脳はたくさんの神経細胞からできていて、その多くは「電気の信号」と「化学物質」を組み合わせて情報をやりとりしています。神経細胞は、ほかの神経から放出された化学物質を受け取ることでスイッチが入り、その細胞の中を電気信号が流れます。この電気信号が神経の端まで届くと、今度はその場所から新しい化学物質が放出され、それが次の神経細胞のスイッチになったり、筋肉や内臓など体の器官を動かすきっかけにもなります。(また、一部には化学物質を介さずに、神経同士が直接電気的につながって信号を伝える仕組みも存在します。)

 この脳の神経において情報のやり取りをしている「化学物質」を「神経伝達物質」と言います。ただ「神経伝達物質」というのは、脳以外の神経も含むことになるため、脳内で働く化学物質という側面を強調するため「脳内伝達物質」ともいわれます。

 この記事においては、この「脳内伝達物質」を知ることがどのように役に立つのか?という疑問を発見までの歴史とともに考えていこうというものです。

 「脳内伝達物質」は精神機能の土台を形作っていることは確かですが、精神のどのあたりまで「脳内伝達物質」で説明してよいのか分かっていないのも現状です。そのため、「脳内伝達物質」のそれぞれを説明されたところで、これは「脳内伝達物質」の性質で説明してよいのか、それとも他の精神機能によって説明するべきなのか、答えらえない部分があります。

 そのため、この記事においては、「脳内伝達物質」の発見史を簡単に辿ることで「心と脳をめぐる人間の理解が、試行錯誤しながら少しずつ変わってきた」というプロセスを学びつつ、「脳内伝達物質」の発見がどのような解釈を可能にしたのか、という視点から「脳内伝達物質」の実用性を考えていこうというものです。

それを知ることで、「脳内伝達物質」をそれぞれの性質を学ぶ際に腑に落ちやすくなると共に、「『心=脳内化学物質』という見方も歴史的に作られた一つのモデルなのだ」と相対化でき、自分の心の動きを考えるときに、生物学・心理・社会の複数レベルを意識し、限界と可能性を意識し柔軟に「脳内伝達物質」説を取り入れることができると思っています。

目次
はじめに:脳内伝達物質発見までの歴史概要
1章.古代ギリシア哲学は「人体」を「魂」から語る
2章.ダ・ヴィンチとデカルトは「人体」を「機械」と考える
3章.ガルバーニが神経を通るものは「電気」とした
4章.交感神経と副交感神経の発見が導いた「化学物質」
5章・パブロフの研究から閃き、脳でも「化学物質」が神経伝達物質と証明
6章.多様な伝達物質とシステムとしての脳

はじめに:脳内伝達物質発見までの歴史概要


 かつて古代ギリシアの時代には、神経には魂から作られる精気が流れ、その精気が肝臓から心臓を通り脳を経由して体を動かすと考えていました。

 しかし、時代が流れ解剖学の研究が進んだルネサンスの時代になるとその神秘的な解釈は違和感が出てきて、ついにデカルトは神経には単なる「生理的物質」が流れているにすぎないと、「機械的」に考えるようなってきました。

 そして、「機械的」に人体を考えた時その「生理的物質」とは実際には何なのか?という疑問が芽生えてきました。それに答えたのがフランス革命時代のイタリア人カルバーニです。カルバーニは当時研究が進み始めていた電気の見識を取り入れ、神経には「電気」が流れているとしたのです。
 その「電気」の解釈は1世紀以上支配的なもので、精神分析を創始する前のフロイトも神経の「電気」の量の変化から精神機能への影響を考えるモデルを作ったりもしています。

 ただフロイトもそうであったように、「電気」だけで神経の性質を考えるのは限界が来ていて、「電気」以外の「化学物質」も神経に関係するのではないかと考えられ始めていました。
 ちょうどその頃、ラングリーという人が当時までの見識を集めて「自律神経による二重支配」という概念を体系化しました。「自律神経」とは「交感神経」と「副交感神経」により神経はなり立っていて「効果器」の「オン・オフ」を司っていると考えたのです。この「オン・オフ」は「電気」の量でコントロールするのは難しいと考えたのであり、実際に「オン・オフ」に相当する「化学物質」である「アドレナリン系」と「アセチルコリン」が発見されました。

 しかし、この「化学物質」は末端神経だけ限定のモノで「脳」は依然として「電気」のみで機能してるのではないかという説が主流でした。そして、その説を打ち破ったのが「セロトニン」の発見でした。「セロトニン」は血清や腸動に関わるホルモンとして発見されていましたが、トワログという若手の女性研究者がパブロフの研究から閃きを得て、神経に関わる「化学物質」であり、さらには脳内でも機能するものであることを証明するのです。

 こうして、脳は「魂から作られる神秘的な精気」というものから機械的な「生理的物質」により動かされるということになり、その「生理的物質」とは「電気」と「多様な化学物質」(脳内伝達物質)によるものと考えられるようになったのです。

 もちろん、上記の歴史を見るように「生理的物質」とは時代が進むごとに色々見つかっていて今後も解明が続くと思います。そのため、「脳内伝達物質」ですべての精神機能を説明することはできません。
 ただ、「脳内伝達物質」で確実に語れるようになった部分もあるということです。だから、「精気的な」古代解釈とともに「電気」「脳内伝達物質」を総合しながら精神機能を論じてみることに得ることがあるのかもしれませんね。

以下では、上記の歴史をもう少し深掘りして論じます。興味を持った章を読んで下さいね。

1章.古代ギリシア哲学は「人体」を「魂」から語る

古代ギリシア・ローマ時代(1世紀辺り)のヒポクラテスやガレノスは神経を空洞の管とし、空気や液体のような「プネウマ」(生命気)が脳から流れ、筋肉を膨張させて動かすと信じていました。

この頃のヨーロッパでは当時高度な文明国であったインドの影響から、ピタゴラスやプラトンなどが「不滅の魂」という考え方を明確化し、それ以来ギリシア哲学の伝統とされていました。そして、古代の有名な医学者ガレノスは解剖学的・生理学的観察をもとに魂と体液と結びつけ医学を体系化しました。プネウマは自然霊気・生命霊気・心的霊気に分類され、肝臓から自然霊気が作られ、その自然霊気が心臓で生命霊気を生成した後、脳室で生命霊気が精製・活性化され心的霊気となり体液(特に血液)と結びついて神経系を介して身体を制御すると説明しました(ただし体液と結びつくのは心的霊気のみだけでなくプネウマすべてが体液と結びつき、特に身体を制御する体液となるのが心的霊気という考え)。

少し難しくなってしまいましたが、古代ギリシア・ローマ時代では「魂」と「身体」のかかわりと言う面から意識活動も説明しようとしたのです。この考えは中世においても大きな影響を及ぼしました。

2章.ダ・ヴィンチとデカルトは「人体」を「機械」と考える

 中世の終わりごろのルネサンス時代(15世紀ごろ)の絵画で有名なレオナルド・ダ・ヴィンチも基本的にはガレノスの考え方に影響されていました。ダ・ヴィンチは絵画を描く際に人間の筋肉や骨の構造など解剖的性質を考慮した上で作品を作っていました(美術解剖という分野があるほどです)。さらには画家以外にもカラクリ仕掛けの機械を作ることも仕事としていたため、人体の構造と機能との関係に深い興味がありました。

その興味はついに実際解剖することまでつながり、解剖により脳の構造を精査したのです。しかし、ガレノスの考えに基づき脳室を調べたものの、感覚器と結びつく神経は視床辺りにあることを発見し、感覚器が直接結びついていない脳室が生命の機能の中心ではないと結論づけ、これにより従来の「脳室が魂や生命気の座」という考えを否定しました。

このダ・ヴィンチの経験は、おそらく「神秘的な」人体を「機械的な」構造理解として解剖を行うと生じる違和感によるものであって、ダ・ヴィンチ後ヴェサリウスの解剖書などの登場などにより解剖が学術的に進められていくとこの違和感は強まったと思われます。

 このルネサンス解剖学全体(ダ・ヴィンチ含む)の影響を受けつつあったデカルトは、ガレノス由来の霊気概念を近代物理学に適合させることを目論み、魂の座を脳室ではなく松果体(小脳室付近)に移しました。具体的にはガレノスが魂から生成されるとしたプネウマ(霊気)を、生理学的・物理的な「動物精気」として機械論的に再解釈しました(さらに肝臓からよりも心臓中心で考えました)。つまり、プネウマ生成は魂由来の神秘的なものではなく、心臓を中心とした身体の生理的プロセスによって説明されるとしました。また魂(思考する精神、res cogitans)は非物質的実体として脳の松果体にのみ存在し、そこから動物精気を直接操作・制御するとしました。

 複雑な説明になってしまいましたが、デカルトの時代には雷や気象現象なども含め神秘的とされていた自然現象を機械論的・物理的な法則で説明することで科学革命が行われつつありました。そこで、デカルトはこの科学革命の考え方を人体にも適用できるように、人間の身体もガレノスの体系の神秘性を取り除いた訳です(ただし、魂は現時点での科学で扱えるものではないため神秘性を残したままにしました)。

3章.ガルバーニが神経を通るものは「電気」とした

さて、人体は「魂」という神秘的なものを取り除き「機械」的なものとしたとき、神経を通る「魂からの作用(プシュケ)」は「生理的物質」に書き換えられるが、では「生理的物質」とはいったい何なのか?という探求が始まります。

フランス革命の時代、18世紀後半にルイージ・ガルバーニというイタリアの解剖学者がカエルの脚の筋肉実験を行い、「筋肉や神経が電気的な働きで動く」ということを示しました。カエルの神経を電気刺激すると筋肉が収縮するというこの発見は、「生物電気(動物電気)」という概念を生み出し、神経が電気信号で情報を伝える基礎的な理解へとつながりました。​

ガルバーニは1780年代から妻のルチアと共にカエルの神経筋を使い、静電気を利用した実験で筋収縮を観察し、1791年にこのことを論文で発表しています。彼の甥のジョヴァンニ・アルディーニも実験を手伝い、この分野の発展に寄与しました。これが電気信号としての神経伝達の最初の重要な証拠とされています。

ガルヴァーニはもともと「解剖学・生理学者」で、医学部の教授でしたが、その中で「筋肉や神経はどうやって動くのか」を探る過程で電気に深く入りこんでいった人物です。​イタリア・ボローニャ大学の解剖学・生理学の教授で、医師・生理学者として出発しています。​カエルを使った実験から「生体の筋肉を動かすのは電気である」という考えに至り、現在では「電気生理学の父」と呼ばれています。​

ガルヴァーニは、生物を「生命力のような特別な何か」ではなく、「電気という物理的な力によって動く存在」として捉えようとした生理学者でした。​ガルヴァーニは、筋肉や神経には自ら電気を生み出す仕組みがあり、その電気が神経を伝わって筋肉を収縮させると考え、「動物電気」と名づけました。​彼は、この動物電気こそが従来「生命力」と呼ばれてきたものの正体だとみなし、「生命=電気的現象」として説明できると考えていました。​生物を単なる機械以上、しかし純粋な神秘的存在以下のものとして、「物理的・化学的に扱える生命現象」として位置づけた点が特徴的です。​とくに筋肉はライデン瓶のように電気を蓄え、金属で回路を作ると放電して収縮するというイメージで捉え、生命現象を電気回路のモデルで理解しようとしました。

因みに、カルバーニが生物電気を考えられたのは、1752年の有名な凧実験で雷が電気であることを証明したベンジャミン・フランクリンの電気研究が下地にあります。

そして、このカルバーニの動物電気の研究は同じくイタリア人のボルタとの論争に発展し、「電池の発明」にも繋がります。

ボルタはカエルの痙攣を「動物の筋肉がライデン瓶のように電気を蓄え放電する」ではなく、「異種金属の接触と湿った組織による物理的電気」と解釈し、動物自体に電気発生機構はないと主張しました。​同種金属では痙攣が起きないこと、死体や乾燥組織でも金属接触で起きることを実験で示し、ボルタ電池で非生物的に再現することで動物電気説を批判しました。しかし、​ヴォルタ自身、ガルヴァーニを尊敬し現象を「ガルヴァニズム」と命名、生体電気研究の基盤を残しました。

当時はボルタの金属電気説が優勢となり、ガルヴァーニの動物電気蓄積説は後退しましたが、現代では生体細胞に静止電位が存在しガルヴァーニの直観が正しかったと再評価されています。​つまり、細胞は「電池のように常に充電されていて、ピンッと刺激で放電して動く」システムで、生命の電気制御の基本です。​

ちなみに、当時知られていたのは一時的な静電気だけでしたが、ガルヴァーニのカエル痙攣は「持続的な電流」の存在を示唆し、ボルタが金属接触と電解質で再現することで「動電気(電流)」の基礎を築きました。​ボルタはカエルの組織を「湿った導体(電解質)」とみなし、塩水紙で亜鉛・銅を積層した電堆を作成、動物電気を非生物的に人工再現して連続電流を実現しました。​この1800年の発明はナポレオンに認められ、現代電池の原型となり、電流単位「ボルト」の由来です。​これにより電気は「生理現象」から「普遍的な物理法則」へ移行し、電気化学列や電極電位差の発見につながりました。​

しかし、神経は電気信号で情報を伝えていることがわかっていましたが、「電気だけなのか、それとも化学物質も使うのか」は長く議論されていました。​

4章.交感神経と副交感神経の発見が導いた「化学物質」

ジョン・ニューポート・ラングリー(John Newport Langley、1852-1925)はイギリスの生理学者で、1898年に「自律神経系」という用語を初めて用い、交感神経系(胸腰部起源)と副交感神経系(頭蓋・仙骨部起源)の二重支配を解明しました。正確にはベルナールの血管拡張実験、デュ・プチの瞳孔支配発見など、19世紀に自律神経の個別機能が断片的には解明されていた解剖学・生理学・薬理学の蓄積を統合した結果自律神経系を発見・体系化しました。

これにより交感神経と副交感神経が同じ効果器(筋肉や分泌腺など)に対して拮抗的に作用していることがわかると、「同じ場所にありながら、逆の作用をするメカニズム」が問題となりました。電気信号だけでは「同じ効果器で交感神経と副交感神経が逆の作用(例: 心臓加速 vs 減速)を引き起こす」現象を説明できませんでした。当時の神経伝達は主に電気的と考えられていましたが、電気信号は一方向性で強度(「興奮の強弱」)のみを変えるため、促進と抑制の両方を同じ場所で生む仕組みが不明でした。ラングリーは、この現象を説明するために、効果器の細胞膜に「受容体物質」(receptive substances)が存在し、神経から放出される化学物質がそれぞれ特異的に結合して異なる反応を引き起こすと考えました。

20世紀初頭、カエル心臓を使ったオットー・レーヴィ(Loewi)の実験により、神経末端から化学物質が放出され、次の細胞に信号を伝達する証拠が得られました。この発見が神経伝達物質の探究を本格化させました。​

1921年、オットー・レーヴィは2匹のカエルから心臓を取り出し、リンガー液(リンガー液はカエルの心臓を生かしておくためのイオン(Na⁺、K⁺、Ca²⁺など)を含む生理食塩水で、神経刺激によって心臓Aから放出されたアセチルコリンがこの液に溶け込む)に浸しました。一方の副交感神経を電気刺激すると心臓Aの拍動が抑制され、心臓Aから溶け出したアセチルコリンが含まれたその液を心臓Bに加えると同様の抑制効果が生じました。これにより、神経から化学物質(後にアセチルコリンと特定)が放出され、心臓に作用することが示されました。​

この実験は、神経伝達が電気的ではなく化学的であるという考えを決定的に支持し、1936年ノーベル賞を受賞しました。ここから「神経末端から何らかの化学物質が放出されて、次の細胞に信号を渡している」という考えが強まり、化学伝達物質の探究が本格化します。

20世紀前半、オットー・レーヴィらの仕事によって、迷走神経から出る物質がアセチルコリンであることが示され、「神経伝達物質」(次第に1930~40年頃にそう呼ばれるようになりました)という概念が明確になっていきました。​
 同じ頃、副腎由来のアドレナリンやノルアドレナリンが交感神経系の伝達物質として働くことも明らかになり、​ラングリーの仮定は具体的に証明され、交感神経からアドレナリン系物質(ノルアドレナリンなど)が放出され効果器の特定受容体に結合して促進作用を生み、副交感神経からアセチルコリン系物質が放出され別の受容体に結合して抑制作用を生むという結論になりました。

 …と以上が、ラングリーの自律神経を体系化によって、神経の機能を司る「化学物質」の道が開かれてレーヴィが副交感神経のアセチルコリンを発見したという話をしましたが、このラングリーの自律神経二重支配概念(1898年)は、フロイトや夏目漱石の明治などにも影響を及ぼしているため簡単に説明します。

フロイトの「科学的心理学草稿」(Project for a Scientific Psychology、1895年執筆、フリース宛書簡から死後発見)は、1880年代後半から1890年代初頭の神経生理学的知見に基づき、心理現象をニューロンの電気信号とエネルギー流動(Q量)で定量的にモデル化したもので、無意識・意識・記憶を神経回路の興奮伝播と抵抗で説明し、ヒステリーの転換症状を「神経エネルギーの異常蓄積と逸脱経路」として生理学的に解明しようとしました。​つまり、神経を電気回路のように扱い、刺激がQ(量的エネルギー)として伝播、抵抗(抑制)で症状形成と仮定しました。そして精神的ストレスが神経回路の「迂回路」を使い、身体症状に変換(転換)するとしてヒステリーの説明を行いました。しかし、抽象的で実証不足、心理的質(感情・意味)を無視していたため、フロイトはこの草稿を「失敗」(精神的ストレスがなぜ身体症状に変換されるかの生理学的説明は不十分)と自認し、1896年以降精神分析へ転換しました。臨床経験(自由連想・夢分析・転移解釈)で無意識の精神力動を明らかにし、ヒステリーを「抑圧された性的欲動の転換症状」と再定義しました。これは科学的不可能性ではなく、生理学モデルでは不十分な心理現象を臨床実践で解明する戦略転換をしました。

しかし、1898年にラングリーが自律神経系の交感・副交感二重支配を解明し、(電気信号モデルが提示できなかった)身体への具体的な影響(心拍・発汗の促進・抑制)を示したことで、この新しい自律神経系の概念がフロイトの精神分析の補完的基盤となりました。つまり、ラングリーの発見がフロイトの心理理論と偶然符合し、精神的要因が身体症状として現れるメカニズム理解を深める助けとなったのです。

 また日本においても北里柴三郎のラングリー紹介と夏目漱石の作品との符号から拡大解釈され始められました。

 北里柴三郎(1853-1931)は日本近代医学の父と呼ばれ、破傷風・ペスト菌発見で知られますが、生理学分野でもラングリーの自律神経理論を積極的に紹介・応用しました。1900年代初頭、北里の弟子・研究者らがラングリーの交感・副交感神経二重支配を引用し、「交感神経優位の不均衡が神経衰弱症の原因」と結論づけました。これは当時の日本で急速に広がった近代的ストレス社会の文脈で、夏目漱石の「神経衰弱」描写(夏目漱石自身はストレスと胃潰瘍・糖尿から発症していて近代ストレスとは違うがその描写が当時の明治30~40年代に西洋医学の影響で神経衰弱が「文明病」として流行していた)と完璧に符合したのです(ただし鈴木興太郎ら生理学者も夏目漱石も互いに相手の言及や引用はしていません。この偶然的符号が結果として、精神症状の身体的基盤として自律神経理論が日本に広く受け入れられるようになっただけです)​。

 

 …と上記のようにラングリーの自律神経二重支配説は、化学物質の研究本格化だけでなく、フロイトや明治の日本などにも影響を与え、単なる生理学的なラングリーの説は精神機能への影響という分野にまで開く解釈されるようになりました。

 医学的にラングリーの自律神経二重支配を精神機能への影響という説を確立したのは、L.R. ミュラー(Müller)の1906年の間脳中枢説(視床下部・視丘が情動と自律神経の共通中枢)です。戦前ドイツ医学界でラングリー学説を批判し、 ラングリーの分類を「静的・解剖学的」とし、情動や生活機能との動的関係を無視と非難。1920年のDas Vegetative Nervensystemで間脳中枢の重要性を主張。具体的にはラングリーが自律神経は効果器との関係しか論じていなかったのを、間脳(特に視床下部や視床)が自律神経と情動のハブとなり、自律神経は精神機能に影響を与え、精神機能も自律神経に影響を与えることを立証しました。

ジェームズ・ランゲ理論(生理変化→情動)を支持しつつ、キャノン理論(情動→自律神経)と統合。情動が間脳から自律神経を駆動し、逆も可能と説明。

ジェームズ・ランゲ理論(1884-1885年)は一般的な「血管循環・心拍・呼吸などの身体的変化」を情動の原因とし、ランゲは特に血管循環に焦点を当てましたが、当時は自律神経の交感・副交感の分類が未確立でした。​「泣くから悲しい」「心拍加速から恐怖を感じる」→生理変化が先に起こり、情動体験を生みます。一般的な内臓反応(心拍・血管拡張・筋収縮)、自律神経の詳細分類なかったです。更にキャノンが指摘するように、同じ生理変化(心拍加速)が恐怖・怒り両方で起こる矛盾がありました。

ミュラーはすでに情動と自律神経の双方向性を主張しており、キャノンはこれを基にジェームズ・ランゲ理論の弱点を具体的に指摘しました。ミュラー自身もキャノンのfight-or-flightを支持し、両者の理論は情動→生理反応の方向性を強調しつつ双方向性を維持しました。ウォルター・B・キャノン(Walter B. Cannon、1871-1945)の**「闘争か逃走か反応(fight-or-flight response)」**は、1929年の論文で提唱され、情動(特に恐怖・怒り)が交感神経系を急速に活性化し、生存のための即時対応を可能にする生理メカニズムを説明します。これはジェームズ・ランゲ理論への反論として有名です。​キャノンは交感神経系の神経伝達物質としてアドレナリン・ノルアドレナリンを明確に記述しました。ノルアドレナリン: 交感神経末端から放出、局所的速効性反応。アドレナリン: 副腎髄質から血中大量放出、全身的持続効果。キャノンは猫実験で情動時に両者の血中濃度上昇を測定し、fight-or-flightの化学的基盤と証明しました。ただしキャノンのfight-or-flight反応(1929年)は、アドレナリンとノルアドレナリンが闘争と逃走の別の作用を創出することを論じたのではなく、交感神経系の活性化により「闘争(fight)」も「逃走(flight)」も両方可能になる生理的準備状態を説明します。どちらの行動を取るかは大脳皮質・扁桃体などの高次脳機能で決定され、交感神経は共通の基盤を提供します。

こうして自律神経の交感神経と副交感神経の活動バランスが精神状態に影響するとする考えは、「神経伝達物質のバランスと精神症状を結びつける」考えの元となりました。ただし、当時は具体的な神経伝達物質の量や作用機序までは分かっておらず、主に交感神経の興奮的な作用と副交感神経の抑制的な作用の「質的なバランス」が精神症状に関係すると考えられていました。

 量や作用機序まで解明され体系的に「神経伝達物質のバランスと精神症状を結びつける」考えになるのは次の「モノアミン仮説」によってなされます。

5章・パブロフの研究から閃き、脳でも「化学物質」が神経伝達物質と証明

さて、ついに自律神経の体系化から自律神経はアセチルコリンやアドレナリン系の「化学物質」によって効果器の機能を「オン・オフ」していることが分かりましたが、それは末端神経だけの話なのか?それとも脳内の神経でも同じく「化学物質」が関係するのか?議論があたり、20世紀前半は脳は「電気信号」のみという意見が依然強かったのです。

そんな中、ベティ・トワログBetty Mack Twarog(1927–2013)は1927年8月28日にニューヨーク市で生まれ、1948年タフツ大学で理学修士号を取得し、軟体動物筋神経学に関する講義を聞きました。この講義は彼女に1949年にハーバード大学ジョン・ウェルシュの指導のもとで博士課程に入学するきっかけとなりました。ウェルシュは1950年代、Venus mercenaria(ハートクラム)などの貝類心臓でセロトニンを心臓加速物質として同定。蛍光アッセイで定量し、無脊椎動物の神経ホルモンとして位置づけてました[i]。これがトワログの博士研究(ウェルシュ指導下)の基盤となり、主に無脊椎動物の神経系を対象とした実験、ムラサキイガイ平滑筋でのセロトニン作用(1952)をトワログは行います。

1952年、トワログとウェルシュはイガイを実験台の上に並べました。パヴロフの論文でイガイの筋肉は神経刺激を受けると収縮し、その刺激をオフにするシグナルを受け取るまで、収縮を維持するとパヴロフは主張していました(半世紀ほど前の話で、パブロフ自身はこの研究を中断し条件反射に専念)。更にドイツの科学者オットー・ロエヴィの副交感神経はアセチルコリンに作用の発見により化学物質による神経伝達の原理の立証がありました(しかしそれがゆえに当時の科学者は体内の神経伝達物質は二種類の化学物質しかないとばかり思い込んでいました)。アボット製薬が合成したばかりとされるセロトニンにされされるとすぐ、足糸牽引筋が反応しました。これにより(アセチルコリン・アドレナリン系につぐ)第三の神経伝達物質としました。

1952年までに、彼女は『Journal of Cell Physiology』に論文を提出し、セロトニンがムラサキイガイの神経伝達物質としての役割を示すことを示しました。彼女の仮説は神経系に関する既存の考えに反しており、ジャーナル編集者であるデトレブ・ブロンク(ジョンズ・ホプキンス大学学長)は無視していましたが、指導教官のジョン・ウェルシュが新聞の状況を問い合わせるまでは無視しました。未発表の間、他の研究者たちもセロトニンに関する同様の発見を発表し、トワログの結論を支持していました。ブロンクは最終的に1954年にトワログの論文を発表しましたが、それでも彼女が最初の論文として認識されています。

1952年秋、トワログは家族の都合で(大学で職を得た夫に従って)オハイオ州に移り、無脊椎動物の神経伝達物質が哺乳類にも見られるという仮説の研究を続けるためにペイジの研究室があるクリーブランドクリニックを選びました。ペイジIrwin H. Pageは1948年に血清からセロトニンを単離・命名後(ただし腸からはエンテラミンとして発見されてはいて哺乳類腸管の平滑筋収縮の作用があると証明されていた)、その化学構造(セロトニンを5-HT:5-hydroxytryptamineと同定)を解明し、更に1949-50年同研究室でトリプトファン由来の全合成を達成しました。これがセロトニンを標準物質として利用可能にし、トワログTwarogらの生物学的アッセイ(無脊椎平滑筋・脳内分布)を支えました。それとは別に1952年5月: Erspamer & Aseroがエンテラミンenteramine(1930年代の腸から発見されていた物質名)の構造を5-HT(5-ヒドロキシトリプタミン)と同定して、これにより腸クロム細胞物質(腸動に関与)=血清セロトニンと証明されていました。セロトニンが血圧調整の果たす役割の解明に取り組んでいたアーヴィン・ペイジは脳内にセロトニンが存在するとは信じていませんでした(トワログを質問攻めにされた)が、それでもトワログに実験室と技術者を提供しました。1953年6月までに、トワログは哺乳類(ラットとイヌとサル)の脳におけるセロトニンの単離を発表する論文が提出されました。[ii]

 1953年にPageとともに論文を発表。この研究で、貝類(例: アサリ)の神経節からセロトニンを検出し、それが神経伝達物質として機能することを示しました。これにより、セロトニンが「腸や血清の物質」から「脳神経系の重要なシグナル分子」へ移行する歴史的転換点となりました。

当時の主流見解ではセロトニンは主に血管収縮物質とされていましたが、トワログの蛍光分析(セロトニンの蛍光特性を利用)と生物学的アッセイ(1950年代のセロトニン研究で用いられた古典的な手法で、抽出物の薬理作用を生物学的組織で直接確認する方法)により、脳組織(特に無脊椎動物の神経系)に高濃度存在し、神経興奮に関与することを証明。脊椎動物への拡張も促しました。​

1950年代は、ほとんどの生物学者は、人間はほかの動物とは違うし、脳は体のほかの部分とは違い、その中を電気信号が火花のように飛び回っている(人間や脳を特別視し、脳内伝達を主に電気信号中心)と考えていました。[iii]脳は「電気的興奮の場」と見なされ、ロエヴィの1921年アセチルコリン発見(末梢ホルモン)以降も、脳内化学伝達は懐疑的でした。アセチルコリンは自律神経系(副交感神経)で証明されていましたが、脳では「血脳関門で到達しない」「脳は電気信号のみ」との仮説が残っていました。​アドレナリン系も副腎ホルモン・末梢交感神経伝達物質として知られていましたが、脳内では「ストレス応答の二次的影響」と考えられ、中枢神経伝達物質としての役割は未確立でした。ミュラー(Ludwig Rudolf Müller(1920年代))の「間脳(視床下部)が自律神経中枢」という説は存在しましたが、化学伝達の証拠が乏しく、電気刺激中心の時代に主流化せず、特に生物学者では「仮説段階」にとどまっていました。

トワログは1884年にイワン・パヴロフが提起した疑問に答えたかっただけでした。当時、パヴロフは、無脊椎動物の消化の秘密を解き明かそうそうとし平滑筋調べ、更にムラサキイガイがどうして殻を閉じていられるかにとりわけ興味を惹かれ論文を一篇発表。[iv]パヴロフは1880年代後半から消化生理学(膵臓・胃腺など)とその神経支配の研究を開始しており、これが後に脳の高次機能(期待・学習)が消化液分泌に影響することを発見し、これを定量的に扱う過程で、条件反射という脳の複雑なシステムを明らかにし、1904年のノーベル生理学・医学賞受賞につながる主要業績となっています。

しかし、1940-50年代にエックルス(Eccles)らのAChシナプス研究やウルフ・フォン・オイラーvon Eulerのノルアドレナリン脳内存在示唆が進み、トワログ(Twarog)のセロトニン発見と並行して「脳も化学伝達物質を使う」というパラダイムが徐々に浸透。脳を「特別」扱いしつつ、末梢と同じ物質の脳内作用を徐々に認め始めました。

その後、トワログTwarog-Page(1953)が無脊椎動物と初期哺乳類脳を示唆したのに対し、シドニー・ユーデンフレンドUdenfriendらの1954年論文は複数種の哺乳類脳で再現性高く確認し、セロトニン神経系の基盤を固めました。この確認により、セロトニンは「末梢ホルモン」から「中枢神経伝達物質」へ移行し、抗うつ薬開発の道筋が開かれました。​

以降の精神薬理学研究(例: LSDとの関連)が加速。​ LSDがセロトニン受容体に作用することが同時期に判明(Woolley & Shaw, 1954)し、これら脳内セロトニン存在の裏付けにより、幻覚剤・抗うつ薬研究が連動的に進展。

1950年代以降、偶然見つかった抗うつ薬や抗精神病薬の作用から、セロトニン・ドーパミン・ノルアドレナリンなどのモノアミンが、気分・意欲・統合失調症などと深く関わることがわかり、「モノアミン仮説」が精神医学の中心的なモデルになります。​

1950年代にイプロニアジド(結核治療薬:MAO阻害薬でモノアミンの増加を促す)が抗うつ効果を示し、レセルピン(降圧薬:モノアミンの低下を促す)が逆にうつ症状を誘発したことがきっかけです。これにより、モノアミンの枯渇がうつ病の原因と仮定され、1960年代にモノアミン仮説が提唱されました。​抗精神病薬クロルプロマジンの発見もドーパミン系の異常を指摘し、統合失調症のドーパミン仮説を補強しました。​ドーパミンは1957-60年にパーキンソン病関連で神経伝達物質として確立。モノアミン仮説では、うつ病でセロトニンやノルアドレナリンの機能低下、統合失調症でドーパミンの過剰が病態の基盤とされます。これに基づき、再取り込み阻害薬(SSRI、SNRI)やMAO阻害薬が開発され、臨床で広く用いられています。​躁うつ病では躁状態でドーパミン亢進、うつ状態で低下が観察され、双極性のパターンを説明します。
 その後の研究で、この仮説は単純すぎることが指摘されつつも、「神経伝達物質のバランスと精神症状を結びつけて考える」という枠組みを与えた点で、臨床と研究の両方に大きな影響を与えました。​

6章.多様な伝達物質とシステムとしての脳

20世紀後半から21世紀にかけて、アミノ酸系(グルタミン酸・GABA)、ペプチド系(多種類の神経ペプチド)、一酸化窒素のようなガス状メッセンジャーなど、多様な神経伝達物質とその受容体が次々に見つかり、「脳は多数の化学シグナルが重なり合うネットワーク」として理解されるようになりました。​
 近年は、単一の伝達物質ではなく、「複数の伝達物質と神経回路、可塑性、環境要因が組み合わさって感情や認知が生まれる」という、より複雑なモデルへと発展しています。

 20世紀半ばはアセチルコリンやモノアミン系など「古典的」物質が中心で、GABA(1950年代後半提案)やグルタミン酸(1960年代興奮性伝達確認)は未成熟でした。​

1970-80年代にアミノ酸系(GABA、グルタミン酸)が本格化、1990年代以降にペプチド(オレキシン1998年)、NO(1980年代ガス伝達)が見つかり、脳を複雑ネットワークと再定義されました。

20世紀半ばまでは電気伝達優位論が残り、モノアミン中心の精神医学が主流でした。ジョン・C・エックルス(John Eccles)ら有力生理学者は1930-50年代、化学伝達を「遅延が大きすぎる」と否定し、シナプス後電位の逆転実験前まで電気伝達を主張。アセチルコリンは末梢神経筋接合部で証明済みでしたが、中枢では「例外」とみなされ、モノアミン系は当時神経伝達物質として未確立でした。しかしエックルスは当初の電気伝達優位論の強硬な支持者でしたが、1950年代後半の自身の逆転電位実験により化学伝達説に転向しました。これにより化学伝達(アセチルコリン興奮、GABA抑制)を証明し、1963年ノーベル生理学・医学賞受賞(Alan Hodgkin、Andrew Huxleyと共同)。​この転換は神経生理学の歴史的転機となりました。エックルスの転向で電気優位論が崩壊、Bernard Katzらとの共同研究がGABAを抑制性伝達物質と確立。モノアミン仮説は並行的に精神医学を変革しましたが、生理学の基盤転換はエックルス実験が鍵です。

ちなみにエックルスは1977年には、カール・ポパーと『自我と脳』(The self and its brain)という本を一緒に書いて、世界的な話題となった。この中で彼は、精神が脳をコントロールしているという二元論を唱えている。彼は物質世界と独立に精神世界が存在すると考え、従って脳にはそのコントロールに関わる接続部(連絡脳)があるはずだと主張したが、これに対しては批判が多い。

 、、、以上で「脳内伝達物質」発見までの歴史を終わりにします。最後は少し長くなってしまいましたが、今後「脳内伝達物質」について調べる際に参考になればとあまり説明的より情報を載せました。

 全体の枠組みとしては、古代に人は脳と魂の関係から精神活動を考え始め、中世を超えて人体の構造を詳しく観察できるようになると「人体は機械」と考え神経に流れる物質も単なる「生理的物質」と考えるようになりました。そしてその「生理的物質」とは「電気信号」であることが「電気研究」が進んできた18世紀ごろに分かってきました。ただ「電気信号」だけで精神機能を説明しようとすると限界が生じてきてついにはアセチルコリンなどの「化学物質」が20世紀初頭に発見されました。しかし、脳は体の他の神経とは別格であるという思想は強く、20世紀半ばに脳内で「化学物質」を検出することや「実験」によって脳内も特別ではないことが証明され多様な「化学物質」が発見され、この発見された「化学物質」(「脳内伝達物質」)を知ることで精神機能の土台を整えることが分かり始めてきたのです。

以下、詳細版

 神経伝達物質の発見史(ローヴィやデールによるアセチルコリンの同定、モノアミンと抗うつ薬の関係など)は、「心と脳をめぐる人間の理解が、試行錯誤しながら少しずつ変わってきた」というプロセスを見せてくれます。​
 それを知ることで、「『心=脳内化学物質』という見方も歴史的に作られた一つのモデルなのだ」と相対化でき、自分の心の動きを考えるときに、生物学・心理・社会の複数レベルを意識しやすくなります。

①古代は神経を通るものは魂由来の「精気」であった

古代ギリシア・ローマ時代のヒポクラテスやガレノスは神経を空洞の管とし、空気や液体のような「プネウマ」(生命気)が脳から流れ、筋肉を膨張させて動かすと信じられました。

それは仏陀の頃のインドのヒンドゥー教から影響を受けた魂の存在を指示したピタゴラス、そしてそのピタゴラスの考えをプラトンが明確化し、それ以来ギリシャ哲学の伝統の中で魂(プシュケー)は生命の本質とされ、(身体全体に作用する非物質的実体で、プネウマを介して肉体を操る)魂が「プネウマ」(pneuma、生気や生命気)を体内に送り出す媒介として位置づけられましたことによります。特にガレノスは解剖学的・生理学的観察をもとにプネウマを体液と結びつけ、魂がそのプネウマを通じて身体を動かすと考えました。プネウマは自然霊気・生命霊気・心的霊気に分類され、肝臓から自然霊気が作られ、その自然霊気が心臓で生命霊気を生成した後、脳室で生命霊気が精製・活性化され心的霊気となり体液(特に血液)と結びついて神経系を介して身体を制御すると説明しました(ただし体液と結びつくのは心的霊気のみだけでなくプネウマすべてが体液と結びつき、特に身体を制御する体液となるのが心的霊気という考え)。

②デカルトが神経を通るものを「生理的物質」とした

 その後、ルネサンスの時代のダ・ヴィンチは解剖により脳室を調べたものの、感覚器と結びつく神経は視床辺りにあることを発見し、脳室が生命の機能の中心ではないと結論づけ、これにより従来の「脳室が魂や生命気の座」という考えを否定しました。

 このルネサンス解剖学全体(ダ・ヴィンチ含む)の影響を受けつつあったデカルトは、ガレノス由来の霊気概念を近代物理学に適合させることを目論み、魂の座を脳室ではなく松果体(小脳室付近)に移しました。具体的にはガレノスが魂から生成されるとしたプネウマ(霊気)を、生理学的・物理的な「動物精気」として機械論的に再解釈しました(さらに肝臓からよりも心臓中心で考えました)。つまり、プネウマ生成は魂由来の神秘的なものではなく、心臓を中心とした身体の生理的プロセスによって説明されるとしました。また魂(思考する精神、res cogitans)は非物質的実体として脳の松果体にのみ存在し、そこから動物精気を直接操作・制御するとしました。

 複雑な説明になってしまいましたが、デカルトの時代には雷や気象現象なども含め神秘的とされていた自然現象を機械論的・物理的な法則で説明することで科学革命が行われつつありました。そこで、デカルトはこの科学革命の考え方を人体にも適用できるように、人間の身体もガレノスの体系の神秘性を取り除いた訳です(ただし、魂は現時点での科学で扱えるものではないため神秘性を残したままにしました)。

③ガルバーニが神経を通るものは「電気信号」とした

18世紀後半にルイージ・ガルバーニというイタリアの解剖学者がカエルの脚の筋肉実験を行い、「筋肉や神経が電気的な働きで動く」ということを示しました。カエルの神経を電気刺激すると筋肉が収縮するというこの発見は、「生物電気(動物電気)」という概念を生み出し、神経が電気信号で情報を伝える基礎的な理解へとつながりました。​

ガルバーニは1780年代から妻のルチアと共にカエルの神経筋を使い、静電気を利用した実験で筋収縮を観察し、1791年にこのことを論文で発表しています。彼の甥のジョヴァンニ・アルディーニも実験を手伝い、この分野の発展に寄与しました。これが電気信号としての神経伝達の最初の重要な証拠とされています。

ガルヴァーニはもともと「解剖学・生理学者」で、医学部の教授でしたが、その中で「筋肉や神経はどうやって動くのか」を探る過程で電気に深く入りこんでいった人物です。​イタリア・ボローニャ大学の解剖学・生理学の教授で、医師・生理学者として出発しています。​カエルを使った実験から「生体の筋肉を動かすのは電気である」という考えに至り、現在では「電気生理学の父」と呼ばれています。​

ガルヴァーニは、生物を「生命力のような特別な何か」ではなく、「電気という物理的な力によって動く存在」として捉えようとした生理学者でした。​ガルヴァーニは、筋肉や神経には自ら電気を生み出す仕組みがあり、その電気が神経を伝わって筋肉を収縮させると考え、「動物電気」と名づけました。​彼は、この動物電気こそが従来「生命力」と呼ばれてきたものの正体だとみなし、「生命=電気的現象」として説明できると考えていました。​生物を単なる機械以上、しかし純粋な神秘的存在以下のものとして、「物理的・化学的に扱える生命現象」として位置づけた点が特徴的です。​とくに筋肉はライデン瓶のように電気を蓄え、金属で回路を作ると放電して収縮するというイメージで捉え、生命現象を電気回路のモデルで理解しようとしました。

ヴォルタはカエルの痙攣を「動物の筋肉がライデン瓶のように電気を蓄え放電する」ではなく、「異種金属の接触と湿った組織による物理的電気」と解釈し、動物自体に電気発生機構はないと主張しました。​同種金属では痙攣が起きないこと、死体や乾燥組織でも金属接触で起きることを実験で示し、ボルタ電池で非生物的に再現することで動物電気説を批判しました。しかし、​ヴォルタ自身、ガルヴァーニを尊敬し現象を「ガルヴァニズム」と命名、生体電気研究の基盤を残しました。

当時はボルタの金属電気説が優勢となり、ガルヴァーニの動物電気蓄積説は後退しましたが、現代では生体細胞に静止電位が存在しガルヴァーニの直観が正しかったと再評価されています。​つまり、細胞は「電池のように常に充電されていて、ピンッと刺激で放電して動く」システムで、生命の電気制御の基本です。​

ちなみに、当時知られていたのは一時的な静電気だけでしたが、ガルヴァーニのカエル痙攣は「持続的な電流」の存在を示唆し、ヴォルタが金属接触と電解質で再現することで「動電気(電流)」の基礎を築きました。​ヴォルタはカエルの組織を「湿った導体(電解質)」とみなし、塩水紙で亜鉛・銅を積層した電堆を作成、動物電気を非生物的に人工再現して連続電流を実現しました。​この1800年の発明はナポレオンに認められ、現代電池の原型となり、電流単位「ボルト」の由来です。​これにより電気は「生理現象」から「普遍的な物理法則」へ移行し、電気化学列や電極電位差の発見につながりました。​

しかし、神経は電気信号で情報を伝えていることがわかっていましたが、「電気だけなのか、それとも化学物質も使うのか」は長く議論されていました。​

④交感神経と副交感神経の発見が、電気信号だけでなく「化学物質」を使う考えを導く

ジョン・ニューポート・ラングリー(John Newport Langley、1852-1925)はイギリスの生理学者で、1898年に「自律神経系」という用語を初めて用い、交感神経系(胸腰部起源)と副交感神経系(頭蓋・仙骨部起源)の二重支配を解明しました。

これにより交感神経と副交感神経が同じ効果器(筋肉や分泌腺など)に対して拮抗的に作用していることがわかると、「同じ場所にありながら、逆の作用をするメカニズム」が問題となりました。電気信号だけでは「同じ効果器で交感神経と副交感神経が逆の作用(例: 心臓加速 vs 減速)を引き起こす」現象を説明できませんでした。当時の神経伝達は主に電気的と考えられていましたが、電気信号は一方向性で強度(「興奮の強弱」)のみを変えるため、促進と抑制の両方を同じ場所で生む仕組みが不明でした。ラングリーは、この現象を説明するために、効果器の細胞膜に「受容体物質」(receptive substances)が存在し、神経から放出される化学物質がそれぞれ特異的に結合して異なる反応を引き起こすと考えました。

20世紀初頭、カエル心臓を使ったオットー・ロエヴィ(Loewi)の実験により、神経末端から化学物質が放出され、次の細胞に信号を伝達する証拠が得られました。この発見が神経伝達物質の探究を本格化させました。​

1921年、オットー・ロエヴィは2匹のカエルから心臓を取り出し、リンガー液(リンガー液はカエルの心臓を生かしておくためのイオン(Na⁺、K⁺、Ca²⁺など)を含む生理食塩水で、神経刺激によって心臓Aから放出されたアセチルコリンがこの液に溶け込む)に浸しました。一方の副交感神経を電気刺激すると心臓Aの拍動が抑制され、心臓Aから溶け出したアセチルコリンが含まれたその液を心臓Bに加えると同様の抑制効果が生じました。これにより、神経から化学物質(後にアセチルコリンと特定)が放出され、心臓に作用することが示されました。​

この実験は、神経伝達が電気的ではなく化学的であるという考えを決定的に支持し、1936年ノーベル賞を受賞しました。ここから「神経末端から何らかの化学物質が放出されて、次の細胞に信号を渡している」という考えが強まり、化学伝達物質の探究が本格化します。

20世紀前半、オットー・ロエヴィらの仕事によって、迷走神経から出る物質がアセチルコリンであることが示され、「神経伝達物質」(次第に1930~40年頃にそう呼ばれるようになりました)という概念が明確になっていきました。​
 同じ頃、副腎由来のアドレナリンやノルアドレナリンが交感神経系の伝達物質として働くことも明らかになり、​ラングリーの仮定は具体的に証明され、交感神経からアドレナリン系物質(ノルアドレナリンなど)が放出され効果器の特定受容体に結合して促進作用を生み、副交感神経からアセチルコリン系物質が放出され別の受容体に結合して抑制作用を生むという結論になりました。

 このラングリーの自律神経二重支配概念(1898年)は効果器機能中心でしたが、当時の研究者・臨床家が即座に精神機能への影響を拡張解釈しました。

まず具体的な例としてフロイトが精神機能への影響を拡大解釈しました。

フロイトの「科学的心理学草稿」(Project for a Scientific Psychology、1895年執筆、フリース宛書簡から死後発見)は、1880年代後半から1890年代初頭の神経生理学的知見に基づき、心理現象をニューロンの電気信号とエネルギー流動(Q量)で定量的にモデル化したもので、無意識・意識・記憶を神経回路の興奮伝播と抵抗で説明し、ヒステリーの転換症状を「神経エネルギーの異常蓄積と逸脱経路」として生理学的に解明しようとしました。​つまり、神経を電気回路のように扱い、刺激がQ(量的エネルギー)として伝播、抵抗(抑制)で症状形成と仮定しました。そして精神的ストレスが神経回路の「迂回路」を使い、身体症状に変換(転換)するとしてヒステリーの説明を行いました。しかし、抽象的で実証不足、心理的質(感情・意味)を無視していたため、フロイトはこの草稿を「失敗」(精神的ストレスがなぜ身体症状に変換されるかの生理学的説明は不十分)と自認し、1896年以降精神分析へ転換しました。臨床経験(自由連想・夢分析・転移解釈)で無意識の精神力動を明らかにし、ヒステリーを「抑圧された性的欲動の転換症状」と再定義しました。これは科学的不可能性ではなく、生理学モデルでは不十分な心理現象を臨床実践で解明する戦略転換をしました。

しかし、1898年にラングリーが自律神経系の交感・副交感二重支配を解明し、(電気信号モデルが提示できなかった)身体への具体的な影響(心拍・発汗の促進・抑制)を示したことで、この新しい自律神経系の概念がフロイトの精神分析の補完的基盤となりました。つまり、ラングリーの発見がフロイトの心理理論と偶然符合し、精神的要因が身体症状として現れるメカニズム理解を深める助けとなったのです。

 また日本においても北里柴三郎のラングリー紹介と夏目漱石の作品との符号から拡大解釈され始められました。

 北里柴三郎(1853-1931)は日本近代医学の父と呼ばれ、破傷風・ペスト菌発見で知られますが、生理学分野でもラングリーの自律神経理論を積極的に紹介・応用しました。1900年代初頭、北里の弟子・研究者らがラングリーの交感・副交感神経二重支配を引用し、「交感神経優位の不均衡が神経衰弱症の原因」と結論づけました。これは当時の日本で急速に広がった近代的ストレス社会の文脈で、夏目漱石の「神経衰弱」描写(夏目漱石自身はストレスと胃潰瘍・糖尿から発症していて近代ストレスとは違うがその描写が当時の明治30~40年代に西洋医学の影響で神経衰弱が「文明病」として流行していた)と完璧に符合したのです(ただし鈴木興太郎ら生理学者も夏目漱石も互いに相手の言及や引用はしていません。この偶然的符号が結果として、精神症状の身体的基盤として自律神経理論が日本に広く受け入れられるようになっただけです)​。

 1869年にアメリカの医師ベアード(Beard)が、電信・鉄道・都市化・情報洪水など近代文明の刺激で中枢神経が慢性的に疲弊する病態として「neurasthenia(神経衰弱)」を提唱。: 明治20-30年代、欧米医学留学帰りの精神科医(呉秀三、後藤省吾ら)がベアードのneurastheniaを「神経衰弱」として翻訳導入。新聞・雑誌で「現代病」「学生病」と報じられ、一般に浸透。但し、ベアード自身は臨床的なもので生理学的なモデルはあげられておらず、ラングリーやミュラーの生理的モデルを後に後藤省吾ら(北里柴三郎の弟子)が採用して強化します。

 医学的にラングリーの自律神経二重支配を精神機能への影響という説を確立したのは、L.R. ミュラー(Müller)の1906年の間脳中枢説(視床下部・視丘が情動と自律神経の共通中枢)です。戦前ドイツ医学界でラングリー学説を批判し、 ラングリーの分類を「静的・解剖学的」とし、情動や生活機能との動的関係を無視と非難。1920年のDas Vegetative Nervensystemで間脳中枢の重要性を主張。具体的にはラングリーが自律神経は効果器との関係しか論じていなかったのを、間脳(特に視床下部や視床)が自律神経と情動のハブとなり、自律神経は精神機能に影響を与え、精神機能も自律神経に影響を与えることを立証しました。

ジェームズ・ランゲ理論(生理変化→情動)を支持しつつ、キャノン理論(情動→自律神経)と統合。情動が間脳から自律神経を駆動し、逆も可能と説明。

ジェームズ・ランゲ理論(1884-1885年)は一般的な「血管循環・心拍・呼吸などの身体的変化」を情動の原因とし、ランゲは特に血管循環に焦点を当てましたが、当時は自律神経の交感・副交感の分類が未確立でした。​「泣くから悲しい」「心拍加速から恐怖を感じる」→生理変化が先に起こり、情動体験を生みます。一般的な内臓反応(心拍・血管拡張・筋収縮)、自律神経の詳細分類なかったです。更にキャノンが指摘するように、同じ生理変化(心拍加速)が恐怖・怒り両方で起こる矛盾がありました。

ミュラーはすでに情動と自律神経の双方向性を主張しており、キャノンはこれを基にジェームズ・ランゲ理論の弱点を具体的に指摘しました。ミュラー自身もキャノンのfight-or-flightを支持し、両者の理論は情動→生理反応の方向性を強調しつつ双方向性を維持しました。ウォルター・B・キャノン(Walter B. Cannon、1871-1945)の**「闘争か逃走か反応(fight-or-flight response)」**は、1929年の論文で提唱され、情動(特に恐怖・怒り)が交感神経系を急速に活性化し、生存のための即時対応を可能にする生理メカニズムを説明します。これはジェームズ・ランゲ理論への反論として有名です。​キャノンは交感神経系の神経伝達物質としてアドレナリン・ノルアドレナリンを明確に記述しました。ノルアドレナリン: 交感神経末端から放出、局所的速効性反応。アドレナリン: 副腎髄質から血中大量放出、全身的持続効果。キャノンは猫実験で情動時に両者の血中濃度上昇を測定し、fight-or-flightの化学的基盤と証明しました。ただしキャノンのfight-or-flight反応(1929年)は、アドレナリンとノルアドレナリンが闘争と逃走の別の作用を創出することを論じたのではなく、交感神経系の活性化により「闘争(fight)」も「逃走(flight)」も両方可能になる生理的準備状態を説明します。どちらの行動を取るかは大脳皮質・扁桃体などの高次脳機能で決定され、交感神経は共通の基盤を提供します。

こうして自律神経の交感神経と副交感神経の活動バランスが精神状態に影響するとする考えは、「神経伝達物質のバランスと精神症状を結びつける」考えの元となりました。ただし、当時は具体的な神経伝達物質の量や作用機序までは分かっておらず、主に交感神経の興奮的な作用と副交感神経の抑制的な作用の「質的なバランス」が精神症状に関係すると考えられていました。

 量や作用機序まで解明され体系的に「神経伝達物質のバランスと精神症状を結びつける」考えになるのは次の「モノアミン仮説」によってなされます。

⑥モノアミンと精神医学

1950年代以降、偶然見つかった抗うつ薬や抗精神病薬の作用から、セロトニン・ドーパミン・ノルアドレナリンなどのモノアミンが、気分・意欲・統合失調症などと深く関わることがわかり、「モノアミン仮説」が精神医学の中心的なモデルになります。​

1950年代にイプロニアジド(結核治療薬:MAO阻害薬でモノアミンの増加を促す)が抗うつ効果を示し、レセルピン(降圧薬:モノアミンの低下を促す)が逆にうつ症状を誘発したことがきっかけです。これにより、モノアミンの枯渇がうつ病の原因と仮定され、1960年代にモノアミン仮説が提唱されました。​抗精神病薬クロルプロマジンの発見もドーパミン系の異常を指摘し、統合失調症のドーパミン仮説を補強しました。​ドーパミンは1957-60年にパーキンソン病関連で神経伝達物質として確立。モノアミン仮説では、うつ病でセロトニンやノルアドレナリンの機能低下、統合失調症でドーパミンの過剰が病態の基盤とされます。これに基づき、再取り込み阻害薬(SSRI、SNRI)やMAO阻害薬が開発され、臨床で広く用いられています。​躁うつ病では躁状態でドーパミン亢進、うつ状態で低下が観察され、双極性のパターンを説明します。
 その後の研究で、この仮説は単純すぎることが指摘されつつも、「神経伝達物質のバランスと精神症状を結びつけて考える」という枠組みを与えた点で、臨床と研究の両方に大きな影響を与えました。​

ベティ・トワログBetty Mack Twarog(1927–2013)

ベティ・トワログは1927年8月28日にニューヨーク市で生まれ、1948年タフツ大学で理学修士号を取得し、軟体動物筋神経学に関する講義を聞きました。この講義は彼女に1949年にハーバード大学ジョン・ウェルシュの指導のもとで博士課程に入学するきっかけとなりました。ウェルシュは1950年代、Venus mercenaria(ハートクラム)などの貝類心臓でセロトニンを心臓加速物質として同定。蛍光アッセイで定量し、無脊椎動物の神経ホルモンとして位置づけてました[v]。これがBetty Twarogの博士研究(Harvard, Welsh指導下)の基盤となり、主に無脊椎動物の神経系を対象とした実験、ムラサキイガイ平滑筋でのセロトニン作用(1952)をトワログは行います。

1952年、トワログとウェルシュはイガイを実験台の上に並べました。パヴロフの論文でイガイの筋肉は神経刺激を受けると収縮し、その刺激をオフにするシグナルを受け取るまで、収縮を維持するとパヴロフは主張していました。更にドイツの科学者オットー・ロエヴィの副交感神経はアセチルコリンに作用の発見により化学物質による神経伝達の原理の立証がありました(しかしそれがゆえに当時の科学者は体内の神経伝達物質は二種類の化学物質しかないとばかり思い込んでいました)。アボット製薬が合成したばかりとされるセロトニンにされされるとすぐ、足糸牽引筋が反応しました。これにより(アセチルコリン・アドレナリン系につぐ)第三の神経伝達物質としました。

1952年までに、彼女は『Journal of Cell Physiology』に論文を提出し、セロトニンがムラサキイガイの神経伝達物質としての役割を示すことを示しました。彼女の仮説は神経系に関する既存の考えに反しており、ジャーナル編集者であるデトレブ・ブロンク(ジョンズ・ホプキンス大学学長)は無視していましたが、指導教官のジョン・ウェルシュが新聞の状況を問い合わせるまでは無視しました。未発表の間、他の研究者たちもセロトニンに関する同様の発見を発表し、トワログの結論を支持していました。ブロンクは最終的に1954年にトワログの論文を発表しましたが、それでも彼女が最初の論文として認識されています。

1952年秋、トワログは家族の都合で(大学で職を得た夫に従って)オハイオ州に移り、無脊椎動物の神経伝達物質が哺乳類にも見られるという仮説の研究を続けるためにペイジの研究室があるクリーブランドクリニックを選びました。ペイジIrwin H. Pageは1948年に血清からセロトニンを単離・命名後(ただし腸からはエンテラミンとして発見されてはいて哺乳類腸管の平滑筋収縮の作用があると証明されていた)、その化学構造(セロトニンを5-HT:5-hydroxytryptamineと同定)を解明し、更に1949-50年同研究室でトリプトファン由来の全合成を達成しました。これがセロトニンを標準物質として利用可能にし、トワログTwarogらの生物学的アッセイ(無脊椎平滑筋・脳内分布)を支えました。それとは別に1952年5月: Erspamer & Aseroがエンテラミンenteramine(1930年代の腸から発見されていた物質名)の構造を5-HT(5-ヒドロキシトリプタミン)と同定して、これにより腸クロム細胞物質(腸動に関与)=血清セロトニンと証明されていました。セロトニンが血圧調整の果たす役割の解明に取り組んでいたアーヴィン・ペイジは脳内にセロトニンが存在するとは信じていませんでした(トワログを質問攻めにされた)が、それでもトワログに実験室と技術者を提供しました。1953年6月までに、トワログは哺乳類(ラットとイヌとサル)の脳におけるセロトニンの単離を発表する論文が提出されました。[vi]

 1953年にPageとともに論文を発表。この研究で、貝類(例: アサリ)の神経節からセロトニンを検出し、それが神経伝達物質として機能することを示しました。これにより、セロトニンが「腸や血清の物質」から「脳神経系の重要なシグナル分子」へ移行する歴史的転換点となりました。

当時の主流見解ではセロトニンは主に血管収縮物質とされていましたが、トワログの蛍光分析(セロトニンの蛍光特性を利用)と生物学的アッセイ(1950年代のセロトニン研究で用いられた古典的な手法で、抽出物の薬理作用を生物学的組織で直接確認する方法)により、脳組織(特に無脊椎動物の神経系)に高濃度存在し、神経興奮に関与することを証明。脊椎動物への拡張も促しました。​

1950年代は、ほとんどの生物学者は、人間はほかの動物とは違うし、脳は体のほかの部分とは違い、その中を電気信号が火花のように飛び回っている(人間や脳を特別視し、脳内伝達を主に電気信号中心)と考えていました。[vii]脳は「電気的興奮の場」と見なされ、ロエヴィの1921年アセチルコリン発見(末梢ホルモン)以降も、脳内化学伝達は懐疑的でした。アセチルコリンは自律神経系(副交感神経)で証明されていましたが、脳では「血脳関門で到達しない」「脳は電気信号のみ」との仮説が残っていました。​アドレナリン系も副腎ホルモン・末梢交感神経伝達物質として知られていましたが、脳内では「ストレス応答の二次的影響」と考えられ、中枢神経伝達物質としての役割は未確立でした。ミュラー(Ludwig Rudolf Müller(1920年代))の「間脳(視床下部)が自律神経中枢」という説は存在しましたが、化学伝達の証拠が乏しく、電気刺激中心の時代に主流化せず、特に生物学者では「仮説段階」にとどまっていました。

トワログは1884年にイワン・パヴロフが提起した疑問に答えたかっただけでした。当時、パヴロフは、無脊椎動物の消化の秘密を解き明かそうそうとし平滑筋調べ、更にムラサキイガイがどうして殻を閉じていられるかにとりわけ興味を惹かれ論文を一篇発表。[viii]パヴロフは1880年代後半から消化生理学(膵臓・胃腺など)とその神経支配の研究を開始しており、これが後に脳の高次機能(期待・学習)が消化液分泌に影響することを発見し、これを定量的に扱う過程で、条件反射という脳の複雑なシステムを明らかにし、1904年のノーベル生理学・医学賞受賞につながる主要業績となっています。

しかし、1940-50年代にエックルス(Eccles)らのAChシナプス研究やウルフ・フォン・オイラーvon Eulerのノルアドレナリン脳内存在示唆が進み、トワログ(Twarog)のセロトニン発見と並行して「脳も化学伝達物質を使う」というパラダイムが徐々に浸透。脳を「特別」扱いしつつ、末梢と同じ物質の脳内作用を徐々に認め始めました。

その後、トワログTwarog-Page(1953)が無脊椎動物と初期哺乳類脳を示唆したのに対し、シドニー・ユーデンフレンドUdenfriendらの1954年論文は複数種の哺乳類脳で再現性高く確認し、セロトニン神経系の基盤を固めました。この確認により、セロトニンは「末梢ホルモン」から「中枢神経伝達物質」へ移行し、抗うつ薬開発の道筋が開かれました。​

以降の精神薬理学研究(例: LSDとの関連)が加速。​ LSDがセロトニン受容体に作用することが同時期に判明(Woolley & Shaw, 1954)し、これら脳内セロトニン存在の裏付けにより、幻覚剤・抗うつ薬研究が連動的に進展。

⑦多様な伝達物質とシステムとしての脳

20世紀後半から21世紀にかけて、アミノ酸系(グルタミン酸・GABA)、ペプチド系(多種類の神経ペプチド)、一酸化窒素のようなガス状メッセンジャーなど、多様な神経伝達物質とその受容体が次々に見つかり、「脳は多数の化学シグナルが重なり合うネットワーク」として理解されるようになりました。​
 近年は、単一の伝達物質ではなく、「複数の伝達物質と神経回路、可塑性、環境要因が組み合わさって感情や認知が生まれる」という、より複雑なモデルへと発展しています。

 20世紀半ばはアセチルコリンやモノアミン系など「古典的」物質が中心で、GABA(1950年代後半提案)やグルタミン酸(1960年代興奮性伝達確認)は未成熟でした。​

1970-80年代にアミノ酸系(GABA、グルタミン酸)が本格化、1990年代以降にペプチド(オレキシン1998年)、NO(1980年代ガス伝達)が見つかり、脳を複雑ネットワークと再定義されました。

20世紀半ばまでは電気伝達優位論が残り、モノアミン中心の精神医学が主流でした。ジョン・C・エックルス(John Eccles)ら有力生理学者は1930-50年代、化学伝達を「遅延が大きすぎる」と否定し、シナプス後電位の逆転実験前まで電気伝達を主張。アセチルコリンは末梢神経筋接合部で証明済みでしたが、中枢では「例外」とみなされ、モノアミン系は当時神経伝達物質として未確立でした。しかしエックルスは当初の電気伝達優位論の強硬な支持者でしたが、1950年代後半の自身の逆転電位実験により化学伝達説に転向しました。これにより化学伝達(アセチルコリン興奮、GABA抑制)を証明し、1963年ノーベル生理学・医学賞受賞(Alan Hodgkin、Andrew Huxleyと共同)。​この転換は神経生理学の歴史的転機となりました。エックルスの転向で電気優位論が崩壊、Bernard Katzらとの共同研究がGABAを抑制性伝達物質と確立。モノアミン仮説は並行的に精神医学を変革しましたが、生理学の基盤転換はエックルス実験が鍵です。

ちなみにエックルスは1977年には、カール・ポパーと『自我と脳』(The self and its brain)という本を一緒に書いて、世界的な話題となった。この中で彼は、精神が脳をコントロールしているという二元論を唱えている。彼は物質世界と独立に精神世界が存在すると考え、従って脳にはそのコントロールに関わる接続部(連絡脳)があるはずだと主張したが、これに対しては批判が多い。


[i] https://en.wikipedia.org/wiki/John_Welsh_(biologist)

[ii] https://en.wikipedia.org/wiki/Betty_Twarog

[iii] 『「うつ」がこの世にある理由 作られた病の知られざる真実』ゲイリー・グリーンバーグ 訳・柴田裕之 河出書房新社 2011 p.12

[iv] 同上『「うつ」…』p.10

[v] https://en.wikipedia.org/wiki/John_Welsh_(biologist)

[vi] https://en.wikipedia.org/wiki/Betty_Twarog

[vii] 『「うつ」がこの世にある理由 作られた病の知られざる真実』ゲイリー・グリーンバーグ 訳・柴田裕之 河出書房新社 2011 p.12

[viii] 同上『「うつ」…』p.10

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