【フランチェスコ・スフォルツァ】

 有名なミラノ大聖堂を作ったガレアッツォ・ヴィスコンティの息子マリーア公の傭兵として1425年くらいから活躍しつつも、1430年代から教皇やフィレンツェ・ヴェネチアの支援なども行いミラノと敵対したり、1440年代にはスフォルツア自身が一つの権力となりナポリなどの南下などを企みつつも、1447年にマリーアがなくなりミラノに共和国が登場するとその傭兵となるも、結局は共和国を奪い1450年頃にはミラノ公になった人。

 マキャベリが『君主論』においてチェーザレ・ボルジアと共に称賛している人でもあります。自分自身が軍備を持ち、自分自身が指揮を執り軍地に赴き、独自性を保ちながら上手く周りの国と関わり、当時の傭兵に依存し多くの国が存在するイタリアにおいて覇権を築き維持する策謀を建てられた『君主論』の像に近い部分がある人です。

 また、今まで世襲されていたミラノ君主から新しく君主になった分類にマキャベリは入れており、事実一代において下克上したような人です。

 彼の息子ロドリーゴ・イル・モーロがミラノ公国の代表になったとき、フィッレンツェのロレンツォ・デ・メディチ(豪華王)が友好のしるしとして1480年頃ミラノに送ったのがレオナルド・ダ・ヴィンチで、ダ・ヴィンチはフランチェスコ・スフォルツァの騎馬像を作ろうと馬のスケッチ(イラスト二枚目がダ・ヴィンチの僕がラフスケッチ)を描いたり、小さな騎馬像の模型を作ったりもしたようです。ただ、かつてフランスの一族が治めていたナポリを取り戻すためにフランス国王シャルル8世が1494年頃ミラノに侵攻した際に壊されてしまったようです。

 ただ、ダ・ヴィンチの馬のスケッチは1500年代にフィッレンツェで描く未完成の絵画『アンギアーリ戦い』の戦いでもリアリスティックで筋肉も上手く描かれているように思われます。

【ニッコロ・ピッチニーノ】

 こちらはダ・ヴィンチがフィッレンツェにて描いた未完絵画『アンギアーリ戦い』をルーベンス(だったか?)トレースしたものの真ん中あたりに描かれているニッコロ・ピッチニーノを描きました。

 元々は肉屋出身の人らしいのだが、歴史に残っているのは傭兵として生涯を通した生きざま。

 1425年、フィレンツェに雇われたオットー傭兵隊長の優秀な部下であり隊長の父の弟子でもあったピッチニーノ。フィレンツェがミラノ公のマーリア・ヴィスコンティに攻め込まれるのを防ぐため、フィレンツェの傭兵契約の補佐としてラモーナ渓谷で戦う。しかしミラノに捕まりオットーは殺害され、ピッチニーノはファエンツェ(おそらくミラノ公に協力していた国)の捕虜になりつつも、ファエンツェとフィレンツェの協定をファエンツェに持ちかけ見事実現し、解放されてフィレンツェに戻ってきます。

 しかし、そんな働きをしたピッチニーノに対して傭兵契約条件をフィレンツェはあまり好条件にしなかったようで、ミラノ公の傭兵になんとなってしまったようです(マキャベリの『フィレンツェ史』より)。

 その後、ミラノ公の領土拡大の勢いを止めるべくヴェネツィアを始めとするフィレンツェ・教皇連合軍による1427年マクローディオ(Maclodio)の戦いにも参加するものの見事負けてしまう。

 そして、フィレンツェがミラノ公に対して防衛の意味もあり進出したルッカでの何度かの戦いにもピッチニーノはミラノ側として参戦しています。

 1431年のミラノとヴェネツィアの戦いにも参加し、見事勝っています。

 1434年、おそらくヴェネツィアの敗北に呼応して、ヴェネツェアに協力していた教皇の領土内で反乱が起こり、ミラノとしてはその反乱は続いてほしいため、ピッチニーノを派遣してそれを助長させます。

1437年、この時は今までミラノの傭兵として活躍していたフランチェスコ・スフォルツァがおそらく少し前にフィレンツェの支配をコジモ・デ・メディチ(お金をスフォルツァに援助していたとか)がとった関係もあり、フィレンツェ軍の傭兵となりピッチニーノはミラノ軍としてルッカで戦う(何度かフィレンツェとミラノはルッカで戦っている)がスフォルツァに負けてしまう。

そして、1440年には「アンギアーリ戦い」にてミラノ軍としてピッチニーノは戦うも、フィレンツェ・ヴェネツィア・教皇の連合軍に負けてしまう(このときスフォルツァは何をしていたのか良くわからない)。

その後も、ミラノ公の傭兵として教皇領に関するボローニャやナポリ進出などの戦いなどに参加して生涯を終えたようです。

マキャベリがこの時代は傭兵が中心になり、傭兵同士の戦いによって戦闘能力が落ちてしまい、外国勢力の台頭に繋がってしまったと言っていたが、ピッチニーノも傭兵同士の戦いとして上手くお金を儲ける方法を考えたのであろうか。

ただ、基本的には一貫してミラノについていて、最初のフィレンツェにおいても勇敢な活躍をしたのに認めてもらえなかった的な理由で移籍しただけであり、忠誠心みたいのはあった模範的な傭兵(スフォルツァやホークウッドのように自身で権力を持とうせず、しかも戦闘を一生懸命それなりに行う)だったのではないかとも思ってしまいます。

【コジモ・デ・メディチ】

 フィレンツェの黄金期を作ったロレンツォ・デ・メディチの父親。

 15世紀世紀前後辺りにミラノ公国のジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティがフィッレンツェなど大陸進出をしつつもペストが流行り亡くなり、一旦ミラノの大陸進出は収まる(フィレンツェは結構危なかった)。しかし、ガレアッツォの息子マリーアが1425年再び領土拡大進出を行う。

 フィレンツェは先制攻撃を仕掛けようという流れが出て来るが、コジモの父ジョバンニ・デ・ビッチは「先制攻撃を仕掛けると侵略戦争になりなり、周りの支援が受けにくい。そして傭兵を無意味に使う事はフィレンツェの財政を極端に圧迫するため、結果的に買ったとしても国民の税金を増やすだけだ」みたいな演説をして見事流れが収まる(マキャベリ『フィレンツェ史』)。

 その後、1427年はヴェネツィアを筆頭とした連合軍が見事マクローディオ(maclodio)でミラノ軍を打ち破り、ミラノ軍の勢いは一時収まる。

 そして、コジモの父ジョバンニが1429年に亡くなった時、死に際に「表で目立とうとせず全体のバランスを考えた処世術を行えば成功する」というような言葉を残しコジモは胸に刻む。

 その後、1430年ミラノ公が1427年の敗北によってフィレンツェを始めとするトスカ―ナへ不介入の協定をしたため、ミラノ側だったルッカが孤立する状態となる。フィレンツェでは今こそルッカを攻めて、ミラノに対する防衛線とすることが大切(またルッカ自体も少し前まで独裁者が政治を執っていて、放置するとまたそうなりかねず危険)という流れになり、コジモを筆頭とするメディチ党も賛成する。

 ただし、ミラノは巧みにジェノヴァからの使いという口実でルッカにミラノの傭兵隊長ニッコロ・ピッチニーノを送り込んできたため、ルッカは攻略は困難になりなり、結果フィレンツェは傭兵代が莫大にかかっただけとなる(さらに1431年ヴェネツィア連合軍がミラノに負けている)。

 当時フィレンツェを治めていたアルビツィ家などが戦費がかかりすぎる上に戦果がないことに国民の不満が募り苦しくなる。そこで一番フィレンツェでアルビツィ家の敵対勢力となりそうなメディチ家を追放することになり、1433年コジモはパドヴァに追放されるが、銀行業でお世話になっていたヴェネツィアの強い働きがけでヴェネツィアにすぐに移動する。

 ヴェネツィアはフィレンツェと同じような共和制でありながら非常に強い軍隊を持っていることや諸国との付き合い方が上手い事をその時に結構勉強したようである。

 しかし、フィレンツェにおいては結局ミラノに対して華々しい戦果を挙げられず、戦費ばかりかかり国民の財政を相当に圧迫し続けていたため、アルビツィ家に対する国民の支持は絶望的になってきていた。またローマからキリスト教改革の関係でローマを危機にさらしたなどの関係でフィレンツェに追放されていた教皇エウゲニウス4世がコジモのフィレンツェでの必要性を説き(教皇も銀行業でコジモにお世話になっていた)、コジモの帰還がフィッレンツェ内で望まれる。

 そして1434年、なんとほとんど戦闘がなくアルビツィ家を追放し、コジモを始めとするメディチ家がフィッレンツェに帰還する。

 コジモの銀行業のネットワークにより、フィレンツェ内ではコジモ自体は表立たずに影の功労者として力を発揮し、外交では教皇との結びつきを強め、更にミラノの傭兵だったフランチェスコ・スフォルツァもコジモとの関係もあり、教皇やフィッレンツェに力を貸すようになる。

 そして1437年フランチェスコ・スフォルツァ指揮のフィレンツェ軍がついにミラノ軍のニッコロ・ピッチニーノを打ち破る。ただ、フランチェスコ・スフォルツァはこの後フィレンツェには属さず個別で権力を持つ方向に動く。

 またこの頃にコジモは銀行の支店を更に拡大し、綿織物工業から絹織物工業まで投資し、1439年には教皇を助けビザンツ帝国の東方キリスト教とローマ教皇のキリスト教が一緒になって会議する公会議をフェラーラで実現し、遂には途中で会議場をフィッレンツェに移す。これは、オスマントルコに対するキリスト教勢力の連帯を作り出し、フィレンツェを中心とした諸国の調和の先駆けとなる。

1440年、ダ・ヴィンチの絵画で有名な「アンギアーリ戦い」では、人脈を生かして教皇とヴェネツィアの助けを借りて、見事ミラノ軍のニッコロ・ピッチニーノを打ち破り、フィレンツェは大勢力として周りに認められるようになる。そこからイタリア半島の争いの力点は教皇領やナポリ側に移動する。

1450年、マリーア・ヴィスコンティが3年前に亡くなり、共和国ができたが傭兵長であるフランチェスコ・スフォルツァがミラノ公国の実権を奪い、フランチェスコとは繋がりのあったコジモはいち早くミラノ公国と同盟を結び、銀行のミラノ支店も出す。そのため、フランチェスコと教皇は中が良くなかったため、フィレンツェは一時教皇勢力を敵に回す。

1454年、しかし遂に昨年ビザンツ帝国がオスマン帝国に陥落されたのもありイタリアに危機感が募り、またコジモの取り計らいもありミラノ・ヴェネツィア・ナポリ・教皇・フィレンツェの同盟である「ローディの和」を実現し40年くらいイタリア半島では華々しい戦争が起きない平和を実現する。

ただ、コジモは父ジョバンニ仕込みで銀行の会計業に精通していて、更に産業や農業、また

ビザンツ帝国から流れてきたラテン語を読める学者の知識も深く理解してあらゆる方面に精通していたが、当時の人文主義のブームから会計の部分は息子であるピエロやロレンツォには教えなかった。そのため、メディチのパワーバランスを図る下地である金融の流れが上手く行かなくなってしまい大きな負債を息子のロレンツォは抱え、更にフランスのイタリア進出で、一旦フィレンツェからメディチ家が引かなくてはならなくなる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です