産業革命は、啓蒙思想の理想「知性による進歩」を夢見て始まりました。
「産業革命」とは、多くは第一次産業革命(1760年頃~1840年頃)である「燃焼(石炭)」の革命を指します。
第一次産業革命を一本の流れで表すなら、「石炭 → コークス → 鉄 → 蒸気機関 → 工場 → 鉄道」です。「石炭からコークスを作り、コークスによる製鉄で大量の鉄が得られるようになり、その鉄を使ってバーミンガムにおいてボールトンとワットが蒸気機関を改良し、その動力が製鉄業やマンチェスターの紡績業や、後の鉄道を支えた」という流れです。
そして何より第一次産業革命の核心は、「鉄 → 蒸気機関 → 石炭 → 鉄」という好循環が回り始めたことです。石炭からコークスを作り精度の良い鉄を作れるようになったからこそ、その精度の良い鉄を巧みな技術で使って蒸気機関を改良する。そして、蒸気機関が改良されることでその動力を使い、炭鉱から効率よく石炭を採掘できるようなり、また効率よく製鉄加工ができるようになった。そしてその大量の鉄を使って…というような循環が続いていったことが第一次産業革命の革新なのです。技術の進歩した製鉄技術は高い温度で安定的に良質の鉄を製造できるようになり、鉄は商品であり生産技術でも役立ったのです。紡績工場への応用はその次の段階でした。
また重要なのは、産業革命とは啓蒙主義時代のモノであり、フランス啓蒙の代表的な成果 としてはフランス革命、アメリカ啓蒙の代表的な成果 としてはアメリカ独立、イギリス啓蒙の代表的な成果 としては「産業革命」と位置づけられるものだということです。啓蒙主義の出発点そのものは、「人間は理性を使えば世界を理解できる」という考えから始まり、「その知識で現実の技術や産業を改良できるのではないか」という帰結として結実したものがイギリスにおいては「産業革命」だったのです。
そのため、産業革命による大量生産は「職人の創造性を奪った」「画一的な製品を生んだ」「労働を単調にした」と批判されがちですが産業革命の起点ともいえる蒸気機関を改良して大量生産の起点を作った人々は、「科学を利用すればもっと美しいものが作れる」「技術を利用すればもっと品質の良いものが作れる」「工場を利用すればそれをより多くの人へ届けられる」と啓蒙思想らしい「知性による進歩」を願って始められたものでした。
本記事では、産業革命の起点ともなる蒸気機関の改良をジェームズ・ワットをプロデュースして行ったマシュー・ボールトンの生涯を辿りながら、イギリス産業革命における啓蒙思想的視点を読んでいこうと思います。
ⅰ.鉄の都バーミンガム
18世紀初頭のイギリスのバーミンガムは鉄工業が盛んな地域でした。近隣で膨大な埋蔵量をもつ炭鉱が利用できたことに加え、製鉄の燃料を木炭からコークスへ転換(1709年、エイブラハム・ダービーは木炭の代わりにコークスを用いて高炉で鉄を製造することに成功)したことで、鉄をより安価に生産できるようになったためです。
コークスは石炭を酸素が遮断した状態で加熱して作られる燃料で、揮発成分が除かれて炭素を多く含みます。そのため石炭よりも安定して高温を維持しやすく、また強度が高いため高炉の中で高く積み上げられてもつぶれにくいことが特徴です。さらに高炉内ではコークスから生じた一酸化炭素が、酸化鉄である鉄鉱石から酸素を奪い、鉄を取り出す還元剤としても働きます。このためコークスは製鉄に極めて適した燃料でした。コークスによる製鉄は、木炭不足という資源問題を解決するとともに、鉄を安価かつ大量に生産できるようにして、産業革命を支える基盤を築いたのです。
マシュー・ボールトン(1728-1809)は、そんな鉄の都・バーミンガムで1728年金属加工業を営む父トーマス・ボールトンのもとに生まれました。父の工場は当初、靴や衣服に使うバックルなどの金属製品を製造する比較的小規模な工房でしたが、18世紀前半の需要拡大に伴って成長していきました。
若いボールトンは、金属の性質や加工法・鉄や真鍮などの材料の扱い・製品の設計や装飾・工場経営や商売を父の事業の中で学びました。ボールトンは、単なる製鉄技術者として育ったわけではなく、「金属を大量に加工し、高品質な製品として販売する製造業者・経営者」としての技能を身につけていったのです。
ⅱ.ルナ協会:イギリス啓蒙の産業面での最も象徴的な実践例
1757年、ボールトンはチャールズ・ダーウィンの祖父エラズムス・ダーウィンと知り合いました。エラズマス・ダーウィンはイングランド屈指の名医として知られていました。
18世紀半ばのバーミンガムでは、単なる職人と学者の境界が今ほど明確ではありませんでした。マシュー・ボールトンは鉄や真鍮を加工する製造業者でしたが、良い製品を作るには、金属の性質・熱の利用方法・燃料の改良・鉱石や鉱物の知識・機械の設計などへの理解が必要でした。一方、エラズマス・ダーウィンは医師でしたが、当時の医学は現代のような専門分化が進んでおらず、化学・植物学・生理学・地質学・工学まで含めて自然全体を研究する学問でした。そのため二人は非常に気が合いました。ただし、「共同研究者」というよりは、科学・技術について議論し実験を行う知的仲間でした。
彼らは定期的に集まり、電気の実験・鉱物や化石の観察・新しい機械の検討・蒸気機関の改良可能性などについて語り合いました。
ボールトンとエラズマス・ダーウィンが知り合った1757年頃には、すでにニューコメン蒸気機関(1712年 Thomas Newcomen が実用的な蒸気機関を開発)が50年近く使われていました。ただし、この時代の蒸気機関は主に炭鉱の排水・鉱山の揚水に使われる巨大で燃費の悪い機械でした。
そして1758年、アメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリンもその研究会に参加しています。7年戦争が起こる中、フランス軍やインディアン勢力が脅威なのでアメリカにあるいくつかのイギリス植民地同士が協力して防衛や外交を行うべきだと主張したフランクリン(当時はイギリス協調派で後に独立派に)はイギリス本政府に交渉し1757年から植民地ペンシルベニアの代理人としてロンドン(イギリス)に派遣されていました。有名な凧を使った雷の実験(1752年)などにより科学的方面でも評価されていて王立協会(1756年にフェローに選抜されている)などを訪れ、更にこのマシュー・ボールトンとエラズムスの共同研究から始まったサークルに訪れたのです。
ボールトンとエラズマス・ダーウィンの出会いは、単なる友情にとどまらず、「科学知識を産業や社会の改良に役立てようとする啓蒙時代の流れ」を体現するものでした。そして、その交流が発展して後のルナー・ソサエティにつながり、「科学 → 技術 → 産業」を結び付けるネットワークが形成され、そこからワットの蒸気機関の事業化などが生まれていきます。
イギリスの啓蒙主義を一言でいうと、「理性と経験によって自然や社会を理解し、それを実際の生活や産業の改善に役立てようとする思想」です。イギリス啓蒙主義の源流は17世紀のアイザック・ニュートンやジョン・ロックにあります。彼らは、「自然は法則によって動いている」「人間は理性によってその法則を理解できる」「権威や伝統だけを信じるべきではない」と考えました。ところがイギリスでは、1688年の名誉革命後、政治が比較的安定していました。そのためフランスのように「王政を倒そう」という方向より、知識を使って世界を改良しようという方向へ進みました。
特に重要なのは、イギリス啓蒙主義では「知識は役に立ってこそ価値がある」という意識が非常に強かったことです。例えば、フランクリンは電気研究を避雷針に応用した。ワットは熱の理解を蒸気機関に応用した。ボールトンは科学的知識を工場経営に応用した。プリーストリーは化学研究を工業や医学に応用しようとした。…こうした姿勢が産業革命につながりました。
ⅲ.啓蒙的理想を掲げた産業革命
その後、1759年マシュー・ボールトンの父が亡くなり、マシュー・ボールトンは工場の経営者となり、トイ製品(鉄の細工)に本腰を入れます。そして翌年に王位を継ぐこととなるジョージ3世の剣の特注を受けるまでになりました。一方、エラズマス・ダーウィンもジョージ三世(George III:在位1760~1820年)から王室侍医になるよう招かれました(しかし、その招待を辞退してます)。
その後ボールトンは、トイ製品の加工に特化したソーホー工場の建設に取り掛かり、1765年に落成しました。上流向けには鉄製の、一般向けにはシュフィールド・プレート加工の食器類を作る製造計画を持っていいました。また、ソーホー工場の隣にソーホー・ハウスを作り、自宅であると共に親類などの従業員が住める社宅のようなものを作りました。このソーホー・ハウスでもエラズムスらとの研究サークルを開くようになり、当時陶磁器の新しい技法で有名になりつつあったウェッジウッドなども誘い、後には「ルナ協会(ソサエアティ)」に発展します。因みに、ウェッジウッドはソーホー工場に影響を受け、ステフォードシャーのエトルリア陶器工場の新設を構想しています(翌年ジョージ3世の王妃シャーロットの御用達となり特徴的な肌色を使った陶器を「クィーンズ・ウェア」と公式に認められる)。
その後、ボールトンは科学的知識を製造現場へ導入する方向へバーミンガムに誘致したり、さらに上流階級に装飾を施した大壺が流行したのにのっかり1770年にはジョージ3世の王妃シャーロットの注文を受けました。また後にこの大壺ブームが下火になったころロシア女帝エカチェリーナ2世はフランスのオルモル(この装飾大壺ブームはフランスのオルモルから始まっている)より優れた良品で値ごろだとしてボーツトンの製品を大量に購入したようです。エカチェリーナ2世の発注は、単なる注文ではなく、「イギリス工業製品がフランス高級工芸品と競争できるレベルに達した」ことの象徴として見るのがよいでしょう。
ボールトンやウェッジウッドは、拡大する国際市場に向けて「高品質な製品を安定して大量供給できる企業」になりつつあったのです。ジョージ3世の王妃シャーロット・ロシア皇帝エカチェリーナ2世の注文は、「イギリス工業製品がヨーロッパ最高級市場で通用する」ことを示す広告塔の役割を果たしました。現代で言えば、王室や国家元首があるブランドを採用するようなものです。
実はこの時点ではまだワットの蒸気機関事業は始まっていません。多くの人は、ボールトン = ワットの相棒と理解しますが、実際にはボールトン自身がすでに産業革命的人物だったのです。ソーホー工場を建設する・分業体制を整える・品質管理を重視する・デザインを重視する・広域市場を狙う・王室や海外市場へ輸出する・科学者や実業家の知識交流を促すということを1760年代には始めています。これはまさに「理性によって生産を改善する」という啓蒙主義的発想です(当時のフリドリヒ大王・エカチェリーナ2世・フリドリヒ大王など啓蒙専制君主は知性によって行政改革をしている)。だから歴史的には、ボールトンはまず「工場システム」を発明し、その後でワットと組んで「動力革命」を加えたと見ることもできます。
さらに、ここで重要なのがボールトンもウェッジウッドも、単に物を作る職人ではなく、「啓蒙時代の実業家」でした。彼らは、「科学→技術→高品質な製品→市場」という流れを作ろうとしていました。だからソーホー工場とエトルリア工場は、単なる工場ではなく、「科学・技術・デザインを統合して高付加価値製品を作る近代工場」だったと言えます。
歴史家ではない一般の人は、「産業革命 → ワット → 蒸気機関 → 工場」という線で見がちで(100年くらい後ウィリアム・モリスらによって批判されたような)「工業化=美の破壊」に繋がったと考えがちですが、産業革命の起点とも入れるボールトンたちの世代はそうは考えていませんでした。むしろ逆です。彼らは、「科学を利用すればもっと美しいものが作れる」「技術を利用すればもっと品質の良いものが作れる」「工場を利用すればそれをより多くの人へ届けられる」と考えていました。
ところが100年後になると状況が変わります。ボールトンの時代はまだ熟練工・技術者・発明家・実業家がかなり近い距離にいました。しかし19世紀後半になると、巨大工場・国際市場・激しい価格競争が進みます。すると企業の関心は、品質向上よりもコスト削減へ向かいがちになります。ここでモリスが登場します。モリスから見ると、産業革命は「職人の創造性を奪った」「醜い製品を生んだ」「労働を単調にした」ように見えました。だからモリスによっては「中世職人的な美と誇りを取り戻そう」と主張されることになったのです。そして、その兆しは意外と早く1800年前後には現実の工場社会には既にずれが生じ紡績の都・マンチェスターにおいてローバート・オーウェンらが問題視し始めいわゆる空想社会主義が唱えられ、その後同じくマンチェスターにおいても問題視されマルクスやモリスに繋がっていったのです。
ⅳ.国際市場の拡大と動力革命
1775年、マシュー・ボールトンとエラズムス・ダーウィンの共同研究から研究サークルの幹事のような事をしていたウィリアム・スモールが死去します。そのため、この研究サークルはソーホー・ハウスをメインとして満月(ルナ)の夜に開催されるものになり「ルナ・ソサエティ」ともメンバーの中で呼ばれるようになっていました。
一方、1775年ボールトンはワット式蒸気機関(今まで蒸気による圧力で膨張し、冷水で収縮を行っていたシリンダーを、蒸気がにげて水にもどる復水器を搭載することで効率的にシリンダーを動かす)を開発して会社を興そうとしていたワットを、ようやく説得して自身の工場に呼び寄せた年でもありました。
ワットはもともとスコットランド出身ですが、18歳の頃ロンドンに1年科学機器を学びにいき、スコットランドで起業しようとするもギルドの反対に会い、1756年グラスゴー大学の論理哲学の教授になっていたアダム・スミスなどの助けを借り(この3年後に『道徳感情論』を出版するなど道徳哲学の活動がメインだったがこの頃からギルドの閉鎖的で、利益を独占する制度に批判的であったため協力)、大学内で科学機器の製造と修理の工場を開きました。その後、蒸気機関に関する新しい発明をしてグラスゴー大学で工房の設立以来友人となっていたジョセフ・ブラック(グラスゴー大学医学教授)や鉄工業を営んでいたローバック(スコットランドの実業家・医師)などの支援を受けて起業していました。しかし、上手く行かず(シリンダーを均等な幅にすることが当時の技術ではできなかった。)運河建設の測量技師をしたりしていたのだが、ローバックの会社が破産したため、マシュー・ボールトンが引き継いだのです。
マシュー・ボールトンのソーホー工場での技術ならワットの発明を現実的な装置として実現でき(ジョン・ウィルキンソンが大砲の製法から学び均等な幅のシリンダーを作れるようになっていた)、最初は鉱山で地下のわき水をくみあげるのに次々と使われていたが、1781年にはピストンの往復運動を回転運動にかえることに成功し用途が広がるようになりました。1794年にはボールトン・アンド・ワット会社が設立され、1774年の「機械輸出禁止令」によりイギリス内の機械が保護されたのも助かり(一部解除は1825年でそれにより他国でようやく産業革命が始まる)、産業革命は進んでいきます。
ただ、マシュー・ボールトンがワットを招いたのは1775年で翌年にはアメリカ独立戦争が始まっています。そこには「ルナ・ソサエティ」に参加していたベンジャミン・フランクリンや、ウェッジウッドの紹介で「ルナ・ソサエティ」に参加していたプリーストリーなどもアメリカに行って革命の一員として迎えられるなど、マシュー・ボールトンのソーホー・ハウスで行われた「ルナ・ソサエティ」はアカデミックな繋がりによって産業革命だけでなく幅広い展開を作り出しています(ただし、「ルナ・ソサエティ」自身はマシュー・ボールトンがワットとの共同事業で忙しくなってからフェードアウトしていく)。
ボールトンの蒸気機関の改良による成功やアメリカ独立戦争に大きく関わることになる「七年戦争(1756~1763)」は、「世界初の世界大戦」と呼ばれることがあります。戦場はヨーロッパ・北アメリカ・インド・カリブ海に広がりました。特に本質は、イギリス(プロイセンが味方)とフランス(オーストリアのマリアテレジア、ロシアのエカチェリーナ2世が味方)が世界帝国の座を争った戦争でした。
この戦争でイギリスを勝利に導いたのがWilliam Pitt the Elder(大ピット)です。彼は、陸軍はプロイセン(フリードリヒ大王)に任せる、イギリスは海軍と植民地戦争に集中するという戦略を採りました。その結果、カナダ・インドでフランスを圧倒します。つまり、大ピットは「イギリス帝国」の設計者とも言える人物です。
1760年にGeorge IIIが即位します。若い国王だったジョージ3世は、大政治家が国を動かすのではなく、国王も政治の主導権を持ちたい、と考えました。1761年、大ピットはスペインが参戦する前に先制攻撃すべきだ、と主張します。しかし国王や閣僚は反対。結果として大ピットは辞職します。ここは重要で、ジョージ3世が大ピットを辞めさせたのは事実上戦争中です。一見すると、大ピットを辞めさせたら負けそうですが、実際には大ピットが作った戦略は既に動いていました。そのため1763年、イギリスは勝利します。
その結果、カナダ獲得・インド支配強化に成功します。イギリスは史上最大級の植民地帝国へ成長しました。ところが勝利には代償がありました。莫大な戦費です。政府は戦争で借金だらけになりました。そこでロンドン政府は考えます。アメリカ植民地を守るために戦ったのだから、植民地側も費用を負担すべきでは?と。
そこで砂糖法・印紙法・タウンゼント諸法などの課税政策が行われます。ところが植民地側は反発します。代表的人物がBenjamin Franklinです。フランクリンは当初、独立派ではありませんでした。むしろイギリス帝国の一員として対話したい、と考えていました。しかし本国政府は聞き入れません。
ここで啓蒙思想が入ってきます。ロック以来の「政府の正当性は人民の同意にある」という考え方です。すると植民地人は、「代表を議会に送れないのに課税されるのはおかしい」と主張します。有名な「No taxation without representation(代表なくして課税なし)」です。
1775年アメリカ独立戦争開始→1776年独立宣言→1783年イギリス敗北という流れになります。
以上が7年戦争からイギリスの勝利アメリカの独立に繋がる流れでしたが、7年戦争はフリードリヒ大王(プロイセン)・マリア・テレジア(オーストリア)・エカチェリーナ2世(ロシア)、いずれも「啓蒙専制君主」と呼ばれる君主が参戦し、「啓蒙専制君主」は「理性や科学を重視し国家を近代化したい」という啓蒙時代の君主たちでした。つまり彼らは、「王様の勘や伝統で国を動かす」から「データ・官僚・教育・科学を活用して国を動かす」へ向かったのです。(30年戦争の宗教への疲弊とともに)ニュートンらの科学革命の成功によって「理性を使えば自然だけでなく社会も改善できる」という自信が生まれた時代です。
そして、アメリカ独立宣言とほぼ同じ時期にボールトンはワットとともに蒸気機関の改良を進めています。これはアメリカ独立戦争はイギリスが7年戦争で疲弊した戦費を課税で補おうとして起こったものですが、同時に7年戦争でイギリスは世界最大級の植民地帝国になり市場が拡大していたので、蒸気機関による大量生産を事業として成功させる条件があったのです。そしてボールトンやウェッジウッドは、拡大する国際市場に向けて「高品質な製品を安定して大量供給できる企業」になりつつあったといえるのです。ボールトンやウェッジウッドの成功は、王族相手の贅沢品商売というより、拡大するヨーロッパ市場に対して高品質な製品を安定供給できる近代的工業経営を実現したことにありました。ボールトンがワットの蒸気機関にこれがあれば、増大する市場需要に対してさらに大量かつ高品質に生産できると見抜いたのです。
1774年の「機械輸出禁止令」によりイギリス内の機械が保護されました。この法令が交付された理由としては「特に七年戦争後、イギリスは世界最大の商業国家(植民地国家)となり、市場があるのに『この技術優位を失ったら困る』と考えた」からです。当時のイギリスは、七年戦争でフランスを破る・北米やインドで優位を得る・海上貿易を支配することで巨大市場を持つようになりました。「植民地市場や世界市場はある。しかしその市場で勝ち続けるためには技術優位を守らなければならない。」という発想になったのです。この視点で見ると、産業革命は「蒸気機関の発明の歴史」というより、「拡大する世界市場に応えるために、生産を合理化していった歴史」として見えてきます。
バーミンガムの産業革命
「産業革命」とは、第一次産業革命(1760年頃~1840年頃)である「燃焼(石炭)」の革命と、第二次産業革命は「電気」の革命(1870年頃~1914年頃)を示すことが多いです。特に単に「産業革命」と言うと第一次のみのことを示すことも多いです。
第一次産業革命を一本の流れで表すなら、「石炭 → コークス → 鉄 → 蒸気機関 → 工場 → 鉄道」です。「石炭からコークスを作り、コークスによる製鉄で大量の鉄が得られるようになり、その鉄を使ってバーミンガムにおいてボールトンとワットが蒸気機関を改良し、その動力が製鉄業やマンチェスターの紡績業や、後の鉄道を支えた」という流れです。
そして何より第一次産業革命の核心は、「鉄 → 蒸気機関 → 石炭 → 鉄」という好循環が回り始めたことです。石炭からコークスを作り精度の良い鉄を作れるようになったからこそ、その精度の良い鉄を巧みな技術で使って蒸気機関を改良する。そして、蒸気機関が改良されることでその動力を使い、炭鉱から効率よく石炭を採掘できるようなり、また効率よく製鉄加工ができるようになった。そしてその大量の鉄を使って…というような循環が続いていったことが第一次産業革命の革新なのです。技術の進歩した製鉄技術は高い温度で安定的に良質の鉄を製造できるようになり、鉄は商品であり生産技術でも役立ったのです。紡績工場への応用はその次の段階でした。
また重要なのは、産業革命とは啓蒙主義時代のモノであり、フランス啓蒙の代表的な成果 としてはフランス革命、アメリカ啓蒙の代表的な成果 としてはアメリカ独立、イギリス啓蒙の代表的な成果 としては「産業革命」と位置づけられるものだということです。啓蒙主義の出発点そのものは、「人間は理性を使えば世界を理解できる」という考えから始まり、「その知識で現実の技術や産業を改良できるのではないか」という帰結として結実したものだということです。
【マシュー・ボールトン】
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ⅰ.鉄の都バーミンガム
18世紀初頭のイギリスのバーミンガムは鉄工業が盛んな地域であった。近隣で膨大な埋蔵量をもつ炭鉱が利用できたことに加え、製鉄の燃料を木炭からコークスへ転換(1709年、エイブラハム・ダービーは木炭の代わりにコークスを用いて高炉で鉄を製造することに成功)したことで、鉄をより安価に生産できるようになった。コークスは石炭を酸素を遮断した状態で加熱して作られる燃料で、揮発成分が除かれて炭素を多く含む。そのため石炭よりも安定して高温を維持しやすく、また強度が高いため高炉の中で高く積み上げられてもつぶれにくい。さらに高炉内ではコークスから生じた一酸化炭素が、酸化鉄である鉄鉱石から酸素を奪い、鉄を取り出す還元剤としても働く。このためコークスは製鉄に極めて適した燃料であった。コークスによる製鉄は、木炭不足という資源問題を解決するとともに、鉄を安価かつ大量に生産できるようにして、産業革命を支える基盤を築いた。
マシュー・ボールトン(1728-1809)は、1728年バーミンガムで金属加工業を営む父トーマス・ボールトンのもとに生まれました。父の工場は当初、靴や衣服に使うバックルなどの金属製品を製造する比較的小規模な工房でしたが、18世紀前半の需要拡大に伴って成長していきました。
若いボールトンは、金属の性質や加工法・鉄や真鍮などの材料の扱い・製品の設計や装飾・工場経営や商売を父の事業の中で学びました。ボールトンは、単なる製鉄技術者として育ったわけではなく、「金属を大量に加工し、高品質な製品として販売する製造業者・経営者」としての技能を身につけていったのです。
ⅱ.ルナ協会:イギリス啓蒙の産業面での最も象徴的な実践例
そこで、1757年、そんな中、チャールズ・ダーウィンの祖父エラズムス・ダーウィンと知り合った。
エラズマス・ダーウィンはイングランド屈指の名医として知られた。そして、マシュー・ボールトンの母親が患者であったという。またマシュー・ボールトンの友人を通して知り合ったとも言われる。
18世紀半ばのバーミンガムでは、単なる職人と学者の境界が今ほど明確ではありませんでした。マシュー・ボールトンは鉄や真鍮を加工する製造業者でしたが、良い製品を作るには、金属の性質・熱の利用方法・燃料の改良・鉱石や鉱物の知識・機械の設計などへの理解が必要でした。一方、エラズマス・ダーウィンは医師でしたが、当時の医学は現代のような専門分化が進んでおらず、化学・植物学・生理学・地質学・工学まで含めて自然全体を研究する学問でした。そのため二人は非常に気が合いました。ただし、「共同研究者」というよりは、科学・技術について議論し実験を行う知的仲間でした。
彼らは定期的に集まり、電気の実験・鉱物や化石の観察・新しい機械の検討・蒸気機関の改良可能性などについて語り合いました。
ボールトンとエラズマス・ダーウィンが知り合った1757年頃には、すでにニューコメン蒸気機関(1712年 Thomas Newcomen が実用的な蒸気機関を開発)が50年近く使われていました。ただし、この時代の蒸気機関は主に炭鉱の排水・鉱山の揚水に使われる巨大で燃費の悪い機械でした。
そして1758年、アメリカ建国の父ベンジャミン・フランクリンもその研究会に参加する。アメリカにおいて印刷業で成功してから学術方向などで社会活動をしていて、フレンチ・インディアン戦争や、植民地の待遇改善を要求するために1757年から植民地ペンシルベニアの代理人としてロンドン(イギリス)に派遣されていた。有名な凧を使った雷の実験(1752年)などにより科学的方面でも評価されていて王立協会などを訪れ、更にこのマシュー・ボールトンとエラズムスの共同研究から始まったサークルに訪れたのだ。
ボールトンとエラズマス・ダーウィンの出会いは、単なる友情にとどまらず、「科学知識を産業や社会の改良に役立てようとする啓蒙時代の流れ」を体現するものだった。そして、その交流が発展して後のルナー・ソサエティにつながり、
「科学 → 技術 → 産業」を結び付けるネットワークが形成され、そこからワットの蒸気機関の事業化などが生まれていったのです。
これはまさに啓蒙時代の精神です。
イギリスの啓蒙主義を一言でいうと、「理性と経験によって自然や社会を理解し、それを実際の生活や産業の改善に役立てようとする思想」です。
イギリス啓蒙主義の源流は17世紀のアイザック・ニュートンやジョン・ロックにあります。彼らは、「自然は法則によって動いている」「人間は理性によってその法則を理解できる」「権威や伝統だけを信じるべきではない」と考えました。
ところがイギリスでは、1688年の名誉革命後、政治が比較的安定していました。そのためフランスのように「王政を倒そう」という方向より、知識を使って世界を改良しようという方向へ進みました。
特に重要なのは、イギリス啓蒙主義では「知識は役に立ってこそ価値がある」という意識が非常に強かったことです。例えば、フランクリンは電気研究を避雷針に応用した。ワットは熱の理解を蒸気機関に応用した。ボールトンは科学的知識を工場経営に応用した。プリーストリーは化学研究を工業や医学に応用しようとした。…こうした姿勢が産業革命につながりました。
ⅲ.啓蒙的理想を掲げた産業革命
その後、1759年マシュー・ボールトンの父が亡くなり、マシュー・ボールトンは工場の経営者となり、トイ製品(鉄の細工)に本腰を入れる。そして翌年に王位を継ぐこととなるジョージ3世の剣の特注を受けるまでになる。一方、エラズマス・ダーウィンもジョージ三世(George III:在位1760~1820年)から王室侍医になるよう招かれた。しかし、その招待を辞退した。
その後ボールトンは、トイ製品の加工に特化したソーホー工場の建設に取り掛かり、1765年に落成する。上流向けには鉄製の、一般向けにはシュフィールド・プレート加工の食器類を作る製造計画を持っていた。また、ソーホー工場の隣にソーホー・ハウスを作り、自宅であると共に親類などの従業員が住める社宅のようなものを作る。このソーホー・ハウスでもエラズムスらとの研究サークルを開くようになり、当時陶磁器の新しい技法で有名になりつつあったウェッジウッドなども誘い、後には「ルナ協会(ソサエアティ)」に発展する。 因みに、ウェッジウッドはソーホー工場に影響を受け、ステフォードシャーのエトルリア陶器工場の新設を構想(また翌年ジョージ3世の王妃シャーロットの御用達となり特徴的な肌色を使った陶器を「クィーンズ・ウェア」と公式に認められる)。
その後、マシュー・ボールトンは科学的知識を製造現場へ導入する方向へバーミンガムに誘致したり、さらに上流階級に装飾を施した大壺が流行したのにのっかり1770年にはジョージ3世の王妃シャーロットの注文を受ける。
また後にこのブームが下火になったころロシア女帝エカチェリーナ2世はフランスのオルモル(この装飾大壺ブームはフランスのオルモルから始まっている)より優れた良品で値ごろだとして大量に購入したようです。エカチェリーナ2世の発注は、単なる注文ではなく、「イギリス工業製品がフランス高級工芸品と競争できるレベルに達した」ことの象徴として見るのがよいでしょう。
ただし、もし王妃シャーロットやエカチェリーナ2世の話を単なる「王様が良い壺を買いました」という話として読むと、本質を見失います。実際には、ボールトンやウェッジウッドは、拡大する国際市場に向けて「高品質な製品を安定して大量供給できる企業」になりつつあったのです。ジョージ3世の王妃シャーロット・ロシア皇帝エカチェリーナ2世の注文は、単なる贅沢品の購入ではありません。むしろ「イギリス工業製品がヨーロッパ最高級市場で通用する」ことを示す広告塔の役割を果たしました。現代で言えば、王室や国家元首があるブランドを採用するようなものです。多くの人は、ボールトン = ワットの相棒と理解しますが、実際にはボールトン自身がすでに産業革命的人物だったのです。ソーホー工場を建設する・分業体制を整える・品質管理を重視する・デザインを重視する・広域市場を狙う・王室や海外市場へ輸出する・科学者や実業家の知識交流を促すということを1760年代には始めています。これはまさに「理性によって生産を改善する」という啓蒙主義的発想です(当時のフリドリヒ大王・エカチェリーナ2世・フリドリヒ大王など啓蒙専制君主は知性によって行政改革をしている)。実はこの時点ではまだワットの蒸気機関事業は始まっていません。だから歴史的には、ボールトンはまず「工場システム」を発明し、その後でワットと組んで「動力革命」を加えたと見ることもできます。
さらに、ここで重要なのがボールトンもウェッジウッドも、単に物を作る職人ではなく、「啓蒙時代の実業家」でした。彼らは、「科学→技術→高品質な製品→市場」という流れを作ろうとしていました。だからソーホー工場とエトルリア工場は、単なる工場ではなく、「科学・技術・デザインを統合して高付加価値製品を作る近代工場」だったと言えます。
歴史家ではない一般の人は、「産業革命 → ワット → 蒸気機関 → 工場」という線で見がちですが、産業革命の起点とも入れるボールトンたちの世代は、(100年くらい後ウィリアム・モリスらによって批判されたような)「工業化=美の破壊」とは考えていませんでした。むしろ逆です。彼らは、「科学を利用すればもっと美しいものが作れる」「技術を利用すればもっと品質の良いものが作れる」「工場を利用すればそれをより多くの人へ届けられる」と考えていました。
ところが100年後になると状況が変わります。ボールトンの時代はまだ熟練工・技術者・発明家・実業家がかなり近い距離にいました。しかし19世紀後半になると、巨大工場・国際市場・激しい価格競争が進みます。すると企業の関心は、品質向上よりもコスト削減へ向かいがちになります。ここでモリスが登場します。モリスから見ると、産業革命は「職人の創造性を奪った」「醜い製品を生んだ」「労働を単調にした」ように見えました。だからモリスによっては「中世職人的な美と誇りを取り戻そう」と主張されることになったのです。そして、その兆しは意外と早く1800年前後には現実の工場社会には既にずれが生じ紡績の都・マンチェスターにおいてローバート・オーウェンらが問題視し始めいわゆる空想社会主義が唱えられ、その後同じくマンチェスターにおいても問題視されマルクスやモリスに繋がっていったのです。
ⅳ.ジェームズ・ワットとの共同事業
1775年、マシュー・ボールトンとエラズムス・ダーウィンの共同研究から研究サークルの幹事のような事をしていたウィリアム・スモールが死去する。そのため、この研究サークルはソーホー・ハウスをメインとして満月(ルナ)の夜に開催されるものになり「ルナ・ソサエティ」とも呼ばれるようにメンバーの中で呼ばれるようになっていた。
一方、1775年はマシュー・ボールトンがソーホー工場を落成した辺りからワット式蒸気機関(今まで蒸気による圧力で膨張し、冷水で収縮を行っていたシリンダーを、蒸気がにげて水にもどる復水器を搭載することで効率的にシリンダーを動かす)を開発して会社を興そうとしていたワットを、ようやく説得して自身の工場に呼び寄せた年でもあった。
ワットはもともとスコットランド出身だが、18歳の頃ロンドンに1年科学機器を学びにいき、スコットランドで起業しようとするもギルドの反対に会い、1756年グラスゴー大学の論理哲学の教授になっていたアダム・スミスなどの助けを借り(この3年後に『道徳感情論』を出版するなど道徳哲学の活動がメインだったがこの頃からギルドの閉鎖的で、利益を独占する制度に批判的であったため協力)、大学内で科学機器の製造と修理の工場を開いた。その後、蒸気機関に関する新しい発明をしてグラスゴー大学で工房の設立以来友人となっていたジョセフ・ブラック(グラスゴー大学医学教授)や鉄工業を営んでいたローバック(スコットランドの実業家・医師)などの支援を受けて起業していた。しかし、上手く行かず(シリンダーを均等な幅にすることが当時の技術ではできなかった。)運河建設の測量技師をしたりしていたのだが、ローバックの会社が破産したため、マシュー・ボールトンが引き継いだのだ。
マシュー・ボールトンのソーホー工場での技術ならワットの発明を現実的な装置として実現でき(ジョン・ウィルキンソンが大砲の製法から学び均等な幅のシリンダーを作れるようになっていた)、最初は鉱山で地下のわき水をくみあげるのに次々と使われていたが、1781年にはピストンの往復運動を回転運動にかえることに成功し用途が広がるようになる。1794年にはボールトン・アンド・ワット会社が設立され、1774年の「機械輸出禁止令」によりイギリス内の機械が保護されたのも助かり(一部解除は1825年でそれにより他国でようやく産業革命が始まる)、産業革命は進んでいく。
ただ、マシュー・ボールトンがワットを招いたのは1775年で翌年にはアメリカ独立戦争が始まっている。そこには「ルナ・ソサエティ」に参加していたベンジャミン・フランクリンや、ウェッジウッドの紹介で「ルナ・ソサエティ」に参加していたプリーストリーなどもアメリカに行って革命の一員として迎えられるなど、マシュー・ボールトンのソーホー・ハウスで行われた「ルナ・ソサエティ」はアカデミックな繋がりによって産業革命だけでなく幅広い展開を作り出している(ただし、「ルナ・ソサエティ」自身はマシュー・ボールトンがワットとの共同事業で忙しくなってからフェードアウトしていく)。
七年戦争(1756~1763)は、「世界初の世界大戦」と呼ばれることがあります。戦場はヨーロッパ・北アメリカ・インド・カリブ海に広がりました。特に本質は、イギリス(プロイセンが味方)とフランス(オーストリアのマリアテレジア、ロシアのエカチェリーナ2世が味方)が世界帝国の座を争った戦争でした。
この戦争でイギリスを勝利に導いたのがWilliam Pitt the Elder(大ピット)です。彼は、陸軍はプロイセン(フリードリヒ大王)に任せる、イギリスは海軍と植民地戦争に集中するという戦略を採りました。その結果、カナダ・インドでフランスを圧倒します。つまり、大ピットは「イギリス帝国」の設計者とも言える人物です。
1760年にGeorge IIIが即位します。若い国王だったジョージ3世は、大政治家が国を動かすのではなく、国王も政治の主導権を持ちたい、と考えました。1761年、大ピットはスペインが参戦する前に先制攻撃すべきだ、と主張します。しかし国王や閣僚は反対。結果として大ピットは辞職します。ここは重要で、ジョージ3世が大ピットを辞めさせたのは事実上戦争中です。一見すると、大ピットを辞めさせたら負けそうですが、実際には大ピットが作った戦略は既に動いていました。そのため1763年、イギリスは勝利します。
その結果、カナダ獲得・インド支配強化に成功します。イギリスは史上最大級の植民地帝国へ成長しました。ところが勝利には代償がありました。莫大な戦費です。政府は戦争で借金だらけになりました。そこでロンドン政府は考えます。アメリカ植民地を守るために戦ったのだから、植民地側も費用を負担すべきでは?と。
そこで砂糖法・印紙法・タウンゼント諸法などの課税政策が行われます。ところが植民地側は反発します。代表的人物がBenjamin Franklinです。フランクリンは当初、独立派ではありませんでした。むしろイギリス帝国の一員として対話したい、と考えていました。しかし本国政府は聞き入れません。
ここで啓蒙思想が入ってきます。ロック以来の「政府の正当性は人民の同意にある」という考え方です。すると植民地人は、「代表を議会に送れないのに課税されるのはおかしい」と主張します。有名な「No taxation without representation(代表なくして課税なし)」です。
1775年アメリカ独立戦争開始→1776年独立宣言→1783年イギリス敗北という流れになります。
以上が7年戦争からイギリスの勝利アメリカの独立に繋がる流れでしたが、7年戦争はフリードリヒ大王(プロイセン)・マリア・テレジア(オーストリア)・エカチェリーナ2世(ロシア)、いずれも「啓蒙専制君主」と呼ばれる君主が参戦し、「啓蒙専制君主」は「理性や科学を重視し国家を近代化したい」という啓蒙時代の君主たちでした。つまり彼らは、「王様の勘や伝統で国を動かす」から「データ・官僚・教育・科学を活用して国を動かす」へ向かったのです。(30年戦争の宗教への疲弊とともに)ニュートンらの科学革命の成功によって「理性を使えば自然だけでなく社会も改善できる」という自信が生まれた時代です。
そして、アメリカ独立宣言とほぼ同じ時期にボールトンはワットとともに蒸気機関の改良を進めています。これはアメリカ独立戦争はイギリスが7年戦争で疲弊した戦費を課税で補おうとして起こったものですが、同時に7年戦争でイギリスは世界最大級の植民地帝国になり市場が拡大していたので、蒸気機関による大量生産を事業として成功させる条件があったのです。そしてボールトンやウェッジウッドは、拡大する国際市場に向けて「高品質な製品を安定して大量供給できる企業」になりつつあったといえるのです。ボールトンやウェッジウッドの成功は、王族相手の贅沢品商売というより、拡大するヨーロッパ市場に対して高品質な製品を安定供給できる近代的工業経営を実現したことにあった。ボールトンがワットの蒸気機関にこれがあれば、増大する市場需要に対してさらに大量かつ高品質に生産できると見抜いたのです。
1774年の「機械輸出禁止令」によりイギリス内の機械が保護された この律令が交付された理由としては「特に七年戦争後、イギリスは世界最大の商業国家(植民地国家)となり、市場があるのに『この技術優位を失ったら困る』と考えた」からです。当時のイギリスは、七年戦争でフランスを破る・北米やインドで優位を得る・海上貿易を支配することで巨大市場を持つようになりました。「植民地市場や世界市場はある。しかしその市場で勝ち続けるためには技術優位を守らなければならない。」という発想になったのです。この視点で見ると、産業革命は「蒸気機関の発明の歴史」というより、「拡大する世界市場に応えるために、生産を合理化していった歴史」として見えてきます。
