最近、手塚治虫の『陽だまりの樹』を再読しました。
流れを備忘録と整理をかねて、年代ごとに書き出してみました。
ザックリとこの時代をつかみたい人に、また『陽だまりの樹』を読むときの参考になりましたら、嬉しいです。
1章 手塚治虫が出版した年代
1980年 偶然、分かった手塚治虫の祖先の生き様
「私の祖先も医者なのですが、どんな人であったかさっぱり分かっていません。」(※1)
1980年、順天堂大学大学祭の行事で招かれた手塚治虫が、講演会でこのように語りました。
その何気ない言葉が、祖先の生き様を知るきっかけとなりました。
講演を聞いていた人が、丁度その年の前年(1979年)から発表されていた手塚治虫の祖先について書かれた論文を紹介してくれたからです。
こうして、手塚治虫の晩期の名著とも言える『陽だまりの樹』が誕生しました。
1980年代 世界に知れわたった手塚治虫がルーツを語る
1980年代の手塚治虫は、世界に向かって名前が広まり羽ばたいていく時代でした。
しかし、そこまで来るまでの10年間は大変なものでした。
1970年代前半、手塚治虫は虫プロの社長を辞任しています。しかし、その後虫プロが経営不振に陥って、手塚治虫まで影響を及ぼし、どのように負債を返すべきか非常に悩んでいました。
そのとき、『ブラック・ジャック』が大きな役割をなし、手塚治虫は復活したのです。
その後、『三つ目がとおる』などの人気作品や、海外への渡航などを経て、ようやく手塚治虫は落ち着いて、世界に名前が広まりつつあったのが、1980年代でした。
その中で、『陽だまりの樹』を書かれたのです。
漫画史的には、「ヤング誌」というジャンルができ、「成人誌」では細分化が起こり4コママンガや生活を重視した漫画などが登場してきたころの用です。
娯楽的にはマンザイが流行り、コンピューターゲームなどの登場です。
社会的には、社会主義などのような知的層がいなくなり、中流志向が高まりつつも、目的とする何かを失い現状肯定主義に陥っていた時代でもあるようです。(※2)
いつか、もう少し1980年代の社会論は改めて書けたら嬉しいです。
2章 作品で書かれた時代
1855年 水戸学派の精神と、西洋医学が江戸で広まっていく時代
①秋葉原に昔あった「池」から始まるストーリー
歴史文献に残っていた手塚治虫の祖先の手塚良庵が府中藩士であったため、また社会の流れともコミットするためにもう一人の主人公・伊武谷(仮想の人物)も府中藩士と設定しています。
府中藩は、現在の茨城県石岡市と水戸に非常に近い地理となっています。その関係もあってか、基本的に水戸藩が巡った幕末と合わせてストーリーが展開していくような気がします。
伊武谷と手塚良庵の二人が主人公で、共に江戸詰めで江戸に住んでいる設定から始まります。
伊武谷は、府中藩士の侍で、現在の秋葉原辺りにあった「お玉が池」という場所にある北辰一刀流の道場に通い、現在の後楽園あたりにある三百坂を上って、勤務する様子が書かれています。
因みに、北辰一刀流で有名な人物として新撰組の元となる組織を作った清河八郎と、いわずとしれた坂本竜馬がいます。清河八郎は北辰一刀流の「お玉が池」道場に通っていましたが、坂本竜馬は身分が郷士と低かったため身分に合わせた「桶町」道場に通っていました。「お玉が池」道場に北辰一刀流創始者千葉周作がいまして、史実だとおそらく1856年に死去なのですが、陽だまりの樹では1855年、この年に死去となっています。
清河八郎がこれから全国を巡る旅をして新撰組のもととなる組織の構想を始めたばかりの頃で、また清河八郎とともに新撰組のもととなる「浪士組」をともに作った山岡鉄舟も北辰一刀流を学び、この時伊武谷と深いかかわりをもつことになっています。坂本竜馬は1853~54年に「桶町」道場に通っていますが藩の許可の関係でこの年は一旦土佐に帰っています(翌年にまた入門し「目録」を取っている、剣で無く薙刀の目録だともいわれている。56年に目録をために来たときは一足先に土佐を出た武市半平太と岡田以蔵が同郷として江戸にいました。57年まで江戸にいます)。
手塚良庵は、後にお玉が池種痘所(お玉が池種痘所が舞台になるから、伊武谷もお玉が池道場に通ったと設定したのかもしれません)を作ることとなる手塚良仙(良庵も父が亡くなった後は良仙と名のる)の息子です。
父・手塚良仙は、下谷(上野)になじみの芸妓を持っています。また娘の一人・海香は大槻俊斎という後西洋医学で重要な地位を持つ人のところに嫁いでいます。
②大阪にある福澤諭吉も通った有名な西洋医学塾
手塚良庵は1855年この年の3月頃に緒方洪庵の「適塾」に入門します。緒方洪庵は長崎で西洋医学を学び、大阪で天然痘の予防接種である「種痘」を広める「種痘所」を「適塾」と共に経営していました。
「種痘」はこのとき、日本では治療方法がなく神頼みが中心でした。1796に西洋ではジェンナーという方が種痘という治療方法を考案して、恐らく西洋では1855年ごろには普及して定着していたのではないのかと思います。余談ですが天然痘として1796年付近で思いつくのは「疱瘡のミラボー」です。ミラボーという方はナポレオンが生まれる少し前に、ナポレオンの生誕地・コルシカ島のフランスの領有化に尽力し、またフランス革命では一時旗手となります。
「種痘所」はこの時、長崎と緒方洪庵「適塾」の大阪の2ヶ所しかなく、特に江戸では「蘭方禁止令」があったため、「種痘所」の設置は困難な時代でした。そして、良庵の父である良仙が江戸にいる西洋医学の有名な人たちを集めて「種痘所」を開設する運動をしていて、その勉強のために手塚良庵は「適塾」に学びに行くのです。
さて、大阪のこの頃の事情に移りたいと思います。
良庵は、曽根崎新地という場所で芸妓を買っているエピソードもあります。
また、堂島川近くには大阪の2大医である漢方医である「華岡塾」があり、「適塾」と対立している様子も描かれています。ただ、「華岡塾」の創始者である方は日本で始めて麻酔を使った手術をするなど、西洋医学的な側面も見られます。この辺りの歴史は、いつか機会があったら調べたいと思っています。
適塾ですが、良庵が入門する少し前に福澤諭吉が入門しています。
福澤諭吉は、1853にペリー来航により西洋の砲術の知識が必要となり中津藩の支援を受け長崎に砲術の勉強をしながらオランダ語も学んでいます(砲術家という西洋の砲術の文献を扱う人の下に師事)。その後、兄がいる大阪に留まることになり、オランダ語を学ぶために「適塾」に入門しました。名目は「砲術家」として入っています。オランダ語を教えているのが「適塾」で、そのオランダ語の勉強と言うことで、西洋医学の勉強塾である「適塾」にオランダ語を中心として学びに来ていたのだと思います。後に、諭吉は「適塾」の塾頭となり、58年に江戸の中津藩邸で蘭学を教えるために江戸に渡ります。そして、慶応義塾を作っていくのです。
他には、大鳥圭介もこの頃入門していたようです。大鳥圭介は、後にオランダの陸軍に関する専門家となり、戊辰戦争の時には新撰組とともに新政府と戦いながら東北で戦闘を繰り広げます。
卒業生として、大村益次郎と長与専斎、橋本左内がいます。
大村益次郎は、長崎で砲術の勉強をしていた頃の福澤諭吉の下に文献を借りに来ていたり、江戸では1859年ごろ福澤諭吉が横浜港を訪れて英語の必要性を感じたときに誘ったりもしています。戊辰戦争では、西郷隆盛とともに、特に上野での戦闘で飛距離の高い砲台を使って幕府側を制圧したことで有名です。
長与専斎は、衛生学を日本に広めたことで有名な方です。1871年に岩倉遣欧使節団と共にヨーロッパを視察し、1882の自由運動の板垣退助が刺されたとき治療した江藤新平を部下として持ったりもしています。
橋本左内は、水戸藩主導の徳川慶喜を13代将軍・家定の後に将軍としようとする派閥に属していた人でした。1859の安政の大獄により、処刑されてしまいます。
また高峰譲吉というアドレナリンを発見した方もいるのですが、この方が「適塾」に通ったのは1868年で、緒方洪庵はすでに1862年に江戸に行ってしまい64年に亡くなっているため、緒方洪庵亡き後の「適塾」となると思います。
③10月2日 安政の大地震、尊皇攘夷の志士たちが尊敬していた偉人が亡くなる。
そのとき、伊武谷や山岡鉄舟など、尊王攘夷の志士たちが尊敬していた藤田東湖がなくなります。
藤田東湖とは、水天皇を中心とする日本論を述べた水戸学派の中心的な学者です。
この後も、藤田東湖に影響された人物と意気投合して、伊武谷は水戸藩中心とした派閥に関わっていくことになるのです。
1856年 外国と不覚にも関わってしまった日本人
①厳格で頑固な性格で、生涯童貞を貫いたキリスト教信徒・タウンゼント・ハリス
7月21日、1854年にペリーが2度目に来航して結んだ日米和親条約に基づき(2年後に在日外交官を置くという条項もありました)、タウンゼント・ハリスが通訳のヒュースケンを連れて、伊豆半島の南端の下田に到着しました。
このとき、「陽だまりの樹」ではその警護に伊武谷がつくことになります。
因みに、陽だまりの樹では、ハリスと日本人女性の物語「唐人・お吉」にも触れています。陽だまりの樹ではさまざまな恋物語が作られているが、実際は淡々とした物語だったとも書かれている。ヒュースケンについても、若い一人の青年が外国に来て、女性と関係を持てづに欲求がたまり、日本人女性とと関係をもつというエピソードも書かれている。
一方、ハリスは52歳でキリスト教信徒で厳格ではあったのだが。。。
確かに、外国人と関係を持つと毛むくじゃらな子供が生まれるとかいう日本人側の偏見や、性商売で生計を立てている日本人と、外国に長期間限られた人としか交流をもてない外国人という関係は、色々とこんがらがってしまうかなと思いました。
1857年 用意周到な幕府と予定外な事態
①ペリーが来る前から、ペリー来航に対して準備していた男、江川英龍
ヒュースケンが下田で、砲台を作る炉の遺構を発見します。その関係もあって、伊武谷は伊豆の韮山(下田より北)にある砲台の炉を見学しにいきます。
韮山は、ペリー来航のとき現在のお台場に砲台を立てる計画を老中首座・阿部正弘から命令された江川英龍が治めていた地です。江川英龍はペリー来航以前から外国が武力を持って開国を迫ってくることを予見し、伊豆の韮山で国土防衛軍事作戦を幕府主導で実行に移していました。この江川の施設を伊武谷は見学しにいったのです。下田だとハリスなどが目立つため、伊豆の奥地・韮山に移転したようです。この江川英龍の思想はこの時代の多くの日本人の国防についての考え方に影響を及ぼしました。
②迷いに迷う日米修好通商条約
4.20江戸城内で大老・堀田正陸が老中会議のために、多くの人を集めました。攘夷派としてつとに名高い水戸の徳川斉昭などを元として、身分の低い低いものまで意見参考人として招きました。前代未聞の条約要求に幕府は迷いに迷っていたようです。このとき、海軍伝習所の勝海舟も参加しています。
但し、6月にこの幕府の体制が安定していた中心人物である老中首座の阿部正弘がなくなり、この慎重な態度は次第に薄れてきます。
更に、10月にはハリスが下田から江戸に移り、13代将軍・家定と謁見することで、条約の批准の必然は強まります。
1858年 条約を強硬に批准しようと考えた人たち
①日米修好通商条約を強硬に批准しようと考えた人たち。
翌年、大老・堀田正陸は朝廷の力を利用して、意見分れしている状況を打破しようと、正月早々からお金の力を使って朝廷の買収に向かうが、朝廷では攘夷のムードが高まっていって失敗してしまいます。
その関係で、大老に井伊直弼がつくことになります。
井伊直弼は、徳川慶喜を押す水戸派と対立していて、徳川家茂を推しています。そして、水戸派と対立しているため、その水戸学を始めとするムードを払拭するため、多くの対立陣達を処刑します。
これが安政の大獄です。これが実際処刑と言う形で行われるのは、翌年となります。
また井伊直弼は朝廷などの意見を無視する強行的な態度で、日米修好通商条約を批准します。
②外国人が持ってきた病気
また井伊直弼が着任した後、長崎で停泊した外国人船の乗組員からコレラが広がり、江戸まで広がっています。このときも緒方洪庵が出版したコレラに対する対処方法の本が活躍しています。コレラに関しては菌であるため、原因が特定されるのはもう少し後になります。(フランスでパスツールが菌という生物がいるのを発見するのはこれの2年後)しかし、西洋医学は漢方のような処方箋だけでなく、看病方法なども詳しく示し、コレラに関しても首尾よく対処した点が、西洋医学の株を上げています。
西洋医学が広まっていたのは、天然痘のように不治の病が治せるようにしたことや、コレラのように処置の仕方を的確に示したことや、外科的手術ができるようになり今までできなかった治療ができるようになったことなどが、普及していった要因のようです。
1859年 幕府なりの外国の導入がすすめられた時代
①ココから始まるエキゾチックな貿易港・横浜
この年にもともと人気のない海べりの沼沢地に、わずか3ヶ月の超スピードであっというまに貿易港として横浜が変身しました。
この長崎・函館に続く国際貿易港・横浜に適塾の塾長を経て、前年から江戸の中津藩邸でオランダ語を中心とする静養の学問を教えていた福澤諭吉が訪れます。このとき諭吉はオランダ語で外国人に話しかけるが全く通じず、現在は英語が標準語となっている現実を知らされます。
そこで、諭吉は一念発起して英語を学ぶことを決めます。このとき、大村益次郎にも一緒に学ぶことを声を掛けたり、下田の調停役をやっていた(丁度、ハリスを迎えいれるときに)森山多吉郎にも教えを請いにいっています。
②改革を志した人たちが罪に問われる出来事
そして井伊直弼により安政の大獄が始まります。
水戸派と対立する立場の井伊直弼としては、水戸派の家老・安島帯刀の切腹や藩主・徳川斉昭の永蟄居があります。
また、水戸派は攘夷的な側面も持っていたので、その流れとして吉田松陰も処刑されます。橋本左内は安部正弘のころから改革派でもあったため斬首されています。
1860年 海外に行く人たちと排斥する人たちの分かれ目
①日本人の力で初めてアメリカまで言った時代
手塚良庵とは適塾で一緒に学んだ福澤諭吉ですが、このとき日米修好通商条約を締結するために、アメリカまで日本政府が赴くことになりました。福澤諭吉は一介の洋学者でしかなかったのですが、アメリカまでの渡航に不安を感じて行きたいと思う人も少なく、渡米を積極的に福澤諭吉は希望していたため、実現することができました。
このとき、帰りにハワイを経由して帰っているのですが、福澤諭吉は王朝の王といっても「村の猟師の親方くらい」(※3)と述べています。また、1840年あたりからアメリカから宣教師やサトウキビ業者が進出してきて、ハワイは豊になっているが、このときには島のもともといた人たちはアメリカ人に使われつつあるとも述べています。
②身分の低いものたちでも活躍できる可能性を見出した時代
安政の大獄で多くの志士たちを弾圧したため、特に攘夷が必要と考える急進派の水戸藩や薩摩藩の一部の人たちによって桜田門外の変が断行されます。幕府の重役が志士によって殺害されるということは日本全体にとっても衝撃的なことで、多くの志士たちが京都に出て、尊王攘夷の志士として活躍しようと夢を見る時代になります。
土佐藩の身分の低い郷士たちもこの事件をきっかけに、尊王攘夷を志す人たちが生まれ、土佐藩で活躍する武市半平太や坂本竜馬などが身分の低いものでも活躍できると期待と抱きます。そして土佐藩では武市半平太を中心とする郷士の集まりが攘夷の志士として活躍していきます。
1861年 外国人をみる日本人が増えて憎悪を抱いた時代
①外国人をみる日本人が増えて憎悪を抱いた時代
ヒュースケンが暗殺されます。
59年に横浜港が開港したことなどもあり、多くの外国人が日本に住んでくるようになりました。それ以来、外国人に有利な商売をして逼迫する状況や、外国人が日本の作法を重んじないで街を荒らしていく様子を見ることが多くなりました。そのため、やはり心情的にも排斥したくなる気持ちが湧きやすくなり、それが過激なものたちによって暗殺という形で表層化したのだと思います。
59年にロシアの水夫が横浜で、さらに横浜のフランス領事館下僕が暗殺。60年にイギリス公使館通弁伝吉、オランダ船船長ら2名、フランス公使官の旗番の刺殺。61年にヒュースケンと起こっています。
ただ、外国に行く日本人も増えてきた時代でもあり、福澤諭吉は今度は遣欧使節団としてヨーロッパに行っています。
しかし、帰国後は西洋かぶれという事で暗殺の危機に陥るのでありますが。
1862年
①過激派攘夷の時代
薩摩藩主・島津久光が京都に上洛しました。
薩摩藩の急進派の人たちは、攘夷決行・倒幕のために上洛するものと期待して、多くの薩摩の志士が上洛したのですが、島津久光は公武合体を考えていました。そのため、水戸派の繋がりで幕府を改革しようと考えていた西郷隆盛などはこのとき捕縛されて大阪から薩摩に返されています。しかし、薩摩の志士が重役を暗殺してでも島津公の決起を促そうとしたため、志士たちが集まっていた寺田やに置いて粛清を決行したのです。
これが寺田屋事件です。
また、その後公武合体の意向を幕府にとりなすため、島津久光が江戸に向かう途中に起こったのが生麦事件です。
島津久光公の大名行列をイギリス人が横切ったため、無礼討ちをしたのです。これは当時では大名行列の無礼討ちは規則的にも順当なものだったのですが(無礼討ちを行った薩摩の家臣は攘夷をしたいという気持ちはあったのですが手続きは順当)、翌年にイギリス側は薩英戦争として報復をしてきます。
またこの年に脱藩して、紆余曲折があった後、お玉が池の千葉道場にたどり着いた坂本竜馬が攘夷の考えから勝海舟を斬りに言ったというエピソードもあります。あくまでも勝海舟の冗談交じりの後日談によるものらしいのですが、坂本竜馬と千葉道場の千葉先生とともに西洋かぶれの勝海舟を斬りにいったものの、勝海舟の凄さに圧倒されて逆に坂本竜馬が弟子になったという話です。
②『仁―JIN―』の時代
58年に手塚良仙の強い働きがけでできたお玉が池種痘所は残念ながら江戸の火災によって焼けてしまうも、西洋医学所として多少場所がずれて再建されます。そして、伊東玄朴が奥医師となり、大槻俊斎(手塚良仙の義息子)が西洋医学所長になります。
しかし、大槻俊斎と手塚良仙はこの年に亡くなってしまい、次の西洋医学所長として緒方洪庵が大阪から呼ばれ選ばれます。緒方洪庵は適塾以上の野心が無く、また体も調子がよくないため、一度断るのですが、強い頼み込みがあり、江戸に上京してきます。このとき、村田蔵六や手塚良庵、福澤諭吉などが迎えます。
現代の脳外科医が江戸時代にタイムスリップしたマンガ『仁-JIN-』の時代はここから始まります。
攘夷などの不穏な空気で、夜の浪人による人斬りなど危険な状況から始まっています。
その後、この年にハシカやコレラが蔓延した状況も描かれています。
コレラの対処法で『陽だまりの樹』では緒方洪庵などが西洋のコレラの対処法による翻訳の出版により大きな効果をなしたような描写をされていますが、『仁―JIN-』ではどちらかというと出版したものの西洋医学も東洋医学もコレラをどうすることもできない状況のように描かれています。
この時代から始めたのは、西洋医学もある程度江戸に根付いてきた時代だったからでしょうか?
1863年
①
この年に、坂本竜馬は勝海舟と共に神戸海軍操練所設立のための資金集めのために松平春獄のところに資金集めに向かったりしています。このとき坂本竜馬は攘夷としてして上京してきたものの勝海舟の下につき、どちらかというと幕府よりの活動をしていました。しかし、海軍操練所には坂本竜馬が同郷の土佐藩のものも呼び込んでいたため、その中には攘夷派的な人もいました。それがこの年のこの後の事件に関係していきます。
この年の前半は特に攘夷派が京都で幅を利かせた時期で、竜馬と同郷の武市半平太は前年に土佐藩で攘夷派の郷士を押さえつけていた吉田東洋を暗殺し、京都で長州藩のメンバーと繋がり、攘夷の時流に乗り遅れないように土佐藩と長州藩の繋がりを取り持ったりもしています。そのお陰もあり武市半平太は上士の資格を得て、土佐藩の政治に影響を及ぼします、更に、土佐の藩主・山内豊堂の息子と長州藩の結婚もこの年にされて、攘夷派との連携を強めたとしでもありました。
また、人斬り以蔵を使って、攘夷反対派を多く武市半平太が殺害したのもこの年になります。
新撰組結成
またこの年に新撰組が京都で結成されています。昨年に清河八郎の提案で会津藩の援助を受けて浪士組が結成され、京都で新撰組となります(清河八郎は攘夷派の討伐の口実で浪士組を結成しますが、清河自身は攘夷派であり京都で新撰組に実は攘夷のために集めたとうちが上げるが、新撰組の人々は清河の弁舌にはのらず、当初の目的どおり京都の治安維持のため、攘夷派の討伐を行った)。伊武谷は前年に江戸にて清河八郎と会っていて、伊武谷の歩兵組のメンバーの平助などが浪士組に入ろうとしています。
八十八の政変
そして、8月18日に長州を中心とする攘夷派を力付くで追い出そうとする八十八の政変が起こります。徳川家茂と天皇家の公武合体の方に幕府と朝廷はシフトしようと考え、薩摩藩を中心とする勢力が長州を京都御所から追い出します。また長州系公家も追い出されます。ここから一気に攘夷派が優勢のムードから公武合体に世の中は動き出します。
八十八の政変により、長州は京都から去ります。攘夷派が優勢のお陰で京都にいられた土佐の脱藩浪士達は、土佐藩からの捕縛命令が出されるため、死ぬことを選び天誅組の乱などを起こします(吉田東洋殺害メンバーが首謀者)。
また攘夷のムードの終息にともない武市半平太も土佐に呼び戻され、その後吉田東洋殺害などの罪から尋問などを受けて65年に切腹にいたります(皮肉なことに66年の薩長同盟後は、土佐は攘夷派メンバーにまた加わります)。
1864
①
池田屋事件
八十八の政変の不満から長州の過激派を中心として、池田屋で天皇を連れ出し、攘夷のムードを巻き返す動きが見られます。この動きは長州藩の攘夷としてももてあましていて桂小五郎などは止めようとしていた程です。
実際には池田屋で会合が開かれますが、新撰組に情報が漏れていて、近藤勇や沖田総司の活躍により鎮圧されてしまいます。ここには薩摩藩の過激派や土佐藩のものもいました。この土佐藩のものが神戸海軍操練所のメンバーでもあり、そのことが問題となり、翌年の蛤御門の変でも神戸海軍操練所の攘夷への加担が疑われ、勝海舟は蟄居に合うことになります。
この不穏な時期に、西洋かぶれとして目立つ佐久間象山は京都で殺害されています。
蛤御門の変
更に、八十八の政変と池田屋事件もあり、何度してでも京都での長州の巻き返しを図るため、長州藩が力づくで御所での地位を奪い返そうとします。これが所謂蛤御門の変です。
長州の久坂玄瑞は当初反対しましたが、真木和泉などの言葉もあり、参加します。
ここで長州藩の討伐に活躍したのが、一ツ橋(徳川)慶喜、西郷隆盛(安政の大獄などを逃れるも一時蟄居などされていた)を始めとする薩摩藩や新撰組が活躍します。
そして、攘夷派が育ってしまった疑いから勝海舟は蟄居されるため、勝海舟のものにいた海軍操練所の坂本竜馬などの土佐脱藩組は土佐藩に逮捕される危機に陥りますが、勝海舟の機転により薩摩藩邸に坂本竜馬などの脱藩組が庇護されることになります。
第一次長州征伐
その後、更に追い討ちをかけて薩摩藩を中心とする幕府軍が長州征伐にでます。
このとき、伊武谷の歩兵隊も長州に向かい、京都で西郷隆盛と伊武谷は会っています。
更に伊部谷はここで坂本竜馬と会っているのですが、お尋ね者の坂本竜馬との接触から歩兵隊長の職をとかれて江戸に戻っています。
1865年
亀山社中
坂本竜馬は薩摩藩の庇護の中、日本発の株式会社の発想をもとに、武器などの貿易を通して経営する「亀山社中」を設立します。
この会社を持ち長崎でグラバーなどと武器の貿易をしていたため、長州とも顔の聞く坂本竜馬が薩摩藩と仲介するようになるのです。
第二次長州征伐
そして、徳川家茂を筆頭に大阪に挙兵し、第二次長州征伐が行われます。
そのときには、坂本竜馬や中岡慎太郎の働きかけもあり、薩摩藩は長州藩に協力的でした。
坂本竜馬は亀山社中を海援隊という名前に変えて、長州側に武器の融通と戦闘に協力しています。
家茂はこの大阪の出兵のまま病気で亡くなります。
1866年
薩長同盟
薩長同盟が結ばれます。
薩長同盟が結ばれた後、お尋ね者とされていた竜馬は寺田屋にいることが京都見回り組みなどに見つかり、追い詰められ手に重傷を負います。
薩長同盟もあり、時代は長州薩摩など朝廷を中心とした尊王派の流れに変わっていきます。
そこで、土佐藩も本格的に海軍力を強めるため、軍艦の購入などを考えます。
後藤象二郎は長崎に軍艦の購入に来る際、そこで商売をしていた坂本竜馬と親交を持つようになります。
板垣退助も、山内容堂を必死に説得しています。
ただ、ここでの土佐藩との接近が薩摩と坂本竜馬の関係に溝が出来てくることの原因となります。
このころの坂本竜馬は、海援隊を経営しつつも、肝心の船が買えず、日本発の「万国公法」を使った裁判を行ったりしています。
1867年
大政奉還
この年には、完全に幕府の衰退が激しくなり、長州薩摩が優勢になります。
坂本竜馬は幕府がつぶれた後の構想をいち早く考え、「船中八策」という倒幕後の案を出します。
このとき、坂本竜馬は将軍も新政府の役職に出来は入れるような案を考え、薩摩などに出向き説得しています。
坂本竜馬が新政府の役職に名前が入っていないことを、大久保利通や西郷隆盛に聞き返されたとき、「世界の海援隊をやる」というような発言をしたエピソードを坂本竜馬の海援隊で活動していた陸奥宗光は感動して後年幾度も語っています。
更に、乗り遅れた土佐藩を助けるため、坂本竜馬の発案もあり、土佐藩主導で大政奉還を行うことが考えられます。このとき、岩倉具視にも説得しています。但し、名目は後藤象二郎発案として、大政奉還が進められていきます。
この大政奉還など、幕府が政治を返したなど世の中分からない時代となり、民衆の間では「ええじゃないか」という掛け声のもとにざわつく騒ぎも起こっています。
近江屋事件
また、坂本竜馬が殺害されたものこの年になります。
中岡慎太郎とともに近江屋で殺害されています。
このとき、陸奥宗光などは敵討ちに立っています。また、谷干城も坂本竜馬を尊敬していて、殺害後いち早く現場に駆けつけ、中岡慎太郎に状況を聞きだしています。
戊辰戦争~京都~
薩摩藩の謀略により、薩摩藩邸に火がつけられたことを始まりとして戊辰戦争が始まります。
まずは京都で鳥羽伏見の戦いが起こり、幕府が押されると、徳川慶喜は軍隊を置いて江戸に舟で帰ってしまいます。
1868年
戊辰戦争~上野~
その後、京都から江戸に向けて朝廷軍は動いていきます。
立見鑑三は愛知まで逃げて、舟で江戸に行き戊辰戦争に再び参加しています。おそらく近藤勇などもこのルートで江戸に戻り、朝廷軍を迎え撃ち、つかまり流山で殺害されます。
江戸では勝海舟と西郷隆盛が話し合いで無血開城します。
徳川慶喜は水戸に逃れています。江戸城自体は無血開城しつつも、江戸の家臣たちが物を手当たり次第持っていたため、荒れた状態であったといいます。
そして、戦地は江戸から幕府派の残存兵で上野に移ります。
伊武谷は幕府に使えるものの、幕臣の誤った助言で将軍が正しい判断をなせてないと思い、前年の桜田門外の変があった日にちに江戸城に切り込み行く予定でした。しかし大政奉還したと聞き命の捨て所を失った伊武谷は、上野の戦争に参加します。
結果は、長州の村田蔵六が指揮した陸軍の射程距離の長い英国のアームストロング社から買った砲台によって、朝廷軍が圧倒的有利な状況で勝利を治め、伊武谷は負けて行方不明となってしまいます。
その後、手塚良庵は71年の西南戦争に参加したところで、『陽だまりの樹』は終わっています。
※1・・・『陽だまりの樹』(文庫版)手塚治虫 小学館 1995.6.10発行 付録エッセイより
※2・・・『現代マンガの全体像』呉智英 情報センター 1986.4.11 現代マンガ史 第五期 参照
※3・・・『福澤諭吉全集・19巻』「万延元年アメリカハワイ見聞報告書」福澤諭吉 岩波書店 1971・4・13