仏教は、いまでは世界宗教の一つとして広く知られている。しかしその始まりをたどると、そこには紀元前5世紀頃のインド社会を生きた一人の人間、ゴータマ・ブッダの現実的な問いがある。人はなぜ苦しむのか。その苦しみはどこから生まれるのか。そして、どうすればその苦しみから離れることができるのか。

この記事では、初期仏教の哲学を出発点に、ブッダの生涯、当時のインド社会、さらに同時代のギリシアや中国の思想状況までを見ていく。単なる宗教史ではなく、「同じ時代に、人類は何を考え始めていたのか」という視点から、初期仏教を眺めてみたい。

目次
1章.苦しみを見つめる思想としての初期仏教

2章.ブッダの生涯と古代インド
①十六大国と新しい思想の時代
②出家――バラモン教の枠を超える決断
③修行と悟り――苦行から中道へ
④マガダ国とコーサラ国――仏教を支えた政治的背景

3章.同じ時代、西洋と東洋では何が起きていたのか
①ギリシア——神話から論理へ
②中国——乱世の中で秩序を問う
まとめ——初期仏教は、現実の苦しみへの応答だった
参考文献

1章.苦しみを見つめる思想としての初期仏教

仏教は、紀元前5世紀頃の古代インドで、釈迦が悟りを開き、その教えを説いたことから始まった。初期仏教の中心にあるのは、人生の苦しみを直視し、その原因を煩悩や執着に見いだす姿勢である。

釈迦の教えは、苦しみをただ悲観するものではない。むしろ、苦しみには原因があり、その原因を見きわめ、取り除くための実践がある、という非常に現実的な教えであった。その基本が、四諦、八正道、そして戒・定・慧の三学である。

四諦は苦しみの原因と解決を示したもので、八正道はその四諦の最後の実践の部分を具体化したものである。そして、三学は八正道を3つにまとめたものである。

詳しくいうと四諦とは、人生には老い・病・死などの苦しみがあるという苦諦、その苦しみには欲望や執着という原因があるという集諦、その原因をなくせば苦しみは消えるという滅諦、そして苦しみをなくすための実践の道があるという道諦から成る。

八正道は、その道諦を具体化した修行法である。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定から成り、ものの見方、考え方、言葉、行動、生活、努力、気づき、集中を整えていく道である。

この八正道を三つにまとめると、戒・定・慧になる。戒は正しい生活と行動を整えること、定は心を落ち着け集中すること、慧は物事を正しく見抜く智慧である。つまり、行いを整え、心を静め、そのうえで真理を理解していくという流れである。

お釈迦様は、人間の苦しみや悩みがどこから生まれるのかを追究した結果、その根源は心の中にある煩悩、すなわち無明にあると悟った。ここで重要なのは、初期仏教が抽象的な存在論争よりも、現実に人間を苦しめているものをどう克服するかに重点を置いた点である。

当時のバラモン教では、人間の不幸は魂の位の低さによるものとされ、輪廻転生を繰り返す中で精進していけば、やがて救われると考えられていた。しかし釈迦は、そのような伝統的な修行法に満足せず、アートマンや自我の問題に深入りするよりも、苦しみの原因と解決という現実的な問題に向き合った(死後の世界を考えることよりも現実に生きることを重視したエピクロスと繋がる面もある)。

法とは、不変の真理である。釈迦が発見した普遍の真理の核心は、人生の苦しみや不幸は外から一方的に襲ってくるものではなく、自分の内側でも作られているということであった。そして、それを作り出すのが煩悩の作用であり、この煩悩を見つめ、コントロールしていけば、もっと楽に生きていけるということである。

2章.ブッダが生きたインド——十六大国と新しい思想の時代

ブッダが生きた紀元前6〜5世紀頃のインドは、大きな変化の時代だった。ガンジス川流域を中心に都市国家が発展し、十六大国と呼ばれる王国や共和国が並び立っていた。中でもマガダ、コーサラ、ヴァンサ、アヴァンティの四国は勢力を拡大し、政治・経済の中心となっていく。

この時代の背景には、アーリヤ人の進出、ヴェーダ文献の成立、バラモン階級の台頭、そしてウパニシャッド哲学の形成がある。神々への祭祀を担うバラモンが宗教的権威を持つ一方で、祭祀主義への批判も強まり、真理を思索によって探究する人々が現れた。

ウパニシャッドでは、宇宙原理ブラフマンと個人の本質アートマンが同一であるという梵我一如の思想が説かれた。また、人間の魂は不滅であり、死後も再び生まれ変わるという輪廻、そして生前の行いが来世を決めるという業の思想も広まっていた。

①出家——バラモン教の枠を越える決断

ゴータマは、シャカ族の王子として生まれたと伝えられる。シャカ族は現在のネパール南部、ヒマラヤ山脈のふもとにあった小国であり、十六大国には数えられない規模の国であった。王族であるゴータマは、カースト制の中ではクシャトリヤ、すなわち政治・軍事を担う階級に位置していた。

しかし、当時の宗教活動の中心はバラモンであり、クシャトリヤには宗教的な修行の自由が制限される側面があった。特に修行の旅に出ることは、クシャトリヤとしての職務を放棄することでもあった。ゴータマが妻子、地位、財産を捨てて出家したことは、単なる個人的決断ではなく、当時の社会秩序に対する大きな越境でもあった。

出家のきっかけとして有名なのが四門出遊である。王子が城の外に出たとき、老人、病人、死者の葬列、そして気高い修行者に出会い、老・病・死という人間に避けがたい現実を知ったという伝承である。これは史実そのものというより、ブッダの問題意識を象徴的に示す物語として読むことができる。

釈迦の生没年については諸説ある。伝統的には紀元前566年頃から紀元前486年頃、あるいは紀元前563年頃から紀元前483年頃とされることが多いが、研究上は幅がある。いずれにしても、紀元前6〜5世紀のインドにおいて、都市の発展、商工業の拡大、バラモン教への批判、新しい思想家たちの登場という大きな時代の転換点に生きていたことは確かである。

②修行と悟り——苦行から中道へ

出家後、ブッダはマガダ国に入り、六〜七年にわたる厳しい修行を行った。マガダ国は、当時の北インドで最も繁栄した大国の一つであり、首都ラージャグリハ、すなわち王舎城は宗教・思想活動の中心地であった。多くの沙門、思想家、修行者が集まり、真理を探究していた。

ブッダはアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタから高度な禅定を学んだとされる。しかし、それらの瞑想体験も究極の悟りには至らないと判断し、さらに厳しい苦行へと進んだ。けれども、極端な苦行もまた解脱への道ではないと気づく。

ここで生まれたのが中道の考え方である。快楽にふけることでも、肉体を極端に痛めつけることでもなく、心身を整え、正しくものを見る道である。ブッダは従来の無益な禁欲を捨て、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想し、悟りを開いたと伝えられる。

悟りの後、釈迦は当初、この高度で抽象的な教えは人々には理解されないのではないかと考えたという。しかし梵天の勧請により、世に教えを説くことを決意した。サールナートの鹿野苑で、かつて共に修行した五人の比丘に最初の説法を行った。これが初転法輪である。

③マガダ国とコーサラ国——仏教を支えた政治的背景

ブッダの活動において重要だったのが、マガダ国との関係である。マガダ国王ビンビサーラは、ブッダの教えに深く感銘を受け、教団の支援者となった。彼は教団のために竹林精舎を寄進し、仏教が社会的に認められる大きなきっかけを作った。

竹林精舎は、古代インドのマガダ国の首都ラージャグリハ近郊に建立された、仏教史上最初の精舎とされる。雨季の間、出家者たちが定住して修行する場として機能し、仏教教団の重要な拠点となった。

一方で、マガダ王家には悲劇もあった。アジャータシャトルは、父ビンビサーラを幽閉し死に追いやったと伝えられる。この「王舎城の悲劇」は、人間の業と因縁、エゴの恐ろしさを示す物語として仏典に取り上げられている。アジャータシャトルは後に釈迦の教えに帰依し、在家信徒として教団を支援した。

もう一つの重要な拠点が、コーサラ国の祇園精舎である。マガダ国でブッダの説法を聞いた富豪スダッタ長者は、自国にもブッダの教えを広めたいと願い、王子ジェータから土地を譲り受けて祇園精舎を建立した。

コーサラ国王プラセーナジットもまた、ブッダの教えに帰依した王の一人である。マガダのビンビサーラ王と並び、仏教を保護した二大庇護者として知られる。仏教が支配層に受け入れられたことは、北インドに教えが広がるうえで大きな意味を持った。

祇園精舎の寄進者が商人であったことも興味深い。不殺生を説き、人間の平等を重んじ、戦争に反対する仏教は、交易を生業とする商人層にとって受け入れやすい思想であった。仏教は単に王権に支えられたのではなく、新興の都市社会や商人層にも支えられて広がっていったのである。

しかし、コーサラ国の後継者ビドゥーダバ王は釈迦族を滅ぼしたと伝えられる。ブッダはこの戦いを止めようとしたが、悲劇を防ぐことはできなかった。やがてコーサラ国そのものも勢力を失い、マガダ国に併合されていく。

祇園精舎という名前は、日本では『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」によって広く知られている。古代インドの布教拠点であった祇園精舎は、日本文化の中では無常を象徴する言葉としても生き続けている。

3章.同じ時代、世界では何が起きていたのか

ブッダが生きた紀元前6〜5世紀は、インドだけでなく、世界各地で思想が大きく動いた時代でもある。ギリシアではターレスやピタゴラスが自然や数の原理を探究し、中国では孔子が礼と仁による秩序の回復を説いていた。

①ギリシア——神話から論理へ

ターレスは、万物の根源を「水」と考えたことで知られる。彼の重要性は、その答えが現代科学から見て正しいかどうかではなく、自然現象を神話ではなく観察と推論によって説明しようとした点にある。これは、神話的思考から合理的思考への転換であった。

ターレスが生きたイオニア地方は、エーゲ海に面した交易の拠点であり、エジプト、メソポタミア、ペルシアなどの高度な文明と接触する場所でもあった。交易と交流の中で、多様な知識が集まり、自然を合理的に考える土壌が育った。

ピタゴラスは、万物は数であると唱え、数学、音楽、宇宙の調和を結びつけた。ピタゴラス学派は単なる学問集団ではなく、魂の不滅や輪廻、禁欲生活を重視する宗教的共同体でもあった。ここには、インド思想との類似や影響の可能性も指摘されている(おそらく高度な文明と当時されていたインドのバラモン教的魂の不死の考えがエーゲ海面した交易などで伝わったと考えれる)。

ただし、ブッダが中道を説いたのに対し、ピタゴラス教団は禁欲的な規律を重視した。両者はいずれも魂や生の問題に向き合ったが、その向き合い方には違いがある。初期仏教は、現実の苦しみを解決するための実践として、極端な快楽と苦行のどちらにも偏らない道を選んだ。

同じ頃、アケメネス朝ペルシア帝国はインダス川流域のガンダーラ地方にまで領土を広げていた。ダレイオス1世の時代、ペルシア帝国は西ではギリシア世界と衝突し、東ではインド西北部にも影響を及ぼした。ブッダの時代のインドは、決して閉じた世界ではなく、ユーラシア規模の大きな動きの中にあった。

ペルシア戦争後のギリシアでは、アテネとスパルタの対立がペロポネソス戦争へと発展する。ソクラテス、プラトン、アリストテレスへと続くギリシア哲学は、こうした政治的混乱と都市国家の盛衰の中で展開していった。

②中国——乱世の中で秩序を問う

中国では、孔子が紀元前551年頃に生まれ、紀元前479年に亡くなったとされる。これはブッダの時代と大きく重なる。孔子が生きたのは春秋時代の終盤であり、周王朝の権威が衰え、諸侯が互いに勢力争いを繰り広げた戦乱の時代であった。

孔子は、この混乱した時代に、礼と仁による秩序の回復を目指した。インドでブッダが個人の苦しみと解脱を問うたのに対し、中国の孔子は、社会秩序と人間関係のあり方を問うたと言える。

同じ春秋戦国時代には、孫子、老子、墨子、韓非子、孟子など、いわゆる諸子百家が登場した。群雄割拠の時代だったからこそ、各国の君主はすぐれた思想家や実務家を求めた。自分の説を論理的に示し、政治を動かす力を持つ思想が必要とされたのである。

ここで興味深いのは、インド、ギリシア、中国のいずれにおいても、従来の神話的・儀礼的な世界観を超えて、人間の生き方、社会のあり方、世界の根本原理を理性的に問う動きが生まれていたことである。

まとめ——初期仏教は、現実の苦しみへの応答だった

初期仏教の魅力は、非常に現実的なところにある。釈迦は、世界の始まりや魂の永遠性についての抽象的な論争に深く入り込むのではなく、人はなぜ苦しむのか、その苦しみをどうすれば減らせるのかを問い続けた。

その答えが、四諦、八正道、戒・定・慧である。苦しみを見つめ、原因を知り、執着を少しずつ手放し、言葉や行動や心の使い方を整えていく。そこには、現代の私たちにも通じる実践的な知恵がある。

ブッダが生きた時代は、都市が発展し、商人が力を持ち、古い宗教的権威が揺らぎ、新しい思想が各地で生まれた時代だった。インドでは仏教とジャイナ教が、ギリシアでは自然哲学が、中国では儒家や諸子百家が登場した。初期仏教は、そうした世界史的な思想の転換期の中で、人間の苦しみに向き合った思想だったのである。

参考文献

  • 『空海は、すごい』苫米地英人、PHP研究所、2014年
  • 『煩悩の教科書』荒了寛・苫米地英人、集英社インターナショナル、2013年
  • 『世界宗教思想史論集』大川周明、書肆心水、2012年
  • 『教養としての仏教思想史』木村清孝、筑摩書房、2021年
  • 『一冊でわかるインド史』水島司、河出書房、2021年
  • 『人類5000年史Ⅰ-紀元前の世界』出口治明、筑摩書房、2017年
  • 『死の講義-しんだらどうなるか、自分で決めなさい』橋爪大三郎、ダイヤモンド社、2020年
  • 『マンガおはなし数学史』中田紀夫、講談社、2000年

詳細版

初期仏教史

目次

  1章.初期仏教の哲学

  2章.ブッタの生涯

   [インド:16大国時代とペルシア帝国のガンダーラ地方支配]

   【生涯:BC566~BC486頃】

[29歳BC537バラモン教にとらわれない出家]

 クシャトリアの出家、平和と身分に捉われないは商人層の支持

 輪廻転生を抜け出す思想

   [35歳BC531マガダ王国との関係:霊鷲山の修行とビンサーラ王悲劇と竹林精舎]

   [修行から悟りまで:瞑想の意義、バッカ仙人・アラーラ・カーマラ]

   [コーサラ国との関係:祇園精舎と釈迦族の滅亡(70歳ころ)]

  3章.ブッタの時代と東洋と西洋

[西洋:BC499ペルシア戦争~BC431ペロポネソス戦争]

   [東洋:春秋戦国時代と孔子BC551-BC479]

1章.初期仏教の哲学

[苦しみの原因と修行法]

仏教は、紀元前5世紀頃の古代インドで釈迦が悟りを開き、その教えを説いたことから始まった。釈迦の教えは、人生の苦しみの原因を煩悩や執着に見いだし、それを克服するために戒・定・慧(三学)、四諦、八正道(※)などの実践を重視するものであった。釈迦の入滅後、弟子たちは教えと戒律を整理し、口伝によって伝えた。

※戒・定・慧、四諦、八正道は、釈迦の教えを理解するうえで重要な基本である。

戒・定・慧は、仏道修行を三つにまとめたもので、「戒」は悪い行いを避けて生活を整えること、「定」は心を落ち着けて集中すること、「慧」は物事を正しく見抜く智慧を意味する。つまり、行いを整え、心を静め、そのうえで真理を理解していくという流れである。

四諦は、人生の苦しみについて釈迦が説いた四つの真理である。第一に、人生には老い・病・死などの苦しみがあるという苦諦、第二に、その苦しみには欲望や執着という原因があるという集諦、第三に、その原因をなくせば苦しみは消えるという滅諦、第四に、苦しみをなくすための実践の道があるという道諦である。四諦は、苦しみをただ悲観する教えではなく、苦しみの原因を見つめ、それを乗り越える方法を示した教えである。

八正道は、その苦しみを減らすための具体的な実践であり、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定から成る。これは、正しくものを見ること、正しく考えること、正しく語り、正しく行動し、正しく生活し、正しく努力し、今の自分に気づき、心を正しく集中することを意味する。日々の考え方、言葉、行動、心の整え方を通して、煩悩や執着から少しずつ離れていく道である。

それぞれの関係としては四諦は「苦しみをどう理解するか」で、四諦の道諦を具体的修行法として説いたのが八正道。そして八正道を3つにまとめたのが「戒(正語・正業・正命)・定(正精進・正念・正定)・慧(正見・正思惟)」である。

お釈迦様は、人間の苦しみや悩みがどこから生まれるのかを追究した結果、その根源は私たちの心の中にある煩悩、すなわち無明にあるということを悟った。

バラモン教では、人間の不幸はその人の魂の位が低いからであって、輪廻転生を繰り返す中で精進し続けていけば、やがては救われると教える。釈迦はバラモン教の伝統的な修行法に満足せず、新しい道を模索した(つまりアートマンや自我の問題に積極的に関わらず苦しみの原因と解決と言う現実的な問題解決に徹した)。

初期の仏教においては、苦しみから脱却し、悟りを得るためには、出家して戒律にしたがった正しい生活をすることによって、煩悩の火を消していきなさいという。八正道は、出家者が守るべき生活のあり方である。

八正道は、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定から成る。

初期の仏教では、普通の人間はせいぜい「独覚」か「声聞」止まりだとされていた。独覚は、師によらず自然や縁起を観察して独自に悟る者であり、声聞は師からの教えや導きによって悟りを開く者である。

三学とは、釈迦によって示された仏道修行者が必ず修めるべき三つの基本的な修行項目であり、戒・定・慧をいう。戒学は戒によって身口意の三業を清らかにし、禅定に入りやすくする。定学は禅定を修めることで智慧を得る。慧学は智慧を修めることで煩悩が排され、解脱智見が得られる。

正念は、現在の瞬間に対する気づきや注意を意味する。八正道の一つであり、心を対象に集中し、過去や未来に囚われない心の働きを指す。正知は、行動や思考が適切かつ意識的であることを意味し、正念によって今何をしているかを明確に理解する力である。

法とは、不変の真理である。お釈迦様の発見した普遍の真理の核心とは、人生の苦しみや不幸は外から襲ってくるものではなく、自分の内側で作られているということであった。そして、それを作り出すのが煩悩の作用であり、この煩悩をコントロールしていけば、もっと楽に生きていけるということである。

[上座部仏教が伝える初期仏教の経典]

上座部仏教(※)は、釈迦が生きていた時代に使われていた言語に近いパーリ語でお経をあげる。初期仏典『スッタニパータ』は「ブッダのことば」として知られ、ブッダとの対話を通じて人間としての生き方が具体的に語られている。『ダンマパダ』は法句経であり、ブッダの言葉を集め、日常生活における倫理や行動についての教えが含まれる。「己こそ己のよるべ」も収録されている。仏典の中でも最も古い経典をベースにしているため、思想性が薄い反面、親しみやすい仏教である。

※上座部仏教は、釈迦の入滅後、仏教教団が分裂していく部派仏教の時代に成立した系統の一つである。戒律と初期の教えを重視する保守的な立場をとり、その流れはスリランカに伝わって発展し、現在もタイ、ミャンマー、スリランカなど東南アジアを中心に受け継がれている。

2章.ブッタの生涯

BC5~4頃 初期仏教・釈迦在世当時

釈迦は2500年ほど前(紀元前6~5世紀)に生まれました(BC563 ~483頃が有力)。また没年は諸説ありますが一般的で広く受け入れられているのは彼の没年を紀元前5世紀中頃から後半(約BC486年頃)とする説です。釈迦は生涯80歳で亡くなったとされ、その年代は伝統経典や歴史的推定により、紀元前6世紀から紀元前4世紀の範囲で様々な説が唱えられています。たとえば、南伝仏教経典に基づく説では紀元前544年、北伝仏教の一部説では紀元前486年頃が挙げられます。また、もっと古いBC600年代や遅い側のBC380年代を推定する研究者もいます。近年の考古学的発見では、少なくとも紀元前6世紀には仏教が成立していた可能性が示唆されているため、BC480年頃に没したというのは有力説の一つに含まれていますが、歴史的にはまだ議論が続いています。

ブッダは生きることを苦ととらえました。苦しみが生じる理由は、あらゆる存在は移り変わるもの(諸行無常)であるのに、それに気づかず何かに固執するためとします。この真理を知り、正しい認識と実践によって輪廻から解脱することを目標とし、そのために道徳な生き方や慈悲の尊さを説く教え。[i]

[当時のインド:16大国時代とペルシア帝国のガンダーラ地方支配]

 BC2000年頃インダス文明の諸都市が衰退し始めたころ、インド・ヨーロッパ語族に属するアーリヤ人がロシア南部コーカサス山脈の北方地帯とみられる場所から大移動して、インドに進出してきました。[ii]

 インド・ヨーロッパ語族は「インドからヨーロッパにかけて分布する言語のグループ」ということに由来し、ギリシア語とインド語(例えばサンスクリット語)のルーツであるヨーロッパ祖語を話した部族とされます。この時期に大規模な移動をはじめ、主に南東と西へ移動しました。南東においてはインド文化にに影響を与え、西においてはペルシア文化からギリシア文化まで影響を与えました。アーリヤ人がインダス川流域へ進出した際、その一帯を「シンドゥー」と呼び、この名前がペルシア(イラン)へ伝わると「ヒンドゥー」、さらにギリシアまで達すると「インドス」と呼ばれるようになり「インド」という言葉が生まれます。またこの「シンドゥー」が東方の中国の漢に伝わると「身毒」と表記され、のちの中国王朝では訛って「天竺」や「印度」とされます。

 アーリア人は長い間、神々に捧げる讃歌を口頭で伝えてきましたが、やがて、文字で書き表すようになりまとめられたのがインド最古の文献『リグ・ヴェーダ』(聖なる知識の讃歌)です。自然現象を神格化したもので最も重要視されたのが雷神・軍神「インドラ」(仏教に取り入れられると「帝釈天」)でした。神々は人間のような姿をしており、神専用の乗りもので大空を駆けるとされていました。シヴァが乳白色の牡牛を乗り物としていることから、牛は神聖な生きものとされています。聖なる火に供物を投じる儀式「ホーマ」はヒンドゥー教に受け継がれたほか、仏教の密教宗派である真言宗や天台宗の護摩法ともなりました。

 その後、農業を中心とした生活を営むようになったアーリヤ人にとって、インドの気候は豊かな実りをもたらす一方、時に干ばつや洪水などを引き起こす脅威でもあったため、神を祀る儀式(祭祀)が重要とされるようになり、地位を得た司祭階級は「バラモン」と呼ばれました。

 しかし後期ヴェーダの時代(BC1000年ごろから紀元前600年ごろ)、祭祀を行うだけのバラモンに対して批判の声があがります。すると、バラモンやクシャトリヤのなかに、思索によって真理を探究しようとする人々が現れ、ヴェーダ文献の一つである「ウパニシャッド(奥義書)」が成立しました。ウパニシャッドは「近くに座る」という意味で、師から弟子に伝承された秘密の教えを表します。この新しい思想は「ウパニシャッド哲学」と呼ばれ、インド哲学の源泉となっています。紀元前500年ごろまでにたくさんのウパニシャッドが編纂されました。そのなかの最も重要な思想は「梵我一如」の思想です。またこのことには、人間の魂は不滅であり、死んでも再び生まれ変わるという「サンサーラ(輪廻)」が信じられるようになっていました。来世で何に生まれ変わるかは生前の行い「カルマ(業)」によって決まり、善行を積んだ者はバラモンやクシャトリヤに、悪行をおかした者はシュードラや動物に生まれ変わるとされます。その一方で、梵我一如の真理を悟れば輪廻から解放される(解脱)と考えられました。[iii]

 

 暮らしが豊かになると、それにともって商工業が発達していきます。そうして人口が増えた集落は、城壁で囲まれた都市国家へと変わっていきました。

十六大国(マハージャナパダ)という古代インドで紀元前6世紀ごろに存在した16の大国(王国や都市国家)に分立していました。「ペルシア戦争の頃、インドでは、ガンジス川中・下流域を中心に、部族共和国や王国である十六大国(都市国家)が栄えていました」ともあります。[iv]これらはガンジス川流域を中心に発展し、当時の政治・経済の中心的存在でした。中でもマガダ、コーサラ、ヴァンサ、アヴァンティの4国は後に勢力を拡大し、「四大国」とも呼ばれています。​仏教が成立した原始インドの時代背景として、これら十六大国はブッダの教えが広まった地域であり、文化・経済・戦争の舞台として重要な位置を占めていました。特にマガダ国は鉄などの資源に恵まれ、戦車や投石機といった新兵器を用いた軍事力を背景に、国王であるビンビサーラの治世に強大になります。その後、競合国を次々に征服し(紀元前5世紀末から4世紀にかけてビンビサーラを殺害して王位に就いた息子のアジャーダシャトルがコーサラ国を軍事的に破り併合)、インド統一の中心(後のナンダ朝、マウリヤ朝といったインド統一国家の基盤を築きました)となったことで歴史的に重要です。

BC518年頃ペルシア戦争を始めたペルシア帝国のダレイオス大王(在位BC522~BC486年)はインダス川流域付近をインドの西側にある16大国の一つガンダーラ王国を支配しました。仏陀の生年をBC563年とすると出家した29歳はBC534年になり、悟りを開いた35歳はBC528年となり、コーサラ国王とあった40前後はBC523年前後となり、ダレイオス大王の支配は仏陀の45歳くらいとなります。一方インド東側(ガンジス川付近)にあったマガダ国のビンビサーラ王(在位BC546~494頃)とアジャータシャトル王(在位BC494~459頃)の父子二代に亘って、ライバルであったガンジス川上流域のコーサラ国を亡ぼす等領土を拡大しました[v]。ビンサーラ王がなくなる頃が仏陀が70歳頃の事で、コーサラ国のヴィデゥーダバ(仏陀と面会し仏教を保護したプラセーナジッドの次の王)が釈迦族を滅ぼしたのがそれより少し後で、ヴィデゥーダバ王の時代のうちにマガダ国にコーサラ国は併合されています。

[バラモン教にとらわれない出家]

 BC4世紀ごろ、ゴータマはシャカ族(現在のネパール南部・ヒマラヤ山脈ふもとにありました:16大国には数えられない小国)の王子として、王宮に生まれています。王は政治・軍事を担当するため、ゴータマはインドのカースト制のクシャトリヤに位置しました。

 一方、宗教活動はバラモンが基本的に中心になって行ったため、クシャトリヤは宗教活動を制限される部分がありました。特に修行の旅にでることは本来のクシャトリヤ階級の職務の放棄として禁止していました。そのため、ゴータマは修行の旅に出て真理を体得したかったため、妻も子どもも捨て、地位も財産も捨て、ただの修行者(ホームレスの青年)になりました。当時のカースト制を支配していたバラモン教(ヒンドゥー教の前身)は、クシャトリヤは現世ではクシャトリヤとして一生を送り、現世で修行することを諦め、来世を待つことを説いていたからです。ゴータマはバラモン教にとらわれない反逆の確信犯です。現世で修行をしてやる、と思い切ったゴータマは、輪廻を信じていたはずがありません。[vi]

[マガダ王国との関係]

 ブッダは出家後、マガダ国に入国し、6~7年にわたる厳しい苦行を行いました。

 マガダ国(現在のインド北東部にありました)は当時、インド北東部のガンジス川流域で最も繁栄した大国の一つで、首都ラージャグリハ(王舎城)は宗教・思想活動の中心地でした。多くの沙門(出家修行者)や思想家が集まり、ジャイナ教のマハーヴィーラ(ブッタより後年の人物)やアーラーラ・カーラーマ(ブッタに教えを授ける)など著名な師もこの地で教えを説いていました。ブッダは修行を志した際、「最先端の精神文化が集まる地」として自然にマガダを目指したと考えられています。王舎城の周囲には豊かな自然と五つの岩山(霊鷲山など)があり、瞑想や托鉢に適した環境が整っていた。都市にも近く、食物の供給が容易で、同時に静かな山林があったため、修行者に理想的な環境とされました。ブッダは世俗から距離を保ちながらも、教えを求める人々と接触できるこの地を選びました。ブッダの出生地であるカピラヴァストゥ(釈迦族の国)はコーサラ国(現在のインド北東部)の属国であり、出家はすでに王家の意志に反する行為であったため、コーサラの支配圏内では自由な修行活動が制限される可能性がありマガダ国を選んだ側面もあります。​また、マガダ国王ビンビサーラ(頻婆娑羅)は開明的で、出家者に寛容な政策を取っていたことで知られ、彼自身がブッダと出会ったのちに仏教を庇護しました。

マガダ国の一部であるブッダガヤにおいて悟りを開いた後、マガダ国の首都ラージャグリハ(王舎城)を訪れており、そこで当時のマガダ国王ビンビサーラと面会しています。​

ビンビサーラ王はブッダの教えに深く感銘を受け、彼を保護し、教団の支援者となりました。王は自身の領域内で仏教の布教を奨励し、教団のために「竹林精舎」(最初の僧院)を寄進するなど、仏教の発展に貢献しました。マガダ国王の帰依は仏教が政治的にも社会的にも認められ、大きく広まるきっかけの一つとなっています。​また、当時のインドは多くの小国が分立しており、マガダ国はその中でも特に強力な勢力でした。釈迦の教えがこの地域の支配層に受け入れられたことは、仏教が北インドを中心に広く広がる基盤となりました。

[修行から悟りまで]

紀元前5世紀には、ガンジス川平地で政治的・経済的な発展があり、クシャトリア階級は新たに生まれた都市の支配層となり、ヴァイシャ階級は経済発展に伴って富を蓄積し力を得た。世襲の祭祀階級であったバラモンは、諸神崇拝の祭祀・呪術を担っていたが、その祭祀主義は形式化し、それまでの権威を失っていた。世俗を離れて出家し、さまざまな新しい思想を展開する宗教者たちが現れ、彼らは沙門と呼ばれた。このような中で生まれたのが仏教とジャイナ教であり、開祖のブッダとマハーヴィーラはともにクシャトリア出身で、紀元前5世紀頃の人物である。

四門出遊では、王子が城の東門から出た時に老人に出会い、南門から出た時に病人に出会い、西門から出た時に死者の葬列に出会い、北門から出た時に気高い修行者と出会ったことが、出家の機縁であると伝えられている。老・病・死という人間に免れがたい現実を知り、人生の無常を痛感した。

出家の時の年齢は、多くの学者に従えば29歳である。王舎城の近くには、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラが住み、信奉者も多く、苦行者も多くいた。

『聖求経』はパーリ仏典経蔵中部第26経に収録され、釈迦が「聖なる探求」と「聖ならぬ探求」の違いを説き、自らの修行体験を語ったものである。この経典では、釈迦が出家後に師事したアーラーラ・カーラーマとウッダカ・ラーマプッタから学んだ禅定について述べる一方、これらが究極の悟りに至る道ではないと判断した経緯が記されている。また、後半には梵天勧請が描かれている。

バッカ仙人、アーラーラ・カーラーマからは瞑想の極意を教わりました。

 仏陀(釈迦)は説法(教え伝達)を「論」と「経」によって行い、その教義や真理を説きました。一方で瞑想は、その説法の教え(法)を実際に体験し、心を浄化し悟りに至る方法として位置づけられます。そのため、修行時代の瞑想の深まりも重要なものです。

[初転法輪]

自分自身でインド全土を歩いて、階級の別なく教えを説いていった。仏教の説話によれば、お釈迦様自身は菩提樹の下で悟りを開いたとき、このような高度で抽象的な教えは世の中の人には理解されまいから、自分一人であとは修行を続けていこうと思った。しかし、そこにインドの神である梵天が現れ、釈迦に「どうかその教えを衆生に伝えてください」とお願いした。そこで釈迦は考えを改め、立ち上がって世の中に法を広めようと考えたという。初めて行われた説法を「初転法輪」という。

仏教は当初、現実主義の立場に立って、ひたすら生存の苦の解決を目指し、インドにおける最大の哲学的問題ともいえる自我、すなわちアートマンをめぐる議論(※)などに積極的に関わることはなかった。

※当時のインド思想界では、永遠の自己であるアートマンが存在するのか、それが宇宙原理ブラフマンと同一なのか、死後にも残るのかといった問題が盛んに議論されていた。しかし初期仏教は、そうした抽象的な存在論争よりも、現実に人間を苦しめている欲望や執着をどう克服するかを重視した。そのため、釈迦はアートマンの有無をめぐる形而上学的論争には深入りせず、苦の原因を見つめ、それを滅する実践の道を説いた。初期仏教がアートマンや死後の自己をめぐる議論に深入りしなかった点は、エピクロスが死後の世界について思い悩むことを無益とし、現在の生を平静に生きることを重視した姿勢と似ている。ただし、エピクロスが主に死への恐怖を取り除くことを目的としたのに対し、初期仏教は死の恐怖だけでなく、欲望や執着によって生じる生存全体の苦を解決しようとした点に違いがある。

太子は、これらの師から正智解脱の道を学ぶことはできないと知り、マガダ国を遍歴し、尼連禅河のほとりに出て、優楼頻螺村の深林に入り、五従者とともに六年にわたって苦行を修した。その後、従来の無益な禁欲を捨て、仏陀伽耶に至り、菩提樹下に端坐冥想して大悟し、仏陀であるとの自覚を得た。ブッタガヤの菩提樹の下で悟り釈迦は悟りの後、ブラフマンの勧めによって布教を決意し(「梵天勧請」)、「初転法輪」として霊鷲山の鹿野苑で最初の教えを弟子たちに説きました。

「王舎城の悲劇」(ブッダ70歳頃)

 伝説によれば、アジャータシャトルは悪友デーヴァダッタに唆され、父ビンビサーラを七重の牢獄に幽閉し、臣下の面会も禁じて餓死させました。また、王妃ヴァイデーヒー(韋提希)も密かに父を救おうとした行為が知られ、彼女も幽閉されるなど家族の悲劇が繰り広げられました。​

この事件は『観無量寿経』などの仏典に取り上げられ、人間の業と因縁、エゴの恐ろしさを説くエピソードとして用いられています。ビンビサーラは牢獄の中でも仏教の教えに帰依し、精神的な平穏を保ちながら死去しました。

アジャータシャトル(阿闍世王)は、最初は釈迦の教えを受け入れていませんでした。伝説によれば、彼は父ビンビサーラ王を幽閉し殺害するなど悪行を重ね、その罪に苦しみました。しかし後に激しい頭痛などの苦悩を抱え、医師や釈迦の助言を受けるうちに仏教に帰依しました。​

アジャータシャトルは出家はしなかったものの、仏教の五戒を守る在家信徒(優婆塞)となり、教団の支援者として活動しました。彼は釈迦の教えにより精神的救済を得て、後に仏典の結集の際には重要な後援者となっています。

「竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)」は、古代インドのマガダ国の首都、王舎城(ラージャグリハ、現在のビハール州ラージギル)近郊に建立された仏教史上最初の精舎(僧院)です。​竹林精舎はもともと竹林で、釈迦(ブッダ)に帰依したマガダ国王ビンビサーラが土地を寄進し、長者カランダ(迦蘭陀)がそこに精舎を建てたと伝えられています。雨季の間、出家者たちが定住し修行する場として機能し、仏教教団の活動拠点の一つとなりました。​竹林精舎はブッダがしばしば滞在し、多くの説法を行った場所であり、有名な弟子サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)もここに加わったとされます。

「霊鷲山(りょうじゅせん)」は、インドのマガダ国の首都であった王舎城(現在のラージギル)の東北に位置する小高い山で、釈迦が晩年によく滞在し、多くの説法を行った場所です。山の名前は、山頂の岩が鷲(わし)のくちばしや姿に似ていることに由来するとされます。マガダ国の王ビンビサーラもこの山道を通い説法を聞きに訪れたと伝えられ、その山道はビンビサーラ・ロードとも呼ばれています。霊鷲山は仏教史上重要な霊跡で、長らく忘れられていたものの、1903年の大谷光瑞率いる調査隊によってその位置が特定され、考古学的にも承認されました。日本では霊鷲山は理想世界を象徴する「霊山浄土」としても知られています。

[コーサラ国と祇園精舎]

 マガダ国でブッダの説法を聞いて深く感銘を受けた富豪スダッタ長者(須達)が、「自国コーサラでもブッダの教えを広めたい」と願い、王舎城から帰国して舎衛城(コーサラ国の首都)に精舎を建てる準備を進めました。​彼は王子ジェータ(祇陀)から土地を譲り受け、祇園精舎(ジェータヴァナ)を建立しました。このとき国王プラセーナジットにも建立の意義を説明し、ブッダを舎衛城に招いたことが、両者が出会う直接の契機となった。舎衛城は当時、コーサラ国の最大都市であり同国の政治・経済の中心でした。プラセーナジット王は、マガダ国王ビンビサーラがすでにブッダを信奉していることを聞き、彼の教えに関心を持ったとされます。​当時、両国はしばしば戦争を繰り返していたが、王自身は倫理的・平和的な統治を志向し、ブッダの説く「慈悲と戒律」の教えを国家統治に取り入れる価値を見出しました。​ブッダと王の初対面(ブッダ40歳前後)は、舎衛城の祇園精舎での説法の場だったと伝えられます。王はブッダの精神的威厳に打たれて即座に帰依し、以後、王族とその家族(王妃マッリカー、王女ヴィジュダーなど)も仏教徒となりました。​プラセーナジット王は仏教を国家的に支援する最初の王の一人となり、マガダのビンビサーラ王と並ぶ二大庇護者として知られるようになりました。​

 また祇園精舎を寄進のきっかけとなったのが商人であったのは、バラモン階級が貴重な生産力である牛を殺し神々に供養していたのに対し不殺生を教義とする仏教(やジャイナ教)は支持されるものであり、さらに人間の平等を説き戦争に反対する仏教(やジャイナ教)は交易を生業とする商人にとって好都合であった点があるようです。[vii]

ただしプラセーナジット王の後継者ビドゥーダバ王(ヴィドゥーダバ)は、母が釈迦族出身であったことから屈辱を受け、報復として釈迦族を滅ぼした(仏陀70~77歳頃、入滅の数年前)と伝えられます。ブッダはこの戦いを止めようとし、王の進軍途中で「枯れ木の下に坐した」と伝説にある(枯れ木の下という選択は、滅びゆく血縁への哀悼とともに、「宿縁(業)」の不可避性を静かに受け入れた姿勢を示すものと解釈されてきました)が、結局この悲劇を防ぐことはできませんでした(「仏の顔も三度まで」の由来とも)。​釈迦族滅亡ののち、コーサラ国自体も勢力を失い、最終的に南東のマガダ国に併合されました。それでも、コーサラの都シュラーヴァスティーはブッダ生涯の主要な布教拠点として記録され続け、仏教史における最も重要な聖地の一つとなっています。

 日本文化において祇園精舎という名前は『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という有名なフレーズによって強く印象づけられ、京都の祇園地域の存在や八坂神社(祇園社)とも結びついています。これら歴史的・宗教的背景が祇園精舎を一般に知られた存在としました。祇園精舎は古代インドコーサラ国の舎衛城にあり、仏陀が活発に説法を行った代表的な布教拠点として知られていました。須達長者が建立し、多くの教えがここから発信されていたため、仏教における中心的な象徴とされたことが大きいです。​一方、竹林精舎はマガダ国のラージャグリハに位置し、こちらも釈迦の主要な滞在地で修行の地でしたが、建築は質素で遺跡も小規模であり、日本を含む東アジアでの文化的な浸透度は祇園精舎ほどではありませんでした。

3章.ブッタの時代の西洋と東洋

[ヨーロッパの時代背景:ピタゴラス ペルシア戦争~ペロポネソス戦争]

ピタゴラス(紀元前582年~496年頃:釈尊のBC566~BC486と近い)はサモス出身で、ターレス(紀元前624年頃〜紀元前546年頃)の弟子ともされます。彼は「万物は数である」と唱え、数論や幾何学、音楽の数学的法則を研究しました。ピタゴラス学派を組織し、数学的探求を宗教的教義と結びつけ、三平方の定理を含む多くの成果を残しました。

ターレスはギリシアの植民地イオニア(古代ギリシャの言葉で、小アジア(現在のトルコ西部)のエーゲ海沿岸一帯とその近くの島々を指す地域名)のミレトス出身でした。彼はサモス島で商業を営み、商用で西アジアやエジプトなどを往来していろいろ知識を持ち帰りました。[viii]エジプトやフェニキア、バビロニアなど地中海世界を訪れて学びつつ、商業を通じて財を成したと伝えられています。その経験が数学や測量、天文学の知識習得にも役立ち、自然現象の合理的な解明につながりました。

イオニア系ギリシア人とは、古代ギリシャの主要な部族の一つで、主に現在の小アジア(現トルコ西部)のエーゲ海沿岸地域に住んでいた人々を指します。彼らはギリシャ本土からエーゲ海へ移住し、特にアテナイ(アテネ)を中心に発展した民族です。イオニア人は独自の方言(イオニア方言)を話し、哲学や民主制、文化的な面で西洋文明の礎を築きました。アテナイがイオニア系のギリシャ人の移住出発点として中心的だったのは、地理的な位置も関係しています。アテナイ(古代アテネ)はギリシャ本土の東側に位置し、エーゲ海に面しているため、海路による移動がしやすく、他の多くのポリスに比べて東方への植民活動に有利でした。また、アテナイは港湾都市ピレウスを持ち、航海・交易の拠点として発展していたため、地中海・エーゲ海周辺への植民や交易を行いやすい立地条件が整っていました。これにより、イオニア地方をはじめとする東方への移住・植民が効率的に進められたと考えられます。

ミレトスはクレタ島(クレタ)からアナトリア西岸に移住したイオニア人と先住のカリア人が混在して成立した都市で、海上交易と航海技術に優れ繁栄を極め、イオニア学派と呼ばれる哲学者や科学者も輩出しました。ミレトスには様々なイオニア系ギリシャ人が移住してきており、ギリシャ本土のイオニア文化を受け継ぎながら、先住のカリア人とも共存・融合して都市が発展しました。ミレトスは単なる移住地以上に、イオニア人による交易と植民活動の拠点として重要な都市になりました。イオニア地方で学問が発展した背景には、地理的要因も大きく影響しています。イオニア地方はエーゲ海に面し、多くの港湾都市が存在したため、海上交易が盛んでさまざまな文化や知識の交流が活発に行われました。この地域はアジアとヨーロッパの交差点に位置し、エジプト、メソポタミア、ペルシアなど当時の高度文明とも接触がありました。こうした多様な文化や技術、情報の交流が学問や哲学の発展を促しました。さらに、イオニアのポリスは相対的に自由な都市国家で、市民の間で議論や研究が奨励される環境が整備されていたことも、学問の発展に寄与しています。こうした自由な思考環境と地理的な交流拠点の条件が重なり、イオニア学派という初期ギリシャ哲学の拠点が形成されました。

サモス島はエーゲ海に位置し、古代から海上交易で繁栄した重要なポリスでした。モス島もイオニア系ギリシャ人が移住し、ポリス(都市国家)を築いた場所です。この地域ももともと先住民族であるカーリア人などが住んでいましたが、イオニア系ギリシャ人の移住によって都市が発展し、独自の文化と政治体制が形成されました。

タレスが老婆にさとされた逸話は次のようなものです。あるときタレスは星を観察しながら歩いていて、足元の井戸に落ちてしまいました。そのときお供していた老婆に「タレスさま、あなたは遠くの星のことはわかっても、自分の足元のことは見えていないのですね」と笑われたと言われています。この話は、哲学者が高度な抽象的思考に没頭するあまり、身近な現実に注意を払わないという皮肉を表しており、ソクラテスも「愛知者(哲学者)はこのように笑われる」と述べています。

紀元前8世紀日食を予言したことで有名です。紀元前585年5月28日に起きた皆既日食を、古代ギリシャの哲学者タレスは予言したと伝えられています。この予言はヘロドトスの『歴史』にも記述されており、メディアとリュディアの両国が争っていた戦争を突然の暗闇(日食)によって中断させたとして有名です。

測量術はエジプトなどで高度に発達していましたが、なぜそれが正しいのかだれも証明していませんでした。それをターレスが証明して図形に「論理」を持ち込んで「学問」にしたのです(「幾何学」の創始、数学の祖)。なぜそのような論理的思考がここで出てきたかというとギリシア社会の民主制が関係していると思います。民衆の討論でものごとを決めるには聞く者を納得させれるように論理がしっかりしていなければならなかったのです。[ix]彼は、ピラミッドの影の長さと自分の影の長さを比べてピラミッドの高さを測る方法を考案し、有名な「タレスの定理」(半円に内接する角は直角である)など幾何学的な定理をいくつか証明しました。

初期のギリシャ哲学者、特にタレスは「万物の本質(アルケー)」や「自然の秩序」という問題に対して、神話や宗教的説明に頼らず、自然現象を合理的に説明しようとしました。

タレスは万物の根源を「水」と考え、すべてのものは水から成り生まれ、水に帰るとしました。これは自然の中で普遍的かつ経験的に理解可能な物質を根本原理とした初の試みであり、「神話的思考」から「科学的思考」への転換点となりました。タレスが「万物の根源は水である」と考えた理由は、彼の自然観察と生活経験に基づいています。まず、水はあらゆる生命に欠かせないものであり、古代人にも水の生命維持や育成の重要性は明白でした。水は液体の状態を変え、固体(氷)や気体(水蒸気)にもなり、多様な形で存在し変化していることが、万物が多様に変化する根源として水を考える動機となりました。また、ナイル川の氾濫のような自然現象を通じて、水が肥沃な土壌をもたらし、生命の育成に寄与することも彼の考えに影響しました。タレスは神話的な超自然の説明に頼らず、観察と経験から自然を合理的に説明しようとし、水の普遍性と変化の性質に着目したのです。この理論は現代の科学的知見とは異なりますが、全ての物事を統一的な原理から説明しようとする哲学的探究の出発点を示しています。この考えは、自然と宇宙の成り立ちを神話や伝説に頼らず、理性的・合理的に説明しようとした初めての試みであり、西洋哲学の起源とされます。タレス以前は、世界の成り立ちや自然の原理は主に宗教的・神話的に理解されていましたが、彼は観察や推論を通じて一つの原理に還元しようとしました。

他には、生命や自然の動きを単なる無生物の機械的な作用とは見ずに、物活論の立場から「万物には魂(生命)が宿っている」と考えました。磁石が鉄を引きつけるのも生命的な力によると見なすなど、生命の原理を物質の内部に求めたのです。タレスは物理現象にも魂があると考えていたと伝えられています。具体的には、無生物である磁石や琥珀が物を引きつける力を持つことから、「動かす力を持つもの」つまり魂の存在を認めていたと考えられています。彼は魂を物を動かす原理として捉え、すべてのものには神々が宿っている(パンタプレール・セオン=πάντα πλήρη θεών)という考え方から、宇宙全体にも魂が満ちているとみなしていました。この見方はアリストテレスや後の哲学者にも引き継がれ、魂は運動や変化の原因であるという思想の起点となりました。

ターレスが始めた幾何学はその弟子(厳密な師弟関係だったかは確証がなく議論されています)のマナクシマンドロスに学んだピタゴラスが発展させました。[x]ただしピタゴラスはアナクシマンドロスから学んだ可能性はあるものの、確実な史料は乏しく、思想的影響の面でつながりがあるというのが現代の通説です。

ピタゴラスはターレスがサモス島で活躍していたころ、そのサモス島で生まれました。

ピタゴラスはエジプトやバビロニアに留学し多くを学んだと伝えられており、その過程で間接的にインドやインド文化からの影響を受けた可能性は考えられます。インドの数学、特に「ピタゴラス数」に関連する三平方の定理が古代インドでも知られていたこともあり、文化や知識の交流はあったと推測されます。また彼の思想や教団の戒律、輪廻転生や不殺生の考え方には、インドの宗教的・哲学的影響が見られると指摘されています。ピタゴラスは魂は不死であり、肉体の死後も再生すると説き、この思想はインドのヴェーダ宗教やバラモン教の影響を受けた可能性があります。

ピタゴラスは長い放浪の旅を終えて故郷のサモス島に戻りましたが、ポリュクラテスの抑圧的な独裁支配下であり、学問や哲学の活動に適さない状況でした。

サモス島のヘラ神殿で三平方の定理を発見したといわれています。伝承によれば、神殿の床の幾何学的模様を見てこの定理の関係に気づいたとされ、ピタゴラスはこの発見を祝って牡牛の生け贄を捧げたとも言われています。ただし、三平方の定理自体はピタゴラス以前のバビロニアやエジプトで知られており、彼はこれを初めて論理的に証明し体系化した人物とされています。

のちに紀元前530年頃、ピタゴラスは宗教上(独裁的支配下で適さな状況)のことで島を追われギリシアの植民地だったイタリア南部クロトンに定住し、「ピタゴラス教団」を創設しました。

クロトンはギリシャ人の植民市でした。ギリシア本土から移住してきた人々によって建設されたギリシャ人の集落であり、政治的にはギリシア本土から独立した自治権を持つ自治都市でした。古代ギリシャでは、人口増加や資源不足などの理由から多くのポリスが地中海各地に植民活動を進め、多数の植民市をつくりました。南イタリアやシチリア島に展開した植民市群は「マグナ・グラエキア(大ギリシア)」と呼ばれます。ピタゴラスがクロトンを選んだ理由としては、クロトンが比較的自由に哲学的・宗教的な活動を行える場所だったことが大きな要因です。最終的にはピタゴラス学派の影響力が大きくなるにつれて市民の嫉妬や反発を招き、最終的には暴動によって教団は壊滅的な打撃を受けました。

ピタゴラス学派は、学派と言うよりも一種の宗教団体でした。魂の不滅を信じて魂の浄化のために禁欲主義(菜食主義など)をとっていました。学園も門には星形「五星芒形」が徽章です。ピタゴラスの唱えた「霊魂の不滅」は、当時のギリシア思想としては異例で独特なものでした。ピタゴラス教団では、魂の救済と浄化が中心的なテーマであり、数学や音楽による調和が霊魂を清める方法として重視されました。この霊魂不滅の教義は、後にプラトン哲学にも大きな影響を与えています。教団員は魂の浄化と輪廻の業からの解脱を目指し、徹底した節制と禁欲生活を守ることが求められました。たとえば、肉類の摂取は禁止され、特に豆(ソラマメ)には一切触れてはならないなどの独特な食事の戒律もありました。生活全般にわたる厳しい禁忌と精神的戒律を持ち、財産は教団に寄付し共有するなど、欲望を捨てて理性と調和を追及する生活が教義の中心でした(一方ブッタは中道を説いた)。こうした禁欲的な規律は、魂と肉体を切り離し、数学や音楽を通じて魂の調和と癒しをもたらすという思想に基づいていました。

五星芒形はピタゴラス教団においては人間の調和や健康、魂の浄化を象徴するシンボルでした。五星芒形は五元素や人体の各部分(頭、両腕、両脚)との関係を示し、宇宙の調和を体現するとされました。完璧な比例と調和の象徴として、教団の禁欲的かつ理想的な生活理念を示すものでした。

プラトンはBC388年頃(ピタゴラス死後約100年後、39歳の時にイタリアやシチリア島を旅し、この過程でピタゴラス派の学問や哲学に触れたと考えられており、数学や幾何学の深い知見、そして輪廻転生や魂の不滅といった思想を学び取ったとされています。プラトンが設立した学園「アカデメイア」も精神修養と学問の場として、ピタゴラス教団の秘教的な学問共同体の影響を受けています。「イデア」論もピタゴラスの「万物は数である」を発展させ、ピタゴラスが数学や数の調和を通じて宇宙の秩序や魂の浄化を説いたのに対し、プラトンはその根源的な調和を「イデア」として理論化しました。

ペルシア戦争とは、紀元前5世紀の約50年間にわたり、アケメネス朝ペルシア帝国とギリシアの都市国家(ポリス)連合軍との間で戦われた一連の戦争です。戦争の発端は、ペルシアの支配下にあったイオニア地方のギリシア人植民市がペルシアに反乱を起こし、これに本土のアテネやスパルタなどが援軍を送ったことにあります。また、ペルシア帝国の専制的支配に対するギリシア側の抵抗でもありました。戦争は主に三度の大きな遠征に分かれ、代表的な戦いには、前490年(ピタゴラス死後6年後)のマラトンの戦い(アテナイが活躍しリーダー格にこの報告がマラソンの語源になる)、前480年のテルモピュライ(テルモピレー)の戦い(ペルシア帝国のクセルクセス1世とスパルタの戦い)、サラミスの海戦などが含まれます。テルモピュライでは、スパルタ王レオニダス率いる300のスパルタ兵が多数のペルシア軍と戦い奮戦しました(映画『スリーハンドレッド』)。最終的にギリシアの連合軍はペルシア軍を退け、イオニア地方の独立を守りました。この戦争は、ギリシアの民主制の発展や文化の黄金時代の基盤を築いた重要な歴史的出来事です。

一方このペルシア戦争を始めたときのペルシア帝国のダレイオス大王(1世)はガンダーラ地方(インダス川流域)まで領土を広げています。このダレイオス大王が獲得したガンダーラ地方の領土はアレクサンダー大王の東方遠征まで続きます。

ペロポネソス戦争はペルシア戦争後に生じたポリス間の覇権争いであり、直接ペルシアの支配を退けたこと自体が戦争の原因ではありませんが、その結果生じた勢力のバランス変化が大きな背景となっています。

ソクラテスが従軍した「ペロポネソス戦争」(BC431-BC404)でギリシャの有力な都市国家アテネとスパルタ(およびその同盟国)との間の大規模な戦争です。ソクラテスの弟子アルキビアデスが提案したシケリア遠征(BC415年〜413年:シチリア半島)の失敗によりアテネ社会に深刻な衝撃を与え、民主制への信頼低下とソクラテスへの批判(弟子の行動が原因)を生む要因となりました。ペロポネソス戦争におけるアテネの転落の始まりとなり、最終的に紀元前404年にスパルタの勝利で戦争は終結します。​

プラトンの頃にはシチリア半島のスパルタの支配なども終わりプラトンが政治に関与。

アリストテレスは紀元前342年頃、マケドニア王ピリッポス2世の依頼により、13歳のアレクサンダー(のちのアレクサンダー大王)の家庭教師となりました。アレクサンダー大王の東方遠征後のポリス衰退はギリシャの政治的混乱を招き(ヘレニズム時代:エピクロスなど)、のちのローマ帝国による支配へとつながる歴史的な流れの一環となっています。

[東洋の時代背景:春秋戦国時代と孔子]

 紀元前5世紀ごろの日本は、弥生時代の中期から後期にあたります。この時代は稲作が普及し、農耕社会が形成された時期であり、集落が大きくなり、社会的な階層や貧富の差も生まれ始めました。

 孔子は一般に紀元前551年(あるいは前552年)に生まれ、紀元前479年に亡くなったとされています。彼の生地は現在の中国山東省曲阜(きょくふ)で、74歳で亡くなりました。孔子の時代は中国の春秋時代の終盤(春秋戦国時代を春秋時代と戦国時代に分けることがあり、両方とも周王朝の権威が衰え秦に繋がるまでの時代でありますが、春秋時代の方が比較的周の権威が残っていて儀礼などを重んじてた側面がありました)であり、この時代は紀元前770年から紀元前476年ごろまで続きました。春秋時代は周王朝の権威が衰え、諸侯(封建貴族)が互いに勢力争いを繰り広げた戦乱の時代でした。各地で独立した国が割拠し、政治的な混乱が続いた一方で、文化や思想面では儒教、道教、墨家などの多様な学派が生まれた時代でもあります(春秋戦国時代に活躍したのが諸子百家で、「子」は先生などの敬称で、孔子・老子・孫子・韓非子・孟子・墨子など「子」がつく名前はこの時代が多い)。

 諸子百家は、群雄割拠の時代だったため、すぐれた賢人たちにスジの通った政治をするため、自分の説がすぐれていることを論理的に示す必要があった賢人が求められたことが関係しました。[xi]

孔子はこの春秋末期に、秩序と倫理の回復を求めて儒教の基礎を築きました。孔子が生きた春秋時代は、周王朝の権威が衰えて諸侯が分立し競い合った動乱の時代であり、殷の終わりから続く周王朝の歴史の後半にあたります。

 春秋戦国時代末期は孫子が活躍した時代でもあります(BC6-5)。呉の国に奉仕。一方、孔子は魯国において教育活動を基本的に行いました。魯は山東半島にあり、呉は長江下流に位置してました。両国の関係は緊張と抗争が多く、呉は南方の新興勢力として台頭し、強力な軍事力を背景に魯を含む東方の諸国に影響を及ぼそうとしました。魯は周王室の正統を継ぐ地で礼儀や文化を重んじる伝統国でしたが、実際の政治力は弱く、呉のような新興勢力や周辺の国々と覇権を争う時代でした。

 孫子は呉の軍事的な発展に大きく貢献しました。呉王の信頼を得てBC512年に将軍に任じられ、呉軍の厳格な軍隊訓練を指揮しその軍事力を大いに向上させました。BC506柏挙の戦いでは少数の呉軍で大軍の楚軍を破り、楚の首都を陥落させました。その後も呉の国力拡大に寄与するものの呉王が威張り始めたことや政治の変化を嫌い、孫子はやがて退官し隠棲したと伝えられています。

 一方、孔子はBC551年に魯国で生まれ、BC510年に魯で私塾を開き、BC501-494年頃法務大臣(大司寇)として政治に関わるが政争に巻き込まれ失脚し魯を離れ、BC497-484魯を離れて諸国を巡遊し楚国などを訪問(ただし記録は曖昧)。BC484年に魯国に帰国し政治顧問や教育に専念してBC479年に亡くなりました。また春秋時代の魯国の史官が記録した年代記に、孔子が善悪の判断や道徳的な評価を加え編集した歴史書『春秋』が「春秋戦国時代」の由来です。

●参考文献

『空海は、すごい』            苫米地英人                2014.2.26               PHP研究所

『煩悩の教科書』荒了寛・苫米地英人                2013.03.31             集英社インターナショナル

『世界宗教思想史論集』    大川周明                2012.11.30             書肆心水

『教養としての仏教思想史』            木村清孝                2021.12.10             筑摩書房

『一冊でわかるインド史』水島司、2021、河出書房

『人類5000年史Ⅰ-紀元前の世界』出口治明、2017、筑摩書房

『死の講義-しんだらどうなるか、自分で決めなさい』橋爪大三郎、2020.9.29、ダイヤモンド社

『マンガおはなし数学史』中田紀夫 2000 講談社


[i] 『一冊でわかるインド史』水島司、2021、河出書房

[ii] 同上『一冊でわかるインド史』

[iii] 同上『一冊でわかるインド史』水島司、2021、河出書房

[iv] 『人類5000年史Ⅰ-紀元前の世界』出口治明、2017、筑摩書房

[v] 同上『人類5000年史』

[vi] 『死の講義-しんだらどうなるか、自分で決めなさい』橋爪大三郎、2020.9.29、ダイヤモンド社

[vii] 同上『人類5000年史』

[viii] 『マンガおはなし数学史』中田紀夫 2000 講談社

[ix] 同上『マンガおはなし数学史』

[x] 同上『マンガおはなし数学史』

[xi] 同上『マンガおはなし数学史』