの創設校長を務めたりしていた)に参加し、ついにオランダ改革派教会の日本宣教師としてブラウンと共に選ばれました。またヘボンも同じ時期に別の組織・北アメリカ長老教会の宣教医として来日が決定されます。

■⑤来日■

1859年にブラウンとフルベッキと、後ダン・B・シモンズが一緒にオランダ改革派教会の日本宣教師として派遣されますが、ブラウンとシモンズは11月1日に横浜へ向かい、フルベッキは上海を経由した後遅れて長崎に11月7日に到着しています。

ブラウンとシモンズは、先に(10月17日)日本についていたヘボンのもとに集まります。更にブラウンとシモンズがニューヨークにいた頃本屋をやっていたフランシス・ホール(知人がペリー来航(1855年の方)に同行した事に触発され来日)も合流しています。

その後1860年前半にはヘボンのもとに大村益次郎(長州征伐の前)や高橋是清(渡米前)が英語の学習のために生徒になっています。そして1862年にはオリファントの『エルギン卿遣日使節録』を読んで来日したアーネスト・サトウもヘボンのもとに合流し、生麦事件においてはヘボンが負傷者を手当てして、アーネスト・サトウは通訳をしています。

フルベッキは長崎につき、かつてマクドナルドが滞在していたところに住んだようです。そして1862年には佐賀藩の鍋島真正の関係のものがフルベッキと知り合っているようです。そして1864年には長崎英語伝習所という長崎奉行の使節で英語などを教えて、大山巌(おそさらく1863年の薩英戦争後から江川塾に行く間、大久保利通もこの時期教えを受けているという)や何礼之(同時期に長崎の自邸で塾を開き、高峰譲吉が加賀藩に推挙されて、陸奥宗光が神戸海軍演習所解体後に教えを受けているという)が生徒であったと言われています。また伊藤博文も教えを受けたと言われています(長州藩から渡英し、帰国してアーネスト・サトウと親交を持っている関係からだと推測)。

また1867年には佐賀藩の鍋島真正のもと、長崎に「致遠館」を設置し、フルベッキを招き、大隈重信や副島種臣が主催及び教えを受けています。この時期に土佐や薩摩もフルベッキを招こうとしたようですが佐賀藩がお金を出して防いだそうです。

しかし1869年、大学設立のために政府から呼び出され東京(江戸)に向かう事になります。そこには渡米後、森有礼によって教師をやっていた高橋是清が、フルベッキが住すむ邸宅にいて出会う事になります。

※英語版・日本語版ウィキペディアおよび『フルベッキの背景』村瀬寿代を参照

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