明治の松方正義、大正・昭和の高橋是清といわれ日本財政の守護神と讃えられた是清。
彼の人生は常に波乱に満ちていた。
1880年半ばに、高橋是清が共立学校(現在の開成学校、当時は東大の予備学校に行くための進学校)の校長をしていて、後に菌類の研究や自然保護活動で有名になる南方熊楠が学生であり、是清と熊楠がであったというシーンが『日露戦争物語』(※1)という漫画にある。
そこで、是清は波乱万丈の人生を打ち明ける。
47歳の幕府の絵師であった父が、家の手伝いに来ていた16歳の娘とできてしまい、生まれる。
赤ん坊のころ、足軽なのに殿様の奥方に気に入られる。
5歳の時、騎馬武者の馬にひかれても平気だった。
11歳のころ、横浜のヘボン先生のところで英語の修行をするが、覚えたのは酒と賭け事だけ。
14の時、仙台藩の留学生に選ばれて、アメリカに留学するも騙されて奴隷契約書にサインしてしまい奴隷になる。
しかしいろいろな人のおかげで、日本に帰ってこれ、アメリカで知り合った森有礼さんの書生になれ、16歳で大学南校(現在の東大は当時大学・大学南校・大学東校と分かれていた)の先生になるが、酒にバクチに女と茶屋遊びばかりの日々をおくりクビになる。更にヒモになって食べさせてもらう。
そしてその後共立学校の校長になり、更に農商務省にも勤め、特許の法律を作っている。
...とまだ30歳くらいなのにこんなにも多様な人生を送ってきたことを打ち明ける。
(※但し、波乱の人生はこの後も続く。)
なぜ高橋是清はこんなにも、波乱でありながら校長や役人になれたのか?
それは運よく開国して間もない時期に英語を習得できたことが多いと思う。
その英語を使って、英語先生や様々な分野の翻訳に携わることで、様々な進んだ知識を身に付けたため、色々な場所でほしい人材になったのだ。
今回は、高橋是清の英語、特にアメリカ的な部分にスポットを与えるため、アメリカ留学時代、そしてアメリカから来た日本に絶大な影響を及ぼす教師ともいえるブルベッキとの関りを中心に高橋是清の半生の幕開けを紹介する。
※1・・・『日露戦争物語』江川達也、2002
A.幼少からアメリカ留学まで
高橋是清は1854年に生まれる。
その後、現在のヘボン式ローマ字で有名なヘボンの横浜の私塾で英語を習う。
ただ、その頃(1866年頃)のヘボン(※2)は有名な『和英語林集』(和英辞典)を完成させ上海へ行っていた。
また吉原から外国人居留地まで大火が起こり、江戸に避難する。
そして、ヘボン塾で習った英語を忘れないために、英国異人館『banking corporation of London, india and china』という銀行のボーイをする。
B.留学時代
勝海舟の息子の鹿がアメリカへ留学するので、同行として仙台藩からも数人出すよう決まる。是清は仙台藩が出身であり、選ばれアメリカに行くことになる。
1867年、アメリカへ行く。
アメリカ通いの船は月一回、香港―上海―横浜―サンフランシスコの間を往復。支那人が盛んに米国に移民する時代であった。但し、日本人はまだ移民は少なく、学問をしに行く人が多かった。
サンフランシスコについた後、オークランド(Oakland)へ引っ越す。そこで奴隷となる(勝海舟の息子・鹿とは別行動)。
C.帰国後~フルベッキ博士邸内に住む
勝海舟の息子の鹿がアメリカへ留学するので、同行として仙台藩からも数人出すよう決まる。是清は仙台藩が出身であり、選ばれアメリカに行くことになる。
1867年、アメリカへ行く。
アメリカ通いの船は月一回、香港―上海―横浜―サンフランシスコの間を往復。支那人が盛んに米国に移民する時代であった。但し、日本人はまだ移民は少なく、学問をしに行く人が多かった。
サンフランシスコについた後、オークランド(Oakland)へ引っ越す。そこで奴隷となる(勝海舟の息子・鹿とは別行動)。
オークランドは名前の通り樫の木が一面に繁茂して、町は一丁ぐらいの十文字町で、家は点々と散在。
この頃は南北戦争以来奴隷の売買は法度になっていたが、国禁を破って奴隷を是清のように雇っていた。特に中国人が多い。
是清は奴隷になったが、馬の面倒や家事などの小間使いをやらされたが、昼の落ち着いた時間にはアメリカの学問を教えてもらうなど、ボーイの延長のようなものであったように『自伝』を読むと伺える。
奴隷の契約期間が切れたなどあり帰国した後、サンフランシスコで知り合った外国官判事である森有礼(1846年、陸奥宗光世代)が是清が棲んでいた場所の近くの神田錦町(御茶ノ水駅の近く)に住んでいた。
1869年、森有礼の書生となり、更に英語ができるため教官三等手伝いになる。
しかし、森有礼は廃刀論を主張し、岩倉・大久保両公の庇護があったにも拘わらず、職務を免じ故山(鹿児島)に帰る。
是清は依然として大学南校に奉職していた。
その内、長崎に宣教師としてアメリカから来るも、布教のために英語などを教えている内に、教育の才能を見出され(アメリカにいた頃は造船の仕事に携わってたのも功を成したのかも※3)、多くの生徒に慕われる(大隈重信の致遠館が有名※4)。更に日本政府も教育の才能を買い、大学南校の教頭となるフルベッキ博士が、大学南校校内に住むことになる。
是清も、多少縁があり、フルベッキ博士の邸宅内に住む(もしかしたら、先に是清が校内に住んでいて、その邸宅の主がフルベッキ博士になったのかもしれない※5)。
D.森有礼渡米前後と是清
1870年(明治3年)森有礼は勅命にあって、再び鹿児島から出てこられ、今度は小弁務使としてアメリカへ行くことになる。森有礼は、フルベッキに、是清をよろしくと頼んでアメリカに行く。
しかし、大学南校を借金の肩代わりなどの理由で辞め、フルベッキ邸を一時出て英語の教師などをする(1871英語学校がなかった唐津藩が英語学校を開校するにあたって教師をさがしていたところ、是清が紹介される。英学校の生徒に辰野金吾がいる。)
1872年(明治5年)駅逓寮の前島密のもとで通訳をする。大蔵大輔井上馨から辞令がでた。この際、フルベッキ邸にまた戻る。
そして大学南校(順序的には開成学校→大学南校のはずだが『自伝』では「開成学校に」書いてある。因みに現・開成高校とは別物で、現在の東大の一部である。)に生徒として入学。
「午餐はフルベッキ先生の家族と共に食卓つき、朝夕はフルベッキ先生のコックが部屋に持って来てくれたゆえ、食料はすべてフルベッキ先生が賄ってくれたわけである。」(『自伝』より)
1873年(明治6年)2年ほどアメリカに行っていた森有礼が帰国し、明六社を創立(会員に福澤諭吉がいる)。
是清、森有礼に会い、マーレー博士(※6)の通訳として文部省に出仕することになる。
E.マーレー博士とフルベッキ博士
マーレー博士はアメリカ時代勝海舟の息子を教えていた縁もあり、息子の無事を伝えるため、高橋是清を連れて勝海舟宅へ訪問。
マーレーが数学にも精通していることを勝海舟は知っていて、是清が通訳できないほどの高等な数学の問題をマーレーに訪ねて、マーレーは勝海舟を絶賛。
またこの時期の1874年、ヘボン博士が有名な辞書を再版するについて、日本でも版権を得ておきたいが何とかないかマーレー博士に相談している。そこで通訳である是清が特許関係の文章を調べる。これが後に農商務省特許局に勤める縁となる。
1876年アメリカ合衆国100周年を記念したアメリカ初の国際万博(※7)の準備のため、マーレーは一時帰国している。
この国際万博では明治政府は輸出振興・外貨獲得を図るため、西郷従道を最高責任者として外国政府最大の予算で出展している。、またグラハム・ベルが「電話」を出店し、これを見たヴィクトリア女王がワイト島(ロバート・フックの出生地)のオズボーン・ハウスへ招聘。
一時帰国後、マーレーは文部省に雇われるため、フルベッキ博士は日本政府から降りる事となり、高橋に隠居先を打診。フルベッキは多くの日本人を教えたため、高職の人とも知り合いにいるのに、以前邸宅に住んでいた是清を信頼していた。
しかし、1878年にフルベッキ博士は帰国して、アメリカで過ごすも上手くいかず、1889年に再び来日して今度は宣教師として一から活動しなおすが上手くいかず、是清は悲痛な晩年と称している。
F.衛生局翻訳係勤務と共立学校の再興
その後、マーレー博士の元を是清は去る。
1877年神田淡路町(現在の御茶ノ水駅の近く)に住む。
そして、明治10年戦役(西南戦争)のため、コレラが東京で流行り、内務省衛生委員会が発足される。そこで英語のできる是清が通訳として依嘱。衛生局長の長与専齋(緒方洪庵の適塾の卒業生)が是清の家の近くの駿河台に住んでおり懇意になる。
またこの時、コレラ関係の本と共にアルフレッド・マーシャル(ケインズの恩師)の「Economics of Industry」(1879)を訳し、後にマーシャルからお礼の手紙をもらっている。
1878年、衛生局に勤めていたとき、淡路の貸家の隣の大きな空き家が明治4年から政府から払い下げられて作られた「共立学校」であったが寂れていて、その共立学校の地主と賃家の地主が同じであったため、是清は依頼を受けて「共立学校」を再興することになる。
再興の方法は、東大に行くための学校東大予備門へ入学するための進学校にするという方法で、是清の功績で東大予備門への合格率が全国1位となる。
そして、この共立学校に後に1884年熊野から上京してきた南方熊楠を始め、夏目漱石、秋山真之、正岡子規なども通い、東大予備門へ進学している。
G.農商務省特許局
1881年(明治14年、28歳)のとき、友人が学校で教鞭を執るばかりが能であるまい、一層のこと文部省に入って、教育の事務に当ってはどうかと勧められ文部省に入る。御用掛けを仰せつかり、地方学務局へ勤務する。
文部省に入ると、間もなく農商務省ができた。たまたま新たにできた農商務省の官制を見ると、多分フランスの官制の翻訳であったと思うが、その所管事務として発明専売、商標登録保護のことが規定されていた。
是清がかつてマーレー博士の勧めで、商標登録、専売特許のことなど取り調べ(ヘボン博士の依頼から)、かつその必要を提唱していたため農商務省特許局へ採用される。
文部省御用掛を拝命して一か月とたたぬ内であった。
そして是清が特許局の局長となるが、副局長となる人が是清と同世代の高峰譲吉だった。
是清は長崎から東京にきたフルベッキ博士の邸宅で住んだが、高峰譲吉は長崎で東京に来る前のフルベッキの元で英語などを習っていた。
更に、是清が勝海舟の息子小鹿と共にいったアメリカへ(特許局長のときも欧米視察に出てる)、高峰譲吉は特許局副長を経た後農商務省の仕事として1885年のニューオーリンズの国際工業万博の手伝いにアメリカに行き、その後アメリカに在住して麹を使ったウイスキーやジアスターゼによる酵素の初めて純粋培養、アドレナリンの抽出など多くの功績を作る人が高峰譲吉である。
※2…James Curtis Hepburn
1815-1911 Florence Nightingale age
1815 He born in Milton, Pennsylvania after which he attended the University of Pennsylvania, where he recelved his Master of the doctor degree in 1836, and be came a physician . He stay in Singapore for two years, because the Opium War was under way and Chinese ports were closed to foreigners.
In 1845, after five years a missionary, he returned to the United States and opened a medical pactice in Newyork.
In 1859, Hepburn went to Japan as a medigal missionary with the American Presbyterian Mission.
In 1861,Hepburn swiftly relocated to the newly opened treaty port of Yokohama, opening his first clinic in April at the Sokoji Temple.
In 1862,Hepburn and his family relocated to the house and compound at Kyoruchi No.39, in the heart of the foreigners residential district in the treat port to Yokohama. There, in addition to his clinic, he and his wife Clara founded the Hepburn School, which eventually developed into Meiji Gakuin University. His Japanese pupils include Takahashi Korekiyo.
※3…Guido Verbeck 1830-1898 Victoria age
1852 He travelde to the United States to work at a foundry located outside of Green Bay, Wisconsin, which had been developed by Moravian missionaries to build machinery for steam boats.
He moved to New York where his sister had previously lived.
In Arkansas, he decided to work as acivil engineer, designed brigdes, structures and machines.
After almost dying from cholera, he swore that he would bicome cholera, he swore that hi would become a missionary if he recovered.
In 1855, he entered a seminary in Auburn, New York.
1859 Verbeck graduated and moved to Nagasaki as a missionary for the Dutch Reformed Church. His first dwelling was at the Sofuku-Temple, where Ranald MacDonald had previously satayed.
1862, Wakasa Murata, retainer of Nabeshima Naomasa, sent three young men to study English with Verbeck, beginning a deep relation between Verbeck and Saga domain.
1864, Verbeck pupils included Okuma Sigenobu, Ito Hirobumi, Okubo Toshimichi, Soejima Taneomi, given the name seibikan. The text that he preferably used were the American Declaration of independence and the Constitution.
※4…In 1869, recommended by Okubo, Verbeck received an appointment as teacher at the Kaisei School ( later Tokyo Imperial University).
※5…At one point, future Prime Minister Takahashi Korekiyo was a Boarder at Verbeck’s house.
※6…David Murray
He was an American educator and government adviser in Meiji.
In 1830, He period Japan.
In 1873, Murrray departed Rutgers to became the educational advisior for the Japanese government.
1863, New BrunswickのRutgers Collegeで教える。
1865年、ラトガース・カレッジ科学校設立。(マーレーは科学の分野にある程度精通していたことから日本でのフルベッキ博士(造船など兵器の知識)からマーレーの科学に代わっていったのかもしれない。)
ラトガース・カレッジでは幕末以来多数の日本人留学生(勝海舟の息子小鹿など)を教える。
1872年、森有礼がラトガース・カレッジの校長に寄せた質問の回答からマーレー博士招聘を検討。
※7…Centennial Exposition
The first official world’s fair in the United states. was held in Philadelphia, Pennsylvania, to celebrate the 100th anniversary of the signing of the Declaration of independence in Philadelphia. Officialy named the International Exhibirion of Arts, Manufactures and Products of the Soil and Mine. It was held in Fair mount Park along the Schuylkill River.