16世紀前半に活躍したルネサンス人「➀ビリングッチョ」「②スカリゲル」「③ヴェサリウス」。

「➀ビリングッチョ」は、イタリアのシエナに生まれ、仕えたシエナの支配者ペトラッチはサヴォラローナの晩期のフィレンツェと安定した関係を気付いていました。しかし、ルイ12世が1499年に侵攻してきます。フランスはミラノの相続権を主張してたためミラノ公のイルモーロは親戚の皇帝マクシミリアン1世に助けを求めにいきました。この頃、マクシミリアン1世に「②スカリゲル」は兵士として使え始めたようです。因みに「③ヴェサリウス

の祖父も薬剤師としてマクシミリアン1世に仕えていました。

結局ミラノはフランスが統治し、フランスの兵力を借りた教皇庁総司令官チェーザレ・ボルジアにシエナは押されつつもルイ12世と上手くやり取りをして切り抜けます。チェーザレの亡き後はイタリアでの権威となり、マキャベリの頃のフィレンツェとピサ戦においてピサを支援しています。

ピサはロレンツォ・メディチなき後に独立し、フィレンツェの重要な貿易港を失いました。ただ、それが故に周りの諸国はピサを支援してフィレンツェの牽制を行っています。チェーザレ・ボルジアもロンバルディアを支配し次第にピサまで到達しています。またペトラッチのシエナもフィレンツェの牽制のために、ヴェネツィアも東方貿易の独占のためにピサを支援しています。フランスは離婚問題などで教皇庁に借りがあった為、教皇庁の嫌がるフィレンツェのピサ攻略に消極的だったようです。

その後、チェーザレ・ボルジアが亡くなった後、フランスの勢力を追い出すためにユリウス4世は神聖同盟(神聖ローマ(マクシミリアン1世)・スペイン・イギリス(ヘンリー8世)・ヴェネツィア)を結び戦争を行います。1512年フランスはブレシアに侵攻し(このときタルタリアが負傷)、さらにラヴェンナの戦いを行います。

ラヴェンナの戦いには、マクシミリアン1世に仕えていた「②スカリゲル」も参加し父と兄が亡くなっていますがスカリゲル自身は功績を作りますが、この頃からフェラーラの軍に仕え始めるようです。フランスが勝ったのですが、総司令官を失った為撤退しています。

このときラヴェンナの戦いに参加したスペイン兵を使ってロレンツォ・メディチの息子ジョヴァンニ・デ・メディチはフィレンツェのメディチ家の奪還を果たします。その関係もあり、シエナとフィレンツェの関係修復をユリウスとスペインは要請します。

その後、カール5世とフランソワ1世の戦争が始まっていくのですが、「➀ビリングッチョ」はミケルアンヂェロの「最後の審判」を依頼しコペルニクスが天動説の本を捧げたパウルのもとに1535年頃向かいます。「②スカリゲル」は1523年頃フランスのアジャンに行きエラスムスの批判を行い若きノストラダムスを招きカルダーノの批判を行います。「③ヴェサリウス」は1543年に「ファブリカ」を出版後パドヴァ大学教授を辞めカール5世に仕え更にはフェリペ2世に仕えます。

【➀ビリングッチョ】

鉄の科学とも言える「冶金学」。

この本を最初に印刷された本で書いたといわれているのが、イタリアのルネサンスの人・ビリングッチョの『火工術』です。

大砲や鉄砲もこの冶金学の知見があってこそ発展していったとも言えます。

■➀15世紀末のフィレンツェとシエナ■

ビリングッチョはイタリアのシエナに1480年に生まれました。イタリアのルネサンス人でいうとラファエロ・サンティと世代的に近いと言えます。

そのため、イタリア・ルネサンスの黄金期であるフィレンツェのロレンツォ・メディチが亡くなった後の時代の流れと大きく関わっていきます。

そもそもシエナは、フィレンツェのすぐ北側に位置する年で、何度もフィレンツェと戦略上の地点の争いで争いをしていました。

■②シエナの統治者に仕える■

ビリングッチョは、成長するとシエナにおいて強権によって政治を執っていたパンドルフォ・ぺトラッチのもとに冶金師として雇われました。

ペトラッチ家は代々シエナにおいて大きな力を持っていましたが、よりこのパンドルフォが中心となってからは敵勢力を徹底的に排斥して権力を持ったようです。

パンドルフォは長年のライバルであったフィレンツェとは争っていたモンテリッジョーニ(フィレンツェとシエナの間にある都市)を上手く扱い、フィレンツェと良い関係を築いていたようです。この頃のフィレンツェは1494年にシャルル4世のフランスの侵攻によりメディチを排斥し、サヴォナローラと中心とする共和政治を行っていたころです。

■③チェーザレ・ボルジアの影響■

1498年、フランスのルイ12世がナポリの失地を取り返すことと、ミラノの相続権を主張してイタリアに侵攻してきました。

このときは、教皇庁はフランスの侵攻を歓迎していて、ミラノにルイ12世が入る前に、教皇庁の総司令官チェーザレ・ボルジアなどが謁見している。その際、ミラノ公のイル・モーロのもとで働いていたレオナルド・ダ・ヴィンチは能力を買われ、チェーザレと接点を持ったとも。いずれにしても、イル・モーロは娘が嫁いだ皇帝マクシミリアンのもとに助けを求めに亡命し、ダ・ヴィンチも一時亡命します。

そのときにはフィレンツェはサヴォラローナを処刑し、新たな共和政府が登場して、マキャベリもそこの書記局に勤め始めます。そして、チェーザレがフィレンツェ付近まで攻めてきたとき、フィレンツェは交渉のため、ダ・ヴィンチを技術官のような感じで派遣し、さらにマキャベリは何度か交渉に当たりました。

このときチェーザレ・ボルジアはロマーニャ地方を平定したものの反乱分子が集まり、それの処理に追われていました。その反乱分子の集まりにシエナのパンドルフォも加担してたとも言われています。

そしてセニガリアに反乱分子を集めて、一挙に1502年にチェーザレは処刑する事件を起こすのですが、それにパンドルフォも招かれていたようです。

しかし事前にその事を察知し、逃れます。

更には、ルイ12世の助けを借りて、チェーザレの威圧がある中、シエナの支配者に復帰する事に成功しています。

1507年にチェーザレ・ボルジアが亡くなると、パンドルフォはイタリアの中でも最も権力を持つものの一人になりました。

■④ユリウス2世の影響■

この時期辺りから、フィレンツェのマキャベリはフランスから借りた兵でフィレンツェのもともとの港町であったピサ奪還を目指しものの失敗して、チェーザレの影響も向けて自衛兵を作り、ピサ奪還を目指していました。

このフィレンツェの侵攻を受けていたピサをシエナのパンドルフォは支援していたようです(サヴォナローラ辺りの頃に比べて今の方がシエナの優位性が高まっていたのでは)。

しかし、1512年にチェーザレの父であり教皇アレクサンデルの後を継いだユリウス2世とスペインはシエナとフィレンツェは協調関係をとるように圧力をかけたため、パンドルフォはそれに従ってモンテリッジョーニをフィレンツェに渡しているようです(おそらくこの時期は対フランスでイタリアの協調関係が望まれていた時代)。

そしてこの年に亡くなり、息子がシエナの支配者を継ぎますが1516年にシエナの蜂起が起こり追放されています(1513年に教皇になったレオ10世の関与があったとも言われ、フィレンツェは1512年に共和制は終わりメディチの支配になっています。因みにマキャベリはこのとき事件に巻き込まれ政府から解任されています。)。

■⑤クレメンス7世のローマ■

ペトラッチ家に仕えていたビリングッチョもこの蜂起によりシエナを追放され、イタリアの旅に出て、1517年にはシチリア島に行っています。

1523年、クレメンス7世が教皇に就任すると、ペトラッチ家がシエナに復帰し、それに伴いビリングッチョも復帰しています。1526年にはまた追放され、1530年にシエナが平和な状態になるとビリングッチョは戻ってきています(ペトラッチ家は追放のまま)。

1536年、ミケルアンヂェロに『最後の審判』を依頼する教皇パウル3世が2年前に就任した後、この年にビリングッチョを招き、ビリングッチョはローマで教会の関係の仕事をしています。ローマにおいて『最後の審判』を制作しているミケルアンヂェロと時と場所を同じくしています。

おそらく1539年に亡くなり、翌年1540年に『火工術』の著作が出版されます。

冶金についての総合的な説明と自然から学ぶ人間観などや錬金術なども書かれているようです。

その後、1543年には同じくパウル3世にコペルニクスは『天球の回転について』を捧げています。また日本には種子島に火縄銃が伝わります。

2021.4.15執筆

【②スカリゲル】

ノストラダムスは、現在では予言的側面が認知されていますが、初期の頃は医師としての側面が強く、特に南仏においてペスト治療などを果敢に行ったようです。

その初期のノストラダムスをアジャンに招いた哲学者スカリゲルを紹介します。

■➀マクシミリアンの従軍と神聖同盟戦争■

スカリゲルはイタリアのヴェローナのガダル湖北端の町で1484年に生まれます。同じイタリア・ルネサンス人としてはラファエロがほぼ同世代です。

皇帝マクシミリアン1世が親戚だったようで、1496年から神聖ローマ帝国のマクシミリアンのもとで軍隊に従事するようです。

当時、1499年にフランスのルイ12世がイタリアにミラノ公の相続権の主張と失ったナポリを求めて、イタリアに侵攻してきていました。そのため、ミラノ公のイル・モーロ(ダ・ヴィンチの庇護者としても有名)は親戚であるマクシミリアン1世のもとに亡命し、ルイ12世に対抗しようとした時期でした。ただ結局ミラノはフランスが統治する事になります。

ただ、このフランスがミラノにいることでイタリアに多くの混乱を巻き起こしたため、ユリウス2世はフランスに対抗すべく神聖同盟を、神聖ローマ・ヴェネツィア・スペイン・イギリスのヘンリー8世と結び1511年に大掛かりな戦争を始めます(もともとカンブレー同盟戦争から繋がっているがため、クライマックスに差し掛かったとも)。

フランスがブレシアに侵攻しますが、このときガリレオなどが影響を受ける弾道研究で有名なタルタリアが致命的な怪我を負っています。そして、1512年のラヴェンナの戦いにおいて、フランスは勝利をするものの総司令官が亡くなったため、撤退します。

このラヴェンナの戦いにおいて、スカリゲルは父と兄が亡くなるも活躍し表彰されたようです。ただ、この辺りからイタリアにもどりフェラーラ公などののもとで軍務につきます。

因みに、このときフランスを倒すために集まったスペイン兵を用いてジョヴァンニ・デ・メディチはフィレンツェのメディチ家復興を成し遂げています(そしてマキャベリや共和制府は解体している)。

■②エラスムスとカルダーノとの関係■

その後、スカリゲルはリウマチに悩まされ、軍務を辞めて医学や自然史などの勉学に没頭し、ボローニャ大学やフェラーラなどで学ぶようです。

そして1525年、フランスのアジャンに行く司教にともない、アジャンへいき、その後亡くなるまで32年間アジャンの地に住みます。

1531年には南仏で医学の勉強をしていたノストラダムスをアジャンの地に招きます。

1531年にスカリゲルはエラスムスの『キケロ主義』(1528)を批判した『エラスムスのキケロ批評について』を出版した年でした(スカリゲルの最初の著作)。エラスムスは晩年に入っており、ルターなどのキリスト教の分裂を容認できず、聖書を学ぶことでなんとかしようと考えていたときでした。キケロについてはヴィジュアルと通して記憶術など古典主義的な復興や発展をエラスムスは試みていましたが、キケロはキリストが生まれる前の人であり、ラテン語は聖書の記述にむいていないなど考えてもたようです。スカリゲルはこのラテン語論の部分が気になったようです。

また1557年に確率などの功績など万能人として評価されているカルダーノの『精妙さについて』(1550年)を批判した『顕教的演習』を出版しています。ここにおいては、カルダーノの霊魂による単一原理で世界を解釈しようとする部分を批判しています。カルダーノは霊魂と熱を同一視していて、熱は非物質的なもので、天から与えられ、霊魂がつくられるため正解は単一原理によって解釈できるとしていました。しかし、スカリゲルは熱は物質的なもので、そのような単一的な原理によって解釈すると、経験的に観察された現象を上手く説明できないとして批判しました。スカリゲルはこの著作で自然史的な知識を百科事典のように披露もしているようで、スカリゲルも自然史の観察者であることが読み取れます(カルダーノはプラトン主義の亜種として、アリストテレスを揺るがそうとしてるとも批判。スカリゲル自身はゲスナーとは多少解釈が違い、コペルニクスの世界観は否定的)。

このような哲学者でもあり医者でもあるスカリゲルのもとで、ノストラダムスは短期間でありますが学んだようです。

スカリゲルがノストラダムスをアジャンに招いた理由は不明ではありますが、このような自然史に精通している人物に招かれたということは、そのような素質が当時のノストラダムスにありそのような方向に興味があったともみることもできます。

※『教育方法としての記憶術の受容と展開』大川なつか、『カルダーノ研究の最前線』坂本邦陽も参照

2021.4.18執筆

【③ヴェサリウス】

レオナルド・ダ・ヴィンチは1510年から1511年にかけてパドヴァ大学解剖学教授とともに解剖に関する著作を出そうとこころ見ていた。しかし、ペストの流行により教授が亡くなってしまい、そのプロジェクトは未完のまま終わってしまった。

約30年後、コペルニクスの地動説を発表した著作と同じ1543年に、初の本格的な解剖図譜がヴェサリウスによって書かれることになる。そんなヴェサリウスもパドヴァ大学の教授だった(因みにコペルニクスは1501年辺りにパドヴァ大学に医学の勉強で留学)。

■①カール5世とフランソワ1世とオスマンとイエズス会■

ヴェサリウスの祖父はロレンツォ・デ・メディチやマキャベリ、チェーザレの時代に活躍した皇帝マクシミリアンの侍医だった。そして父もマクシミリアンに仕えた後、カール五世に薬剤師として仕えていたようだ。

1514年に生まれるが、1528年フランスのルーヴァン大学に行き、1533年パリ大学で軍隊のキャリアを積みそこでガレノスの学説も学ぶが、フランソワ1世とカール5世の戦争の関係もあり、ルーヴァンに戻っている。

このフランソワ1世とカール5世の戦争は、ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァ2世が亡くなりミラノにおいて争いが起きたため、フランソワ1世がミラノに対する統治を引き継ぐ権利を主張し争いに参加したが、カール5世はフランソワ1世の主張の理不尽さから抗議として戦争をしかけたものであるようだ。

もともとフランソワ1世とカール5世は、以前からイタリアにおける領土争いをしてたため、この争いは初めてではなかった。ただ、今回は後にイエズス会を承認する事となる新しい教皇パウルス3世が仲介をなしたことと、この年にカール5世は対キリスト教でなく異教徒戦うと宣言したことや、この時今まで対カール5世のためでもありプロテスタントに好意的であったフランソワ1世が檄文事件によってプロテスタントを攻撃した年である事が新しい色付けとなっている。

プロテスタントの普及によってカトリックの教義を順守するために生まれたイエズス会が日本にも辿り着くことや、この年からフランソワ1世はオスマントルコ帝国と協力してカール5世を相手することになってきたことなどが重要である。

■②カール5世との結びつき■

ただ、このフランソワ1世とカール5世の戦いは別にフランスを戦場にしたものではない。では、なぜヴェサリウスがこの戦争によってパリ大学からルーヴァン大学に戻らなくてはならなくなったかというと、もしかしたら父親がカール5世に仕え薬剤師をやっていたことなどが関係するのではないのでは、ないだろうか。逆を返すと、ヴェサリウスはカール5世などと結びつきが多分にあったという事なのだろう。

その後、1537年にはパドヴァ大学にいき、すぐに学位を取り、教授となる。

ただ、1543年に始めての体系的な形での解剖図譜を出版し、しかも従来のガレノスの学説や解剖を重んじなかった伝統を払しょくする事になったため、パドヴァ大学を去ることになり、カール5世の侍医となる。

これはやはり、カール5世との結びつきはヴェサリウスは強かったということなのだろう。

■③カール5世とフェリペ2世の後援■

1543年のカール5世の状況はと言うと、遂に翌年フランソワ1世との長い戦いに幕を閉じる年である。1544年クレビーの和約によってフランソワ1世に対プロテスタントの公会議を開くことを決めさえたものである。

また解剖図譜の挿絵を描いた人は、ティツィアーノの学校に1536年入って学んだ人であるされていて、カール5世と息子のフェリペ2世の講演を受けてドラマチックな作風になっていた頃のティツィアーノの時期。

そして同じくヴェサリウスも、息子フェリペ2世に解剖図譜の要約版を送るなどして、カール5世とフェリペ2世の後援を得て、解剖などの学術的な活動を深めていた時期だと思う。

1556年カール5世が退位した後も、フェリペ2世に仕えています。そして、1559年のフェリペ2世結婚式において、結婚相手のイザベルの父アンリ2世が馬上槍試合をして死去する際の手当てをヴェサリウスがしたとも言われている。

かつてフランスと争っていた父をもつフェリペ2世がフランスの王の娘と結婚するというのは歴史的な出来事。また、結婚相手のイザベルがいたフランス宮廷には、アンリ2世の息子フランソワ2世と婚約していたスコットランドの女王メアリーがいた時期でもある。このアンリ2世が死去する事でフランソワ2世は王位につきますがすぐに亡くなり、メアリーはスコットランドに戻ることになり、ジェームズ2世を生み、さらにエリザベス女王と争う事になる。

■④パドヴァ大学教授復帰の夢■

最後に、ヴェサリウスはどうやらパドヴァ大学教授への復帰を目指していたようである。

1564年、ヴェサリウスが解剖学を教えたコロンボがパドヴァ大学の教授になり、その後ファロッピオが教授になっていた。ファロッピオが1561年に書いた『解剖学的観察』を読んで、パドヴァ大学の教授復帰を目論んで『ファロッピオ解剖学的観察に対する試論』を1564年に出している。

この1564年は少し前にファロッピオは亡くなっていて、これはファロッピオ自身に対する反論でなく、ファロッピオがいた教授の席が空いていたのでファロッピオを超える人材であること示す野心があったと読むことができる。

実際、パドヴァ大学から教授のオファーを受けているが、ヴェサリウスはそのとき聖地巡礼の旅に出ていて、旅先で亡くなり実現していない。

その席は、後にパドヴァ大学に解剖劇場という解剖を多くの人で視察できる教室を作ったファブリキウスが継ぐことになる。

※『人体観の歴史』酒井建雄も参照。

2020.12.24執筆

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