江戸時代、イギリスが東南アジアへの貿易の開拓を進め、長崎にイギリス商館を1613年に開き、日本はジェーズ1世に鎧を贈りました。

同じ頃、北アメリカにおいてはヴァージニアにジェームズタウンという植民地の定着に成功し、その北側のニューイングランドを発見しようとしている時でした。

■①ジェームズ1世と植民活動■

ジェームズ1世は、エリザベス女王の次の王で、もともとスコットランドの王だったのですがイングランドの王も兼任すること1603年になりました。

スコットランドはカルヴァンの流れの長老派が有力だったので、エリザベス女王の時代は多少は寛容だったようですが国教会しか認められない状況だったので、ジェームズ1世によって国教会以外の宗派(それらの総称をピューリタンと呼ぶ)が認められることが期待されていました。

しかし、1604年ハンプトン会議において、ジェームズ1世は国教会しか認めないことを宣言し、むしろエリザベス女王の時代よりもピューリタンの迫害が強くなりました。

そのため、迫害された宗派の人々が新天地を求めて植民地の開拓に積極的に関わっていったようです。

主な例として、このジェームズ1世の発言を受けて1608年にピューリタンの分離派(国教会の中で改革を起こそうとするのが長老派、分離するのが分離派と呼ぶらしい)の一部の人がオランダに移住して、1620年メイフラワー号でマサチューセッツ湾辺りに辿り着き植民を開始したのが有名です。

またジェームズ1世の政治は基本的には周りの諸国との均衡関係を保ち戦争を避け、貿易活動に力を入れる傾向にありました。1618年からの30年戦争においても、娘が首謀者のプファルツ候と結婚してたもののあくまで戦争には参加していません(もっとも支援はしようと積極的に動いたが議会に反対に合っていて、このときにフランシス・ベーコンも罷免されています。また娘をプファルツ候と結婚させたのも貿易の促進が強い側面をもっているようです)。

■②国王勅許の会社■

もともとエリザベス女王の時代にも北米に植民を始めたようですが、定着していません。

1606年、ジェームズ1世の勅許を得た最初の合資会社(joint-stock companies)がヴァージニア辺りを二つの領域に分けて植民する活動を始めました。

2つの会社によってなり、プリマス会社はヴァージニア辺りの北側を、ロンドン会社は南側の活動範囲を請け負いました(互いに活動範囲が重複する領域があります)。

プリマス会社は1607年に植民地を建設しますが1年で放棄することになりますが、ロンドン会社が1607年にジェームズタウンという定着した植民地の建設に成功します。

■③ジェームズタウンの定着■

ジェームズタウンは、ジェームズ川に突き出る半島となっており先住民族であるインディアンの襲撃を防ぐには好都合な地形であったため定着する要因になったようです。

しかし、川に囲まれているため、マラリアなどの疫病が発生しやすかったことや、農作物の栽培にてきしておらず疫病や飢餓に悩むことになります(1609-1610年の飢餓がすさまじかったようです)。最初は、インディアンと友好的な関係を作り食物などを分けてもらい暮らしていっていましたが、インディアンからもらったトウモロコシなどの栽培に悉く失敗し、ついにはインディアンから略奪する方向に変わったようです。

その活動を積極的に進めたのが、ジョン・スミスのようです。ただ、これによって食物の心配が減ってき、さらに植民地の防衛面も高まってきました。

ただ、これだけだと植民地としての意味を成してません。

当初は金や銀などの資源の採掘を見込んでいた(スペインが南米でポトシ鉱山で金や銀などを発掘していたようなイメージだと思われます)のですが、採掘されませんでした。

そこで、インディアンが育てていたタバコに目を付けて、タバコの栽培を進めることで植民地としての価値を発揮し始めます。

当時は、スペインからタバコがイギリスに輸入して普及しつつありました。ジェームズ1世はタバコの反対運動(国王は学術的な人で当時の医学の所見などを文言に)を進める『タバコ排撃論』(1604年)を執筆しますが、その運動が逆に更なる普及を進める結果となっていたようです。

そのため、ジェームズタウンのタバコ栽培も、インディアンのタバコは香りが良くなかったため、オランダなどから買い入れたタバコを栽培する事によって、成功したようです。

またタバコ栽培は非常に手間がかかり1619年には早くもアフリカ奴隷を植民地に送り込んでいるようです。

■④ハドソンのニューヨーク発見■

このジェームズタウンの成功を耳にしたヘンリー・ハドソンがヴァージニアの北側を探検して発見したのが、ハドソン川とニューヨークになります。

ハドソンはこの航海が3度目でしたが、1回目と二回目はイギリス会社でモスクワ大公国との貿易の独占を目論んだ「モスクワ会社」に依頼され、北極海を経由してモスクワに辿り着く経路の開拓を依頼されましたが失敗しています。

当時の理論では夏場に長い間太陽によって温められると、北極の氷が解けるため、経路が現れるという考えでした。しかし、実際には氷は解けず失敗しました(ただし、スヴァールバル諸島に到達し、オランダと競争してた捕鯨の拠点の開拓には成功しているようです)。

今回の三回目の航海は、1609年に、オランダ東インド会社によって雇われ、北アメリカ大陸を北上して迂回して東南アジアに辿り着くルートの開拓を依頼されたようです。しかし、ハドソンは北アメリカ大陸の北側は今までの経験から氷が解けていないと考え、当時は北メリカ大陸は諸島であると考えられていたため、北アメリカの中央部を突破する経路を見つけようとしました。

その際に発見したのが、ハドソン川でありニューヨークでした。

ハドソンはイギリス人ですがオランダの東インド会社に雇われて発見したため、ニューヨークの植民はこの後オランダが進めていきます。

また、ハドソンはその後今度はイギリスの会社に雇われて再度北アメリカを突っ切る経路の探索に出て、ハドソン湾を発見するのですが、ハドソン湾からは西へは進めず、船員と口論の末に息子と病人とともに置き去りにされ行方不明になっています。

■⑤スミスのニューイングランドの命名■

ジェームズタウンの危機を乗り切ったジョン・スミスですが、彼はハドソンのニューヨークの発見などを聞いてか、ヴァージニア植民地の北側のメイン州からマサチューセッツ湾岸を探検し、このエリアをニューイングランドと名付けました。この時の記録はA Description of New Englandとして1616年にイギリスにおいて出版されました。

おそらくこれによってニューイングランドのマサチューセッツ湾付近の開拓に目が付けられ1620年のメイフラワー号の到着に繋がっていくのだと思います。

ただ、ヴァージニア植民地とマサチューセッツ湾の間にオランダのニューヨーク(当時はニューアムステルダム)があり、オランダとイギリスの植民地の争いも激化していくようです。

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