描いたイラストのつくば研究学園都市の中核とも言える「つくばセンタービル」は、一つの建築様式にとらわれず、有名な建築を多く引用して作っています。
一番目立つのがミケランジェロのローマの「カンピドリオ広場」を引用した広場。「カンピドリオ広場」は丘を登った場所にあり中心に銅像が立っているのを反転させ、広場が低い位置にあり中心に噴水があるという構成になっています。また、広場にある建築を合理的な配置に並べるという点も同じです。
他にも、ジュリオ・ロマーノ、ボロミーニ、ルドゥ、最近の友人の建築家などなど多彩な引用を行っています。
、、、ただ、日本の建築様式は引用していません。
では、なぜこんな引用を行ったのでしょうか?
設計者の磯崎は「ヴェラスケスの「ラス・メニーナス」みたいなものだ」※1と答えています。
ヴェラスケスとはスペインのバロックの画家で、「ラス・メニーナス」は彼の名作です。それは、王と王妃のポートレートを書く事を依頼されたのに、中心となる王と王妃を画面の遠くに追いやって、周りで王や王妃を見ている人間(侍女たちや画家自身)をクローズアップした作品です。
この作品と同じように、あえて「日本以外の様々な建築」をクローズアップすることで、逆説的に日本の国家を描き出そうとしたというのです。
つくば研究学園都市というと、東京の人口集中に伴って国の機関を分散させるために作られた都市です。そのため、国から日本の国家を表すような建築を打診されたはずであり、日本の建築様式が入っていないと批判も少なからずあったようです。
しかし、つくばセンタービルができたのは1980年代前半、経済が発展し「資本の論理」が文化を作りつつある時代になり始めた時代です。やみくもに日本の建築様式を取り入れるのでなく、商業的に引き付ける施設を作った上で、国家という輪郭を逆説的に描いたというのは時代を考慮した方法でもあったのとも言えます。
磯崎が言うには、その後の「第二国立劇場」や「関西空港」のような国家がかかわるプロジェクトでは、「実務的でファッショナブルな解決だけが要請されていて、国の仕事でなくてもいいような程度のもの」※1が作られていった現状を考えると、そうなのかもと思える側面もあります。
そんな「つくばセンタービル」をイラストレーターの遠近グリッドとフォトショップで着彩を行い描いてみました。
※1…『世紀末の思想と建築』岩波書店(1989年に磯崎新と多木浩二が対談したものが収録)
■つくばセンタービルと磯崎新■
以下では、磯崎新と「つくばセンタービル」について、詳しく紹介していきます。
【1.1970年代後半までの磯崎新】
磯崎新は、1931年に生まれ、東京大学工学部建築学科で日本の伝統的な家屋のレイアウトをコンクリートで表現するなど日本の有名な建築家・丹下健三の研究室で学びます。その研究室には後に黒川紀章も合流し、丹下健三を通して東京計画1960や、黒川紀章らとメタボリズム運動に参加します。
丹下健三の研究室から独立後、そしてメタボリズムを経た後、1960年代は廃墟に将来なるという前提のもとにそれぞれにとっての建築を描いてもらうインスタレーションの企画展を行い、1970年の大阪万博では中心となる太陽の塔がある「お祭り広場」のエレクトリック装置の演出なども担当します。
しかしその後、大阪万博や三島由紀夫事件を経て、国家という存在の影響力に疑問を抱くようになります。そこで1970年代半ばには、「マニエラ(手法)」という枠組みで、ルネサンス期を経たマニエリスムの時代のように、建築様式の当事者としてでなく、ある程度客観的に捉えた「手法」というものを重点に置くようになります。また、幾何学、とりわけ立方体における新たな建築の新秩序も考え、1975年の「群馬近代美術館」などがその代表例とも言えます。
このように1970年代後半までには、磯崎新は、「建築とは何か?」「国家と建築の関係はどうあるべきか?」そして「建築が作り出すものは何であるべきか?」など、国家とともに成立していった「モダニズム建築」を改めて問い直したい状態でありました。
【2.1978「間」展】
そして、「つくばセンタービル」と結果的には別物に見えど、考え方としては同じ発想で企画された“「間」展”というものを開催します。
磯崎新は、1931年生まれであり、アメリカ軍による空襲も体験しており、グランド・ゼロ(爆心地)になった広島の廃墟も目にしており、「都市はいつか廃墟になる」というイメージが心の中にありました。
1960年代前半に起こったメタボリズム運動も都市はいつか終わることを前提としていて、1968年に磯崎がミラノでおこなったインスタレーションも都市は廃墟になることがひとつのテーマでした。
それは、今まで、永遠に続く完璧な建築を思い描いていた西欧の建築家には大変ショッキングで、ある意味では建築物を「時間」の相でみる新しい発想でもありました。
そしてその「時間」の相を日本の「間」は「「いま」「ここ」に時空を圧縮し、一瞬の感知に導くものであることを改めて理解」※1し、日本の「間」という概念を西洋の文脈で紹介するという展覧会を行いました。
欧米では1970年代、ポスト構造主義などの哲学が現代思想として登場し、特に欧米で作られてきた学問や建築の考え方の内部批判が起こっていました。それは、「言葉で考えることによって構築されてきた思想」を身体的な感覚などで捉えなおす流れでもありなした。
日本建築は、特に数寄屋は特定の建築思想に基づいて作られてきたものではなく、その欧米での内部批判に答えるものであり、日本人の建築家では「日本の建築の優秀性」を論じるものも多く出てきました(磯崎によると「利休ねずみ」と称した黒川紀章が代表例としてあげている)。
ただ、日本建築は発生としては欧米の内部批判に答えるものではありましたが、日本の建築を改めて近代的な考え方で構築しなおせたか、というと曖昧で、「優秀さ」を論じる方も検討の余地がありました。
そこで、磯崎は日本の「間」という概念を、日本的な語り口で紹介するのではなく、欧米人の物事の考え方に合わせて分解し、紹介するという展覧会を行ったのです。
この展覧会は成功し、欧米の多くの場所で開催でき、磯崎は展覧会を見に来てくれたミシェル・フーコーなどと知遇を得ています。
【3.つくばセンタービル】
「間」展は1979年に西欧の発想で日本を分解する作業を行ったものでしたが、それを敢えて日本の建築を用いないで、日本の国家的な建築をつくる「つくばセンタービル」を1980年から取り組み始めます。
つくば学園都市は、東京の人口集中が問題になってきた1960年代から首都圏の国家の行政機関などの一部を分散させる試みとしてできた都市となっています。筑波山と霞ケ浦に近く水の確保と鉄分の多い土地であるため農業者から土地を買収しやすく、東京と比較的近いという理由からでした。そして1980年には予定されていた行政機関の移行が終わり、都市としての発展が次の課題となり、その始まりとして「つくばセンタービル」を筑波研究学園都市の中心に建てることになりました。多機能な施設であると共に、日本の未来の国家を表現する象徴としても望まれていました。
ただ、国家と建築の在り方に色々と1970年代から問い直し挑戦を続けていた磯崎は、単純に和風の様式を使って日本的なものを作るのではなく、欧米などの建築を「マニエラ(手法)」という発想から分解し、日本的なものを使わないで日本の国家を描き出すという取り組みを行いました。
手法としては、ミケランジェロ、ジュリオ・ロマーノ、ボロミーニ、ルドゥなどの建築を引用して組み合わせています。
それは完璧なものを作り出そうとした欧米の建築を客観的に見ることで都市の時間の相による移り変わりを改めて意識してもらい、また日本の建築を欧米の建築の文脈で改めて考えなおしてももらい、更に現在進みつつある資本における文化の形成の流れに乗り商業的なセンセーションを起こすことによって「日本の状況にもう一つの別な刺激を生み出すことを期待」※1して作ったようです。
多くの引用を行ったのは、一つの建築様式に固執してまうと、国家とその建築様式が結びつき、モダニズムの流れの批判にならないと考えたからのようです。
予想されていたように和風の建築様式を使わなかった批判は起こりましたが、磯崎はこの建築を通して「ポストモダンの建築家」として注目を浴びるようになります。
また、つくば研究学園都市はその後1985年にはつくば科学万博を行い、都市としての認知度の普及と民間企業の誘致が進んでいったようです。
※1…『世紀末の思想と建築』岩波書店(1989年に磯崎新と多木浩二が対談したものが収録) 基本的にはこの本をベースに参考にし、執筆しました。Posted in 20世紀ソシオ・ヒストリアTagged architectureつくば研究学園都市磯崎新建築