柴又帝釈天は正式な名称を「経栄山題経寺」と言い日蓮宗のお寺。「経栄山題経寺」は文字通りに解釈すると「仏教の教えが栄える山にある、経典を説く寺」という意味であり、日蓮宗なので法華経を説くお寺である。本堂には関東大震災前後(1920年代)に作られた法華経をテーマとした精巧な彫刻もある。関東大震災(1923年)で彫材が燃えるエピソードもある。

 1629年日蓮宗の僧・禅那院日忠と弟子の日栄によって創建。そのため、日蓮宗のお寺らしく釈迦牟尼仏像(釈迦堂)と大曼荼羅(日蓮聖人が1271年(文永8年)に初めて書いたとされ、現在127幅余りの直筆が現存)がある。大曼荼羅は、日蓮宗の教えの核心を視覚的に文字で表現したものであり、四隅には四天王(持国天、広目天、増長天、毘沙門天)が配されている。柴又帝釈天の二天門にも増長天と広目天像が安置されている。

  また帝釈天とはインド『リク・ベーダ』(ヴェーダ哲学の基盤となる書物)に書かれた戦闘神 インドラを起源としていて、仏教においては四天王を部下として従え、仏教と仏教徒を守護する役割を担っている。そのため日蓮宗では帝釈天を中心として四天王を配置し仏教を守護するのがお寺の基本的なスタイルのよう。

 「帝釈天」として親しまれるようになったのは、1779年(田沼意次の時代)日敬住職が日蓮が彫った「帝釈天の板本(南無妙法蓮華経と帝釈天の彫刻)」を再発見した事がその一つ。その発見したとき庚申の日であり、当時江戸では庚申信仰(三猿も三尺と関係)がブームになっていた関係もあり、庚申信仰のお寺でもある。

 また直後の天明の大飢饉(1782~1788) の際、日敬上人が「帝釈天の板本」を背負って救済活動を実施し「庶民の寺」となったこともある。「帝釈天の板本尊」の片面には、法華経の薬王品の要文が記されいて、薬王品は病を治す良薬としての法華経の力を説く章でもある。板本尊を背負って江戸の町を歩き、苦しむ人々に拝ませたところ、不思議な効験があったため柴又帝釈天は「薬王」とも呼ばれる。