イラストの女性は、19世紀のファッションの新しい時代を切り開く“綱渡し”を行いました。

1858年、フランスのパリのリュー・ド・ラ・ペ(パリの中心部にある現在でもファッショナブルなショッピング街)で、ファッション・ビジネスに革命を起こそうとウォルトという人が女性服の仕立て屋をオープンしました。
オープン当初の客は中産階級の女性が多かったが、彼は知ってもらえるチャンスさえあれば、ハイソサエティの中のファッション・エリートに支持される服を仕立てている確信をしていました。

一方、後にモードを左右することのできた最後のクィーンと呼ばれるフランスのウジェニー皇后がいました。彼女は皇帝の相談役にもなるほどで利発であった一方、ファッションにも敏感でマリー・アントワネットの頃の宮廷装飾の復刻を精力的に行ったり、ファッションのモードを作り出すことを意識的に行った皇后でした。

一流の自負を持つ仕立て屋・ウォルト。
ファッションのモードを作り出す皇后・ウジェニー。

この2人が結びついたなら、ファッションに新しい風が起こるような雰囲気しか感じない、、、

、、、この重要な綱渡しを行ったのがイラストの人“メッテルニヒ侯爵夫人”です。

今回は、このキーマン“メッテルニヒ侯爵夫人”を始めに、“一流の仕立て屋・ウォルト”、“ファッションのモードを作り出す皇后・ウジェニー”の順に紹介していく中で、当時のファッションの流れ、そして社会の流れを捉えていきたいと思います。

目次
【1・ファッション革命の綱渡し人・メッテルニヒ侯爵夫人】
  ウィーン体制の崩壊 / パリへ駐在~普仏戦争(1859~1870)
【2・一流の仕立て屋・ウォルト】
  ウォルトが登場した時代背景 / ウォルトの経歴
【3・ファッションのモードを作り出す皇后・ウジェニー】
  ウジェニー皇后の生涯

【1・ファッション革命の綱渡し人・メッテルニヒ侯爵夫人】

メッテルニヒ侯爵夫人が重要な“綱渡し”を行うのが1860年。
ウォルトが店を開店して1~2年が経った時期でした。

メッテルニヒ侯爵夫人は、1859年、パリ駐在のオーストリア大使であった夫に同行して、オーストリアからフランス・パリに来ました。非常にファッションにも鋭く、そして知的であったため、すぐにパリの宮廷の社交界の花形となりました。

メッテルニヒ侯爵夫人は、1836年に生まれました(坂本竜馬と同じ年です)。
父は「悪魔の騎手」と呼ばれる程、高度な乗馬方法を行い、更にその様を本にして出版して成功を治め、ウィーンとパリの社交界の花形でした。おそらくメッテルニヒ侯爵夫人は父親譲りの社交性だったのでしょう。

ウィーン体制の崩壊
苦難も経験していて、1848年ウィーンでの革命騒動に巻き込まれています。この革命はナポレオンが失墜して以来、ロシアとオーストリアの力をバックボーンにヨーロッパの安定を作っていた“ウィーン体制”を揺るがすものでした。
この体制はその後の1853年のクリミア戦争で完全に崩壊してしまいます。
クリミア戦争とは、ロシアとオスマン・トルコの戦争を皮切りに世界を巻き込んだ戦争です。過去にはヨーロッパのキリスト教と対立する勢力として名をはせていたオスマン・トルコ帝国でしたが、この頃にはもはやヨーロッパに対抗するほどの力は無くなっていました。
そのため、1851年にクーデターを起こし即位したばかりのフランス皇帝ナポレオン3世が、イェスサレムの管理権を求めてオスマン・トルコが認めたのです。しかし、これがロシアの反感を買うことになり戦争となったのです。
なぜ世界戦争になったのかと言うと、ロシアに対抗するため、オスマン・トルコをイギリスとフランスが支援したからです。当時世界の幅広い制海権はイギリスとフランスが持っていて、クリミア半島だけでなく、世界のさまざまなところでロシアと戦争になったのです。
事実日本においても、1854年カムチャッカ半島にてイギリスとフランスの艦隊はロシアに奇襲をかけています。
そんな大戦争であったにも関わらず、以前ロシアと協力して“ウィーン体制”を作ったオーストリアは、戦争に参加せず、むしろロシアに講和を持ちかけてしまいました。これによってロシアとオーストリアの仲が悪くなり“ウィーン体制”が崩壊してしまい、ヨーロッパの安定は崩れ落ちしまいました。
そんな流れを宮廷でメッテルニヒ侯爵夫人は若いながらも感じたのです。

パリへ駐在~普仏戦争(1859~1870)
その経験を経た後、結婚した外交官の夫と共に、1859年フランス・パリに駐在することになりました。そして、パリに着任したのちに、ハイソサエティに服を売り込もうと野心を持っていたウォルトが、メッテルニヒ侯爵夫人の屋敷に訪れ、通常よりもお買い得な価格で服を売り込みます。この服を着て、メッテルニヒはチュイルリー宮殿の舞踏会に出席したところ、ウジェニー皇后の目に留まり、ウジェニー皇后とウォルトが結びつくことになるのです。

その後、メッテルニヒ侯爵夫人は持ち前の器量を発揮し、パリ宮廷の社交の花形となります。それが1870年まで続くのですが、「①芸術の支援、②ウジェニー皇后と親友関係になる」という2点が非常に大切な点ではないかと思います。
①芸術の支援においては、1860年頃名声を上げつつあったワーグナーが、不倫によって追放令が出され、転々と移動し、パリに住んでいた時支援した事が有名です。
②ウジェニー皇后との親友関係においては、ウォルトとの綱渡しも重要なことの一つでもありますが、その後の普仏戦争によってウジェニー皇后がフランスからイギリスに亡命する際、帰国することになった夫を尻目に、ウジェニーの元に残ることにして、亡命までウジェニーの相談相手となっていた事です。
普仏戦争とは1870年にフランスとプロイセン(ドイツ)の間で起こった戦争ですが、フランスはプロイセンに敗退し続け、遂にパリまでプロイセンに包囲されてしまい、皇帝であったナポレオン3世も捕虜になり、ウジェニー皇后は身の危険を感じ、ウジェニー皇后の親友でもあったヴィクトリア女王のイギリスに亡命したのです。
その際にメッテルニヒは皇后を支えたのです。

【2・一流の仕立て屋・ウォルト】

ウォルトの販売方式は、革新的なものでした。

①非常に豊富な生地のラインナップと、卓越した技術の両方を“一度”に売り出した点。既存のお店も片方はあったものの両立は難しく、生地の専門店で働いた経歴と、卓越した技術を学んだ経歴の組み合わせが差別化を生みました。
②従来は女性のドレスは、“女性”のドレス作家が顧客の家を訪れていて作っていたのを、“男性”が、しかもお店を構えて来店してもらう、顧客主導からデザイナー主導の販売方式の変換を起こしました。
③今まで顧客と話し合いながらデザインしていったものを、モデルに服を着せて商品を選んでもらう演出。そうする事で、理想的なファッション、そして理想的な体形をこちらから提案することになり、多くの人が共有する流行(モード)を作り出したのです。

・・・この3点が革新的でした。
これらのお店作りは、訪問販売だった商売が、お店を構えてお客様に来店してもらい、優雅で社交的な時間を過ごすことで、購買意欲と商品の付加価値を創出したのです。お店を広く明るく、優雅に商品を観ることのできる空間とすることで、一つのサロン(文化人の社交場)となりました。そうすることで多くの人たちが共有する理想(流行、モード)が作られ、更に非常に高い値段に設定する事でハイ・ソサエティ層へマーケットを絞り、ブランドの価値を作ったのです。

ウォルトが登場した時代背景
従来、ファッションの一番の重要な役割は、階級の違いをグラフィックで区別する事で、階級の流動を防ぎ、階級社会を安定したものにすることでした。
1789年のフランス革命を皮切りに、今まで固定されていた階級というものが絶対というものではなくなってしまいました。代わりに富を持っているかどうかが、重要なランク付けになりました。
事実、多くのブルジョアジーが社会に台頭してきました。従来の固定された階級は家柄や伝統と言うものがあり、着る服もある程度制限がある一方、服の文化というものがありました。しかし、富を持っているかどうかで台頭してきたブルジョアには家柄や伝統と言うものはありませんでした。あったとしてももともと中産階級としての文化であり、ハイ・ソサエティ層の文化ではなく、成り上がった後どのようなファッションを持つべきか迷っている状況でした。
そのため、ブルジョアの中では過去の階級社会で作り出された価値ある様式を寄せ集めるという現象が起こっていました。つまり、自分たちで文化を作ることができなかったのです。そのため、お金持ちの部屋は、骨董品屋のように、過去に価値があったものが寄せ集められている部屋というものになってしまう状況でした。
こうして、階級によって提案されていたファッションから、新たな情報源からファッションが提案されることが待ち望まれていたのです。特に、お金のあるハイ・ソサエティ層にはそのニーズが高かったのです。
そのニーズに答え、お店を作り、モデルを使ってファッションショーを行い、デザイナー主導でファッションを提案し、お店が社交場として文化人の中で流行を作ったウォルトの販売形式は、まさに時代の欲求に答えたものでした。
そして、階級社会から資本主義社会に適応した流行を作り出すファッションという歴史の新たなページが開かれたのです。

ウォルトの経歴
シャルル・フレデリック・ウォルトは1825年にイギリスで生まれました(1823年生まれの勝海舟と近い)。
最初は1837年(12歳)、ロンドンのピカデリー・サーカス(バッキンガム宮殿近くの重要な通りの交差点に位置する広場、現在も主な小売店や劇場を始めとするエンターテイメント施設が密集している)の大きな織物問屋の見習いとして働きました。
「彼は、服地を扱い目が肥えてくるにつれ、パリ・ファッションに憧れて、ファッション誌の頁をめくりながら、年季があけたら必ず、自分の目でパリ・モードを見ようと決心した(※1)」のでした。
そうしてフランスに移り住み、掃除夫の仕事などでフランス語を習得し、その後流行服地の小売商ガゼリン・オビゲス商会(通称ガシュラン)の布地のセールスマンとなりました。ここで大量の生地(布地)を扱うルートができ、後に独立するときに役に立ちます。また将来の奥さんともこの会社で出会っており、奥さんは独立するときに新たな顧客を作るのに重要な働きをしたり、ウォルトが作った服のモデルになり“世界初のファッションモデル”とも言われる働きをするのです。
更に、1851年現在の万博の発端ともなるイギリスの万国博覧会のクリスタル・パレスの大博覧会に服のデザインを出品したところ、一等賞を取りました。これにより、デザイナーとしての自信をつけ、1858年の大量な布地と高品質なデザインを両立させたお店をオープンさせました。
そして1859年、夫がオーストリアのパリ駐在外交官としてパリに赴任することの同行し、パリに到着したメッテルニヒ侯爵夫人に服を売り込みにゆき、その服がメッテルニヒ侯爵夫人を通して皇后まで通じ、皇后のファッションを特集していた雑誌を通して、ウォルトの名声が高まっていきました。

「ワース(ウォルトのイギリス読み)の偉大な業績はマーケッティングの面でだった。女性ファッションが、作業場で作られていたのは昔話になった。見事に飾り付けた、豪奢なサロンのムードが、ドレスメーキングにつきものになったのはワース以後のこと。そして、オートクチュールはいまも、そのままなのである。」(※1)

さて、この章ではマーケッティングを中心にウォルトの業績を辿っていきました。

それではファッションの形の上にどんな革命的な影響を与えたのでしょうか?

次章では、ウジェニー皇后を通して捉えていきたいと思います。

【3・ファッションのモードを作り出す皇后・ウジェニー】

1850年代、ヴィクトリア朝では“クリノリン”というスカートを傘のように膨らませるためのクジラひげや針金を輪状に重ねた下着が流行り始めました。

「下衣を固くして、その上にスカートを広げようというアイディアは、もちろん新しくもない。…大先輩があり、そしてファッションの舞台からみんなさっていたのだ。
しかし、クリノリンはいままでの体に負担をかけた補強下着とは違っていた。クリノリンは、自由な動きからの拘束衣ではなく、実はほんものの自由への第一歩だったのである。」(※1)

この時期は階級社会が崩壊し始め、ブルジョア階級が台頭しだしてきて、ファッション文化を模索している時期でした。そのため、ファッション上はあまり新しい革新は起こっていません。

しかし、この頃は、18世紀の産業革命を経て、向上した技術が過去のファッションを新しい形で再現したというところに意義があります。
一つは、体の負担をよりかけないものしたことです。進んだ工場技術は、軽くてしなやかな鉄バンドを作ることができるようになり、この軽いスチール・バンドを縫いつけた“ただ一枚”のペティコートで、好きなシルエットを作り出すことができるようになったのです。以前は何枚ものペティコートを重ねてはかなくてはならない重いものでした。
また、布地の大量生産を可能にして、多くの層がファッションを楽しめるようになりました。以前は布地を作り出すのに大変な手間がかかっていたのが、ミシンや紡績機械などが登場し布地の大量生産が可能になり始め、市場に多くの布地が流通するようになり、安い値段で布地が買えるようになり、富のあまりない層でもファッションを楽しむことができるようになったのです。

そんな時代の流れを体現した“クリノリン”ですが、1856年、極端にスカートを膨らますブームにフランス皇后・ウジェニーが一躍買ったのでした。

このように、ウォルトに会う前からウジェニー皇后はファッションの先導者でもありました。

ウジェニー皇后の生涯
ウジェニー皇后は1826年に生まれました(ウォルトと同世代)。
スペインのグラナタ出身でした。
父親は、1808~1814年にスペインで起こったフランスの介入戦争である半島戦争において熱烈なナポレオン派でした。彼はナポレオンの兄の軍隊に所属していて、戦争で片目を失うほどの奮戦を見せるとナポレオンから表彰されています。このようなところとから、ナポレオンの家系とつながりができていたと言えます。

1830年代、ウジェニーの母のサロンには小説『カルメン』で有名なメリメ(1803~)やスタンダール(1783~)が出入りしていてウジェニーも影響を受けています。
また1840年代、当時の消費社会で栄えたパサージュ(ガラス張りの天井がある通路に集まった商店街)が作り出す理想的な空想の空間を、社会にまで適応して理想的な社会を作ろととしたシャルル・フーリエ(1772~ナポレオン世代、マルクスには空想社会主義とも評価れましたが、当時の社会を論理的に批評していました)に傾倒しています。しかし、次第についていけなくなります。
そして1851年、ナポレオン3世がクーデター起こし第二帝政の大統領に就任後の舞踏会にて、ウジェニーとナポレオン3世は出会います。
その後、1853年に結婚します。しかし、ナポレオン3世はイギリスのヴィクトリア女王から娘との縁談がきていたのを断り、ウジェニーと結婚したこともあり、ヴィクトリア女王にとってはこの結婚は良い評価ではありませんした。
そんなこんなもあって、1855年ヴィクトリア女王の招待において、ウジェニー皇后がヴィクトリア女王と会う際は非常に緊張しました。しかし、意外にも気が合い、これ以降親友となり長い付き合いが始まっていきます。
そしてその際、クリミア戦争においてイギリスとフランスが協力し合うことを約束しました。ウジェニーからは翌年の開催されるパリ万国博覧会にヴィクトリア女王を招待しています。
またヴィクトリア女王は、当時人気だった宮廷画家フランツ・ヴィンターハルターを紹介しています。彼は美術界からは新しい作風を作ったわけでもなく、伝統に忠実であったためでもなく評価されなかったのですが、宮廷においては本人に似せながら色使いや表現によって非常に明るく美しい肖像画を描く事が評価され、宮廷画家として成功を治めつつありました。後にウジェニーもウォルトが作ったガウンを付けた有名な肖像画も描いてもらっています。またメッテルニヒ侯爵夫人も彼に描いてもらっています。

そして、1856年ウジェニー皇后は皇太子(後のナポレオン4世)を身ごもっていたため、クリノリンを極端に拡大して使っていたのが、イギリスにおいては新しいモードとして取り入れられました。
ここからウジェニー皇后はファッションの先導的な役割を担っていきます。

その後、1860年メッテルニヒ侯爵夫人の紹介によって、ウォルトを知り、大きなスカートを捨て、サロンの中で提案されたモードによるファッションをブームにしていきます。
このため、ウォルトは後に「皇帝を廃した1870年の革命など、私のやった革命に比べればたいしたことじゃない。私は、クリノリンを排したのだからね」(※1)と豪語しているほどです。
その後は、ウジェニー皇后はウォルトブームを進めると共に、マリ―アントワネットに傾倒し新古典派を宮廷に持ち込みます。おそらく知的なウジェニー皇后はファッションブームの重要性に気付き、かつて皇后主導でファッションブームを作ったマリーアントワネットに学ぼうという気持ちがあったのではないでしょうか。

その後、1869年スエズ運河の開通式に先発の船で訪れています。このパナマ運河の開通は第二帝政の外交官であったレセップス(1805~)の功績ではあるのですが、世界貿易の一つのターニングポイントの一つと成っています。当時、主要な鉄道が完成しつつある時期でした。1869年同年には、アメリカでは最初の大陸横断鉄道が完成しています。また、スエズ運河付近のエジプトにおいてもイギリスがエジプト横断鉄道を敷いています。そこに、地中海とインド洋を船で繋ぐ運河が開通したのです。こうして、船と鉄道の連携において世界を巡る時間が大幅に短縮されたのです。

1870年には、普仏戦争が起こり、メッテルニヒ侯爵夫人の助けもかりて、イギリスに亡命して、余生を過ごしていきます。

そして、フランスにおいてはこの後、モードによるファッション文化が更に発展していくことになるのです。

※1 『ファッションの歴史(下)』J・アンダーソン・ブラック他、パルコ出版、1985.1.30新装版 こちらは当時のファッションの概要と、ウォルトの生涯の面白いエピソードが記載
※2 『ファッションの20世紀』柏木博、日本放送出版協、1998.7.25 こちらはウォルトが起こしたファッション革命と当時の社会の関係をベンヤミンのファンタマスゴリー論とともに語っています。
※3 『榎本武揚から世界史が見える』臼井隆一郎、PHP研究所、2005.3.4 こちらはクリミア戦争と日本、またコルセットなどの当時のヨーロッパの捕鯨の意義と日本の開国の関係など語られています。

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