イラストは、「ソーダファウンテン」という炭酸水を中心として店頭で提供する道具を使って、販売する店員さんを描いたものです。
この「ソーダファウンテン」は、ドラックストアで炭酸水を店頭で販売した事から普及したようです。

「なんで、薬局で炭酸水?」

と思うかもしれませんが、かつては「炭酸水」は健康に良い効能を及ぼすものと考えられ、万能薬のような効用さえ謳われて販売されていました。

というのは、炭酸水を人工的に大量産することが可能になったのが、1867年の事でして。。。
それまで炭酸水は貴重なものでなかなか手に入らず、泡立つ不思議な飲み物として重宝され、薬のように効果があるものと考えられていました。

そのため、ドラックストアで炭酸水を販売されるようになったのです。

この炭酸飲料ブームから誕生したのが「コカ・コーラ」です。
そして、その「コカ・コーラ」誕生の時期に30歳間近だったのが「ジークムント・フロイト」になります。
ただ、同じ時期なだけではありません。
意外な繋がりがあったのです。

①コカ・コーラの誕生

この炭酸水が普及し始めた頃(1880年代)に、「コカ・コーラ」も誕生します。

「コカ・コーラ」を考えたジョン・ペンバートンという方は、モルヒネ中毒でした。
なぜモルヒネ中毒になってしまったのかというと、この頃は麻酔にモルヒネが使われており、手術を受けたりする際に使用されつつも、中毒になってしまうおそれがありました。
南北戦争に参加し負傷したペンバートンは、治療の際に中毒になってしまったようです。

またペンバートンだけでなく、当時は戦争に参加した人や退役軍人などでモルヒネ中毒が蔓延し、中毒に効く薬の登場が望まれていました。

ちょうどそのとき、モルヒネ中毒の治療薬として注目を浴びていたのが意外なことに「コカイン」でした。
コカインは1860年にマスタードガスを始めて合成した事でも有名なアルバート・フリードリヒ・エミール・ニーマンによって初めて単離を成功しました。そこから構造式などが解明されていき、このときはまだコカイン自身の中毒性や有害性に気付かれておらず、モルヒネ中毒の治療薬として注目を1880年代に浴びるようになっていました。
1880年代のイギリスでは一般人でも容易に入手可能であり、その頃の小説の登場人物として有名なシャーロック・ホームズもコカインを使用していて、医者であるワトソンに注意を促されているようです。

そのような状況であったため、時を同じくしてアメリカのペンバートンも当時人気だった炭酸水ブームにのって、炭酸水にワインとコカインを混ぜた「フレンチ・ワイン・コカ」(コカ・コーラの原型)を考案し販売することで、成功したようです。
「フレンチ・ワイン・コカ」は、精力増強・頭痛の緩和・鬱やヒステリーの治療などとしても消費を伸ばしたようです。

しかし、その後禁酒運動の流れと、コカインの中毒性の報告がなされてくるとともに、「フレンチ・ワイン・コカ」はアルコールをやめ、コカインも無くし、現在の「コカ・コーラ」に繋がっていくようです。

②局所麻酔とジークムント・フロイト

同じく1880年代、もうすぐ30歳にもなるフロイトもこの流れに関わります。

フロイトはウィーン大学でブリュッケのもとで生物の神経細胞や脳との関連などを研究し、1881年(25歳)卒業しました。その後、脳と神経の研究を進め、心の問題も脳と神経もメカニズムから探求しようとしていました。
そして、1882年(26歳)マルタ・ベルナイスという女性と出会い、結婚を約束する中になります。しかし、経済的理由もあり結婚がなかなか実現できず、フロイトはついに成功するものを見つけたのです。
それが「コカイン」だったのです。

1章で書いたように「コカイン」は当時はまだ危険性は認知されておらず、注目されるものでもありました。
フロイトは自分自身でも「コカイン」を確かめ、一時的に感覚を無くす作用があることに気づき、局所麻酔に使えないかと考えるようになりました。当時、全身麻酔はあったものの、一部の部分の感覚を無くす局所麻酔はあまり無く、目や鼻などの手術を行う際の局所麻酔として「コカイン」を着目したのです。
実際、友人の眼科医に局所麻酔として「コカイン」を薦め、友人の局所麻酔の有効性は大きなセンセーションを起こしたようです。局所麻酔としての価値を発見したのですが、それよりも神経衰弱や憂鬱症などの神経症の治療薬として使えないか、と考えるようになり、局所麻酔の名声は友人に譲りました。

この時のフロイトは非常に「コカイン」に期待をかけていました。

「この(コカインによる)幸せな成功が一つあれば、世帯がもてます」「もしこれがうまくいけば、私は治療学で、モルヒネとならんで、だがそれよりすぐれたものとして、その地位を得る事でしょう」「私は今、この魔法の薬への賛歌のために文献あつめに忙しく働いています」(※1)と婚約者マルタに送っているほどです。

しかし、状況は一遍します。
1886年の「コカインの常習(嗜癖)と中毒の症例が世界各地から報告され」、「不当治療の唱導者として、ウィーンの医学界から重大な非難を浴びせられる危険人物になってしまった」(※1)のです。
またモルヒネ中毒の友人に治療としてコカインを勧めるも、友人を新たにコカイン中毒にしてしまうなど、先の見通しが見えたとも思えたフロイトですが、残念ながら名声を付しなってしまう結果となってしまいました。

但し、フロイトの活躍はこの後の話になります。
この「コカイン」の挫折によって、神経症や精神病に対する治療の方法を新たに模索させるきっかけとなり、この酷い挫折があったからこそ「精神分析」まで辿り着くともいえるのです。

「つまり精神分析の創始は、むしろこの不当治療の昇華とみなすこともできるのではないか。」(※1)

※1…『フロイト その自我の軌跡』小此木啓吾、1973.3.20、日本放送出版協会 から引用。また、フロイトと「コカイン」とのかかわりは主にこちらの文献を参考にしています。

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