ルカ・パチョーリは、レオナルド・ダ・ヴィンチと一緒に本を書いた人として有名で、また「複式簿記」をいち早く多くの人に普及させた人として「会計学の父」とかも呼ばれる人です。


■①複式簿記の著作について■

 「複式簿記」が収録されている著作は1494年の『スムマ』という本なのですが、北イタリアの中産階級の人々に商業のための数学を教えるために書かれたようです。もともとパチョーリは大学などで講義する前に、ヴェネツィアの商人の子どもに対して数学の家庭教師をした経験がありました。そのとき、ヴェネツィアにおいて発達している会計システムに驚き、家庭教師をしながら簿記を中心とした会計システムを学んだようです。

 ですので、「複式簿記」について論じるというよりは、財産目録を始めさまざまな台帳をつかった記録の仕方や、それを役人が管理する際に報告するやり方などなど、貿易や産業が発達してきて現金以外の手形や負債、またグループを使っての投資など複雑化してきた経営環境を効率良く会計を中心に管理する方法を、ヴェネツィアの経験を中心として深く学びまとめたという感じがします。

 1494年というのも、パチョーリがヴェネツィアでの家庭教師を経て、大学で講義をしたり、自分自身も学位を取ったりフランシスコ会の僧侶になり学ぶ環境を整え学者としてのキャリアと築きながら、ウルビーノ公であるグイドバルド・ダ・モンテフェルトロと1490年頃知り合い出版の援助を受けれるようになったため、まずはまだ学者としては有名でなかったためニーズのある北イタリアの商人に向けた数学の本を書いたという感じなのではないのでしょうか。

 後、当時の数学はユーグリッドの幾何学やフィボナッチの代数学などの体系をまとめることの他に、現実の物事のベースとなる数字の法則も数学の範囲内だったのだと思います。そのため、人体デッサンのベースとなる比率や空間の奥行きを作図する幾何学や、建築をする際の基準となる数式などなど、かなり実技と関連の高い数学の著作もパチョーリは描いています。

 ミラノ時代にレオナルド・ダ・ヴィンチと意気投合したのも、絵画や建築などダ・ヴィンチの創作活動に役立つ学問を「数学」という範囲内で行っていたのだからだと思います。

■②パチョーリの貴重な経験と『スムマ』の誕生■

 そもそも創作活動と「数学」の関係は、パチョーリはルネサンス芸術を牽引した一流どころのアーティストから学んでいます。

 パチョーリは、レオナルド・ダ・ヴィンチより5歳くらい年上で1440年後半に生まれたのですが、場所はウルビーノに近い少し小さめな都で生まれます。

 ただ、そこにはピエロ・デラ・フランチェスカという有名になりだしていた画家がいて、その都に住んでいる子供たちをそれなりに丁稚奉公みたいな形で雇っていたのだと思います。おそらくその中に、パチョーリもいたのですが、パチョーリは絵を描くことよりも、絵を描く際に下地として計算する幾何学に非常に興味をもったようです。

 ピエロ・デラ・フランチェスカは、後に徹底的に計算された奥行きのある空間を描く画家として名声を残し、更にはその遠近を描く数学の練習テキストの本なども出版します。ですので、パチョーリが弟子入りしたときも熱心に計算ながら描いていたと思われ、パチョーリの数学における興味は師としても喜ばしい事だったのだと思います。

 ただ、絵自体はおそらくあまり才能を見出せなかったのか、それを支える数学の見識を広げさせてあげようと、少し前にウィトルウィウスの「建築論」などに触発されて建築に比率や幾何学などの数学を取り入れ活躍をしていたピエロ・デラ・フランチェスカの友人レオン・バティスタ・アルベルティのもとにパチョーリを紹介しローマに向かわせます。

 アルベルティは建築に目覚める前に遠近法などのルネサンスに勃興してきた絵画の技術などをまとめた「絵画論」を執筆した著者であり、また画家でもあり、パチョーリは建築のための数学はもとより、他にも実学としての数学の可能性を学んだのだと思います。

 だからその後、1464年にアルベルティの勧めでヴェネツィアの商人の子どもの家庭教師をすることになった際も、経営に関係する数学である簿記や会計に非常に興味を持てたのではないかと思います。

 ですから、その後1470年にはローマに行ってフランチェコ会の僧侶になったり、色々な大学で講義をしたり学位をとったり進むべき方向がアルベルティの以降見えてきたのではないかと想像します。

 そして1490年頃、大体40代半ばになりキャリアも積んできたのでその今まで進んできた数学の見識をまとめた本を出そうと、かつて師であったピエロ・デラ・フランチェスカの紹介で許可が下りていたウルビーノ公の先代(ピエロ・デラ・フランチェスカは先代の有名な肖像画描いている)の蔵書をベーストした図書館に出入りしていたところ、今のウルビーノ公と出会い、以前ローマで会った頃もあり数学のキャリアを知っていたのかウルビーノ公から後援の話がでたのかと想像します。

 そうして、1494年北イタリアの中産階級の人に向けた商人に役立つ数学書『スムマ』をニーズのありそうなヴェネツィアで出版したのだと思います。『スムマ』はフィボナッチの代数学とユーグリッド幾何学をうまく連携させた理論的なところと、簿記などの会計実務の仕方など数学をベースとした実技の運用の仕方を述べたもので、かつて学んだ師ピエロ・デラ・フランチェスカの代数学もその中に収録しています(師のクレジットは無いようだが)。つまり、それまでの集大成を北イタリアの商業向けに再編して出版したという感じのようです。

■③ミラノでのダ・ヴィンチとの交友■

 この『スムマ』が非常に評価され、ミラノで一流の学問文化を発展させていたミラノ公ロドリーゴ・スフォルツァ、通称イル・モーロが1490年後半にパチョーリを招聘するのです。そして、そのミラノには1480年代半ばからフィレンツェのロレンツォ・デ・メディチの紹介でミラノで舞台演出や建築・絵画などの仕事で働いていたレオナルド・ダ・ヴィンチがいてパチョーリの数学の力に魅せられ親交を持つことになるのです。ピエロ・デラ・フランチェスカやアルベルティなどの一流アーティストの下で学んでいただけでも十分パチョーリの数学は魅力的であったと思うのですが、さらにそれを自分の形としていたのでダ・ヴィンチもパチョーリから色々学びたいと思ったのでしょう。ミラノ時代に書かれた『最後の晩餐』はパチョーリの数学に基づく遠近法が生きているとも言われています。

 ただその時重要なのは、レオナルド・ダ・ヴィンチが挿絵を描いた『神聖比例』という著書です(執筆はミラノだが出版は少し後になり1508年ヴェネツィア)。『神聖比例』は黄金分割を用いた計算の可能性を述べるだけでなく、それを応用して人体や建築などを幾何学や代数学で扱う事の可能性を説いた書でもありました。ダ・ヴィンチもミラノではミラノの都市の道路設計や教会設計を行い、道路は完璧な形である円をベースとした環状道路を想定するなど、完璧な存在である数学をバックボーンとした創作活動をしていました。それをパチョーリがアルベルティのもとでウィトルウィウスの人体のプロポーションから建築を考える方法などを学び、それを更に研究し極めていたのでパチョーリとの共作は非常に刺激的だったのだと思います(またパチョーリ自身も自身の考えがグラフィック化することに感動を覚えたのでしょう)。

 他にも「数学と魔術」というカードトリックなど数学をベースとして考えた著作などもミラノ時代にレオナルド・ダ・ヴィンチと共作しています。そして、1498年ルイ12世がイタリア侵攻をしてきた際、マントヴァにダ・ヴィンチとパチョーリは共に避難し、チェスの愛好家だったマントヴァ公の奥方であるイザベラに向けて「チェスの本」も書いています。チェスも数学の思考をバックボーンにして考える実技といえるのでしょう。

 その後は非常に評価され1509年は生まれ故郷の修道院長になったり、1514年にはロレンツォ・デ・メディチの息子であるレオ10世の招聘でダ・ヴィンチも滞在していて、ラファエロやミケランジェロが活躍するローマに招聘され教鞭をとる名誉を授かったようです。

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