ハヤシライスは、慶應義塾の門下生の早矢仕が、初めて作ったという説もあります。

なぜハヤシライスを作られたのか、そしてその作った人は明治でどのように活躍したのか、動画にしてみました。

Hashed beef Rice has a theory that it was created for the first time by Hayashi, a student of Keio school. I made an animation about why hashed beef rice was made and how the person who made it worked in Meiji.

■慶応義塾入学まで■

1837年に生まれ医師を志し、1959年江戸にて開業。

同時代の他の青年と同じく英語の重要性に目覚めた早矢仕は、いくつかの英語塾を経て、1867年福澤が校長をする中津藩江戸藩邸内の蘭学所に入門した。

しかし、福沢諭吉は軍艦受取交渉団の一員として渡米しており、更に書籍輸入をめぐる上司との軋轢から4か月の蟄居を余儀なくされている。更に慶應義塾開校のため多忙であり、1868年には早矢仕は慶應義塾を去って横浜に赴き、丸屋書店を設立している。そのため、福澤自身とはあまり長い期間の接触はなかったと思われる。

但し、この中津藩江戸藩邸内の蘭学塾と慶應義塾では、教育機関としてあきらかな差があり、慶應義塾は福澤が定式化した洋学学習方式の採用と、それを支える大量の英書教科書の存在という新しい一変を目にした早矢仕はおそらく多大な影響を受けたのであろう。

■丸屋書店の設立■

 慶応義塾を去った後、横浜で病院長として赴任することになったとき、洋書の重要性を認識した早矢仕は最初から洋書輸入を志していたのではないだろうか、と言われている。

 更に1869年に設立した「丸屋書店」は「合資会社(株主が元金のみ出す人と、従業員の両方から成り立つ会社、福沢諭吉は元金のみの方に)」であった。当時、株式取引所はなく、したがって有限責任の会社形態を採用する利点もないが、アダムスミスの『国富論』の「株式会社の効用―いかなる事業を行うにしてもそれに必要な資本金が、一個人の供給しうる額を超える場合、その事業を遂行するためには、団体を形成することが肝要である」(雪知事自身はMcCullochの辞書から読んだようである)という福沢諭吉の助言によるものと思われる。

 その後も、福沢諭吉の『帳合之法』の訳出と共に、その経営に関する学問の実践の先駆者として丸善が実践していった。

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