キュヴィエは1796年に絶滅種の存在を証明し、動物の形態や骨格を比較解剖学により復元する技術を確立しました。この技術は彼が確立した比較心理学によるもので、この比較解剖学は大脳を精神の中心と科学的に証明するツールとなり、さらには大脳の形態から知性や感情の機能を推測する学問(骨相学など)の基礎となりました。また、頭蓋骨の形態を基に人種を三分類した理論を提唱し、科学的人種主義の基礎ともなりました。

ただ大脳と精神の関係の科学的解明は、彼以前・以後の多くの学者の議論や研究の積み重ねによるものです。代表的なものとしてヴェサリウスの脳の構造の詳細化やデカルト心身二元論の流れを受け継ぎつつ、心身一元論に近づいたスウェーデンボルグや脳の局在説を唱えたガルなどの思想がそのベースとなっています。

[①絶滅種の復元と形態の相関]

 キュヴィエ( 1769年8月23日 – 1832年5月13日)1796年に「絶滅種の存在」を科学的に証明したことで、当時の常識を覆し、一大センセーションを巻き起こしました。彼は「形態の相関」という原理に基づき、化石の骨の断片から動物の全体像を推測し、マンモスやマストドンなどの絶滅した大型哺乳類の姿を復元しました。この比較解剖学の手法は古生物学の基礎となり、絶滅の現実を科学的に示すことを可能にしました。

さらに、この「形態の相関」を活用した比較解剖学は、単に絶滅種の証明や復元にとどまらず、神経系を動物機能の中心に位置付ける考えへと発展しました。キュヴィエは、神経系の形態や構造が動物の精神的な能力や感情の基盤であると考え、神経系の特徴から知性や感情の違いを読み取れるとしました。つまり、身体の形態的特徴(特に神経系の構造)と精神的機能は密接に関係しており、形態を詳細に観察することで精神的な機能を推測できるとしたのです。この考え方は、キュヴィエの比較解剖学の枠組みの延長線上にあります。

こうした手法により、キュヴィエは人間と動物の知性や感情の座を大脳に求める見解を強く支持する結果に至りました。

[②知性や感情の座としての大脳]

 キュヴィエが動物の神経系や骨格の比較解剖学を通じて、人間と動物の知性や感情の座を大脳に求める考えを支持した当時、知性や感情の座については他に様々な見解が存在しました。

当時の一般的な考え方としては、知性や感情の座を脳の特定の部位に限定せず、心や精神の機能は身体の広範囲にわたる複合的な働きによるものと捉える傾向がありました。例えば、18世紀から19世紀初頭にかけては、心や感情は心臓や脳全体、あるいは「精神」という非物質的なものに求められることも多かったのです。キュヴィエの時代には、脳の大きさや構造と知性の関係を科学的に探求する動きが始まっていましたが、まだ脳のどの部分が 知性や感情を司るかについては明確な合意がなく、心の座を心臓や脳の他の部位に求める考えも根強く残っていました。

キュヴィエは比較解剖学の成果を基に、大脳が知性や感情の中心であると位置づけました。彼は「形態の相関」の原理により、動物の神経系と脳の構造を詳細に研究し、大脳の発達が精神的能力と結びついていると科学的に推測しました。この考えにより、知性や精神の座を大脳に求めることは、脳の全体的な機能統合の観点からも合理的とされました。

さらに、頭蓋骨の形態や神経構造によって知性を読み取るという考え方が骨相学の科学的基盤となり、比較解剖学の成果は頭蓋骨の形状から精神的能力を証明する理論を強化しました。このような学問的アプローチは、精神機能の座を科学的に探るための重要な基礎を築きました。

 ただすでに1世紀前に比較解剖の立場からウィリス(Thomas Willis)など一部の先駆的な医学者は17世紀にはすでに「大脳が精神の座である」と主張していまし。ただ当時この考えは必ずしも広く受け入れられていたわけではなく、キュヴィエが比較解剖学的証拠をもって科学的に裏付けたことで、世間的な普及が進んだと言えます。

[③キュヴィエの大脳に関する見解]

 一方で、キュヴィエが頭蓋骨の形から知性を読み取るとしたのは、骨相学の創始者とも知られるガルの「脳の局在した機能の表象として」(脳機能局在説)ではなく、「大脳全体の発達が知性を決める」という全体論的な立場に基づいています。

[④キュヴィエの人種論と個体差の見解]

キュヴィエは頭蓋骨の形状や肌の色によって人類を三分類し、白人を最上位に位置づける人種観を提唱しました。彼は白人を「美しく文明的」と評価し、黒人については頭蓋骨の形態を否定的に描写しました。この三分類は、身体的特徴による明確な区分を重視し、骨相学や人種差別的思想の理論的基盤となりました。また、キュヴィエは「種の不変説」を唱え、種間の差異を本質的なものとして捉えました。これにより、頭蓋骨の形態差が種や人種の特徴を示す一方で、個人差も種の範囲内での変異として理解されました。種の不変説は、個人間の違いを枠組み内の多様性として扱いながら、分類理論として機能しました。

【2章.大脳に関する見解の歴史】

キュヴィエは大脳(脳)を精神機能の中心とする立場を比較解剖学で体系化し、19世紀初頭の科学界に強い影響を与えました。ただし、「精神の中心=脳」という発想自体はキュヴィエ独自のものではなく、18世紀からの知的潮流を受け継いだものでした。

18世紀末から19世紀初頭にかけて、啓蒙思想や医学の発展とともに、精神機能が脳に由来するという考え方は広がりつつありました。近代以降の科学的・解剖学的知見を踏まえ、「大脳中心説」や「機能局在論」を体系的に主張した先駆者として、スウェーデンボルグやガルがいます。

スウェーデンボルグ(18世紀)は、脳の各部位が異なる精神機能を担うという「機能局在論」の先駆的考察を行い、大脳を精神の器官と位置づけました。

ガル(18~19世紀)は、さらに大脳皮質の各部位に精神機能が局在すると主張し、骨相学を展開しました。

 彼らが大脳と精神機能が一致する事実を見つけることによって心身一元論に近づいていきました。この大脳と精神機能が一致する証拠をキュヴィエとが比較解剖の見解を用いて立証したことになります。

 脳が精密に解剖され観察されたのは16世紀「近代解剖学の父」でもあるヴェサリウスによってでした。髄膜や脳室など詳細に記述されたといいます。しかし、精神のよりどころと脳の関係は脳室にあると中世キリスト教の考えのまま曖昧な部分でした。

 そこで、自身も解剖を行い精神と脳の構造の関係をはっきりさせようとしたのが17世紀のデカルトでした。デカルトは精神は完全には脳の構造には反映しない、精神は脳の機能と独立に存在し、脳の松果体で精神と身体を繋ぐという「心身二元論」を唱えることで脳と精神の関係を明確に定義しました。

 一方でさらに解剖学の研究が進み、脳の構造が心の在り方に反映しているという事実が分かってくるとだんだんと精神と脳の構造は独立存在しているわけではないという「心身一元論」に近づいてきました。

 この「心身一元論」に近づく作業を意識的に行ったのがスウェーデンボルグでした。

 この「心身一元論」が近づくにつれ脳の構造や形がその人の精神の在り方を表すという考えが登場してきたのです。この考えが体系的に考えられたのが「骨相学」となります。脳構造がその人の精神機能を表すなら、頭蓋骨の形によって脳の発達状況が読めその人の能力が読めるよね、という流れです。心身二元論だったなら、脳の構造は精神機能を反映していないので、脳の形でその人の性格や能力を読み解こうという発想にはならないのです。

 その発想に加え、当時は種は基本的にほかの種に変化しないという考えがあったため、種の基本的な脳の構造がその種の能力を決めると考え、人種も生物の「種」の一種と考えその「種」の能力を脳の構造で評価するというキュヴィエの考えがでてきたようです。

↓以下は詳細版です。

目次
【1章.キュヴィエの大脳に関する見解】
 [①絶滅種の復元と形態の相関]…形態の相関による絶滅種の復元技法による解剖学
 [②知性や感情の座としての大脳]…大脳を精神の中心とした考察
 [③キュヴィエの大脳に関する見解]…ガルの機能局在説との比較
 [④キュヴィエの人種論と個体差の見解]…頭蓋骨の形態からの人種や個体差の比較
【2章.大脳に関する見解の歴史】
 [①近代以前の脳の科学]…ヴェサリウスとデカルトの功績
 [②スウェーデンボルグ]…心身一元論への道筋
 [③ガル]…機能局在説と骨相学

1章.キュヴィエの大脳に関する見解

[①絶滅種の復元と形態の相関]

 キュヴィエ(Baron Georges Léopold Chrétien Frédéric Dagobert Cuvier, 1769年8月23日 – 1832年5月13日)が社会に最も大きなセンセーションを与えたのは、1796年「絶滅種の存在」を科学的に証明したことです。

 18世紀末から19世紀初頭のヨーロッパでは、「種は絶滅しない」「生命は連鎖しており、特定の種が永久に消えることはない」という考えが主流でした。しかし、キュヴィエは比較解剖学と地層中の化石の研究を通じて、マンモスやマストドン、メガテリウムなど、現存しない動物の存在=絶滅種の現実を明確に示しました。

この「種の絶滅」という概念は当時の常識を覆すもので、ヨーロッパのみならずアメリカでも一大センセーションを巻き起こしました。彼の研究は、絶滅が自然界で実際に起きてきた現象であることを初めて科学的に証明し、後の古生物学・地質学・生物学の発展に決定的な影響を与えました。

 この種の絶滅の証明に重要になったのが、キュヴィエが古生物学的研究により絶滅種の復元が可能となったことです。キュヴィエは「形態の相関(correlation of parts)」という原理を提唱し、動物の体の各部分は互いに機能的に関連し合っていると考えました。この考え方により、たとえ化石として部分的にしか残っていない骨の断片からでも、その動物の全体の姿や生態を推測・復元することが可能となりました。具体的には、彼は現生動物の骨格構造と化石の骨を詳細に比較し、例えば歯の形状や顎の構造、脚の骨の特徴から、その動物が草食か肉食か、どのように動いていたかなどを推定しました。これにより、マンモスやマストドン、メガテリウムなどの絶滅した大型哺乳類の姿を科学的に復元し、絶滅の現実を証明しました。このように、比較解剖学の精密な手法が古生物学の基礎となり、化石から過去の生物の形態や生活様式を再構築することを可能にしたため、キュヴィエの研究は骨相学を含む動物学全般の発展に貢献しました。そして、骨の比較解剖学による復元があったからこそ、その動物が現存種と異なること、すなわち「絶滅」という現象が実際に起きたことを科学的に示すことができたのです。

また、この「形態の相関」を用いた比較解剖は絶滅の証明や復元にとどまらず、神経系を動物の機能の頂点に位置づけ、神経系の形態や構造がその動物の知性や感情などの精神的機能の基盤であると考えました。つまり、神経系の形態的特徴は精神機能の反映であり、脳の大きさや構造の違いが知性や感情の差異を示すと解釈されました。したがって、身体の形態的特徴(特に神経系の構造)と精神的機能は密接に相関しており、形態の詳細な観察から精神機能の推測が可能だとされました。これは、部分的な骨や器官の形態から全体の機能や性質を再構成できるというキュヴィエの比較解剖学の手法の延長にあります。

 この方法によりキュヴィエは人間と動物の知性や感情の座を大脳に求める考えを支持することになります。

[②知性や感情の座としての大脳]

 キュヴィエが動物の神経系や骨格の比較解剖学を通じて、人間と動物の知性や感情の座を大脳に求める考えを支持した当時、知性や感情の座については他に様々な見解が存在しました。

当時の一般的な考え方としては、知性や感情の座を脳の特定の部位に限定せず、心や精神の機能は身体の広範囲にわたる複合的な働きによるものと捉える傾向がありました。例えば、18世紀から19世紀初頭にかけては、心や感情は心臓や脳全体、あるいは「精神」という非物質的なものに求められることも多かったのです。キュヴィエの時代には、脳の大きさや構造と知性の関係を科学的に探求する動きが始まっていましたが、まだ脳のどの部分が 知性や感情を司るかについては明確な合意がなく、心の座を心臓や脳の他の部位に求める考えも根強く残っていました。

一方、キュヴィエは比較解剖学の成果から、動物の神経系や脳の構造を詳細に研究し、特に大脳が知性や感情の中心であると位置づける見解を強く支持しました。これは当時の他の説に比べて科学的根拠を重視したもので、脳の特定部位に精神機能を結びつける近代神経科学の先駆けとも言えます。

 キュヴィエが比較解剖学の成果から大脳を知性や感情の中心と位置づける見解を強く支持した理由は、上記の「形態(部位)の相関(correlation of parts)」という原理に基づいています。この原理は、動物の体の各器官は互いに密接に関連し、全体として最適に機能するように統合されているというものです。この考え方により、キュヴィエは脳の構造を詳細に研究し、特に大脳の発達が知性や感情の高度な機能と結びついていると科学的に推測しました。彼は単なる形態的観察だけでなく、動物の神経系の構造的特徴と機能の相関関係を体系的に分析し、比較解剖学的に証拠を積み重ねた点で、当時の他の説よりも科学的根拠を重視していました。さらに、キュヴィエは動物の体の部分が独立して変化することはなく、ある器官の変化は他のすべての特徴の再設計を必要とするため、機能的な統合性が保たれているという論理を展開しました。これにより、知性や感情の座を大脳に求めることは、脳の全体的な機能統合の観点からも合理的と考えられました。

このような考えから知性や精神の座は大脳にあり、それは頭蓋骨の形態や神経構造によって証明できる。そしてその大脳がどのように発達しているかは頭蓋骨の形態を見ればわかる、とキュヴィエは考えました。また、フランス自然誌博物館の比較解剖学コレクションでも、骨格と脳の関係が「人間の能力」を読み解く鍵として重視されていたことが示されています。[i]キュヴィエの機能本位の比較解剖学は、器官の外形(頭蓋骨など)から精神的能力や知性を実体として表象する傾向が強かったため、頭蓋骨の形態を通じて大脳の発達や知性を読み取るという考え方が成立しました。またこれが骨相学の基礎となる「頭蓋骨の形状が内面を反映する」という理論の科学的根拠の一部となりました。骨相学は頭蓋骨の外形から性格や知能を推測する学問であり、キュヴィエの比較解剖学の成果はその科学的基盤を強化しました。

[③キュヴィエの大脳に関する見解]

 一方で、キュヴィエが頭蓋骨の形から知性を読み取るとしたのは、骨相学の創始者とも知られるガルの「脳の局在した機能の表象として」(脳機能局在説)ではなく、「大脳全体の発達が知性を決める」という全体論的な立場に基づいています。

1801年末に神聖ローマ皇帝がガルの講義を終わらせようと排斥した後、1805年にウィーンを離れ、現在のドイツ、デンマーク、オランダ、スイスを巡る講義とデモンストレーションのツアーを開始しました。1807年、ガルはパリに入り、1808年、ガルとシュプルツハイムはフランス学士院に自説の審査を正式に申請し、キュヴィエが審査委員会の主導的役割を果たしました。この審査の結果、ガルの理論は「科学的根拠が不十分」として否定的に評価されました。

 アカデミーの秘書であったキュヴィエは、当時の会長であるナポレオン・ボナパルト(1769年 – 1821年)に次ぐ地位にあり、提出物を評価する委員会を率いていました。1802年にフランス学士院(Institut de France)が再編され、キュヴィエはその科学アカデミー(アカデミー・デ・シアンス)の会員となり、以後、学士院の終身秘書として活動しました。この役職は事実上、会長に次ぐ最高幹部の一つであり、彼は死去する1832年までこの地位にありました。フランスの科学者は彼らに科学や医学を教えるために外国人を必要としないというナポレオンの厳しい警告を認識したキュヴィエは、ガルとシュプルツハイムの提出物にはあまり新しいものはないという立場をとった。[ii]

キュヴィエは比較解剖学の権威として、小脳・中脳・大脳を明確に区別し、系統発生的な観点から分類しました。

小脳:運動調節・平衡感覚の中枢として、魚類から哺乳類まで小脳が連続して存在する(各動物群の基本型における機能的・構造的な共通性や適応の証拠)。

中脳:視覚・聴覚の反射中枢と位置づけ、爬虫類や鳥類で発達することを観察。

大脳:高等動物の知性や複雑な行動に関与するとし、ヒトの大脳皮質の皺(しわ)の多さを「知性の進化の証」と解釈しました。

[④キュヴィエの人種論と個体差の見解]

キュヴィエが社会に与えた最大の衝撃は、上記の「絶滅種の存在」を科学的に証明したことの他に、人類を頭蓋骨の形態や肌の色などで三分類し、白人を最上位に位置づけるなどの人種観を提唱したことです。
 特に彼の人種論は、白人の知性や美を賞賛し、黒人を「野蛮」とみなすなど、明確な人種的ヒエラルキーを打ち出したものでした。このような分類は、後の科学的人種主義や人種差別思想の理論的根拠として利用され、社会的不平等や差別を正当化する論拠ともなりました。また骨相学の人種論に影響を与えました。

キュヴィエは人種をコーカソイド(白人)、モンゴロイド(黄色人種)、エチオピア人(黒人)の三つに分類し、それぞれの頭蓋骨の形状や特徴を評価しました。彼は白人を最も美しく文明的とみなし、黒人については頭蓋骨の形態を野蛮さの象徴として否定的に描写しました。キュヴィエの人種分類の枠組み自体は骨相学の基礎となりました。三つに分類した理由は、主に頭蓋骨の形態的特徴や外見的形質に基づいて、身体的な違いを明確に区別できると考えたからです。キュヴィエは『動物界』(1817年)などで、コーカソイド(白人)は「頭部の形の美しさ」「楕円形の顔」「まっすぐな髪と鼻」などを特徴とし、文明や知性の面でも最も優れていると評価しました。モンゴロイド(黄色人種)は東アジア・北東アジアの人々で、頭蓋骨や顔立ちの特徴で区別されました。エチオピア人(黒人)は「圧縮された頭蓋」「平らな鼻」「厚い唇」などの特徴を持ち、キュヴィエはしばしば否定的・差別的に描写しました。キュヴィエは動物界の4つの基本型(タイプ)という独自の分類体系を重視し、進化や連続的な変異を否定していました。それと同様な発想なのでしょう、この三分類は、当時の自然科学や人類学において「身体的特徴による明確な区分」が可能であるという前提に基づいており、キュヴィエ自身が比較解剖学の専門家として、頭蓋骨や骨格の形態差を重視していたことが背景にあります。また、キュヴィエはアラブ人などもコーカソイドに含め、ヨーロッパ人・中東人・インド人などを同じグループと見なしましたが、その中でも文明や美的観点で序列をつける傾向がありました。

 

 またキュヴィエは「種の不変説」を唱え、動物の種は根本的に異なり、それらの間に連続的な変異は存在しないと主張しました。この考えは、当時の進化論的な変異説に対抗し、骨相学が人種や性格の違いを頭蓋骨の形態差に基づいて説明する際の理論的支柱となりました。キュヴィエの「種の不変説」は、動物の種は根本的に異なり、一つの種が別の種に変化することはない、つまり種間に連続的な変異は存在しないとする考え方です。これは当時の進化論的な「種は変化しうる」という説に対抗する立場でした。もし種が変化しうる連続的な存在であれば、頭蓋骨の形態差は単なる変異の一部に過ぎず、性格や知能の差を固定的に説明する根拠としては弱くなる。キュヴィエの説は、種や人種ごとに異なる「本質的な形態的特徴」が存在し、それが頭蓋骨の形状に反映されているとする骨相学の理論的前提を強化しました。

キュヴィエは「種の不変説」によって、種間の大きな差異は本質的・根本的なものとして区別しましたが、同じ種内での個体差(例えば頭蓋骨の細かな形態の違い)は、あくまでその種の許容される範囲内の変異として理解しました。つまり、種や人種という「大きな枠組み」は固定されているが、その中での個人差は存在すると考えたのです。キュヴィエは動物の骨格や器官が全体として調和していることを示しましたが、その調和の範囲内での個体差は認められました。これにより、頭蓋骨の形態差は種や人種の特徴を示す一方で、個人差も存在することになります。つまり、種の不変説は大枠の分類理論として機能し、個人間の違いはその枠組みの中の多様性として扱われたのです。

2章.と大脳に関する見解の歴史

キュヴィエは大脳(脳)を精神機能の中心とする立場を比較解剖学で体系化し、19世紀初頭の科学界に強い影響を与えました。ただし、「精神の中心=脳」という発想自体はキュヴィエ独自のものではなく、18世紀からの知的潮流を受け継いだものでした。

18世紀末から19世紀初頭にかけて、啓蒙思想や医学の発展とともに、精神機能が脳に由来するという考え方は広がりつつありました。近代以降の科学的・解剖学的知見を踏まえ、「大脳中心説」や「機能局在論」を体系的に主張した先駆者として、スウェーデンボルグやガルがいます。

スウェーデンボルグ(18世紀)は、脳の各部位が異なる精神機能を担うという「機能局在論」の先駆的考察を行い、大脳を精神の器官と位置づけました。

ガル(18~19世紀)は、さらに大脳皮質の各部位に精神機能が局在すると主張し、骨相学を展開しました。

 彼らが大脳と精神機能が一致する事実を見つけることによって心身一元論に近づいていきました。この大脳と精神機能が一致する証拠をキュヴィエとが比較解剖の見解を用いて立証したことになります。

 脳が精密に解剖され観察されたのは16世紀「近代解剖学の父」でもあるヴェサリウスによってでした。髄膜や脳室など詳細に記述されたといいます。しかし、精神のよりどころと脳の関係は脳室にあると中世キリスト教の考えのまま曖昧な部分でした。

 そこで、自身も解剖を行い精神と脳の構造の関係をはっきりさせようとしたのが17世紀のデカルトでした。デカルトは精神は完全には脳の構造には反映しない、精神は脳の機能と独立に存在し、脳の松果体で精神と身体を繋ぐという「心身二元論」を唱えることで脳と精神の関係を明確に定義しました。

 一方でさらに解剖学の研究が進み、脳の構造が心の在り方に反映しているという事実が分かってくるとだんだんと精神と脳の構造は独立存在しているわけではないという「心身一元論」に近づいてきました。

 この「心身一元論」に近づく作業を意識的に行ったのがスウェーデンボルグでした。

 この「心身一元論」が近づくにつれ脳の構造や形がその人の精神の在り方を表すという考えが登場してきたのです。この考えが体系的に考えられたのが「骨相学」となります。脳構造がその人の精神機能を表すなら、頭蓋骨の形によって脳の発達状況が読めその人の能力が読めるよね、という流れです。心身二元論だったなら、脳の構造は精神機能を反映していないので、脳の形でその人の性格や能力を読み解こうという発想にはならないのです。

 その発想に加え、当時は種は基本的にほかの種に変化しないという考えがあったため、種の基本的な脳の構造がその種の能力を決めると考え、人種も生物の「種」の一種と考えその「種」の能力を脳の構造で評価するというキュヴィエの考えがでてきたようです。

 その流れを踏まえ、まずは脳の解剖の詳細化と心身二元論が定めらえた「近代以前の脳科学」を論じます。

[①近代以前の脳学]

 近代の脳の科学を考える視点として、まずは16世紀ルネサンス期イタリアでヴェサリウスは脳を含む人体の解剖学的構造を科学的に明確化し、17世紀にその解剖学的構造の科学的明確化の発展を受けどのように心を捉えるべきかという問題をデカルトはヴェサリウスなどの解剖学的構造の知見を踏まえつつ、脳の解剖学的観察と心の哲学的捉え方(心身二元論)を明確化しました。

・ヴェサリウス(16世紀)

 近代解剖学の父とも言われるヴェサリウスの『人体の構造についての七つの書(De humani corporis fabrica)』(1543年)。中世ヨーロッパでは宗教的制約などにより解剖学は停滞し、ガレノス(2世紀)の動物解剖に基づく理論が長く支配的でした。ヴェサリウスの革新性は、ガレノスの権威に依存せず、自らの手で人体を解剖・観察し、科学的・系統的に記述・図解した点にあります。

 ヴェサリウスの時代には、脳を脳室がガレノスの影響もあり「精神の座」と考えられていたという歴史的背景があります。脳を解剖すると、中心部に大きな空洞(脳室)があり、いかにも意味ありげな空間に見えました。精神や魂の実体を「目に見える空間」に求める傾向があり、脳室はその象徴的な場所となりました。そのため、ここが重要な役割を果たしていると推測され、「精神の座」とされたのです。

 実際ガレノス自身は経験主義を重んじていたため、自身も解剖して頭部の中にある何かが体をコントロールしていることが分かってきたようだが、この「何か」が脳そのものであることに気づかず、脳の中にある空間がその「何か」だと思っていたようです。生きた動物の頭を開いたとき、大脳の基底が肺のように膨らんだり縮んだりしているのが見えたと記録し、アリストテレスが生命の根源と考えていた「プネウマ」が空気中に含まれており、人が空気を吸うと「プネウマ」が前方の脳室にたまり、そこで精気に変化すると、後部の脳室を経て神経を通って全身に運ばれると理解した。[iii]

ヴェサリウスの少し前の同じイタリア人であるレオナルド・ダ・ヴィンチなどは、脳室の前部を知覚の中枢(感覚器からの情報が集まる)、中部を判断(これはおそらく側室で前脳室で得た感覚器からの情報を振り分けるのが理性とした)、後部を記憶の座(ガレノスも脳室を3区分し前脳室に感覚経験を、中脳室に理性を、後脳室に反応制御の役割を当てはめ精神機能の局在観を示している:記憶の座であるとともに「プネウマ」を全身に運ぶ)[iv]とするなど、精神活動の各機能が脳室内で分担されていると考えました。ダヴィンチは実際神経が脳室に集まることを観察しています。1490年、ダ・ヴィンチがフィレンツェからミラノに行き、ミラノ大聖堂のティブリオのコンペで案を考え、結局経験豊かなマルティーニがミラノに招聘されてきた時期に、ダ・ヴィンチは男性の頭部の解剖を想像したものを描いているが、目からの神経が前脳室の共通感覚に結ばれて描かれています。1490年代はウィトウィルス的人間が書かれた時期で、パチョーリとの時代は1490年代後半。

 さらにその後感覚器からの神経が従来言われているように前脳室ではなく中脳室(現代の視床)あたりに来ていることも観察しています。チェーザレ・ボルジアの軍事技術者を終え、フィレンツェでミケランジェロの「ダヴィデ像」の配置を決める委員に参加した後に、再びミラノに短期で訪れた1506年に、脳室に溶かしたワックスを注入し、固定後、他の組織を除去して脳室の形を取り出し、感覚器からの神経が前脳室からでなく、中脳室の周り(現代の視床)に来ていることを自ら観察したようです。このことから、共通感覚(彼の言によれば、共通感覚とは他の諸感覚から自分に与えられたものを判断するところ)は中脳室の働きであると主張したという。[v]

17~18世紀にかけて、脳実質(特に大脳皮質)の構造や神経線維の走行が徐々に明らかになり、脳の実体としての重要性が認識され始めるなど解剖学の発展により、脳室中心の考え方が徐々に弱まり、脳実質の重要性が意識されるようになりました。ヴェサリウ自身もコペルニクスの名著と同じ年の1543年にパドヴァ大学教授時代に書いた『人体の構造について(ファブリカ)』におてい、彼はガレノス以来とらえられてきた脳室-生命の気の考えを捨て、神経内に中空の管はなく、脳の実質がもっとも重要な精神活動の座であると主張したようです。[vi]因みこの本により、パドヴァ大学の職は追われますが、カール5世の侍医になっています。

・デカルト(17世紀)

デカルトは心身二元論を唱え、心(精神)は松果体に宿るとしましたが、脳が精神活動と密接に関わることは認めていました。

 デカルトは17世紀初頭、解剖学が発展しつつあった時代に、自ら動物(特に牛など)の脳を解剖し、脳の構造を詳細に観察しました。彼は特に「松果体(松果腺)」に注目しました。松果体は大脳半球の中央、第三脳室後方に位置し、他の脳部位が左右対称であるのに対し、松果体は脳内で唯一「一つだけ」の構造であることから、特別な役割があると考えました(松果体の特殊な役割という見解は現代では否定されています)。当時の生理学的知識やガレノス以来の伝統を踏まえ、脳室内を流れる「動物精気」と呼ばれる流体が精神や身体の活動に関与していると考えていました。松果体は脳の中心、すなわち脳室の中間に位置し、前後の脳室をつなぐ通路の上に垂れ下がっていると認識されていました。このため、松果体が動物精気の流れを制御し、精神(魂)と身体の相互作用の媒介点になると論じられました。

 デカルトは「精神(心)」と「身体(物体)」を本質的に異なるものとする心身二元論を提唱しました。彼によれば、精神と身体が相互作用する唯一の場所が松果体であり、「魂(精神)」はこの松果体に宿ると考えました。デカルトは『屈折光学』などで、感覚情報は外界から神経を通じて脳に伝わり、最終的に松果体で魂に作用すると論じました。たとえば網膜像は神経を伝って脳に到達し、松果体で「精神印象」として魂に知覚されるとした。デカルトは、知覚と運動が神経を介して脳内で連関し、脳(特に松果体)で統合されるという考えも示しています。

 デカルトは自然現象や身体の運動を機械論的・物理学的に説明しようとしましたが、精神の働きや意識、自己の存在は物理的な説明だけでは捉えきれないと考えました。一方で、キリスト教の伝統では魂と肉体の区別が強調されていましたが、魂と身体の関係やその本質については曖昧な部分が多く、哲学的な根拠や説明が不足していました。「心」と「体」を明確に区別し、その関係を問い直すことで、両者の相互作用や人間存在の本質を哲学的に説明しようとしました。これが心身問題(mind-body problem)の出発点となり、以後の哲学・科学の大きなテーマとなりました。デカルト以前にも心身二元論的な考えは存在しましたが、デカルトは精神と物質を「独立した実体」として厳密に定義し、両者の相互作用を哲学的に説明しようとした最初の人物でした。

 ちなみに、デカルトは心と身体を明確に分ける「心身二元論」によって、心(精神)の働き――思考、意志、感情など――を身体や脳とは独立した研究対象として捉える道を開き心の働きや精神疾患、感情、意志などが、物理的な身体とは別に科学的・哲学的に探究されるべき対象であるという発想が生まれ、心理学や精神医学、心の哲学の発展につながりました。

 こうして、脳の構造は詳細化されたものの精神構造は別であるという考えが作られていきました。この考えを崩して心身一元論に近づいていったのがスウェーデンボルグになります。

[②スウェーデンボルグ]

スウェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg, 1688–1772)は、脳と精神(霊魂)の関係について当時としては先駆的な考察を行い、霊魂の知覚作用が脳の皮質(大脳皮質)に発生すると提唱しました。これは、精神的・霊的な活動の中心が脳の表層部(灰白質)にあるとする見解であり、解剖学史上初めて精神機能と脳皮質の関連を明確に指摘した人物と評価されています。

 

スウェーデンボルグは、意識的な精神作用の中心が大脳皮質の灰白質にあることを突き止め、たとえば「大脳の最も高い葉が足の筋肉を支配し、その最も低い葉が顔の筋肉を支配する」と記述しました。これは現代の運動野の体部位局在(ペンフィールドのホムンクルス)に通じる発想です。[vii]ペンフィールドの研究は、てんかん手術中に患者の大脳皮質を電気刺激する実験により、大脳皮質の一次運動野や体性感覚野には、体の各部位が順序よく並んで投影されている(体部位局在)ことが明らかになりました。ペンフィールドはこの対応関係を「ホムンクルス(小人)」という図で表現しました。ホムンクルスでは、脳の上部(内側)に足、下部(外側)に顔や舌が対応して描かれています。これは「大脳の最も高い葉が足の筋肉を支配し、その最も低い葉が顔の筋肉を支配する」という記述と一致します。ちなみにペンフィールドの発見により、脳の特定部位が特定の身体部位の運動や感覚を司るという「機能局在論」が実証的に確立されました。ペンフィールドの実験は1930年代から1950年代にかけて行われ、1950年代にその成果が確立・発表されました。

彼は脳の構造や神経の走行を詳細に観察し、現代でいう「ニューロン」に相当するものを「ケレベルラ」と呼んで把握するなど、当時としては非常に先進的な脳解剖学的知見を持っていました。[viii]この「ケレベルラ」という名称は、彼が脳の微細構造を独自に観察し、神経細胞のような単位として記述したものです。現代の神経科学でいう「ニューロン」という用語や概念が確立する以前に、スウェーデンボルグは既に脳内に微細な構造が存在し、それが脳機能に関与していることを認識していた点が特筆されます。この発想の背景には、デカルト的な心身二元論を乗り越え、精神と身体(脳)の結合点を科学的・哲学的に説明したいという意図がありました。ケレベルラを想定することで、霊的なものと物質的なものの間に「橋渡し」を設け、精神活動が脳内でどのように実現されるかを説明しようとしたのです。彼は、単に脳の構造や機能を記述するのではなく、「霊魂(アニマ)」の所在と働きを突き止めること、すなわち精神活動や意識がどのようにして物理的な脳の中に現れるのかを明らかにしようとしていました。スウェーデンボルグは、脳の微細な構造(ケレベルラ)が霊魂の働きの物質的な受容器・媒体であると考えました。つまり、霊的なもの(精神・魂)が、ケレベルラという微細な単位を通じて脳内に作用し、そこから意識的な心や合理的な心が生まれると想定したのです。[ix]

スウェーデンボルグは、外部からの刺激が感覚器と神経を介して脳に伝わり、生命活動を支えると説明しました。つまり、感覚情報は神経を通じて脳に到達し、脳で処理されることで意識や運動が生じるという、現代神経生理学につながる見解を持っていました。

彼は「霊魂は肉体の内部で脳や神経を形成し、外界からの働きかけを受容できるようにする」とし、霊魂が神経系を通じて身体と世界をつなぐ媒介的役割を果たすと考えました。スウェーデンボルグの解剖学は、医学的なものというよりは、霊魂の所在と仕組みを明らかにしようとしていたのであって、この点について彼は死後出版された『合理的心理学』の中にまとめております。[x]

スウェーデンボルグは、デカルト的な心身二元論(心と体の本質的分離)を超え、精神的・霊的な活動が脳の物質的構造と密接に関係していることを強調しました。この点で、近代的な心脳一元論や脳科学の先駆ともいえる立場です。スウェーデンボルグは人間の内的世界(魂・霊)を通して神と直接つながることができると考えていたと言えます。彼の思想は、心身二元論や単純な一元論を超えて、「人間の内面の霊的発展を通じて神性に到達できる」という神秘主義的な立場に立っています。スウェーデンボルグは、自然界の構造や法則を観察し、そこに神の創造の意図や普遍的な真理が表れていると考えました。自然界の精緻な秩序や人体の複雑な仕組みを探求することは、単なる科学的知識の追求ではなく、「神の知恵や意志を読み取る行為」でもありました。一方で、人間の内面、すなわち霊的発展や魂の成長を通じて神性に近づくことも重視しました。彼にとって、外的な自然界の理解と内的な霊的成長は、いずれも神の真理に到達するための相補的な道でした。スウェーデンボルグは、自然界(外的世界)の観察と人間の内面(霊的発展)の探求を統合し、どちらも神の真理や神性に近づく道と捉えていました。

脳の構造や機能を知ることも、霊魂や内的発展を理解し、最終的には神性に到達するための重要な手段と考えていたと言えます。

[③フランツ・ヨーゼフ・ガル]

骨相学の創始者(※但しガルが自らの理論体系を骨相学と呼ぶことを拒絶していたと。彼自身は,頭蓋学Schädellehreや器官学Organologieあるいは脳生理学という名称を使用していた[xi])でもあるフランツ・ヨーゼフ・ガル(Franz Joseph Gall、1758年3月9日 – 1828年8月22日)は大脳の「機能局在説」を唱えて、それをもとに頭蓋骨の観察をして能力を体系化していますが、キュヴィエは否定的でした。彼の比較解剖学は、動物の各器官や骨格の全体的な調和や相関を重視し、個々の器官が全体の中でどのように機能的に結びついているかを重視しました。そのため、キュヴィエは「大脳の発達=知性の発達」と捉えましたが、大脳の“どの部分”が“どの精神機能”を担うかという細分化した局在的な発想には立ちませんでした。キュヴィエは、精神機能を「大脳全体」に帰属させることで十分だと考え、部分ごとの細かな機能分担には懐疑的でした。当時の科学的知見では、脳の各部位の具体的な役割を明確に分けて証明することは困難だったため、全体論的な立場をとる方が自然でした。実際、脳の機能局在説が科学的に明確にされるのは、ブローカ(1824-1880)など19世紀後半以降のことです。

ガルの発想は当時の比較解剖学や自然哲学の中では、「生物の構造や機能が単純なものから複雑なものへと階層的に発展する」という“発生的”あるいは“序列的”な考え方(※進化論的な考え方に似ているが違う)が広まっていたのをうけ、神経系の成り立ちにおいても、脊髄の下位器官が発達して脳の上位器官が形成されると考え、脳は脊髄の中心軸に沿って集積した神経節は機能上も区別の機能上も区分できる特有の器官であるとの立場をとったようです。それまでは脳は均質な実体と考えられていましたが、ガルはそれぞれの分節が異なる機能を持っていると主張しました。

しかしこのガルの言説は、発想は比較解剖学や自然哲学からとりましたが、また400人以上の頭蓋骨をその性格ととともに調べたりもしていますが、当時は死者の脳を研究するしかなかったため、脳の内部を観察した知見によるものではなく個々の観察や思い込みに大きく依存しており、客観的な実験や統計的検証がなされていませんでした。そのため、当時から「思いつきや思い込みによるところが大きい」と批判されました。

ただ、1801年には最後の神聖ローマ皇帝だったフランツ2世(娘はナポレオンに嫁いでいる)は、頭のかたちに関するガルの学説の公表を禁じられたりしています(そのため革命期で自由な気風のあるフランスへガルは逃亡している)が、これは、科学的根拠の希薄さというだけでなく、ガルの思想が社会秩序や宗教的権威を脅かすと見なされたためです。ガルの骨相学は、人間の精神や性格が頭蓋骨の形態によって決定されると主張し、個人の本性や能力を科学的に「見える化」しようとするものでした。この考え方は、自由意志や魂の平等性といったキリスト教的価値観、さらには身分制社会の秩序とも衝突します。そして、ガルの学説は当時のウィーンの学界や権力層から「危険思想」とみなされ、社会的動揺を招く恐れがあると判断されました。そう考えるとキュヴィエもどうようにキリスト教社会にとっては危険視される可能性のあるものだったのですが、キュヴィエはフランス革命後の科学界であり自由な気風があったため直接排斥されることはありませんでした(だからガルもフランスへ逃亡しているのだと思われる)。


[i] 論文 https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-16K04444/16K04444seika.pdf

[ii] https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC6476975/ 『フランツ・ヨーゼフ・ガル、生殖衝動の器官としての小脳について』ポール・エリング , スタンレー・フィンガー 2019

[iii] 『科学は歴史をどう変えてきたか』 ジョン・リンチら 2011 東京書籍

[iv] 『心理学史への招待』梅本尭夫ら1994.1.25サイエンス社

[v] 『心理学史への招待』梅本尭夫ら1994.1.25サイエンス社

[vi] 同上

[vii] 『高橋和夫著『スウェーデンボルグの思想』を読む(その1)』「教授のおすすめ!セレクトショップ」 https://plaza.rakuten.co.jp/professor306/diary/202105290000/

[viii] 同上

[ix] 同上

[x] 同上

[xi] 論文『器官から骨相へ―ガルとシュプルツハイム』 川名雄一郎東京経大学会誌 第325号 https://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/12146/1/keizai325-05.pdf

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