1章・八百幸商店の創業
1890年に川野幸太郎が、埼玉県比企郡小川町に青果商の「八百幸商店」を創業しました。
しかし、幸太郎は昭和初期に死去してしまいます。
その後、幸太郎の三男である川野清三が店を継ぎます。
■➀清三の繁盛店化■
清三の頃になり、野菜・果物から鮮魚、乾物まで取り扱うようになりました。
また地元の料理店や小売店に商品を販売する卸もするようになりました。そのため、清三は小川町にあった青果海産物商業組合の会長に就任しています。
店は小川町駅前通りを突き当たった大通りの商店街の一角にありました。90店以上が軒を連ねており、毎月1日と6日には市が立つなど、にぎやかでした。八百幸はお中元やお歳暮の品物はもちろん、進物(贈り物)がよく売れていました。ある問屋さんには「八百幸は小川町のデパートですね」なんて言われていたようです。
当初15坪くらい(約50平方メートル)の店が何度も拡張されたようです。
場所的には小川地方は小川町を中心に周辺の町村の人が集まり、小川町は交通の要衝(であったようです(武蔵野の小京都とも名付けられる)。鉄道は八高線、東武東上線が走っています。そこから東京や川越、熊谷に行く、地方の中心的な役割でした。地元の人は、ちょっとおいしいものを食べたい、と思うと八百幸に来てくれていたようです。
小川町一の繁盛店となっていたようです。
ただし、清三が継いで戦後セルフサービス化するまで、30年くらいあり、この状態はおそらく戦後の頃の証言と思われます。
■②川野トモの入籍と戦中・終戦直後の経営■
川野トモ(1920~2007)は、古物商の「門倉商店」の娘でした。
小川高等女学校を卒業し、東京・神田の村田簿記学校を卒業後、代用教員として小学校の先生として勤めていました。
「八百幸商店」は大の「門倉商店」のお得意様で、トモが何度も八百幸商店に商品を届けていたため、その働きぶりが清三とその奥さんの志げの目に止まり、清三の弟の荘輔と1940年に入籍することになりました。
そして、おそらく荘輔は弟であっても恐らく年も清三と離れていたためか、店の跡継ぎと考えられ清三の順養となっています。
1942年に川野幸夫を出産します。
清三と志げも跡取りになるであろうと幸夫をかわいがり、トモは跡を継げるような息子に育てることが嫁としての存在感を示すと考えていたようです。
その後、荘輔はすぐに日中戦争と太平洋戦争の戦局の悪化に伴い8年間くらい出征したようです(次男の清巳が生まれたのが1948年なのでおそらく1941年前後に出征)。
戦時中は地域の配給所として中心的な役割を果たすようになったようです。
終戦直後は東武東上線で神田市場や築地市場に清三・志げとトモで交代して買い出しにいっていたようです。仕入れればしいれるだけ、商品が飛ぶように売れ行く様から、商品が飛ぶようにうれていく小売りという商売の楽しさに、トモは次第に魅せされていくようです。
そして1948年頃に復員した荘輔は八百幸商店の商売に戻り、この頃から八百幸商店をトモと荘輔に任せるようになったようです。清三は小川海産物商業組合の会長であったりして、そちらの活動に精を出したり、幸夫と1948年に生まれた清巳の面倒を基本的に見たりして、その傍ら店を手伝っているようになったようです。
一方、トモはその頃から今でいう店長のような役割をこなして、接客から管理などをしていたようです(忙しくて子供の面倒は祖父母任せになっていたようです)。
※… https://www.yaoko-net.com/corporate/story.html ヤオコーHP「創業ストーリー」、https://www.yaoko-net.com/corporate/yaoko_history.html ヤオコーHP「HISTORY―暮らしを変えた立役者」