イラストの登場人物は左がフィチーノ、後ろがプロチノス、前がプラトン、右がプレトンとなっています。

【フィチーノ伝① フィレンツェ公会議】

1439年のフィレンツェ公会議を契機に、今まで古代ギリシアの古典というと「アリストテレス」が主流だったのが、プラトンの文献をギリシャ語(原語)からラテン語に訳す活動が始まり、「当時の貴族は物質主義的ではあったけれども、なお信心深かった」こともあり、一気にプラトンをベースとした新プラトン主義が普及していきました。

そのプラトンを普及させたキーパーソンであったのが、プラトン・アカデミーの筆頭者マルシリオ・フィチーノになります。

■①メディチ家の侍医の息子

フィチーノは、当時フィレンツェのリーダーであったコジモ・メディチの主治医であった父親のもと育ちます。

フィチーノが生まれたのが1433年で、コジモがリーダーになったのが1434年ですから、生まれて間もなくフィレンツェを治め始めたコジモのもとに父親が仕えていた事になります。

そして、当時医学でも有名なパドヴァ大学などで主流になりつつあったアリストテレス派に属する医者が、フィチーノの哲学の家庭教師になります。フィチーノはプラトンを再興した事で有名であるため忘れられがちですが、このときかなり高度な医学を習得し、かなり後では彼の哲学をベースとした医学に関する本も書くことになります。

■②コジモに見出される

そんな彼に、転機が訪れます。

1439年、フィチーノが六歳であったとき、フィレンツェにおいて東西の教会が統一するという歴史的な公会議が開かれました。

キリスト教は当時、ビザンツ帝国の東側と西ヨーロッパ側において分裂していました。

しかし、ビザンツ帝国はイスラム・トルコの勢力が押し寄せてきて対処できなくなりつつあり、西欧のキリスト教世界の援助を欲していました。

そして、西欧のキリスト教側は、同じカトリック教会同士で内紛が絶えず、東側と手を組むことで内部の秩序を安定させたい想いがありました。

このように東西で分裂してから何百年もたった後、ようやく互いの環境が変わり、お互いに利害が一致したため、歴史的な宣言がなされたのです。

また、コジモはこの歴史的な公会議を開いていたエウゲニウス4世と親交があり、最初はフェラーラで開いていた公会議がペストの流行で中止になったのを契機にフィレンツェに会場を移す手回しをしました。コジモは東西文化を統合する公会議を受け持てばフィレンツェの文化的地位が高まり、さらに東方との貿易を有利に進めるための布石となると考え、会場をフィレンツェに臨んだようです。

この時公会議に参加していた使節団の中にギリシア学者もいて、古典の収集などすでに熱心に進めていたコジモは教えを乞い、その学者のゲオルギオス・ゲミストス・プレトンがプラトン講義をすると共に、まだ西欧に伝わっていなかったプラトンの著作を携えてきていて、コジモに翻訳をすすめた。

その時、以前から古典の写本収集を進めていて、図書館も建設し始めていたコジモは、さらにフィレンツェにおけるギリシア語の古典を翻訳ができて更に哲学を自分のモノにできる人材を育成する事を決めました。

それがコジモの主治医の6歳の息子フィチーノに白羽の矢が立ったのです。

【フィチーノ伝コンスタンティノープルの陥落】

15世紀半ば、プラトンの考えがフィレンツェに入ってきて問題になったことの一つに、キリスト教徒ではない異教徒の思想をどう受容するか?というものです。

1439年のフィレンツェ公会議を契機に、プラトン・アカデミーを作るための人材として選ばれたフィチーノでしたが、彼もプラトンに傾倒しすぎてい単に向かって逸脱する可能性を心配し、フィレンツェの大司教はフィチーノにボローニャで医学とトマス・アクィナスの仕事両方を研究するようにアドバイスしたようです。

トマス・アクィナスは12世紀のイスラム圏からの古代ギリシア・ローマの知識が流入してきた時期にキリスト教徒の在り方を唱えた人であったため、フィチーノにもトマス・アクィナスの考え方を学びなさいと指摘したのかもしれません。

また、メディチ家が1494年にフィレンツェから追放された際、次に先導者となったサヴォラローナは異教徒の思想による芸術などによってキリスト教徒が汚されてしまったことを問題視したりしています。

ただし、そのときはサヴォラローナの神学をフィチーノは大絶賛したらしいので、フィチーノのプラトニック的考えとどう相容れていたのかは不明です(ただし、サヴォラローナが処刑された後、サヴォラローナの一派とみられないためにフィチーノはサヴォラローナを批判している)。

■①コンスタンティノープル陥落

1439年、フィレンツェ会議で東西の教会の統一という歴史的な宣言をしたものの、東方のビザンツ帝国の皇帝は国に帰ると根強い反対派の人々をなかなか説得してもらえず、実現が難航していました。

そうこうしている内に、西方から派遣した軍隊もバルカンで大敗を喫し、イスラムの進出は進み1453年コンスタンティノープル陥落しついにビザンツ帝国が滅んでしまう事態となってしまいました。

ただ、その出来事は東方の学者が西方に流入するきっかけとなりました。

この1450年代半ばはフィレンツェにおいてコジモがプラトンだけでなくアリストテレス学者やギリシア語の講師などさまざまな講義を講演してフィレンツェにおいて開催している時期ですので、おそらくこの東方の学者の流入と関係があるのだと思います。

またこのコンスタンティノープル陥落を受けて、ミラノ・ローマ・ヴェネツィア・ナポリ・フィレンツェと、イスラムの更なる西方への進出を警戒する意識もあり、それらの国で友好関係を持つ『ローディの和』が結ばれもしていました。

この『ローディの和』はコジモの尽力が強いと言われていて、この後長らくの間比較的イタリアに戦争が起きない時代が訪れます。この辺りも学者が講演が進んだ背景もあるのかもしれません。

この時期の講演として有名なのがジョヴァンニ・アルギロブロというプラトンの方向にも精通する学者のもので、コジモやフィチーノは勿論、さらにイタリアのグルメの評論でも著名なバルトロメオ・サッキもこの学者の講演を聞くためにフィレンツェに訪れています。

そしてフィチーノはこのような時期の1456年には、コジモの期待に答えギリシア語なども習得し、様々な本を執筆するようになっていました。

という事は、丁度東方の学者ブームが1439年に続き再燃した1450年代半ばにフィチーノは頭角を現し始めと考えることができると思います。

【フィチーノ伝 プラトン・アカデミー】

フィチーノが唱える「プラトン」は、芸術との親和性が良かったようです。

まず、当時の建築や絵画では比率や幾何学によって、遠近感や理想的なプロポーションを作り出す技術が、ギリシア・ローマの知識や作品を通して、編み出されていました。

そのため、数学や幾何学などを理想の世界としたプラトン主義はそれらの発明を肯定化し、それによって作りだされるリアリティに神を感じ、芸術や知識は神へ近づく道として考える「プラトン」の思想は今フィレンツェで栄えている人の想いを受容してくれました。

フィチーノの「プラトン」の思想は、神が人間に向かうのではなく、人間が主体的に自らを高めることによって神に近づくものであり、その能力を人間は神の愛に与えられたという考えまで導きます。

学問によって神に近づくというのはおこがましいと思うかもしれませんが、今までキリスト教の信仰によって神のご加護を受けるのを待っていたのに対して、主体的な努力によって前に進んでいこうとする想いは現実的な技術や経済・政治を発達させる原動力となったのでしょう。

■①プラトン・アカデミーの筆頭となる■

1439年フィレンツェ公会議によってコジモが構想し、その適材として育てられたフィチーノも遂に期待に応えるレベルに育ち、1462年フィレンツェ郊外にあるミケロッツォ作のメディチ家別荘において、フィチーノを筆頭としたプラトン・アカデミーが誕生しました。

しかし、フィチーノの頭の中には、「プラトン」そのものよりも、プラトンをどのように受容するか考えたプロチノスの「新プラトン主義」の方向の復興を考えていたようです。

そのためプラトンに加えて「新プラトン主義」に組み込まれていた「ヘルメス文書」の翻訳からフィチーノは取組始めます。

この「ヘルメス文書」は錬金術のベースとなる自然魔術や占星術などの思想も含むため、フィチーノもその影響を受けか学問のなかで「占星術」を中心に考えたようです。後にティッツァーノなどがフィチーノの思想を絵画に反映しますが、それも占星術的解釈を含んだものを映像化しました。

その後、プラトンの著作の対話編を中心に翻訳していきます(「ソクラテスの弁明」とか初期のものは調べた感じだと翻訳していない)。更に1474年に『プラトン神学』とという著作を描き、プラトンの思想は広くイタリアに広まっていきます。

またこの頃は1469年からロレンツォ・デ・メディチがフィレンツェのリーダーとなっていてかつてない快楽主義と芸術的文化を謳歌した時代となったが反映していると思います。

更にロレンツォは祖父のコジモからの教育方針で、世俗的な数字を扱う経営は学ばせず、高貴なプラトン主義にとって理想的な知識としての学問や芸術ばかり学んで育てられていたため、ダイレクトに普及していったのでしょう(そのお陰で、メディチ銀行は経営に陰りがみえてしまうが)。

【フィチーノ伝④ サヴォラローナ】

フィチーノは、惑星などの力によって健康を得るすべを説く『三重の生について』という本を1489年に書きました。

フィチーノの父親は、かつてのフィレンツェのリーダー・コジモの主治医でした。そして、フィチーノは、アリストテレス派の医者に哲学の家庭教師として来てもらっています。

ですから、当時の医学を踏まえたもので、この本や化学の元素のベースともなる概念をもとに薬を調合したパラゲルルススなどに影響を与えます。

また当時は、星の霊が多少とも地上の現象に影響するという考えはむしろ普通であり、ヘルメス文書やプラトンの知見を学び、また占星術の研究を行ったフィチーノのこの本は大いに読まれたようです。

フィチーノは瞑想に加えて学問的研鑽を積むことによって、人間は完成の域に近づき、現生の幸福のみならず来世での幸福も実現すると考えました。

■①サヴォラローナ■

1492年、フィレンツェルネサンスの黄金時代を作り出したロレンツォ・デ・メディチが亡くなります。

次のメディチ家を積むピエロは、父が残した借金や威光の大きさに嫌気がさしてか、プラトン・アカデミーには好意的ではなく、1492年にプラトン・アカデミーは解散します。

メンバーであったピコ・デラ・ミランドラ(フィチーノの弟子でもあった)やポリツィアーノはピエロによって毒殺されたという話も残っているほどです。

そして、1494年にはシャルル8世のフランスがナポリの相続権を主張し、ミラノのイル・モーロの誘引もあり、南下してきたため、フィレンツェは微妙な立場に立たされ、ピエロ・メディチを追放して共和制が復活しました。そしてサヴォラローナという、ロレンツォ・デ・メディチの時にロレンツォによってサン・マルコ修道院に招かれた僧侶がフィレンツェの先導者として支持され始まります。

サヴォラローナの支持から、ボッティチェリは筆をおき、死の直前のピコ・デラ・ミランドラはサヴォラローナの加護をもとめ、ミケランジェロの兄も熱心な支持者になり、当時の知識人をはじめ、多くのものがサヴォラローナを讃えました。

フィチーノもサヴォラローナの神学を絶賛したと伝わっています。しかし、サヴォラローナはロレンツォの頃のギリシアやローマの古典から学んだ芸術や学問は異教徒のものであると唱えた面もあり、その辺りはフィチーノとサヴォラローナの親和性は不明です。

ただサヴォラローナはあらゆる権力や状況に揺るぐことなく、直情的にキリスト教の信仰を唱えたところは多くの人の心を揺るがせたそうです。キリスト教の総本山であるローマ教皇ですら世俗の権力や欲にまみれ腐敗する状況を批判し、また共和制であったはずのフィレンツェがメディチによって異教徒の文化に埋没したことも批判するなど、当時の物質主義的でありながら信心深かった人々にとってはサヴォラローナは美しく写ったのでしょう。

しかし、フランスが結局ナポリ支配に失敗し北上し、フィレンツェが孤立し始めると、貿易や銀行や産業で栄え、周りを魅了する学問を作り出していたかつてのフィレンツェの在り方を思い出したりして、直情すぎるサヴォラローナを処刑にまでおいやってしまいました。

サヴォラローナの処刑後、ローマ教会からサヴォラローナの一派とみられることを恐れたフィチーノは『弁明』によって、かつて絶賛していたサヴォラローナを批判したようで、それが市民の失笑となったようです。そのような状況で翌年にはフィチーノは亡くなっています。ただ、フィレンツェ大聖堂に胸像とともに讃えられているため、フィチーノの功績は揺るがなかったようです。

ただ、フィチーノの唱えたプラトン主義はいつしか社会を革新しようとする高貴な激しい情熱と結びついていたものから、古典の世界に沈潜し、プラトン的な美的世界観をもって、精神的にも現実生活から離れた境地において、典雅な社交生活、隠遁生活を送ろうとするう傾向を誘発するようになってしまったようです。

そのため、当時のイタリアで複式簿記は普及しつつあったものの、世俗的な数学を否定したプラトン的な考えは、それ以上の複式簿記の発達を妨げてしまい、商業の衰退につながったとも言われています。

※参考文献

  1.  イタリア語wikipedia. 
  2.  森田義之『メディチ家』講談社現代新書、1999年3月20日
  3. 森毅『魔術から数学へ』講談社、1991年11月10日
  4. ジェイコブ・ソール(訳)村井章子『帳簿の世界史』文藝春秋、2015年4月10日。
  5.  “Plotinus”. 英語版Wikipedia. 2021年1月25日閲覧。
  6. ^ “三重の世について”. wikipedia. 2021年1月26日閲覧。
  7. ^ “platonic academy (Florence)”. 英語版Wikipedia. 2021年1月26日閲覧。
  8. ^ “Marsilio Ficino”. 英語版Wikipedia. 2021年1月26日閲覧。
  9. a b c 会田雄次『新書西洋史④ ルネサンス』講談社現代新書、1973年6月。
  10. a b c d e f Alfred W.Crosby (訳)小沢千重子『数量化革命』紀伊国屋書店、2003年11月1日。

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