ミケランジェロは、「終始一貫自己を画家また彫刻家また建築家として芸術家としてよりもフィレンツェ自由都市市民として最も高く意識していた(※1)」。その理由として、ミケランジェロの家系が関係する。しかし、その自由市民としての意識は、幼少期の“虐待”に影響するのではないかと思う。今回はミケランジェロの家系と幼少期について、フィレンツェの政治体制と虐待をともなう幼少教育と合わせて紹介する。
① 生年について;ミケランジェロは1475年に生まれる。この年代には、当時フィレンツェを実質的に統治していた豪華王ロレンツォ・デ・メディチの息子で後の教皇レオ10世になるジョヴァンニや、マキアヴェッリの『君主論』に書かれることになるチェーザレ・ボルジアがおり、16世紀初頭に活躍する世代と重なる。但しミケランジェロは、1561年とガリレイ・ガリレオが生まれるまで長生きする。
② ミケランジェロの家系;ミケランジェロの家系は1250年頃、行政官としてフィレンツェにやって来る。このときのフィレンツェは教皇派と皇帝派の内乱の余波が残りつつも、教皇派が優勢になり、特に今までは貴族などの特権階級によって政治がなされていたのが、市民階級によって民主的に自治が行われようとしてた時代であった。この後、本格的なフィレンツェの現在まで残る外壁や市民庁舎(現在のウフィツィ美術館)ができ、都市内で一番高い建物がこの市民庁舎となり、都市の形態としても市民の自治が成されている都市となる。(但し、市民の自治でも内乱が続き、1300年頃ダンテは内乱に破れフィレンツェを去っている。) この市民の自治によって政治がなされていたフィレンツェに代々選ばれて執政官など政治をとる中枢にいた家系がミケランジェロの家系であった。 ミケランジェロの父も、銀行員などをした後、官吏として選ばれ、フィレンツェ政府の所属のカプレエゼに赴任した際、ミケランジェロを生んでいる。
③ 自治市民としての父の誇り;その後、1476年には任期を終えてフィレンツェに戻ってくるが、ミケランジェロは6歳のときに里子に出される。その里子に出された地が、石工に使われる石が取れる地で、石工の職を営む家族に里子として入ったという。この経験が後にミケランジェロ自身も彫刻に打ち込むようになった下地だと語っている。しかし、1481年ミケランジェロの実の母が亡くなると、フィレンツェにいる父に呼び戻され、父は家系代々の自治市民の行政に携わった家系として誇りを持ち、ミケランジェロにもそのようになってもらいたく、文法の学校に通わせる。
④ 絵画の興味と父の否定;その一方で、ミケランジェロは絵画などの方面にも興味を持ち、父親は学校に通わせる一方ギルランダイオのアトリエに3年契約で徒弟として働くことを認める。但し、ミケランジェロは絵画にのめり込んでしまい、文法の学校の方が疎かになってしまう。
その状況を見て、父親はなんとしても家系の誇り受け継いでもらうことを強要すべく、職業画家になることを防ぐべく、職業画家を徹底的に侮辱するようになる。そしてミケランジェロに虐待ともいえるような暴力的な手段も用いて、職業画家に否定的なイメージを植え付け、自治市民としての誇りを持つようにさせている。
ギルランダイオのアトリエを3年契約のところを才能が故に1年に短縮することを認められるほど能力を発揮していたにも関わらず、その後絵画に対して否定的な感情を抱くようになったのには、父親の強要が大きいと思われる。※但し、アトリエでは親友とも思われる出会いがあり、父親の虐待などを相談してくれたりしたらしく、少なくとも単に絵を諦めるのではなく、才能を発揮できたのはアトリエでの環境があったのだろう。
⑤ 虐待とその影響;6歳で里子に出されたことや、父親からの肉体的精神的暴力が“虐待”になったとして場合、虐待の症状とミケランジェロの性格の考察。
⚫「すり寄せの心理」・・・「虐待が一定期間以上持続する場合、子どもは自分に加えられる精神的・肉体的暴力を合理化せずに耐えることはできない。その合理化は自分の価値観、たとえば善悪の基準を虐待する親のそれにすり寄せることで行われる。」※2→ミケランジェロで考えれば、絵画に興味があり才能を発揮しつつも、父親の精神的・肉体的虐待によって、自治市民である誇りと職業画家への侮辱を合理化したとも考えられる。
⚫「脳梁繊維の減少」・・・「深刻な虐待を受けた人がしばしば示す人格の障害―友人や家族に対して大変親しげに接したかと思えば次の瞬間に手のひらを返したかのような敵対的な態度に変わる」※2→これが才能を咲かしたのとともに、父親の強要から精神バランスをとってもらったりとお世話になったはずの職業画家に対して、徹底した侮辱や自治市民や彫刻家として自信を捉えようとしたのは、この心理も起因するのではなかろうか。
⚫「目の前の恐怖に対するパニック的な逃避反応」・・・「被虐待児では海馬や扁桃体の構造や機能に異常を来すことがあり、そうした<傷ついた脳>を持つと「闘争か逃避か」の行動に妥当性や安定性を欠く傾向がある。」※2→後に1494年にフィレンツェをミケランジェロが去ることになる。その都市にフランスのシャルル8世がナポリの領有を目指し南下してきて、フィレンツェは通り道としてフランスに対して降伏する(統治者のピエロ(豪華王の息子)は逃げ出す)事件があったので、それを予知して逃げ出したのかと思ったのだが、実際にはその兆候が薄い時期にミケランジェロの友人が見たロレンツォ豪華王の夢のお告げを聞いて急にフィレンツェを去ってしまったらしい。見方によっては予知したと考えられるが、この時点ではまだ過剰な反応であった。
※1『ミケルアンヂェロ』羽仁五郎、1939年※2『解剖学者がみたミケランジェロ』篠原治道、2009年

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