目次
【1章.江戸時代】
■川越夜戦跡■徳川家康と川越■天海僧正の影響■松平信綱の再建■川越の名産■
 
【2章.明治・大正時代】
■川越大火と蔵造り■大正建築と保岡勝也■■現代■

【1章.江戸時代】

 川越城はもともと1457年に築城されていたが、北条氏に支配がされている。その北条氏の時代で有名なのが、「川越夜戦跡」である。「日本三大夜戦」の一つとも言われ、上杉軍の大軍に対し、援兵の北条氏康の少数の兵の夜間の奇襲と少数の城兵との連携により勝利した戦いである。

 その後、徳川家康が関東に入府した1590年から徳川の領地となり、川越藩が設置される。川越は北の守りとして重要であったことと、川越の喜多院の天海僧正が家康に大きな影響を与えた事から江戸と大きな関りを持つ。

 家康の遺骨を日光へ移送する際、川越の喜多院を経由していたり、1638年に川越大火の際は天海僧正との繋がりから、焼けてしまった喜多院の再建に江戸幕府の援助を受けている。特にこの時、徳川家光の江戸城紅葉山別殿にあった「家光誕生の間」が喜多院に移築されている。

 川越大火では、川越城も焼けていて、この時川越藩主・松平信綱が重要な再建事業を行う。松平信綱は島原の乱(1637₋38年)において幕府側の指揮官の一人として重要な活躍をしていた。川越城の再建においては江戸と隅田川・荒川を通して川越に繋がる新河岸川の整備も行う。新河岸川性は上記の喜多院再建の際に本格的に使われるようになったようだが、松平信綱が整備することによって、江戸と川越を結び、また周辺地との舟町として発展する事になる。これにより、江戸のものが川越に多く入り「小江戸」と呼ばれるほどになる。

 江戸と同時期にうなぎの蒲焼の文化が普及したりしている。

■川越夜戦跡■

 もともと川越城があって、北条氏と上杉氏の城攻めに対して少数で打ち勝った「日本三大夜戦」のひとつである「川越夜戦跡」がある。

 1546年に行われた上杉軍と北条軍の激戦が繰り広げられました。上杉朝定が8万の兵を率いて川越城を包囲したものの、援軍である北条氏康の8千の兵の夜間の奇襲と城兵3千人の連携で見事に北条側が勝利を収めた戦いである。

■徳川家康と川越■

栄え始めたのは、徳川家康が関東に入府した1590年から徳川氏の領地となり、川越藩が設置されたときからといわれている。川越は江戸の北の守りとして重要視され、最古参の譜代大名である酒井重忠が初代藩主に。

また家康は川越を鷹狩りの地として訪れていた。

■天海僧正の影響■

川越にある喜多院の天海僧正が、豊かな学識から徳川家康に信頼を置かれ江戸との縁が深くなる。その流れから家康の遺骨を日光へ移送する際、喜多院で法要が営まれ、川越を経由している。そのため、1638年川越大火の際は、喜多院の再建の援助も得られ、三大将軍・家光の出生間(江戸城紅葉山別殿にあった)や乳母の部屋が江戸から喜多院に移築されている。川越大火は1月28日に発生し川越城と城下町の一部を焼失したもの。

このとき喜多院や隣の仙波東照宮の再建資材を新河岸川で運ぶ事から川越の舟運が盛んになる。川越城付近を通っている新河岸川(および赤間川)が荒川・隅田川と渡って江戸に繋がっていたため、舟町として発展する。当初は年貢米の輸送が中心でしたが、後に人や様々な物資を運ぶようになりました。川越から江戸へは米、麦、農産物、木材、薪炭などを運び、江戸からは日用雑貨や肥料、塩などを運びました。川越には「川越五河岸」と呼ばれる。この舟運により、川越は江戸の文化の吸収し、独自の発展を遂げました。他にも江戸からだけでなく舟運の起点として、川越は農産物や織物の集積地となり、商業都市として発展しました。明治時代以降、鉄道の開通により舟運は衰退。   

■松平信綱の再建■

 また、上記の1638年の川越大火により燃えてしまった川越城の再建に川越藩藩主・松平信綱が乗り出し(1635年大火前から何らかの事業はしていたよう)、小江戸の基礎を作り、本殿や新河岸川の舟町などの機能が加速する。新河岸川は治水事業を行い、伊佐沼から水を引いたり、「九十九曲がり」と呼ばれる蛇行した流路を造成した(これにより、水量を保ち、船の運航に適した環境が整備されました)。

また松平信綱はその後、1657年の江戸の明暦の大火の後の江戸の年の復興計画の中心的役割を担い、川越大火後の復興経験がいかされたとも。明暦の大火は日本史上最大規模の火災とも言われ、世界三大大火(ローマ、ロンドン)の一つとされることもあります。おそらく後世の創作だが「振袖火事」の逸話も残っている。

 因みに松平家は家康の次男・結城秀康の系統である。また松平信綱は、川越藩主になる以前は「のぼうの城」で知られた武蔵忍城の藩主をしたり、島原の乱の幕府側の指揮官の一人として重要な役割を果たす(一揆軍の死体の胃を調査し、食料が尽きかけてることを知ったという逸話がある)。

 更に川越城の近くには江戸時代に成立したとすされる七五三の参拝を題材にしていると考えられる「通りゃんせ」の発祥の地ともいわれる三芳神社がある。

■川越の名産■

 中山道の宿場町・上尾宿を結ぶ川越・上尾線は上尾線として当時からあったよう(博物館ジオラマから)。

 川越うなぎは、江戸時代は牛豚禁止のため重要なたんぱく源であり、更に川が近かった(当時は天然のうなぎが豊富に獲れた)ため、また川越は醤油の山地でもあり蒲焼の普及に貢献し(江戸とほぼ同時期に蒲焼の文化が広まる)、川越うなぎはブランド化された。

 川越さつまいもは、1751年市原から川越へ渡ってきている。さつまいもは中国から琉球を渡り薩摩を通して日本に渡り、1732年に青木昆陽が困窮対策に有効性を唱え全国普及となったものであり、年代的には江戸とのアクセスの良さなどからこの流れに乗ってきたものと思われる。ただ、品質の良さから江戸において「川越いも」として高い評価を受ける。

 時の鐘、川越だんご(川沿いから米が集積したため名物化)なども江戸時代に端を成す。

【2章.明治・大正時代】

 明治期には、1638年の川越大火に継ぐ1893年の川越大火が起こっている。

川越大火により町の3分の1が焼失し、大火後焼失を逃れた家屋は耐火建築の蔵造りであったことも関係し、江戸時代からの商業活動で蓄えた財力を活かし、伝統的な土蔵造りを選び、レンガや石材などの新しい建築資材も取り入れた。この結果、川越には独自の区づくりの町並みが形成され、現在もその風情を残す。

 蔵造り自体は、江戸の町家形式として発展した大火建築をもとにしていて、特徴的な黒い漆喰が塗られている。

 その後、大正時代には、ジョサイア・コンドルや辰野金吾のもとで三菱地所時代学び、三菱の丸の内赤レンガオフィス街の設計を手がけた(日本初のSRC造など)保岡勝也が独立し、川越の八十五銀行などの再建や「住宅建築」の始まりである元山崎別邸などがある。

 東京大空襲においては川越は逃れた為、川越は明治・大正の街並みが残った都市(江戸もベースであるが川越大火で焼けている場所も多い)となっている。

 現在ではコーヒーやビールなどの文化も発展してきている。

 明治に入り、現在でも観光地として残っている松村旅館(1873年)や、埼玉で初の牛肉を食べる料理店である「吉寅」(1878年)などが出来ている。他にも酒蔵・鏡山が1893年に創業している(こちらは米の集積地であった川越の風土と関係か)。菓子屋横丁も明治時代初期に和菓子職人が店を開いたのがきっかけで発展した。

■川越大火と蔵造り■

 1893年3月、川越大火(1638年以来の大規模な大火)により町の3分の1が焼失。養寿院門前にある紺屋職の作業場で業務用の灰が十分に消火されていないのにもかかわらず、灰部屋に入れられたことが出火の原因となる。そこに、強い北風、連日の晴天による空気の乾燥、消化用の井戸水が使い果たされてしまったことの条件が重なり大規模な火災となる。

川越商人は防火対策として蔵造り建築を採用(大火後焼失を逃れた家屋は耐火建築の蔵造りであったことも関係)。江戸時代からの商業活動で蓄えた財力を活かし、伝統的な土蔵造りを選んだが、レンガや石材などの新しい建築資材も取り入れた。この結果、川越には独自の区づくりの町並みが形成され、現在もその風情を残す。

 蔵造り自体は、江戸の町家形式として発展した大火建築をもとにしていて、特徴的な黒い漆喰が塗られている。

因みに松村旅館は逃れ、時の鐘はおそらく焼けて再建。

■大正建築と保岡勝也■

 1910年代大正期に入ると、看板建築(1921年造、現在蕎麦屋「百丈」のある建物)など大正期ならでは建築ができる(大正浪漫夢通りなどに残る)。

 特に東京の三菱地所が開発していた煉瓦通りの建設に携わっていた保岡勝也が独立し、川越において商業建築(八十五銀行や山吉デパート)や日本初の住宅建築(元山崎別邸:家具から建築・茶室・庭まで全て設計)を作った事が印象深い。

 保岡は元々、ジョサイア・コンドルや辰野金吾のもとで三菱地所時代学び、三菱の丸の内赤レンガオフィス街の設計を手がけ、仲通りの建物を数多く設計した(「丸の内一丁倫敦」の完成に貢献)。煉瓦通り14番の日本初の鉄筋コンクリート造(SRC造)に挑戦している。他にも丸の内の第21号館(現在の新丸の内ビルディング)の基本設計を手がけ、その先進的なプランニングが高く評価されている。その後、三菱地所で技師長だったが退社し、1912年に独立し建築事務所を開設。地方銀行や住宅設計に携わる。また独立と同時に『新築竣工家屋類算』を刊行し、当時としては珍しい生存中の建築家による作品集として注目。川越において老舗「亀屋」との繋がりを受け、「亀屋」と繋がりのある八十五銀行(埼玉県初の銀行だったが川越大火で再建が望まれていた)の建築を担当し、またその繋がりで元山崎別邸などを手がける。1921年頃からは中小の住宅を大量に手がけ、市民向けの住宅図集を刊行。家具から建築・茶室・庭まで全て設計した元山崎別邸はその一環だったのだろう。

 1940年代の東京大空襲では川越は逃れ、街並みが残り、これが明治・大正ベースのレトロモダンな町となる。

■現代■

 川越はコーヒー店も多くある。

1996年にスタバの銀座1号店が出来た頃、コーヒー店は多くあり、「あぶり珈琲」が出店している。

 2016年にglin cofeeがコミニティや浅煎りなどを普及させて、チェーン化が川越で7店もできコーヒー文化に貢献。パフェとフローズンが融合した「Prozen」なども発祥。

 コエド・ビールは1996年辺りにドイツから技術者を招いたりして2006年の地ビールブームの頃に川越の地ビールとして流行る。一度衰退するが、独自性追求し今にいたる。