熊本藩と言いますと、熊本城をイメージされる方も多いのではないでしょうか。

こちらの熊本城の藩主として有名な人に、加藤清正がいます。

加藤清正と言いますと、虎狩りをイメージされる人が多いと思います。

豊臣秀吉の朝鮮出征に1592年と1597年の両方に参加し、特に一回目の出征のときには朝鮮の北部の国境辺りまで到達するなど目覚ましい活躍をしています。

またこの頃、朝鮮には虎が多く生息しており、出征で戦争が長引き死体が増えていくにつれ、死体につられ多くの虎が戦地に出没していました。そのため清正の軍も虎の被害をたびたび受けていたため、虎狩りをしたのです。 

そんな加藤清正が熊本城を治めることになったのは、朝鮮出征の少し前、秀吉の九州平定がきっかけでした。九州平定は、織田信長が本能寺の変で1582年に明智光秀によって謀反が起こされたため、秀吉が明智光秀を倒し、その後京都近辺の武将を倒し、天下統一のために九州の平定を1586年に始めたのです。こうして、九州は平定されて、加藤清正は熊本藩の半分の統治を任されたのです。

熊本をもう半分統治していたのは、キリシタン大名として有名であった小西行長でした(九州でキリシタン大名と言いますと、有馬晴信と小西行長が有名)。小西行長と加藤清正は互いに良きライバルでしたが、第一回朝鮮出征のときに加藤清正が目覚ましい成績を上げて以来、特に小西行長の方から加藤清正に確執が生まれます。しかし、秀吉の死後、関ヶ原の戦いで加藤清正は家康側(東軍)に付き、小西行長は西軍についたため、戦後に加藤清正が熊本を統治することになります。

今回は、そんな加藤清正の統治していた熊本藩の歴史を、7つのキーワード(有名な出来事やエピソード関りのある部分をピックアップ)でざっくり読み解いていきたいと思います。

目次

【1.宮本武蔵と熊本藩】

【2.森鷗外の『阿部一族』と熊本藩】

【3.忠臣蔵と熊本藩】

【4.幕末と熊本藩】

【5.攘夷と熊本藩】

【6.廃刀令と熊本藩 】

【7.明治維新と熊本藩】

【1.宮本武蔵と熊本藩】

 宮本武蔵が巌流島の戦いなど諸国で試合をしていった後、五輪の書を書くために洞窟に閉じこもって『五輪の書』を執筆しました。

 その洞窟は、霊巌洞と言い、熊本にあり、熊本城の西側に少し行った場所に存在します。

  宮本武蔵は1600年関ケ原の戦いに、黒田如水(官兵衛)の基で参加したとされ、その後諸国を遍歴して、山口県の巌流島を超えて、九州に入ります。

 そして1638年島原の乱に、養子の伊織と共に参加したとされます。

 その後、熊本藩主・細川忠利(熊本藩は加藤清正の系譜は途絶え、細川に移っていた)によって客分として招かれます。かなり優遇した待遇で、熊本城付近の屋敷に住むことになります。そして、この時期に描いた絵などの作品が現在にも残されています。 

【2.森鷗外の『阿部一族』と熊本藩】

 森鷗外の『阿部一族』を知っていますか?

 学校で習った記憶がありますので、タイトルを知っている人は多いかと思います。実は、 『阿部一族』は先ほど武蔵を客分として迎えた藩主・細川忠利の殉死をめぐり繰り広げられた物語なのです。

  森鷗外が『阿部一族』を書いた動機として、明治天皇が崩御し乃木希典が殉死したことを受けて、殉死を考える物語として執筆した一面もあるようです。

 阿部一族は細川忠利に仕えていて、藩主がなくなったとき、一族で殉死したようです。 

【3.忠臣蔵と熊本藩】

 忠臣蔵と言いますと江戸を舞台に繰り広げられた仇討ちと切腹によって武士の価値観を説いた話です。 

 実はこの忠臣蔵の赤穂事件の仇討ちを成した後、切腹の沙汰を決めたのが、武蔵と阿部一族で出てきた細川忠利の2代後の綱利(3代目)となります。

 彼が江戸にたまたま登場していた時に、赤穂事件が起こったため関わるようになったようです。

【4.幕末と熊本藩】

 幕末の最後の方に生まれた人物として1862年生まれの森鷗外がいます。

 そんな森鷗外の同世代として、旧五千円札の新渡戸稲造がいます。

 また、少しだけマイナーになるかもしれませんが、徳富蘇峰も同世代なります。

 徳富蘇峰と言うと何をやった人なのか確定しずらいのですが、歴史家のように日本の歴史の資料集めをして日本の歴史の大著を書いたり、雑誌を作り森鷗外や坪内逍遥に書いてもらったり、日清戦争で記者として参加していたり、色々な側面を持っていますが、ジャーナリズムに関わっていた事が長いのでジャーナリストと言えるのではないでしょうか。

 さてそんな徳富蘇峰は熊本藩出身で、徳富蘇峰の父親・徳富一敬は、熊本藩出身で幕末の有名な教育者(イメージだと熊本の吉田松陰みたいな感じでしょうか)とも言える“横井小楠”に従事していました。

  横井小楠は、水戸の有名な教育者・藤田東湖(同世代)と江戸で親交を持っており、その後熊本に私塾を開きました(ここに徳富蘇峰の父が従事)。彼の名声は幕末の世の中を変えようとする人の心に響き、多くの人がこの塾を訪れました。

 1853年ペリー来航後にロシアも日本を国交と長崎を訪れようとしていて、そのロシア船に密航しよと企てていた吉田松陰が、事を起こす前にこの横井小楠の塾を訪れています。また後に、坂本龍馬、井上毅、由利公正なども訪問しています。

 そして訪れた人の中の人づてで福井藩に招かれて、江戸の福井藩邸で教育をしたりもしました。その流れで勝海舟や福井藩主・松平春嶽とも親交を持っています。

 そんな偉大な教育者もいました。

 【5.攘夷と熊本藩】

 さて、幕末熊本藩は教育方針の違いによって3つのグループに分かれていました。

 一つは従来の伝統的な朱子学を中心に学んでいこうという「学校党」。

 もう一つは、先程の横井小楠の実学党です。

 そして、更にもう一つは勤皇党になります。 

 「勤皇」と言いますと、幕府でなく天皇を中心とし、外国を排斥(攘夷)し、実現していこうよ、という考えになります。

 この「勤皇」の考えは、1858年の日米修好通商条約によって日本の多くの港が外国人に開かれ、外国人が日本に多く行き来する中で特に活発になりました。また、日米修好通商条約という不平等条約を結んでしまった井伊直弼を暗殺した1860年の桜田門外の変によって、幕府の統治を一浪士の力で変えることができるという希望から、多くの層に受け入れられていきました。

 坂本竜馬も身分の低い侍身分でしたが、勤皇の流れから脱藩しました。

 また新選組を組織した清河八郎も、幕府の警護のために組織した新選組を逆利用して、幕府の転覆を企てた人でした。この企ても勤皇によるもので、清河八郎は1862年勤皇の有志を集めるために熊本に赴いていています。この熊本の勤皇で有名な人が「勤皇党」の宮部鼎蔵でした。宮部鼎蔵は勤皇で有名な長州藩の吉田松陰とも親交を持っていました。また、長州藩が京都から追い出された事件、八十八の政変にも長州とともに参加していました。そして、1864年の新選組の活躍で有名な池田事件でも、勤皇の一派として池田屋に泊まっており、新選組に追い詰められ自刃しています。 

【6.廃刀令と熊本藩 】

 廃刀令が施行されることで、侍の最後の誇りを掛けた戦いとして「西南戦争」が有名です。

 熊本藩でも西南戦争の前年1876年神風連の乱といって、侍の誇りをかけて反乱を起こしています。また、この反乱を起こしたグループが先程の「勤皇党」です。

 残念ながら児玉源太郎ら政府軍によって鎮圧されてしまいます。 

【7.明治維新と熊本藩】

 さて、最後は徳富蘇峰の登場です。

 1868年明治政府が誕生しました。

 そして、日本は新たな時代の始まりとなり、多くの藩は近代化の道を進もうとしました。 

 熊本藩も1870年、藩政の大幅な刷新を行い、特に産業において近代化の道に進みます。

 この産業の近代化には、幕末には教育方針の対立で敗れた横井小楠の実学党のDNAが流れています。

 実学党は、「教育と政治の結びつきを意識」した教育を方針としていました。そのため、殖産興業にも積極的に支持していたのです。この考えが、明治維新後の近代化の流れと合致したのです。 

 そこでできたのが熊本洋学校です。

 ジェーンスという外国人を招き、ジェーンズが中心となって授業を行いました(英語の語学が中心)。

 このジェーンズを招くために、熊本藩が建てたジェーン邸という有名な建物があります。残念ながら先の熊本地震によって全壊してしまいました。

 この熊本洋学校ができたのが1871年で、翌年にわずか10歳の徳富蘇峰が入学しています。しかし、あまりにも幼すぎでいったん退学されて、後に再入学しています。

  ジェーンズは実は宣教師だったのですが当初は禁止されていたため、キリスト教の布教を控えていました。しかし、英語の授業などで新約聖書などを家に、キリスト教に興味を持つものが現れてきて、自宅でキリスト教を教えたりもしていました。

 そして、とうとうキリスト教に入信したいというものが出てきてしまい、ジェーンズは熊本洋学校を追放されてしまいます。

 このキリスト教に入信および強い興味を持った学生のグループを「熊本バンド」と言い、徳富蘇峰も参加していました。幕府が崩壊し、仕える対象があやふやになったこの時代、キリスト教と言う新たな心の支えが多くの若者の心を打ったのです。 

 そして、熊本洋学校が亡くなってしまったため、「熊本バンド」は熊本を抜け出し、京都の同志社学校(同志社大学の前身)に行って活躍するのです。

。。。以上、7つのキーワードで熊本藩を語ってみました。

 ※参考文献:『徳富蘇峰』米原謙、2003.8.15、中央公論新社

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