南方熊楠が、1887年に東大予備門(東京大学の予備機関)を中退して、アメリカ・イギリスに向かうことになった理由として、渡米する前の送別会において「進化論」に影響を受けたような内容を語っています(明治19年12月23日松寿亭送別会上演説草稿)。
この「進化論」とは一見するとダーウィンを思い出してしまうが、厳密にはスペンサーのことです。
ダーウィンは1809年に生まれ、1832年(23歳)の時にビーグル号に乗りガラパゴス諸島などを訪れ、1859年『種の起源』において全ての生物は単一の生物から変化して多様化したものであるといういわゆる「進化論」ともいえる考えを発表し、現在に続くまでの生物学に多大な影響力を及ぼした人物です。
現代では「進化論」としてダーウィンの考えは認知されているが、ダーウィン自身は「進化(evolution)という言葉を進歩(progress)と安易に結びつくがゆえにあまり好まず、元来は、変化をともなう由来(descent with modification)という言葉を愛用していた(※1)」のです。更に、最近の研究ではダーウィンは生物が枝分かれして進化していく方向よりも、全ての生物が同じ由来から派生しているという根源(由来)の方向を論じようとしていたとも言われています(『ダーウィンが信じた道』エイドリアン・デズモンドほか、2009、日本放送出版社)。
では、なぜ「進化論」として認知されているのだろうか?
それは当時は1850年頃ダーウィンと同じくイギリスで話題になっていた1820年生まれのスペンサーの影響が大きいです(『種の起源』第六版の追加部分では、スペンサーに妥協して「進化」という用語を用いている)。
スペンサー自身も「進化論」を唱えた背景にはダーウィンに影響を受けているが、スペンサーの「進化論」もダーウィンに影響を与えていたのです(ダーウィン自身はスペンサーの考えにあまり共感していないが、世間でダーウィンの考えとスペンサーの考えが同列で語られるようになってしまったため)。
そんな熊楠にもダーウィンにも影響を与えたスペンサーとは一体どんな人物だったのだろうか?
当時のイギリスと日本時代の空気を記述しながら、熊楠との接点を通してスペンサーという人物を紹介していきたいと思います。
目次
1・スペンサーとはどんな時代の人か?
2・自由民権運動とスペンサー
3・なぜ南方熊楠は「スペンサー研究者」となったのか?
1・スペンサーとはどんな時代の人か?
ハーバート・スペンサーの生年は、1820~1903になります。
同じくイギリスの当時の女王・ヴィクトリアは、1819~1901となります。
ほとんど、ヴィクトリア朝と重なります。
事実、ハーバート・スペンサーが世界的に有名となった背景として、世界でもっとも勢いのあるヴィクトリア朝イギリスの中の有名な知識人の一人であったため、世界的に有名になったとも言えます。
またフロレンス・ナイチンゲールが同じイギリスで1820年生まれとなっています。
国は違いますがカール・マルクスが1818年の生まれと年が近いです。
ダーウィンは1809年生まれのため、スペンサーとは少し上の世代になります。
同じイギリスで少し上の世代に経済学や論理学などで有名なJ・S・ミルが1806年生まれです。
下の年齢ですと、1834年生まれのアーツアンドクラフト運動で有名なウィリアム・モリスがいます。
日本でハーバート・スペンサーと世代が近い有名人としては、勝海舟が1823年と割りと近いです。
下の世代では1835年生まれの福沢諭吉と1836年生まれの坂本龍馬がいます。
つまり、産業革命が進み、海外の植民地化(中国やインド)が進み、世界の覇権を握ろうとしているヴィクトリア朝大英帝国の雰囲気で育った訳です。また、その時期の日本は鎖国から開国に進み、明治維新が進んでいくなかだったのです。
2・自由民権運動とスペンサー
ダーウィンの有名な著書は『種の起源』は1859年に出版されました。
一方、スペンサーの有名な著書『第一原理』は1862年出版されました。
ほぼ同じ年になります。
しかし熊楠が渡米する1880年代後半の日本においては、ダーウィンの著書は翻訳されておらず、スペンサーの本は広く翻訳されていました(現在ではダーウィンの方が有名ですが)。
なぜ同じ頃に名をはせた二人なのに、こうも違いがでたのでしょうか?
それには当時の日本で最も関心が持たれていた「自由民権運動」と「スペンサー」が密接に関係していたからです。
当時はまだ翻訳本も少なく、日本にとって関心(必要)の高い著作から翻訳されて普及してました。
この関心の違いが、ダーウィンとスペンサーの日本での知名度の違いとなったのです。
では、どのように「自由民権運動」と「スペンサー」は密接に関係していたのでしょうか?
◆ ◆ ◆ ◆
そもそもスペンサーの進化論とはどういうものだったのでしょうか?
ご存じのように一般的に知られているダーウィンの「進化論」とは、地球ができて原始生物から植物・動物と進化していき、次第に人間が登場したというイメージだと思います。
ダーウィンの考えは厳密には違いますが、「進化していくことで「人間」を作り出した」とも言えると思います。
言い換えれば、「「人間」というゴールを目指して「進化」していった」とも言えると思います。
更に「進化」という過程を経ることで「ゴール」を目指すという部分を抜き出して、「社会」は「進化」しという過程を経ることで「善」という「ゴール」に向かっていると、「対象」を入れ換えて考えたのがスペンサーになります(厳密には生命は環境に最も適した方向を目指して淘汰していき、進化していく。その為、人間も同じく自然の摂理の乗っ取って淘汰していくことで環境に最も適した(善)方向に進んでいくと考えました)。
この「進化(自然の摂理に基づいた淘汰)」とは「国が介入する政治」でなく、「民意に基づいた政治」であると捉え、日本おいてはスペンサーの「進化論」が「自由民権運動」の正当性を裏付けるものとして支持されたのです。
事実、自由民権運動で有名な板垣退助はスペンサーの進化論に基づいてかかれた『社会平等論』を「民権の教科書」と読んだそうです。他にも土佐の立志社や加波山事件に加わったものなどもスペンサーを読んでいます。(※2)
但し、スペンサーの説は自由民権運動に限らず明治維新後の政府はスペンサーの考えに影響されていたようです。
後の文部大臣として有名な森有礼も1873年に助言を得ている。
つまり、スペンサーは近代化の理論の裏付けとなり、実態はどうあれ西洋の民主主義を取り入れようとした明治の日本に多大な影響力を持ったのです。
因みに、スペンサーは日本の近代化に関してはゆっくりと徐々に進めていくように1873年に森有礼に薦めているが、日本の近代化は急激に実施され、1892年には「今日本が抱えている諸問題は私のアドバイスに従わず急激な近代化を進めた弊害」とも語っています。
※外国でもスペンサーの考えは影響力があり、日本に来たラフガディオ・ハーンやフェノロサ(互いに1850年前後生まれ)も、日本に来る前にスペンサーの影響力を受けて来日しています。
※蛇足ですが、熊楠も自由民権運動に本格的に参加した時期があります。
1887年に日本から渡米してサンフランシスコに赴いた際、丁度鹿鳴館時代の終焉とも言える井上馨外相の外国人判事登用に関する不平等条約の報をきき、『大日本』という手書き回覧新聞を仲間と共同で作り、自由民権を唱える論述をしています。
3・なぜ南方熊楠は「スペンサーの研究者」となったのか?
スペンサーの考えに影響されて1887年に渡米した側面もある南方熊楠ですが、渡米して1890年頃アンナーバー時代に一番多くのスペンサーの著作を読んだようです(※3)。またこの時期に熊楠は、「ハーバート・スペンサーの研究者」とも語っています。
では、なぜ渡米前後の熊楠は「スペンサーの研究者」と名乗るまで傾倒していたのでしょうか?
当時、産業革命が進み市場においては競争が活発になり、国が単位では帝国主義が進み植民地などの領土の奪いになるなど「弱肉強食の当時の国際関係の中で、(スペンサーを始めとする社会進化論が)熱狂的に受け入れられた」(※1)状況でした。
また「日本においても、明治期を通して、この(スペンサーを始めとする)社会進化論は加藤弘之らによる「優勝劣敗」式のイデオロギー化とあいまって、人間社会の変遷を説明する一大原理としてまたたく間に浸透して」いました。「それはアジアにおける生存競争に勝ち残らねば欧米の植民地となるほかほかないという、当時の日本の置かれた厳しい国際情勢を端的に示す理論であった」(※1)のです。
そのため、「南方もまた、そのような時代背景と密接に関わりながら少年期、青年期を生きた人物」ですから、「少年期から同時代の思想に敏感であった彼が、最新の流行である(スペンサーを始めとする)社会進化論に深く影響されたのは、自然なことで」あったと思います。
また、(現在は南方熊楠は博物学や生物学、民俗学などで有名であるためあまり感じられませんが)幼少から渡米前後まで、社会情勢や政治にもかなり興味があったことも推測され、社会情勢や政治の動きまで包括的にカバーするスペンサーの思想に魅力を感じていたのだと思います。
社会情勢や政治に興味があったという直接的な資料はあまりないのですが、渡米直前の演説では国際情勢に取り残されないために渡米を決めたというような発言(明治19年12月23日松寿亭送別会上演説草稿)や、渡米直後に自由民権運動に関わっていることや、スペンサーの哲学的な側面だけでなく「自由平等論」や「社会研究」関する著作なども網羅して読んでいるところや、渡米後のロンドン時代に後に辛亥革命を起こした孫文とこの上なく打ち解け互いによき理解者となった点も社会情勢や政治学の見識があったからと想像できます。
そして、あらゆる事象を包括した哲学を欲していたのは、幼少から博物書に触れ様々な事象に触れたことや、後の「南方曼陀羅等」は生物学の側面から語られることも多いですがあらゆる事象を包括して考えようと試みであることから感じられます。
つまり、単に世界や日本でスペンサーが注目されてからだけでなく、熊楠の学問をするスタンスとスペンサーのスタンスが似ていたからと考えられます。
※因みに熊楠はその後、ダーウィンの著作に触れていく内にスペンサーの社会進化論を批判的に見ていくようになっていきます。その過程はこちらのサイト「http://www.aikis.or.jp/~kumagusu/books/jiten_matsui_ch1.html#shinkaron」の「進化論」(松居竜五の記述)の項目に詳しくか書かれています)
※1『南方熊楠を知る事典』松居竜五ほか、1993.4.20講談社
※2『世界の名著46 コント スペンサー』清水幾太郎訳、1980.7.20、中央公論新社
※3論文「南方熊楠蔵書中のハーバート・スペンサー著作に見られる書き込み」松居竜五