1613年、ジェームズ1世の国書を携えたジョン・サーリスのイギリス船が長崎の平戸に着きました。

 1600年に関ケ原の少し前にオランダ船が難破して日本に漂着したウィリアム・アダムス(三浦按針)が、1613年の時点ではジャワ島のバンテンにイギリスの東インド会社が商館を持っていたため手紙を送り、東南アジアに東インド会社の一員として滞在していたサーリスが日本に訪れることになったようです。

 三浦按針が日本に漂着した1600年はまだイギリスはエリザベス女王の時代で東インド会社が発足する少し前で、オランダの貿易船が東アジアの貿易を開拓したばかりの頃の事でした。そのため三浦按針もオランダの貿易船に乗り、しかも少し前にようやく東インド航路をオランダは開拓したばかりであり不慣れで会った為、難破し偶然日本に漂着しようです。

 オランダがポルトガルから東インド航路に関する極秘情報を手に入れて、東インド航路を始めたのが1595年。それに触発されて、イギリスにおいても東インド航路の開拓が叫ばれ始めました。

 しかし、当時はまだイギリスとスペインは1588年のアルマダ海戦による対立をピークに、15年の対立をしてようやく和平交渉に入っていたため、和平が実現してからとエリザベス女王が判断し、少し東インド会社の発足は遅れました。

 ただ実際は和平交渉が失敗し、東インド会社をスペインとは関係なしに設立することにしたのです(東インドは新大陸に比べてスペイン・ポルトガルの影響力は弱かった)。

 16世紀中ごろまではイギリスはアントワープ(アントウェルペン)を中心に毛織物を中・東欧に捌いていいたものの、1585年スペイン軍によりアントワープが陥落されてしまい市場を喪失し新たな市場を求めていたのです。

 ただ、フランシス・ドレークが1577年から1580年にかけて世界一周を達成したおかげで、国庫に莫大なお金が入り、1581年には地中海経由のヴェニスを中継した東方貿易会社レヴァント社を設立していました。そのため、アントワープの喪失は東方貿易によって新たに取り戻そうとしていました。

 しかし、東方貿易の喜望峰を回る東インド航路は直接貿易なため魅惑的だったのですが、ドレーク以降成功できるものはいなかったようです。そのため東インド航路は一時頓挫していたのです。

 でも1595年にオランダがポルトガルの極秘情報を知り、東インド航路を成功させたのに触発されて、オランダやポルトガルの水先案内人をのせて遂に東インド航路を開拓することに成功します。それが三浦按針が日本に漂着した少し後にできたイギリスの東インド会社に繋がります。

 イギリスの東インド会社は、東インド航路の貿易を独占できる権利を女王から得ていましたが、会社自体は海賊あがりの者がお金を出し合い、その航海ごとに生産する、「当座会社」的でありまた「合同出資会社」的でもありました。経営自体は会社が従業員を持ち、基本的には会社に運営を任せられました。女王は独占権の許可と、帰港する際にロンドンを通るテムズ川に必ず帰港するように定めそこで徴税することのみの関与でした。

 そのイギリス東インド会社は1601年に第一回目の船団を送ります。そして1604年に第二回目の船団を東南アジアに送ります。その船にジョン・サーリスも乗っていて、帰りは船に乗らず東南アジアのイギリス商館に留まりました。第三回目は1606年末に送りますが、その際はモカ港を始めとするコーヒー貿易に参入する戦略でアデンに拠点を構える戦略を採用しています。

 その後、イギリスとオランダは東南アジアにおいて貿易の激しい競争を行います。両者ともにスペイン・ポルトガル船の襲撃なども行う激しいものでした。特に1612年オランダがスペインと休戦協定を結んでからオランダのイギリス船に対する襲撃が過激になってきました。

 1612年といいますと、日本においては岡本大八事件が起こっています。1600年の関ヶ原以降天下の覇権を握った徳川家康は貿易に力を入れていきます。しかし、また同時に三浦按針やオランダ人から世界の状況を聞くうちに、カトリックを中心としたキリスト教の布教の危険性も認識するようになりました。そのため、たびたび布教の禁止などを訴えていたのですが、宣教師はむしろ布教を辞めるどころか進めていったため、警戒心を強めていました。その時、岡本大八事件によって家臣の中にもキリシタンが多くいることを思い知らされる事件がおこり、1613年にはかなり強いキリシタン禁令を出します。

 おそらくそんな国内の事情をみて、今なら国教会を中心とするイギリスなら幕府は受け入れる気持ちがあると思い、おそらく三浦按針は手紙を東南アジアにあるイギリス商館に手紙を送ったのだと思います。

 実際、三浦按針の執り成しもあり、1613年にジェームズ1世の国書を携えて日本に来たジョン・セーリスは歓迎されています。

 英語版ウィキペディアのセーリスの解説には、家康が浦賀港の貿易を進めつつも、セーリスは平戸にイギリス商館を開くことにしたと書かれていますが、オランダと強調したいという考えがあったのでしょうか。それとも東南アジアからの距離的に平戸の方が便利だと思ったのでしょうか。

 実際には『世界と日本の歴史』(大江一道・著)によるとイギリス商館経営はミスが多くあまり振るわなかったため、オランダとトラブルは起きなかったと書かれています。また1620年にはオランダとイギリスが協力し合い(1619年にオランダとイギリスは争っていたのが東南アジアも含め「休戦協定」も出しています)、スペインの船が宣教師をのせて日本に入り込もうとしたのを捕まえて幕府に報告しているという話もあります。

 イギリスが日本に来た目的の一つとしては、オランダと同様、東南アジアでスペインやポルトガルを制圧するための中継点としてきたようでもあります(つまりメインは東南アジアのスパイス貿易で、それを滞りなく行うために日本に拠点を作り食料などの調達を行いつつスペイン・ポルトガル船を攻撃するという感じ。捕獲したスペイン・ポルトガル船の積み荷を一時平戸で保管して本国に転送する(※1))。また、セーリスが日本に来た際には日本の工芸品を手に入れて、イギリス初のオークションをイギリス国内で開催していることから、珍しいものを手に入れるためという目的もあったようです。

 英語版ウィキペディアによるとイギリスは本国の毛織物製品を売り込もうとして日本に来たが、日本まで毛織物製品を管理するのが難しく、その目的は失敗しているとも書かれています(そのため10年あまりで撤退しているとも)。

 また1614・1615年に「大坂の冬・夏の陣」が起こり、行き場を亡くしたキリシタン大名を一掃しています(※1)。1616年には家康が亡くなると、将軍に権力が集中し、遂には百床以下まで取り締まる「元和のキリシタン禁令」が出されます。またこの時イギリス館長も江戸で審問を受けて、今まで平戸以外でも貿易を許可していたが、貿易を平戸のみに制限させられています。

そして、先程のイギリスとオランダの協力によるスペイン船の捕獲は「元和の大殉教」につながり、宣教師を助けたものまで罪が及んでいます。

イギリス商館は1623年に平戸から撤退しています。経営が振るわなかったためとも言われますが、1673年に朱印状が有効であったため国内の動乱(ジェームズ1世の息子チャールズ1世から本国内で戦争をしている)が収まったためリターン号を派遣してチャールズ2世の国書とともに通商の再開を申して出ているところから、かならずしも意味がなかったわけではないのだと思います。

一番の原因は「アンボイナ事件」によるものだと思います。

東南アジアにあるモルッカ諸島のイギリス商館をオランダが襲った事件です。この頃、日本国内で罪を犯した者は朱印船にのり東南アジアの貿易の傭兵などになっていました。その傭兵になっていた日本人がオランダ商館を偵察にいっていたところ捕まり、その傭兵の日本人はイギリス人がオランダ商館を襲撃するための下見だったと吐き、オランダ商館がイギリス商館を襲ったというものらしいです。

 おそらく1619年の休戦協定の影響などもあり、イギリスはこれによって東南アジアのスパイス貿易から撤退し、インド地域のモカ港(1619年に貿易を許可されている)などのコーヒー貿易にシフトしたらしく、力点が西側に移動したため、日本は場所的に離れてしまうため撤退したのだと思います。

 ジェームズ1世の統治下は議会をイギリス王である内に4回しか開かなかったとか、財政を壊滅的なものにしてしまったとかありますが、戦争を避け外交と貿易に力を入れた所に特徴があります。この日本の開拓もその外交政策の一つだったのではないでしょうか。

※1…『世界と日本の歴史』(大江一道・著)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です