ウィトゲンシュタインは第一次世界大戦の東部戦線のほぼ全ての期間参加していて、更に主要な戦いにも参加しています。そんな中で、『論考』の構想も固まっていきます。

 今回は第一次世界大戦の東部戦線を理解するためのナビゲーターとしてウィトゲンシュタインを取り上げ語ります。

目次
【1章.ガリチア戦線の始まり】
■➀サラエヴォ事件とロシアの介入1914.6-7■
■②入隊1914.8初旬■
■③ガリチア戦線1914.8中旬■
■④ガリチアの失陥1914.8下旬■
■⑤総退却1914.9■

【2章.ガリチア戦線の長期化】
■⑥ワルシャワ進撃1914.10■
■⑦クラウカでの冬営1914.11■
■⑧プシェミシル要塞陥落1914.12-1915.2■
■⑨ゴルリッツ突破戦1915.4-10■

【3章.ガリチア戦線からイタリア戦線へ】
■⑩東部戦線の弱体化1915末■
■⑪ブルシーロフ攻勢1916.2-10■
■⑫ロシア革命と東部戦線の終結1916.12-1917.11■
■⑬イタリア戦線1918■

【1章.ガリチア戦線の始まり】

 ウィトゲンシュタインは、1912年にケンブリッジ大学に入学しラッセルやケインズなどの知遇を得た後、1914年から始まった第一次世界大戦に従軍し、その従軍体験の中で学んできた「哲学や工学」と「現実の戦争体験」をすり合わせる中で『論理哲学論考』という初期の名著を生み出しました。

■➀サラエヴォ事件とロシアの介入■

 1914年6月28日にサラエヴォにおいて、オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇太子であるフランツ・フェルディナンド大公がセルビア人によって暗殺されました。

 オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇帝であるフランツ・ヨーゼフとフェルディナンドは国家の他民族の在り方や格式の取り扱いなどについて意見の対立もあり、皇太子の暗殺は天罰のようなものとも考えましたが、帝国のメンツのために、セルビアに7月28日に宣戦布告をすることに決めました。

 その際、もともと暗殺されたフェルディナンド大公の推挙もあって参謀長になっていたフランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフはセルビアを併合する事で、三重帝国となり、ドイツ系であるオーストリア帝国の比重をあげることを目論み、開戦に積極的でした。

 しかし、コンラートらの予想外にもロシアがセルビアの支援のために、オーストリア=ハンガリー二重帝国に宣戦布告してくる事態になりました。

■②入隊■

 参謀長を務め実質的な軍の総司令官であったコンラートは、有能な戦略家の評価が高かったようですが、ロシアが参戦してセルビアとの二正面作戦になることと、さらにロシアの鉄道能力を引く見積もり宣戦布告の準備が非常に早い事を見誤りました。

 そのため急いで8月6日にオーストリア=ハンガリー二重帝国はロシアに対し宣戦布告をしました。その翌日に一時的な休暇を過ごすつもりで7月末からオーストリアに帰ってきていたウィトゲンシュタインはオーストリア=ハンガリー二重帝国の志願兵として入隊しました。

 そんな急いだ中での動員だったため、ウィトゲンシュタインがヘルニアや乱視性近視である兵士として不適格である面や、実科学校・マンチェスター大学・ケンブリッジ大学で教育を受けた面などを考慮さることになしに入隊する事になったようです。

 ウィトゲンシュタイン自身の入隊動機は、愛国心など諸説ありますが、一貫してあるのが「嫌悪の対象である自分からいかに脱すべきか」というテーマと向かうために入隊し、従軍中にもそのテーマを考え続けているという点があります。

■③ガリチア戦線■

 ウィトゲンシュタインはクラクフ(クラカウ)の要塞(駐屯)砲兵連隊に登録され、短期間旧式臼砲の扱い、次にその連隊には探照灯(サーチライト)支隊があったので、ロシア軍から戦闘によって捕獲した河川用小型砲艦「ゴプラナ号」に乗って探照灯の扱いの教育を受けて、8月17日から実戦任務につき、8月18日にはブリッジに召集され探照灯係として配置されたようです。

 オーストリア=ハンガリー二重帝国の参謀長コンラートの最高司令部の主要目標の一つはガリチアの軍隊を増強し、ガリチア掃討へ乗り出してくるロシア軍騎兵隊の機先を制し、ロシア領内にできるだけ深く進攻する事で「撃滅」を目指し、ロシアの戦争意欲を削ぐことであったようです。

そして、コンラートは、ロシアはガリチア(現在のウクライナの南西部、当時オーストリ=ハンガリー二重帝国領)を掃討しシュレジエンの工業地帯及びクラカウの背後のモラヴィア峡谷を目指すと考え、ガリチアの北部から侵攻してくると見込み、北部方面へ左翼と右翼に分けで派兵しました。

その左翼に属しルブリンへ向かう第一軍(タンクル麾下)の中の連隊にウィトゲンシュタインは属していました。そしてヴィスラ(ヴィスワ)川でロシア領内に入りサンドミエシ(サンドミエシュ)を目指していました。

このときは偶発的な戦闘はありましたが、東部戦線(ドイツとオーストリア=ハンガリー二重帝国は同盟を組んで戦争したため、フランスイギリス方面の戦闘を西部戦線と呼び、ロシア側を東部戦線と呼びました)はまだ成立していませんでした。

 特にウィトゲンシュタインが乗っていた「ゴプラナ」号の任務は、ヴィスワ川とその支流付近で渡河や交戦中の軍隊を援護するために機動火器を用いること、また必要なときに兵員と物資の輸送に当たることでした。

 そしてウィトゲンシュタインが配置された探照灯係は、射撃の照準合わせのためや、航行のためや、他の艦船上での夜間作業のために探照灯で照らす係でした。ただ目立つため敵の格好の標的になることや、炭素棒によって点灯しているため非常に高熱になり、更に頻繁に炭素棒を交換しなくてはならない仕事でした。

 更に「コッサク」とオーストリア=ハンガリー二重帝国軍が読んでいたロシアの騎兵隊は攻撃・攪乱が非常に巧みで、実際以上の大軍であるかのような印象を与え、警戒を怠るわけにはいかず過酷な仕事でした。

 本来、ウィトゲンシュタインは実科学校を卒業していたため「一年志願兵」としての特権が与えられたはずでしたが、なんらかの理由があり(またウィトゲンシュタイン自身も特権を与えられることに否定的でもあった)、過酷な任務に就くようになったようです。

■④ガリチアの失陥■

 8月23~25日にかけて属している第一軍はクラスニクの戦いで若干の勝利を挙げ、9月2日は第四軍がコマロウの戦いでロシア軍を破りました。

 しかし、ガリチア戦線の全体的には、参謀長コンラートがロシアが参戦する可能性を想定してなかったためセルビアからガリチアへ派兵させることが遅れてしまい、セルビアから派兵された第二軍は敗退し、更にロシアがガリチア北部からくると考えていたのが実際には南部から来ていた見誤りもあって、レンベルクが落ちてしまい、プシェミシル要塞が攻囲されてしまうなど押され気味になっていました。

 そこでコンラートは勝っている第一軍と第四軍の展開地域である北部をさらに強化して押していき、ロシア軍の側面にまわる計画を立てましたが、オーストリア=ハンガリー二重帝国を共に戦っていたドイツ軍のヒンデンブルクは西部戦線に戦力を集中したいと思い、この計画に協力的ではありませんでした。

 そのため第一軍はそのまま北部への侵攻を継続させましたが、第四軍は落ちてしまったレンベルク方面(プシェミシル城塞も含む)へ派兵させることにしましたが、この事により第一軍と第四軍に隙間ができてしまったことなども重なって、結局総退却する事になりました。

■⑤総退却■

 9月1日にウィトゲンシュタインはタルヌフ(ドゥナイェツ川沿いにある場所、時系列的にはゴプラナ号奪還前にもドゥナイェツ川付近に来ていたと推定)の小さな本屋でトルストイの『要約福音書』と出会います。

 このときは、あえてトルストイの本を選んだというよりは、この本屋にはウィトゲンシュタインが読みそうな本はこれしかなかったというのが実情なようです。

 ただ、これによりウィトゲンシュタインはもともと『福音書』を読んでいたようですが、トルストイ流の解釈も加わり「肉体と霊」の在り方を意識する(うちなる霊とウィトゲンシュタインの同一性を強く自覚)ようになり、『要約福音書』を携帯するようになり、軍隊では「福音書を持つ男」とまで言われるようになるまで影響を受けたようです。

 それとは別に、ウィトゲンシュタインは9月10日にレンベルク(リヴィウ)が占領されたと聞いたようです。

 そして総退却の一環として、ウィトゲンシュタインの隊は9月11~15日へオーストリア=ハンガリー二重帝国の国境線に沿って南東へ進む川であるサン川(ヴィスワ川と繋がっていて、北側に行くとロシア領で、南東に進むとオーストリア=ハンガリー二重帝国領へ入る)まで後退しました。

 9月13日にはゴプラナ号をロシア軍に取られ放棄しましたが、9月15日は奪還し、ヴィスラ川を南西側に進み支流であるドゥナイェツ川まで航行しました。9月19日にはクラウカまで後退しています。

 9月22日には、上官に諭され「一年志願兵」の徽章をつけるようになったようです。ただ、オーストリア=ハンガリー二重帝国の兵は他民族によって構成されていて、「ゴプラナ」号にはスラブ系チェコ・ポーランド人などもいて、ドイツ系のウィトゲンシュタインとは相いれない部分もあり、特権は得たが孤立感は増したようです。

 9月28日にはオーストリア=ハンガリー二重帝国軍はゴルリチュとタルヌフの線まで後退する事になるようです。

 ただこのガリチア戦線の総退却の時期にウィトゲンシュタインは自動車事故に関するパリでの訴訟についての雑誌記事事故を再現する模型から「言語が実在の像である」「命題はその部分と世界との間の同様な対応によって、模型もしくは像として働くのだ」という着想を9月20日、27日、29日の日記で書いています。

【2章.ガリチア戦線の長期化】

 第一次世界大戦の東部戦線においてオーストリア=ハンガリー二重帝国軍は、ガリチア戦線でロシアの機先を制し撃滅を狙ったもののロシアに対する誤認から総退却することになりました。その後のガリチア戦線においては戦線を拡大しようとするも、戦線付近を行ったり来たりする戦いとなり長期化しつつあります。

 そんな中、ウィトゲンシュタインは戦争の中での自己の在り方と、落ち着いた時間においては知的作業が進んでいきます。

■⑥ワルシャワ進撃■

 オーストリア=ハンガリー二重帝国がロシアに対して、ガリチア方面において機先を制そうと1914年8月から9月にかけてロシア領へ侵攻しましたが、ロシアの参入を読み違えたため準備が遅れ、さらにロシアの進行方向を読み違えたこともあり、一度オーストリア=ハンガリー二重帝国の国境線まで退却する事になりました。

 そのご退却に伴う損失の回復として、新ドイツ軍(ヒンデンブルク麾下の第9軍)がオーストリア=ハンガリー帝国の第一軍(ダングル麾下)と連携してワルシャワへ進撃する作戦を立てました。

ウィトゲンシュタインが属する連隊は第一軍のため、10月6日にはロシアに向かいました。そして10月7日にはヴィスウォカ川とヴィスワ川(ロシアに繋がっている)の合流地点まで行きました。

10月9日には更に北東へヴィスワ川を上りタルノブジェクとサンドミエシ(ロシア領内)まで昇り、10月10日にはサヴィホストまで進み、ドイツ軍の渡航を援護しました。

しかし、結果としてワルシャワ進撃は失敗に終わり、10月28日にはウィトゲンシュタインが乗っている「ゴプラナ」号は推進輪を壊されて、11月5日に曳航されクラウカ(ウィトゲンシュタインが最初に「ゴプラナ」号に配属されたときにいた場所)まで引き返し、クラウカの全面で第一軍は冬営することになりました。

この「ゴプラナ」号の推進輪が壊された10月28日にはピアニストである兄がロシア戦線で片腕を失った報を聞き、ウィトゲンシュタインは酷く落ち込みます。

■⑦クラウカでの冬営■

 ワルシャワ進撃は失敗し、クラウカへ退却することになったウィトゲンシュタインですが、クラウカにはドイツ表現主義最大の詩人とも称されたこともあるデオルク・トラークルが薬剤士官候補として従軍していて、そのトラークルと話せる可能性があることに期待をしていました。

 しかし11月5日にクラウカに到着するし、11月6日トラークルと会う事を打診すると3日前にコカインの過剰摂取で自殺を図ったと聞き、ウィトゲンシュタインの期待は大いに外れました。

 トラークルとは今回のガリチア戦線において薬剤士官候補生として従軍していたものの、ガリチア戦線での看護の惨状から精神を病んでしまい、ピストルによる自殺未遂を図ったりもしてクラクフの精神病棟へ強制入院させられていました。

 ウィトゲンシュタインにとっては他民族で分かり合えない同艦の戦友の中孤独を感じていてトラークルと知的な会話ができることが楽しみでしたが、トラークルもウィトゲンシュタインと会ってはどうかという知人の勧めを聞いていて楽しみにしていたようです。

 しかし、実際には実現しませんでした。

 その11月6日からクラカウはロシア軍によって攻囲されてしまい、必ずしも穏やかな冬営ではなかったようです(他の舞台はカルパツィア山脈攻撃作戦をしていたよう)が、ウィトゲンシュタイが知的な活動に向き合えた時期でもありました。

 ウィリアム・ジェームズが大きく影響を受けたアメリカ人エマソンの『エッセー』を読み宗教観に感化され、ニーチェ著作集第8巻(『アンチクリスト』『ヴァーグナーの場合』『偶像の黄昏』『ニーチェ対ヴァーグナー』収録)を読み特に『アンチクリスト』の宗教に挑む態度に感化されたようです(12月8日の日記には「私はキリスト教に対する彼の敵意に強く心を動かされた」と書いています)。

 このクラカウ攻囲はコンラート率いるリマノワ(Limanowa)での救出作戦において大勝利を収め、解かれたようです。

■⑧プシェミシル要塞陥落■

 12月9日には守備(砲兵)隊作業場「自動車・大砲」支隊に配属され、そこの現場でウィトゲンシュタインのエンジニアとしての技量を評価され、異例な士官特権を得ることになりました。更に1915年2月3日には鍛冶作業場監督を務め始めます。

 もともとウィトゲンシュタインはマンチェスター大学にいた頃には、ジェット噴射による推進力を生かしたプロペラの特許を取るなど、工学方面には高い能力を持って行って、ここにきてその能力が生きてきたようです。

 そんな中、ガリチア戦線において初期の段階から東側から攻めてきたロシア兵(オーストリア=ハンガリー二重帝国の軍は北からとご予想していた)によって押されていた東ガリチアのプシェミシル要塞が陥落した知らせを3月半ばにウィトゲンシュタインは聞き暗いムードになります。

 プシェミシル要塞は独立して環状に配置された砦で守られた要塞で、孤立化しても長く持ちこたえていた(1914年からは参謀長コンラート意向で援軍は来ていたが)ましたが、ついに陥落してしまい、約10万人の兵士とともに降伏したようです。

■⑨ゴルリッツ突破戦■

 4月にはゴルリッツ突破(ゴルティチェ=タルヌフの突破)戦の準備が始まりました。

 西部戦線でしか知られていなかった大規模の「弾幕射撃」の作戦です。

 「弾幕射撃」とは、目標の地域を地図上で碁盤の目のように区切り、各砲兵隊はその一マスを平均的に砲撃するようにして短時間で最大限の砲撃を可能にし(物理的な破壊力よりも続けざまに迫る無数の砲弾の迫力や音で心理的な相手のダメージを与える側面が強いようです)、奇襲や突破の迅速な拡大を図ることを可能にする砲撃です。

 西部戦線では第一次世界大戦が始まるにつれて塹壕の強化が図られ、砲弾を無駄なく使用し相手の塹壕を破壊する砲撃に限界がでてきたため考案された砲撃のようです。

 東部戦線に比べ西部戦線は戦場が狭かったのと、技術力の高い国同士の戦いであった事からなかなか勝負のつかない塹壕戦が続き、その戦い方も変わってきていたようです。

 そして、この「弾幕射撃」を今回東部戦線でも使おうという事になりました。

 この作戦はドイツ・マッケンザン将軍の指揮下にあり、「弾幕射撃」の案はドイツのブルッフミュラー大佐の考案のようです。これはワルシャワ進撃でも退却する事になってしまった威信の回復も一つの目標でありました(ガリチア戦線は当初は「撃滅」で相手の戦意を喪失させるところになりましたが、この頃には「撃滅」が難しくなり「威信の回復」などで戦況を変える作戦に移行されつつあったようです)。

 そしてカルパチア山脈におけるロシア軍拠点を断固弱体化せしめるために、できるだけ前身しプシェミシルとレンベルク(もともとオーストリア=ハンガリー二重帝国領だった)の奪還を目指しました。

 おそらくレンベルク付近の奪還がなされ、7月末にウィトゲンシュタインはレンベルク(
リヴィウ)近くの砲兵隊作業列車に配属されました。そして8月には前線へ移動しています。

 その後この突破作戦と合わせて戦線がロシア側に進み、9月までには同盟軍(オーストリア=ハンガリー二重帝国軍とドイツ軍ら)はチュルノヴィッツからほぼ真北にリガまで連なる戦線を確立しました。そしてポーランドの部分とリトアニアからあんるロシアの広い突出地域を奪い取り、ロシア軍は捕虜となった分だけでも75万人を失うほど損害を与えました。

 但し、この同盟軍の勢いは西部戦線で増援が必要になり膠着してしまいます。

 ウィトゲンシュタインの連隊もオーストリア=ハンガリー鉄道の終点でありレンベルクの北にあるソカルの列車内作業場へ配属され冬を過ごすことになります。

 ただこの冬営付近の期間でも知的作業が進み、10月には『論考』の下書きの一番目をラッセル宛の手紙で送っています。

【3章.ガリチア戦線からイタリア戦線へ】

 ガリチア戦線の後半は、ロシア軍側のブルシーロフ攻勢というすさまじい攻撃の中でも果敢にウィトゲンシュタインは挑みました。その中で「語り合えぬものは沈黙しなくてはならない」という『論考』の核心の原型を思いつきます。その後、イタリア戦線にも参加していきます。

■⑩東部戦線の弱体化■

 ガルバチ戦線の当初は、ロシアの機先を制して「撃滅」を狙っていましたが、やがて東部戦線の一般的状況として、同盟軍(オーストリア=ハンガリー二重帝国及びドイツ軍ら)は包囲網が大きいため「撃滅」する望みはほとんどなくなりました。

 ロシアへのこれ以上の侵攻は(ロシア軍がほとんど無際限に撤退する可能性を考えると)戦線を拡大するだけで、それに見合う利益を何ももたらしそうになく、西部戦線や新たに開かれたイタリア戦線のほうに重視され、東部戦線は弱体化させる傾向にあったようです。

■⑪ブルシーロフ攻勢■

 1916年2月21日にフランスは西部戦線において甚大な被害を受け、またイタリア戦線においてもイタリアはオーストリアにより大きな打撃を受けていて、打開策として3月にシャンティーの連合軍軍事会議で東部戦線においてロシア軍がドイツ軍に圧力をかけるように要請しました。

 そこでロシアのブルシーロフ将軍が企画立案して、強敵ドイツ軍を避け、与しやすいオーストリア軍から攻勢にでることにしました。最新の兵器である航空機を用いた航空写真による入念な偵察を行い攻撃準備を整えました。

 更に以下のような新戦術を考えたようです。

➀弾幕射撃は数日間におよび続けた後歩兵を前進させていたのを、砲撃の時間を数時間程度に抑えつつも濃密な砲撃によって敵を混乱させ、「奇襲」の形式をとることを考えました。

②今まで大兵力による一点攻撃がメインでしたが、兵力を分散させて幅広い地域で攻撃をしかけることを考えました。

③できるだけ敵の塹壕の近くまで出撃用塹壕を掘り進め、敵からの「機関銃掃射時間」を減らすことを考えました。

そんな中ウィトゲンシュタインは、1916年3月21日に第5野戦曲射砲連隊第4砲兵中隊(第24歩兵師団所属、本部はモラヴィアのオルミュッツ)に配属されました。優秀と言われたプランツァ=バルティン麾下第7軍に配置されているようです。

 4月21日あたりからはロシア軍との戦闘が膠着状態から始まっていました。

 6月1日にはウィトゲンシュタインは一等砲兵に昇進しています。

 6月4日にロシア軍はブルシーロフ攻勢の作戦を開始しました。ロシア南西戦線全体にわたって展開されました。主戦場は北方のルーツクと、ウィトゲンシュタインが駐屯していたドニエストル川のすぐ北のオクナ地域でした。

 6月10日に陣地の北西面にむけてロシア軍の突破が敢行されました。そのためオーストリア=ハンガリー二重帝国軍は南西へ向かったドニエストル川を渡りプルート川の線まで、のちにはシトレ川の線まで移動しました。

 6月11日にはウィトゲンシュタインは「神と生の目的とに関して私は何を知るか」と書かれた日記を書いており、「生が世界であることを…私は出来事への影響を専ら断念することによって、自分を世界から独立させることができ、従って世界をやはり或る意味で支配しうるのである。」とも書いています。

 6月14日からウィトゲンシュタインが属していた部隊もブルシーロフ攻勢の反撃を受け始めています。

 6月半ばにはブコヴィナで戦闘が起こり、6月24日~7月6日にかけてコロメアの戦闘が起こっています。

 7月6日及び7月7日の日記では、数学など学んできた事実と現在辛苦を感じている価値には何の繋がりがあるのだろうかと考え、「繋がりはつけられるだろう!言われえないことは、言われえないのだ。」と『論考』の基本枠組みになる考えを書き記しています。

 7月8日には日記において「神を信じるとは、生の意義に関する問を理解することである。」「たとえ死を前にしても、幸福な人は恐れを抱いてはならない。時間の中ではなく、現在の中で生きる人のみが幸福である。」「幸福に生きるためには、私は世界と一致せねばならない。そしてこのことが「幸福である」と言われることなのだ。」「死を前にした恐れは、誤った、即ち悪しき生の最良のしるしである。私の良心が平衡を失うとき、私はあるものと不一致である。」と書いています。

 7月11日(6月11日からという説もある)から、ウィトゲンシュタインは左側に私的な暗号での日記(『秘密の日記』として翻訳)、右側に哲学的な公にしてもいいような日記(『草稿1914-1916』)を書いていましたが、ここから両方を分けて書かなくなります(一緒に記述し始めます)。

 7月~8月中旬にかけてはウィトゲンシュタインが属す第7軍はドニエストル川南部地域で何度か反攻を試みました。そしてロシアがハンガリーに向かう通路を閉鎖しました。

 このことによって、押され気味だったオーストリア=ハンガリー二重帝国軍でしたが、二重帝国軍を軽視できないことを証明しました。

 このブルシーロフ攻勢に対する反攻においてはウィトゲンシュタインは勇敢に戦い評価されています。

 9月1日には伍長にウィトゲンシュタインは昇進しています。

 更に10月には士官として訓練を受けるべく、オルミュツの砲兵隊士官学校に派遣されることになります(その際ウィーンに一時帰りローズに会っています)。

 また「勇敢銀章二級」勲章授与されています。

 臼砲の発射を監視してその位置を突き止めた事や、砲兵中隊が重口径臼砲に門に砲弾を命中して、監視将校付として活躍したためと言われています。

 このブルシーロフ攻勢は将兵16000人のうちわずか3500人程度しか生き残らなかった、という激戦で、生存率およそ20パーセントだったようです。

 ロシア軍にとっては西部戦線における連合軍の窮地を救う戦略的勝利ではありましたが、ロシアの損害も大きく(前半は圧倒的ロシアの優勢でしたが、後半はかなり反撃されています)ロシア革命の遠因となったようです。

■⑫ロシア革命と東部戦線の終結■

 1916年12月1日には戦時の予備役士官候補生に任官します。

 1917年1月9日にウィトゲンシュタインの属する砲兵中隊は、第三軍第8軍内のハンガリー国防軍のクロアチア師団の一つである第42ホンフェト歩兵師団付となります。

 そして1917年2月にはロシア国内で2月革命が起り、皇帝が廃止され臨時政府とソヴィエトによる統治体制がとられる事態となりました。ただこの時点ではまだ前線では共産主義者その他による宣伝活動の影響はあまり受けていなかったようです。

 7月にはケレンスキー攻撃というロシア軍最後の侵攻が行われます。

 それに対しウィトゲンシュタインの部隊は7月23日にロムニカ川を渡り進撃し、7月24日コロメ、クニアゼへと、8月3日にはチェルノヴィッツ攻略を果たします。

 そして11月29日にはボルシェヴィキ(レーニンやトロッキーが属す党、10月にロシア革命を起こして政権をとる)の署名した休戦協定が発効されて東部戦線は終結します。

 また1917年10月のロシア革命のときにイタリア戦線ではイタリア軍はロシア軍の援助の不安定さなどもありカポレットの戦いで大敗を喫し捕虜・脱走者を含め約60万人の大損失を被り軍は崩壊し組織の体を成さなくなり、おそらく連合軍の援助を多く受けうけることになっています。

■⑬イタリア戦線■

 1918年になり東部戦線終結に伴い軍が再編されることになり、その際ウィトゲンシュタインは「死の肯定」のために危険な歩兵転科を希望します。

 さまざまなコネなどを使い一時は歩兵になりかけましたが、年齢的にも技量的にも歩兵に行くのは一般的でなく砲兵隊に留まることになりました。

 そして、イタリア戦線へ向かう事になりました。

 2月1日には予備少尉になり、3月10日にはイタリア戦線に到着しています。

 アジアゴに移され、山岳砲兵連隊に配属しています。

 具体的には第11軍所属のガリチア豚山岳砲兵連隊(第11山岳砲兵連隊)で、ヴェーネト平野の北西、したがってトレンチ―ノ地方のオーストラリア=ハンガリー二重帝国軍陣地の右翼に位置しました。

 6月にはオーストラリア=ハンガリー二重帝国軍は本格的にイタリアへ侵攻します。

 ガリチア戦線のときには参謀長であり総司令官の役割をしていたコンラートでしたが、このときには総司令でなくイタリア戦線の指揮を執ることになっていました。

 コンラートはアジアーアジアーゴとモンテ・グラッパからアジアーゴ高原、デラッキー侵攻を計画します。

 6月15日には第一波と共にウィトゲンシュタインが属する連隊が進軍します。ただ損害は甚大で、6月16日はコンラートはもとの位置戻っています。しかし、ウィトゲンシュタインはこのとき勇敢さで「金の勇敢章」に推挙されたようです。

 

 そんな中、7月5~9月末にかけてウィトゲンシュタインは体調不良のためか(原因は不明)休暇をとり、この時期に『論考』を一応脱稿しています。

 その後10月にイタリア戦線に戻ります。

 

 そんな中、オーストリア=ハンガリー二重帝国は自由国家連合にするという宣言が成され、徐々にイタリア戦線から手を引き始めます。

 10月24日からはイタリア軍・連合軍による攻撃によりヴィットリオ・ヴェネトの戦いが起こります。

 砲兵隊のみが戦線をなんとか維持していたのですが、11月3日にはオーストリアは戦線が崩壊しヴィラ・シュスティ休戦協定を結びます。

 ウィトゲンシュタインはトレントがイタリア軍に占領され捕虜となり、コモの捕虜収容所を経てヴェローナの収容所、1919年1月のモンテ・カシーノの収容所に移り、1919年8月25日にウィーンへ帰っています。

【参考文献】

※日本語版ウィキペディア「フランツ・コンラート・フォン・ヘッツェンドルフ」英語版「Franz Conrad von Hötzendorf」参照、『ウィトゲンシュタイン評伝』ブライアン・マクギネス(訳)藤本隆志ら・法政大学出版局1994.11.25、『ウィトゲンシュタイン「秘密の日記」』ウィトゲンシュタイン(訳)丸山空大(解説)星川啓慈ら・春秋社2016.4.29「秘密の日記」とはウィトゲンシュタインが第一次世界大戦に書いた日記の左ページ側のことでこちらは簡単な暗号で書かれているもの、『統合失調症と宗教』星川啓慈・創元社2010.1.10、『世界の独裁者たち』株式会社G.B・竹書房2006.7.2

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