病気とは、健康を妨げている条件を除去しようとする自然の働きである。

そしてそれは、以前からの生活過程の、そのときどきの結果として現れたものである。

、、、というようなことを、ナイチンゲールは考えました。

病気と言うと一時的に生じた体の不調と考えてしまいがちですが、今までの習慣や環境による影響などの蓄積やねじれによって生じた生活に影響を与えるひとつの結果であり、それは通常の状態に戻ろうとする回復作用が働くことによって生じるものです。

 ウイルスも排斥しようとするから熱や風邪などの症状が現れ、ストレスも生活習慣の中で蓄積され回復しようとするから代償として不調として症状が現れるものだと思います。

 ナイチンゲールの著書『看護覚え書』(1860年)においては、更に医師の役割と看護の役割を明確に区分しています。

 医師とは、害をなしているものを直接取り除いたり、健康な状況に強制的に移植したり、回復作用を人為的に強める薬を処方する事など直接的な治療ができます。

 しかし、看護師は直接的な治療でなく、患者が回復しようとしている自己作用を助けるための環境を提供する事が役割だと説いています。

特に興味深いのは、人は知性によって体に良くない環境や生活を改めることができるが、しかしその知性すらも悪い環境にいては正しい方向に知性を働かせられない、というところです。

 これは病気だけではなくて、職場で良い意見によって経営する事よりも、良い意見がだせる環境づくりの方が大切ということに繋がるようにも拡大解釈してしまいます。

 この『看護覚え書』は、看護師を目指す人だけでなく、ナイチンゲールは一般女性に向けて書いています。

 ナイチンゲールのこの考え方を使うと、病気というのは体に不調を及ぼす単なる現象ではなく、患者の人生や生活全般を考えた「人の問題」として考えられる気がして、そのような看護という精神を多くの女性に伝えたかったのではないでしょうか?

 さて、ナイチンゲールの生涯についてブログを書きました。

 良かった読んでみてください。

ナイチンゲールの生涯

ナイチンゲールは1820年、イギリスの上流階級のナイチンゲール家がイタリアのフィレンツェに駐在している際に生まれました(そのためフィレンツェに由来する「フローレンス」が名前に)。大英帝国の黄金期を作るヴィクトリア女王や、日本において自由民権運動の哲学的バックボーンとなるハーバート・スペンサーとほぼ同じ年代になります。

上流階級の子女として、幅広い教養や教育を受けますが、ナイチンゲールはその上流階級の生活にあまり満足を得ていなかったようです。

1842年、22歳の時には、夏の時期に住んでいた屋敷の近くに村に、上流階級の務めとしてお金などの施しをする際、自分のしたい事にうすうす気づいていくようになります。その後も、看護の道に自身の方向性を見出しますが、家庭では大反対をされ、忙しいほどに家事を与えられたりして、家からほとんど出れない状態にさせられてなかなか看護の道に歩みだせなかったようです。

 当時は上流階級の人々は、医師は在宅で治療を受けるのが主流でした。また当時外科はまだまだ主流でなく内科が中心であったため、民間でも家族の介護などが主流でした。

病院としては、裕福な人の寄付によってつくられる篤志病院なども出始めていましたが、まだまだ治療環境としては未整備でした。更に、一般に病院として多く存在しているのは「救貧院」という家を持つのも難しくなってしまった極貧の人がそれなりの仕事を与えられ暮らせる施設であり、患者は非常に貧しい階層の人で、看護師も看護の教育を全く受けていない貧しい階級の中でも介護する体力のある人が担っており、「病院」や「看護師」のイメージはここが大部分を占めていて、ナイチンゲールの上流階級の家族にとってはそのようなイメージの現場で働くことはやはり大反対だったようです。

ただ、その中でもナイチンゲールは看護や衛生に関する文献を読んでいたようです。

しかし、旅行家として有名な夫妻の助けよってローマやギリシャ、エジプトなどに旅行する機会が与えられ、その途中で訪れたドイツの医療や介護を行う学園を訪れ、後にその学園に通う事を決心します。

1853年、33歳のとき遂に家を出てロンドンの病院で無給で働くことを決め(父は理解して援助していくれていた)、更には「淑女病院」という主に患者が家庭教師をしている人が多い篤志病院の運営や管理を任される仕事につきます。

 そこでは、ナースコール(鐘を鳴らすタイプ)を整備したり、食事や患者を運ぶエレベーター(おそらく機械仕掛け)の設置をしたり、介護のシステム作りに尽力し、その病院の経営を立て直しています。

1854年には、ロシアのトルコへの侵略から英仏が対抗することなるクリミア戦争が始まり、クリミア半島の兵士の間でコレラが流行し、野戦病院がいっぱいになりクリミア半島から黒海を渡った対岸のスクタリ村に負傷した兵を輸送したのですが、そこの病院での悲惨な治療状況を歴史上初の従軍記者ラッセルが報じ、それがイギリス国民の間でセンセーションを起こしました。

 そこでナイチンゲールはスクタリ村に看護をしに行くことを考え始め、以前旅行家の夫妻によって訪れたローマで知り合った友人でもある戦時大臣ハーバートの助けもあり、実現します。

 そのクリミア戦争での介護の際に、病院の環境を整え、患者を人間として関わろう(患者を一人一人みずから回診したことや、生活が有れているものの更生や、珈琲館や図書館などすさんだ雰囲気も改善しようとした)とナイチンゲールがしたため、患者の中で「ランプを持った貴婦人」などと呼ばれるようになり、帰国したものなどによって伝えられナイチンゲールの名声は高まります。

 またクリミア戦争では、負傷して死亡したものよりも病院に入って病死したものの数の方が圧倒的に多かったのですが、その病死の人数をナイチンゲールは大幅に減らすことに成功したのです。

 患者の関わり方に関しては、ナイチンゲールの病気は生活過程によって生じる回復過程という哲学や、「犠牲なき献身こそ真の奉仕」という精神などによって実質的に意義のある看護を提供した表れであると思います。

 ただ、病院の環境改善に関しては、イギリスの当時の公衆衛生の取り組みを的確に捉え、看護の現場において的確に実行したとも言えると思います。

 当時のロンドンは産業革命が進み工業化により人が集中してきたため、過密した人口は劣悪な住空間を作り出しました。そのため多くの病気が蔓延し、1831年から4回ほどロンドンにおいてはコレラが大流行していました。またナイチンゲールがクリミア戦争の現場に駆け付けた際も、ロンドンでは3回目のコレラが流行しています。

 特にコレラに関しては、貧しい労働者の住まいに集中していたため、経験的に劣悪な環境が病気の発生源になっていると考え、環境を整備する「公衆衛生」の考えが大きな流れとなっていたのです。

 おそらくこの「公衆衛生」の考えをナイチンゲールはいち早く理解し、それを野戦病院で徹底したとも考えられます。ナイチンゲールは、汚物の処理やシーツや病室などの不潔さの解消をかなりの比重をかけて解消しています。

 その後、クリミア戦争から帰国した後は、クリミア戦争での体験をもとに、英国陸軍の制度などの弊害により起こってしまっている病死などの現状とそれが起こる問題をまとめた論文を書き、更には多くの政治家もナイチンゲールのもとを訪れ、行政改革の参考にしています。

 この論文において重要なのは、平常時においてさえ起こってしまっている病死の多さから「介護」の大切さや環境を整備する行政改革に対するポイントを示したことにありますが、その根拠として統計学を用いていることにあります。

 当時統計学は、科学現象の実験におよる解明から社会現象においてさえ有効な解明のツールとして注目され始めていました。数学が発展したこともありますが、ベンサムやミルなどの経済や社会問題を捉える学者やダーウィンなどの生物学者なども統計的データを集めることによって問題を解明する流れができつつありました。

 ナイチンゲールは特に社会物理学という枠組みで社会を統計において解明しようとしたケトレーの著作を読み、後に回帰分析など統計学の基本的な考え方を生み出すゴールトンとも親交を持っています。

 そのため、介護の現場における問題も統計的データをしっかり集め、まとめて立証するという立場をとり、クリミア戦争での死亡者内訳を「蜘蛛の巣チャート」によって表現したことは、当時棒グラフや円グラフがあまりなかったため新しいものと捉えられ、「鶏の鶏冠」などの名前で賞賛されたようです。更に、王立統計協会の会員に推挙されたり、第二回国際会議においては病気の統計をしっかりデータ収集の項目基準を作り収集することを訴え評価を得ています。

 また1860年には、クリミア戦争でのナイチンゲールの活躍から集められた「ナイチンゲール基金」から作られた「ナイチンゲール看護婦学校」が開校します。聖トマス病院という篤志病院を最初参考にし発展し、できた病棟は患者が機能的に見渡せるナイチンゲールらしい病棟になっているようです。

 さらに同年『看護覚え書』という本を出版し、看護師を目指すものだけでなく一般女性を対象にした「看護論」を論じています。この本は、個別の症状に対する処方法としてよりも、看護全般の在り方についての精神を伝える本となっており、現在でも看護の在り方、病気の捉え方、医者と看護の区別、患者の生活と人間を捉えた接し方など、明晰で分かりやすい著書となっています。

 最後に、医学の分野としてナイチンゲールを捉えてみると、それは現在の多くの人が訪れる「病院」が普及し始める中で、「医師」や「看護」の在り方を学問として更には教育たるものとして確立したのに貢献したところにあると思います。

 当時は上質な医療は上流階級の在宅で、通常の治療は家庭の看護で行うことが主流で、病院自体はまだまだ劣悪な環境で極貧民が集まる場(しかも必ずしも病院だけの機関ではない)である事が多かった時代です。また医師免許が登場するのも1858年とナイチンゲールがクリミア戦争から帰国した後にできるほどであり、医者とそうでないものの区別も曖昧でした(コナン・ドイルも免許なしの眼科医だったようです)。

 現在のような専門家した利用施設かつ大衆的な「病院」というのがようやく登場しだした時代でした。

 そのような現場において、当時の「公衆衛生」の見識から病院の環境整備を進め、統計学により解決するべき問題の科学的な記述を目指し、看護という学問と教育の必要性を解き、現在の病院のベースのようなアウトラインを作り出した人の一人としてナイチンゲールがいたと考えられるのではないでしょうか。

※1…『知の統計学2』福井幸男

※2…『ナイチンゲール看護論・入門』

 の2点を中心に参照して、執筆。

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