序. ユングにとってのニーチェ
ニーチェは多くの著作の中で自分の哲学を「心理学」であると述べている(※1)。
実際、ユングも「ニーチェによって近代心理学を受け入れる準備」をしたと語っている(※2)ように、1913年にフロイトと訣別する前後に書かれた『無意識の心理』において、深層心理学を紹介する中でフロイトとアドラーと並べてニーチェを紹介している。
そこでは、フロイトが無意識を解明する方法として「種の保存の“衝動”(性理論)」を唱えたのに対して、ニーチェは「自己の保存の“衝動”(権力の意志)」を唱えた、と紹介している。フロイト自身も「自己保存の“衝動”」を「自我衝動」として扱っているが、「性理論」を唱えるあまりに軽視してしまい、代わりに(ユングによると)弟子であるアドラーがフロイトから独立し「自己保存の“衝動”」をピックアップして唱え『神経的性格について』(1910)を書いたとしている。
そして、年代的順序としてはニーチェの方がフロイトより先に、キリスト教によってタブー視されていた「無意識(深層心理)」の世界に切り込んだはずである。
では、なぜ「無意識」の発見者としてはフロイトであるとされることが多いのであろうか?
それは、おそらくユングが考察しているように、ニーチェは「深層心理(無意識)」について語ったが、そこから生じる「神経症」や「精神障害」に対処することができず、逆に「精神障害」になってしまったからであろう。
ユングは『心理学と宗教』において、ニーチェは「理性」を超えた「無意識の“衝動”」を発見した高揚感から「衝動」というエネルギーに身をゆだねてしまい、逆に「衝動」のエネルギーを抑えきれなくなり、「人格の分離」という「心理的障害」を引き起こしてしまったと論じている。
しかし、ニーチェがいたからこそ、ユングはフロイトの思想に感銘しつつも疑問を持ちづ付けることができたのだと思う。
ユングが1895年スイスのバーゼル大学の医学部に通ったとき、15年位前にその大学で教鞭を執っていたニーチェの噂は、大学内でまだ批判的であるが語られていた。先輩であり友人でもあったブルクハルトもニーチェについて語っていた。そんな中で、ユングはニーチェの『ツァラトゥストラはかく語り』や『反時代的考察』を読み、ニーチェと同じく牧師の息子で、無力化したキリスト教の実態を体験していたこともあり、ニーチェに深い感銘を受けた。
そして、ニーチェを読んでいたからこそ(ゲーテの『ファウスト』などの影響もあるが)精神医学の分野に入った時、「無意識」の存在について興味を持ちフロイトに師事する事になった。しかし、ニーチェを知っていたからこそ、人間にとって根本的な衝動は「性の衝動」だけでなく「自己保存の衝動(権力の意志)」などもあると疑問をもて、フロイトから独立しユングは後々まで語られるユングになる一歩となった。
ただ、それだからこそ、ユング自身もニーチェ同様、「無意識の“衝動”」に呑み込まれそうになる。しだからこそ、後にニーチェについて語る時は、必ずニーチェの功績は評価しつつも、危険性も考えつつ批判的な語り口から語るようになった。
※1…『善悪の彼岸』『この人を見よ』『悲劇の誕生』『人間的な、あまりに人間的な』『ツァラトゥストラ』『道徳の系譜』などにおいて。
※2…『無意識の心理』ユング・高橋義孝約、1977、人文書院
※3…http://www2.scc.u-tokai.ac.jp/www3/kiyou/pdf/2009vol7_3/yamaguchi.pdf 『ニーチェとウェーバーの精神障害』では端的に語られている。
ⅰ.「バーゼル」という接点
ユングとニーチェを結びつける接点は「スイスのバーゼル」である。
ニーチェは1869~1879年にバーゼル大学で教鞭を執っている。
一方、ユングが生まれたのはバーゼルから遠いスイスのケルヴィルだが、祖父は母方・父方両方とも、バーゼルの著名人であった。母方の祖父はバーゼルのレオンハルト教区の説教師で、改革派の牧師仲間では「牧師長」として通っていた。父方の祖父は、ゲーテの私生児(曾祖父・祖母ともにマンハイムでゲーテの周辺詩人と交友を持っていたための噂)ともいわれるバーゼル大学の総長として今も肖像がかかっているほどの人であった(かつてドイツ統一運動にハイデルベルグ学生だったころ参加して、フンボルトの紹介でバーゼル大学に勤めるようになった)。
特に、父方の祖父の影響もあってか、ユングはケルヴィルで牧師の子として育ち百姓の子たちと交友を持つ中、1886年バーゼルの上級ギナジウム通い(父は大学で言語を研究し学位を得るも資金の関係で牧師となったが、言語に精通していたためかユングにラテン語の教えてギナジウムの準備としている)、1895年にはバーゼル大学の医学部に通っている。
ⅱ.バーゼル大学でのニーチェの著作との出会い
バーゼル大学においては、 『ユング自伝(1962)』によると、もうニーチェがバーゼル大学で教鞭を執り去ってから15年以上たつのに、批判的意見が中心だが、もうベルクハルトは公務を退いていたが批判的にニーチェを検討し、更に有能な哲学の学生たちによって議論されていたらしい。また、かつてのニーチェのちょっとした所作について、この人たちはニーチェについてほとんど理解してなかったが恐らく笑いの種として語っていたらしい。
また「私の友人や知人の間で、公然とニーチェの支持者だと言明したのはたった2人きりであった。両者とも同性愛者であり、一人は自殺し、他方は誤解された天才として老いていった」という。
ユング自身はニーチェの『ツァラトゥストラ』『反時代的考察』を読んで感銘を受け、「要するに、ニーチェは当時のわたしにとって、考えるよりはむしろ感じていた一定の緊急の諸問題にいくつかの適切な答えを与えてくれた唯一の人でした」(※1)という。更に「ツァラトゥストラはニーチェのファウスト(ユングはゲーテの『ファウスト』も無意識について説いた作品と考えている)であり、彼のNo.2であって、私のNo.2はその時ツァラトゥストラに相当していた。(『ユング自伝』より)」という。また、事実化は分からないがこの時点でニーチェはNo.1を捨てNo.2に呑み込まれてしまったとも考察していたと河合隼雄『ユングの生涯』では語られている。またこの時霊媒体験をユングは行っているが、ユングに対してはニーチェの『ツァラトゥストラ』などについての触れ込みに強く反応したという(『ユング伝』ゲルハルト・ヴェーア)
そして「ニーチェによって近代心理学を受け入れる準備」(『無意識の心理』)をしたという。
またこの時期に父方の祖父がゲーテの私生児であることも関係してか分からないが、母がユングにゲーテの『ファウスト』を薦めて愛読している。ユングは『ファウスト』の一部は「衝動の容認の意味」をテーマにし、二部は「自我及び自我の不気味な無意識的世界の容認の意味」をテーマにし、「人間は(エロスか権力か)もう一方の衝動を自覚してしまうと、万事休す」であるとき「ファウスト的葛藤」が起こると『無意識の心理』で語っている。
その後、1916年の『無意識の心理』などで何度かニーチェを触れ、晩年の1940年の『心理学と宗教』や1962年の『ユング自伝』ではニーチェを本格的に扱い、1934-1939年のチューリッヒの心理学クラブで英語によるゼミナールで「ニーチェのツァラトゥストラの心理学的分析」という講義を行っている。
※1…https://ozom.org/jung-nietzsche/ より引用。アメリカの神学者に贈った手紙から、という。