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 ルネッサンス芸術の黄金期のフィレンツェを作ったとも言われる“ロレンツォ・デ・メディチ”、またの名を「豪華王」と呼ばれた人。

 といっても、意外と直接フィレンツェで花開いた歴史に残る芸術作品に直接パトロンとして関わった作品は少ないようです。

 ボッティチェリの名画『プリマヴェーラ』も直接は関わっていないようです。

 特に建築においては、祖父コジモは積極的にパトロンとなったものの、ロレンツォが建築のパトロンとなった数は少ないようです(というもののないわけではなくミケロッツォなどや別荘の建築などはあります。またロレンツォは建築に非常に精通していました。

 ただ有名な芸術家と関わっていないかというとそうでもなく、ボッティチェリやベロッキオやペルジーノなど結構関わっているものの、作品を彼らに発注する事よりも、彼らが活躍できる場所に推薦して派遣する活動に重点が置かれたようです。

 では、なぜ直接的な関りよりも、推薦など間接的な支援がメインだったのか?

 それは、ロレンツォがフィレンツェの実質的な統治者として着任した頃には、資金源であったメディチ銀行の経営に陰りが見え始め、ロレンツォがなくなるときには多大な借金まみれになる程、ロレンツォには資金がなかったことに起因するようです(銀行経営に精通していた祖父コジモの時代は大幅な黒字で多くの建築などに資金を出してパトロン活動ができた)。

 祖父コジモまでの時代は、メディチ家の権威はまだ確たるものでなかったため、銀行経営に勢力を出しつつ、その資金で権威を固めていくという活動をしなくてはなりませんでした。

 しかし、父ピエロあたりからほぼ実質的な統治者の道が約束されており、経営者としてよりも貴族的な教育が重要視されるようになっていたのです。特に祖父コジモが権威を高めるために作り上げたアカデミックなサークルでは、実利よりも理想を掲げるプラトン主義などが流行っていて、そのためロレンツォには王となる教育を施し、銀行経営はその道に長けたサセッティに任せるようにしたようです。

 ただ、周りの国と銀行による関りによって外交を強化したロレンツォの方針もあり、いままで厳格にしていた国の王などにお金を貸す投資の禁止を緩め、フランスなど多くの国で踏み倒される事件が続出し銀行経営は傾いていきます(またサセッティ自身も実利だけでなく権威を求めるようになり、礼拝堂やアカデミーに傾倒してくなどもありました)。

 そして、ロレンツォ自身も、外交では反対する者は容赦なく粛清し、金に糸目をつけず自国の商人が安泰になるために明礬の鉱掘権を獲得するなど、自身の支持を確固とするために赤字覚悟で政治を行ってきました(1471年ヴォルテッラ暴動事件など)。

 つまり、ロレンツォの政治はロレンツォの人格と外交を均衡するバランス感覚があったからできたものであり、逆に言うとロレンツォでなくはできないような政治に体制にもなっていたようです。

 ですから、確かに判断力なども欠けていたのはあるのでしょうが、ロレンツォの死後、後継者となったピエロは多くの借金を引き継ぎ、その借金問題で周りの諸国とひと悶着が起こり、更に今までなかった未曽有の自体フランスのイタリア侵入を迎えるなど、到底並みの人ではどうにもならない試練に立たされることになったのです。

 でも、そんなロレンツォだったからこそ、彼の人生とそれに関わった人々を調べると非常にその時代が分かるキーマンとなっています。

 その辺を踏まえWikipedia の記事を大幅に加筆(2020.6月)したので、もしよかったらそれを踏まえてロレンツォを分析してみてください。

Wikipedia「ロレンツォ」はこちらをクリック。

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