南方熊楠はアメリカの実学志向に失望し、本当の学問をするべくイギリスに旅をする。するとイギリスでは、東洋や日本というものを意外にも受いれる土壌ができていた。そのため、熊楠は存分に日本や東洋の広範囲に渡る知識を吐くことで、イギリスの学会に熊楠の名が知れ渡る。熊楠自身は「東洋の気を吐く」と言った。

では、なぜイギリスには日本や東洋を受け入れる土壌があったのか?

そこには熊楠自身が出会い、良き理解者で経済的援助もしてくれた“フレデリック・ヴィクター・ディキンズ”達来日イギリス人がその端緒を作ったとも言える。
今回は、熊楠と交友関係を持ったディキンズを中心に話を進めたいと思う。

フレデリック・ヴィクター・ディキンズ

1838年に生まれ、坂本龍馬世代、イギリスで生まれる。
ロンドン大学で医学を学び、医師になり1862年イギリス海軍で船医になり、1864年イギリス海軍の船医として初めて来日(駐日英国公使館付きの医師はすでに来日していた)。これは横浜港の開港により来日できる人数が増えたということだと思う。そして、初めて日本に訪れたディキンズは「日本に一目惚れしまった」。

【①横浜開港とイギリス公使達】

イギリスは1858年日本がアメリカと通商条約を結んだのを機に、清国とのアロー戦争の遠征司令官として活躍したジェイムズ・ブルースが代表になり日英修好通商条約を結び、横浜とも貿易が始まる。そして、修好条約を気に日本に駐日公使として初めて来日したのがラザフォード・オールコックだ。

#ラザフォード・オールコック
1809年生まれでダーウィン世代。イギリス海軍の軍医を務め、1840年アヘン戦争により清の解禁政策を破り、南京条約により5港を開港したのをきっかけにオールコックも清国の厦門・上海・広州の領事を務める。イギリス人租界の発展に寄与したという。
特に上海領事(1846~1854年)のとき、市場開拓のために再戦をパーマストン首相へ進言し、1856年アロー戦争に発展している。そして、そのアロー戦争で遠征し連関だったジェイムズ・ブルースが日英修好通商条約を結び、駐日公使としてオールコックが派遣されたのだ。

1859年オールコックが来日してからは、日本人による外国人排斥による暗殺に何度かあっているが公使としての責を果たし、1862年休暇として一時イギリスに戻る。福沢諭吉も参加することなる文久遣欧使節団と同じタイミングにイギリスに戻ったため、使節団のサポートとロンドン万博へ招待した(オールコック自身も東洋で得た品々を出品している)。
このときオールコックはイギリスで日本についての著作『大君の都』を出版している。
1862年から1864年までオールコックはイギリスに帰っていたのだが、ディキンズはそのオールコックがまだ日本に帰ってくる前に日本に到着している。そして同じくオールコックの不在の時期にディキンズより一足早く来日していた通訳候補のアーネスト・サトウと横浜で会うことになる。

#アーネスト・サトウ
アーネスト・サトウは開港直後の駐日イギリス人の中では最長の25年間日本に滞在し、ディキンズと同じくイギリスで日本についての著作・訳本を出している。
1843年に生まれ、陸奥宗光・ニーチェ世代。
1862年英国の駐日公使の通訳生として来日している。
このときはもうオールコックは一時イギリスに帰国しており、公使代理の時期でアーネスト・サトウは大量の事務作業を任せられ全く日本語を勉強する時間がなかったという。
そのため来日と同年に起きた生麦事件で早速通訳をする機会がくるのだが、まだ日本語の通訳がままならず、オランダ語を挟んだ通訳になってしまう。
オールコックが帰国してきてようやく勉強することができるようになる。

さて、オールコックが1864年帰ってくるのだが、ディキンズにとって重要なのはその翌年次の公使として日本にやってきたパークスが重要である。
パークスは、公使館員に対し、公使館の実務を午前中で終え、午後は日本を研究するように推奨しており、更に「日本アジア協会」というものを来日イギリス人中心に設立し、積極的に日本について研究する機会を公使館員に与えた。ディキンズはアーネスト・サトウと共に「日本アジア協会」に参加し、八丈島などを視察している。
更に、ディキンズの才能は目覚ましく短期間で日本語の文語と口語両方とも習得し、日本に帰国する1866年に『百人一首』の英訳をしている。こちらを翻訳したのは勿論、最初で、しかも明治維新以前と言うかなり早い時期に日本文学を翻訳しているのは驚異の仕事である。

ディキンズはイギリスに1866年帰国したが、(負傷したとも再来日を望むため退職したとも)海軍軍医をやめて、法の勉強をして1870年法廷弁護士になる。
そして、1871年日本にある英国領事裁判所で働くことになり再来日を果たす。
また、1872年のマリア・ルス号事件ではペルー人船長の法廷弁護を務めた。

#マリア・ルス号事件
横浜港に修理のため緊急停泊していたペルー船籍の商船マリア・ルス号の船内に、231人の東洋人奴隷が監禁(白人と黒人の奴隷は1862年リンカーンを端として奴隷廃止になっているが東洋人の奴隷は依然と続いていた。高橋是清も1867年アメリカに行った際騙されて奴隷に一時なっている)されており、当時日本とペルーは条約を結んでおらず、外務卿・副島種臣は神奈川県令に命じかけ船長を裁判にかけ、東洋人奴隷を解放した。
各国領事館からは「日本政府の越権」などと批判や圧力があったが、副島は日本国内の方で裁ける態度を貫く。国際法廷までいくが、日本側の主張が認められ、これがきっかけとなりアジアの奴隷市場は消滅へ。
このペルー側の船長の弁護をディキンズが行った。これは弁護人がいなかったからなのか、イギリス本国は東洋人の奴隷制を認めることを暗にもとめていたのかは分からない。しかし、日本に感動し、日本の文学を愛したディキンズだが、アーネスト・サトウには後年日本学に時間を費やしたことに後悔した一面も持っていて、日本の政治的な部分などは複雑な思いがあったのかもしれない。

その後、1878年まで日本にいるのだが、この時は『忠臣蔵』を英訳している。更に日本帝国大学の日本語学の初代講師をディキンズはしている。
パークスの下で、ディキンズは日本交渉に尽力し、パークスに評価され、パークスの推薦によってイギリス帰国後の見通しが良くなり、1878年帰国後エジプト領事で働いた後、1882年にはロンドン大学事務局長補佐を経験し、1896年には事務局長(副学長)まで昇りつめている。

【②南方熊楠とディキンズの交友】

ロンドン大学の副学長まで昇りつめた年、ディキンズは『ネイチャー』誌への投稿にで活躍していた南方熊楠目黒大仏の写真についての解説を求め手紙を出している。
これが熊楠とディキンズの交友の始まりで、手紙のやり取りの後、ロンドン大学で面会したりするようになり親しくなっている。親しくなった理由として、勿論ディキンズが興味をもって調べてきた日本や日本文学などについて熊楠が詳しかったというところもあると思うのだが、ディキンズは植物学にも造詣が深く来日していたとき日本の植物学者・伊藤圭介(近代植物学の分類の父リンネの弟子であるツンベリーの著作をシーボルトから紹介されたりしていている)とも交友があったり、植物学という面でも興味の範囲が近かったのだと思う(南方熊楠はイギリス時代ダーウィンやウォレスやスペンサーの著作を読んでいる)。

更に熊楠はディキンズから経済的な援助も受けていたようである。

1898年南方熊楠はイギリスに帰国してからディキンズが英訳した『竹取物語』の批評をディキンズから頼まれていたのだが、遠慮もせずに長文で徹底的に英訳を批判する。これにはディキンズは頭に来てしまうが、結局仲直りし、南方熊楠の経済援助を再開し、更には依然以上に親密になったようだ。

そして1901年にディキンズはロンドン大学事務局長を退官した後も日本研究を続けたという。実際、南方熊楠が日本へ帰国後の1905年には『方丈記』を南方熊楠が英訳し、ディキンズが手直しをして共著として出版することも行っている。これは『方丈記』の初の英訳だけでなく、かなりの名訳のようだ。
更にその翌年1906年には『古代中世日本語テキスト2巻』を出版している。このテキストには以前南方熊楠に徹底的に批判された『竹取物語』も載っているのだが改めて改訂された英訳を載せている。また同時期に南方熊楠が日本で結婚した際にはダイヤを送っている。

#サー・ハリー・スミス・パークス
1828年生まれとハーバード・スペンサー世代。
オールコックと同じくアヘン戦争以降の清国の開港の流れで清国へ。
オールコックのもと通訳などで清国で働き、更に領事館も経験。
オールコックは1862~64年一時イギリスに帰国しているが、帰ってきたら日本は生麦事件など外国人排斥のムードが漂っていた。オールコックは日本人の積極的鎮圧を考え、長州藩への下関戦争のとき積極的に指揮をとって打ち負かした。しかし、イギリス本国は中立の立場をとっており、この行為が本国の目につき、オールコックは公使をやめてイギリスに本格的に帰国することになる。そこで選ばれたのがかつてオールコックのもとで働いた経験もあるパークスであった。

確かにディキンズにとって南方熊楠と出会えたことは大変有意義なことではあったが、実は南方熊楠がイギリスにて東洋の知識を存分に披露できたのは、ディキンズなどの来日英国人などの日本についてのイギリスへの紹介が下地にあった。
特にディキンズは日本の古典文学を早い段階から英訳したりと、日本の本質をとらえた上で紹介してくれていたのだから、大変有意義なことではあった。しかし、ディキンズ自体は日本ではあまり知名度が低いのは残念でもある。

※本文は『南方熊楠を知る辞典』(松居竜五など、講談社、1993)を始めとして、ディキンズに関してはディキンズについて紹介しているホームページや論文をいくつか参考にして書きました。

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