経済学は、解剖学の教授によって作られました。


古典派経済学を誕生させたとされるウィリアム・ペティはかつて解剖学の教授でした。若き頃、当時解剖学が進んでいるオランダの大学に行って、解剖について勉強しました。また、イギリスに帰国してオックスフォード大学において解剖学の講座の教授になりました。


そんな彼が社会を一つの人体と考え、社会という人体を解剖しようという試みから経済学が作られたのです。
彼にとって解剖とは、「肉体は探求の対象になる。その探求により、肉体の要素が識別され、その機能が解明される」(※1)というものでした。つまり、社会も「探求によって、要素を識別し、その機能が解明する」ことを目指したのです。


当時の医学は、ほとんど外科的な手術はされていない時代でした。そのため、解剖は手術のための研究ではなく、人体を純粋に探究するためのものであったのです。だから、解剖という当時としては新しい考えを、人体から社会にスライドすることができたのだと思います。


では、人体を解剖するときは「メス」(手術刀)を使いますが、ペティは何によって社会という人体を切り開いたのでしょうか?


それは、「数字」です。社会という人体が生きていく上では「富」というエネルギーが必要だとペティは考えました。そして、その「富」を「数字」化することによって、「解剖」することに成功したのです。


ペティはアイルランドで大地主になり、土地の経営を行っていました。また、後にニュートンやフックなどが属することなる科学団体「王立協会」の母体ともなる「オックスフォード・グループ」の主軸となるメンバーの一人でもありました(後の「王立協会」のメンバーにもなる)。そして、若き日、オランダで「解剖」を学んだ後、「代数学」の教授のもとについて勉強もしています。


つまり、現象を数字で捉え、その見識を生かして運営することにも精通していた人だったのです。


そんな、当時の科学と経営のあらゆる方面に精通していた彼だからこそ、バランスよく見識をまとめ、「経済学」という新しい分野の誕生の端緒を切り開いたのです。


(※1)…論文『ウィリアム・ペティの政治算術(3)』大倉正雄より引用

【ウィリアム・ペティの生涯】

ウィリアム・ペティは1623年、イギリスに生まれました。ニュートンが生まれる約20年前の話です。


そして1637年(14歳)頃から船乗りになり貿易などの荷物運びに携わり、その後イギリス海軍に入るなど、最初は船に乗って色々な世界を見る仕事につきました。おそらく、この経験が貿易が新しい富を作る一つの可能性に気付いたり、貿易を効率よく行う条件を分析したりする後の経済学の分析の一端に繋がるのだと思います。


その後、イギリスでは清教徒革命が1642年から起こりました。ペティは丁度この時期辺りからオランダに留学し、清教徒革命によるイギリス国内のゴタゴタに巻き込まれないで住んでいます。オランダの大学では、解剖学の最先端とも言えるシルヴィウスのもとで勉強し、その後代数学で有名なペル教授のもとで勉強し、ペル教授の学術論争を助けるためにフランスのメルセンヌやデカルトなどに書簡を送ったりもしています。


このペル教授のもとで代数を学ぶうちに、ペティが尊敬していたベーコンの著作の影響もあり、社会を数学で解剖する可能性を考え始めます。また、このペル教授の紹介によって、その後フランスに留学し、フランスの知識人グループの主催者とも言えるメルセンヌと知り合い、デカルトやイギリスの清教徒革命によって王党派であった故にフランスに亡命して同じくイギリスから亡命していたチャールズ2世の家庭教師をしていたホッブスとも親交を持っています。特に、ホッブスは解剖や科学の見識が広く、それを社会に適応するスタンスなどペティに与えた影響は大きかったと思います。


その後、1646年イギリスに帰国し、イギリス国内で成立しつつあった科学団体(ロンドン理学協会とも呼ばれることも)に属すことになります。そこで尊敬していた故ベーコンの教え子である人たちや、後に親友となるジョン・グランドとも出会っています。ロバート・ボイルもその団体に属していました。


そして、清教徒革命が進むうちにオックスフォード大学の王党よりの教授が多く罷免された関係もあり、ペティが属す科学団体は今までグレシャム大学などで活動していたのを、オックスフォードに拠点を移すことにしました。これは「オックスフォード・グループ」と呼ばれ、後にはロバート・フックやクリストファー・レンなど後の「王立協会」の主軸となってくるメンバーも入ってくるグループの母体ができたのです。


オックスフォード大学では、ペティの親友グランドは色々な方向に顔が効いたため、ペティ―を解剖学の教授に推薦してくれたり、ペティの向上につながる時期にもなりました。教授になった後、「オックスフォード・グループ」はペティの下宿を中心に活動をしたと言われているので、ペティの影響力は結構強かったのでしょう。


しかし、1652年、清教徒革命によってイギリスの指導者となったオリバー・クロムウェルが新たにアイルランドを侵略し、多くのアイルランドの元々の土地経営者が排斥されたことを受けて、ペティはアイルランドにいって土地の経営をする事にしました。もともと、社会を「数字」によって「解剖」する方法をアイディアとして持っていたため、実際アイルランドの土地経営を通して、本格的にそのアイディアを実践に移せるまたとないチャンスと考えたようです。


アイルランドにおいては、当時のイギリス本土から来た土地経営者は統治を優先していたところを、ペティは経営の視点を重視して、経営を阻害する統治を革新的な方法によって変えていったようです。ペティはクロムウェル政権が崩壊すると共にアイルランドにおけるイギリス本土の力が弱まると共にロンドンに帰るのですが、このときのアイルランドに対する施策が評価されて8年後にアイルランドに戻る機会に恵まれます。


1660年、クロムウェル政権が崩壊しアイルランドにおけるイギリス本土の力が弱まりペティはロンドンに帰りました。政治おいては王政復古が起こり、チャールズ2世が統治することになりました。チャールズ2世は科学に理解があり、今まで政府非公認だった科学団体「オックスフォード・グループ」が「王立協会」として公認する機会が恵まれました。そして「オックスフォード・グループ」の主要なメンバーでもあったペティはやがて「王立協会」のメンバーにもなっていきました。「王立協会」は自然科学でありましたが、その中でも自然科学の方法論を社会に適応させるメンバーもそこそこいてペティもその社会科学のメンバーとして活躍していきました。特に1666年にロンドンで大火事が起こり、王立協会のフックやレンがロンドンの都市計画に参加したり、自然科学の見識を社会に向ける流れも優勢になってきました。また、同時期にペストも大流行し、ペストが流行っている場所の指標として「死亡人数」が使われ、「死亡人数」を場所別にまとめた著作をペティの親友グランドが出し、この社会の現象を「数字」によってとらえる姿勢はペティにとって大きな影響を受けます(これは当時多くの人に影響したようで、この著作から社会を数字で集計する「統計学」の誕生に繋がっていきます)。


そんなこんなもあり、社会科学において名を馳せてきたペティは、アイルランドにおける治安が安定してきて、チャールズ2世が認める「王立協会」に属し、アイルランドにおけるイギリス本土の王党派の地位が向上してくると共に、1667年少し前からアイルランドに再び戻り始め、遂には定住します。この時期においては、アイルランドに関する著作も多く、アイルランドの地図やアイルランドの政治を解剖する著作なども書き、経営者としてだけでなく、その見識を多分に公にしています。


そんな中、1672年第三次オランダ・イギリス戦争が始まりました。


チャールズ2世は1660年に王政復古した関係もあり最初は宗教に関しては寛容でした。しかし、以前亡命していたフランスとの繋がりはいまだにあり、時を増すうちにフランスのルイ14世との関係が親密になってきました。すると親フランスになりカトリックのみの奨励するようにもなってきました。


しかし、1660年半ばに起こった第二次オランダ・イギリス戦争において、1666年イギリス本土で大火事とペストの大流行が起こった関係もあり、オランダがロンドン市外に直接砲撃する事態まで起こってしまうほどオランダに押され、イギリス本土ではイギリスは他国に対抗できる力が弱いのではないかという論調になり(ペティはこの時第二次オランダ・イギリス戦争における戦費調達の不備を説く著作を出している)、オランダだけでなく絶対王政で名を馳せていたフランスも脅威と考える論調がイギリス国内で湧き上がってきました。 そのため、むしろオランダとは同盟を結び、フランスと徹底的に戦うべきだという流れにまでなってしまいました。


チャールズ2世としては親密であるフランスと戦うことなどもっての外として、こっそりフランスと同盟を結んで、フランスがオランダに戦争を仕掛けたとき呼応して、イギリスもオランダに戦争を仕掛けるという条約をチャールズ2世は国民を無視しし独断で条約を結んでしまいました(ドウヴァの秘密条約、カトリックのみの振興も条項に入っていた)。


そんな紆余曲折があり第三次オランダ・イギリス戦争が始まってしまったのです。これによってオランダは致命的なダメージを受けるのですが、イギリス国内では反発も起こり、反王党派のメンバーが政治に台頭し始めてきたのです(これが1685年の名誉革命に繋がる)。


そんな不安定な世相もあり、改めてイギリスは弱いんじゃないかという論調が強まったのです。


そのような中、ペティは当時唱えられていた親友グランドの統計学的考え方や、自然科学を社会に適応する考え方をうまくまとめ、「数字」によって実態を知るだけでなく、要素を解明する「解剖」という考えに基づき、「イギリス」「フランス」「オランダ」の力を冷静に分析した『政治算術』(1676年頃)という著作を執筆したのです。


アイルランドの土地経営者の経験を生かしてか、経済における「余剰価値の創出」こそが「富」の源泉として、「富」を「数字」化すると共に、貿易や生産によってどのように作られ、どのように「富」が増えていくのかというメカニズムを体系的にまとめました(『政治算術』という著作において)。個別の考え方はペティの考えというより当時の多くの知識人が考えていた事であり、ペティはそれをうまくまとめたことによって、「経済学」という社会の「富」の流れのメカニズムを描き出す学問の誕生に寄与することになったのです。


当時、フランスなどでは「重商主義」など貿易を中心とした「富」の増加が唱えられた関係もあり、ペティは「重商主義」の考えを「政治算術」で書いたと評価されることや、社会を「数字」で捉えた「統計学」の創始者とも言われることがありますが、ペティは別にこの『政治算術』においてそれらの事だけを書いている訳ではなく、それらは必ずしも独創とは言えないようです。むしろ、それを総合的にまとめ「貿易」だけでなく「生産」も、「統計」だけでなく「メカニズム」も記述するなど総合性にまとめるアイディアを出したところがペティならではのようです。


ただ、この『政治算術』は王政批判とも受け取れる可能性もあり公には出版されず、1685年の名誉革命後自体が落ち着き、ペティが亡くなった1687年の数年後に公に出版されたようです。


※基本的には岩波文庫『政治算術』1955年訳を参照

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