①ミラノ時代のダ・ヴィンチ

チェーザレ・ボルジアとは、教皇アレクサンデル6世の息子で、もともと枢機卿であったのだが教皇庁の軍司令官となった人であり、後にマキャベリが『君主論』の理想の一人として挙げる人物である。

そのチェーザレ・ボルジアとダ・ヴィンチがであったのは、ダ・ヴィンチがフランス軍が攻めてくるためミラノから亡命する際と考えられている。

ダ・ヴィンチは、1481年辺りにフィレンツェからミラノを実質的に納めているイル・モーロのもとに行った。それは、イル・モーロの時代のミラノを治めていたスフォルツァ家の創始者フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像をつくためとも言われている。しかし、1494年シャルル4世のフランスがナポリの王位継承のためにミラノに南下してきた際、その騎馬像のための銅が軍事用に使われてしまい、完成が遠のいていた。ただ、この時イル・モーロは本来は正式なミラノ公では無かったのだが、またヴェネツィアや教皇庁と上手く話を付け、1494年にナポリ王が亡くなることでナポリ王の娘と結婚していたミラノ公ジャン・ガレアッツオの脅威も去り、フランスの力を使いイル・モーロがミラノ公になった(このタイミングでジャン・ガレアッツオをイル・モーロが毒殺したとも)。ダ・ヴィンチはミラノにおいて他に、都市計画やミラノ聖堂のコンペなどに参加したり、数学に興味を持ち『最後の晩餐』などを名作を描いて土地を与えられるほどになっていた(因みに亡きジャンガ・レアッツオの妻であり未亡人である人が隣に住んでいたという)。

そして、1499年前年に即位したルイ12世がイタリアに南下してきた。それは、以前1494年にシャルル4世がミラノを訪れた際にも権利を主張していたのだが、ルイ12世はスフォルツァ家が統治する前のヴィスコンティ家と繋がりがあり、イル・モーロよりもルイ12世が正統なミラノ公継承者であると主張したものだった。そして、このフランスの南下は今回は教皇庁も望んでいて、ミラノにフランスが入る前に、チェーザレ・ボルジアを筆頭とする教皇庁軍とルイ12世は待ち合わせしていた。その際、ダ・ヴィンチはルイ12世に手紙で自分の能力を売り込んでいたため、この時ルイ12世といたチェーザレ・ボルジアと接点があった可能性があるという。ただ、ダ・ヴィンチはあくまでもイル・モーロに庇護されていた存在でもあり、イル・モーロはルイ12世に太刀打ちできず娘を結婚させていた皇帝マクシミリアンを頼って亡命する。

※『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』チャールズ・ニコルを基本的に参照。チェーザレとダ・ヴィンチがこの時会っていたという仮説もここに掲載。※写真はルイ12世とイル・モーロ。ともにWikipediaから

②ミラノの直後のダ・ヴィンチ

■ⅰ.ダ・ヴィンチのフィレンツェに久しぶりに帰る■

1499年、ミラノにフランス軍が攻めてきたため、ダ・ヴィンチはミラノを去り、ヴェネツィアなどに行き、1500年にフィレンツェに約20年ぶりに帰還してきた。ダ・ヴィンチを庇護してたイル・モーロが皇帝マクシミリアンの援助をもとにミラノ奪還に戻ってきたという噂もあったが、ミラノには戻らなかったようだ(実際にイル・モーロはミラノに向かったが結局フランス軍に捕まって失意のままに亡くなったようである)。フィレンツェはメディチの後にリーダーシップをとったサヴォナローラを排斥し、また改めて本来のフィレンツェの理想である共和制の都市へと変わりつつあった(因みにそこの書記局長にマキャベリが就任している)。ボッティチェリはサヴォナローラ後に支持した時期もあったが改めて工房を開いていた。そして、フィレンツェに戻ってきたダ・ヴィンチは公証人である父が関わった関係から、メディチゆかりのサン・マルコ修道院の彫刻庭園に隣接したサンディッシマ・アンヌツィアーヌ聖堂の仕事の依頼を受けた。『最後の晩餐』をミラノで描くなどした経歴からダ・ヴィンチは確固たる名声が当時はあり、その聖堂で描いた作品の下絵を見に多くの人が集まったという。

■ⅱ.1500年前後のローマ■

ただ、その作品を仕上げない内に1501年にローマに旅立ち、ブラマンテと会っている。ブラマンテは2年後くらいにヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂とヴァチカン宮殿の再建および拡張の基本計画を立てたことで名を残す人だが、ダ・ヴィンチがミラノでミラノ大聖堂のコンペに参加した時、そのコンペのとりまとめ役のような事をしていた。更に、その後ミラノの衛星国であるパヴィアの大聖堂の建築を任され、その大聖堂をダ・ヴィンチはイル・モーロの依頼を受けて、建築の師とも言えるマルティーニと見に行っている。また、このときのダ・ヴィンチの大聖堂の助言にブラマンテは影響を受けて、集中型の教会を作風にしていったようである。、、、そんなブラマンテと再会したのである。しかし、ダ・ヴィンチが行く少し前までにミケランジェロがローマで『ピエタ』を作っていた(ミケランジェロがその後フィレンツェに帰還しているの行き違いみたいな事になる)。更に、そのローマには、まだ学生だったコペルニクスがイタリアに留学してきた際、ローマにも巡礼に来ている。イタリアでの留学はボローニャ大学の法学部学生として教会法を専攻していたのだが、たまたま天文学教授に気に入られ天文学の教えも受けている。因みに、ローマでの巡礼では月食を観測したという。このときの天文学の体験が、後の地動説に繋がっていく。

※…『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』チャールズ・ニコルと『物語 イタリアの歴史』藤沢道郎 あたりを今回は参照。※写真は一枚目はブラマンテ、二枚目はコペルニクスの切手、共にwikipediaから参照

③チェーザレの元で働く

ダ・ヴィンチがミラノをでるきっかけとなったフランス軍の南下を利用して、教皇軍総司令官のチェーザレ・ボルジアはロマーニャ地方(フィレンツェの東側一体辺り)を制圧するために11月イーモラの領主カテリーナ・スフォルツァの制圧を行った。

■ⅰ.カテリーナ・スフォルツァ■

カテリーナ・スフォルツァは、女傑として有名であった。名前の通りスフォルツァ家の者で、1450年にスフォルツァ家支配のミラノを作ったフランチェスコ・スフォルツァの孫にあたる。彼女は、教皇シクストゥウス4世(システィーナ礼拝堂を作った事が有名)の甥であるジローラモ・リアーリオと結婚する。そして、そのシクストゥウス4世が野心のためにイーモラを買収しジローラモを領主としておいたことが、フィレンツェの豪華王ロレンツォ・メディチの政策と対立することとなった。そのため、メディチ暗殺事件ともいえるパッツィ家の陰謀が1478年に起こっている。その後、ジローラモはシュクストゥス4世が亡くなった4年後の1488年ロレンツォの根回しなどでイーモラで反乱が起こり殺されてしまう。その際、叔父であるイル・モーロ(ダ・ヴィンチを庇護していたミラノ公の摂政)が援助を行わなかったため、ロレンツォの援助を借りて反乱を鎮圧する(ロレンツォはジローラモの攻撃のみを意図していたのではないか)。この反乱の際に、息子を人質に取られた際、スカートの裾を上げて子どもならいくらでも作れるというような事を言い女傑として語り継がれたエピソードがある。その後、メディチ家のものと結婚し、息子は正確に難があるが名を残す傭兵隊長となる。そして1499年11月チェーザレ・ボルジアがそのイーモラに攻めてきて囚われてしまったのだ。因みに、その4か月前マキャベリがフォルリを訪れてカテリーナ・スフォルツァ(イーモラとフォルリの領主だった)と会談し、フィレンツェはカテリーナとの傭兵の契約の更新をしたばかりの頃であった

■ⅱ.ダヴィンチの派遣■

イーモラを制圧してロンバルディア地方の支配を進め、遂に1502年ウルビーノを攻略し、領主であるグイドバルド・ダ・モンテフェルトロを排斥してしまう。フィレンツェにとって東側の交易の中心地であるアレッツォや、西の港としての交易の拠点であるピサもチェーザレに抑えられてしまったため、フィレンツェはウルビーノにいるチェーザレのもとに使節を送る。この1502年6月の会談にマキャベリも参加している(これが初めてのチェーザレとの出会い)。そして、フィレンツェ共和国の統治者であるソデリーニとマキャベリの発案で、技術的な援助を供与しつつ、同時に情報収集の目的も恐らく帯びて、チェーザレのもとにローマからフィレンツェに戻っていたダ・ヴィンチを派遣したようである。

■ⅲ.ウルビーノ■

チェーザレとはフランス領の北ミラノのパヴィア(ミラノの衛星都市)において合流し、ダヴィンチはチェーザレの領国内を自由に旅する権利の通行証をもらう。そして夏が終わるとチェーザレは、城塞都市であるイーモラに宮廷を設置した。そこにマキャベリもウルビーノでの会談が終わっていなかったため、改めてイーモラにチェーザレの交渉のために来ていた。このチェーザレのもとのイーモラでダ・ヴィンチとマキャベリは交友しある種の信頼関係を結んだようである。この時、ダヴィンチはイーモラの地図の政策をしている。地図のクオリティも高いのだが、その地図はウルビーノの図書館にあった1470年頃制作の手描き地図を参照していることも重要である。つまり、ウルビーノを制圧したチェーザレの元で働いたダ・ヴィンチは当時高水準であったウルビーノの図書館の蔵書を利用していたという事である(多分)。ウルビーノの図書館は、フェデリコ・モンテフェルトロという傭兵隊長でありウルビーノの公であった当主の努力によりイタリアにおいて15世紀半ばには最高水準の文化レベルとなっていたところである。初めて複式簿記を普及させたパチョーリも、その複式簿記の名著『スンマ』を書く際にはウルビーノ図書館を利用している。パチョーリは、もともとウルビーノ近くの出身で、ウルビーノの図書館に出入りできる画家ピエロ・フランチェスカの元で勉強していた。そのため、ウルビーノの図書館が使えたようである。そして、1502年にチェーザレによって排斥される事となるグイドバルド・モンテフェルトロとも知り合っている。またその後『スンマ』を完成させてミラノに招かれ、ミラノ時代のダヴィンチと親交を持っている。

※『レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯』チャールズ・ニコルと『西欧近世軍事思想史』上田修一郎を参照。後者は、マキャベリの生涯の年表は一番のレベルぐらい詳しい。※写真の一枚目はカテリーナ・スフォルツァ、二枚目はウルビーノ公のグイドバルド・モンテフェルトロ。ともにwikipediaから参照。

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