1901年9月14日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにて、世界初のボディービル・コンテストが開催された。

その審査員の一人に、アーサー・コナン・ドイルがいた。

アーサー・コナン・ドイルは「ホームズ・シリーズ」をヒットさせたものの、一旦終わりにして歴史小説を書いたり、ボーア戦争に関する社会活動を行ったりしていた。しかし、この年1901年『バスカヴィル家』を発表し、「ホームス・シリーズ」を再開させたばかりだった。

なぜコナン・ドイルが審査員に選ばれたのかと言うと、主催者のユージン・サンドウと交友関係があったからのようだ。

主催者のユージン・サンドウは「ボディービルディングの父」とも言えるボディービルディングという分野を開拓した人であり、当時はアメリカやイギリスを始めとするヨーロッパにおいてボディービルダーとして、またボディービルドを使ったトレーニングの提唱者として高い名声を得ていた。

そんな彼の活動もありボディービルディングがブームになり、ボディービルディングを競技とする流れとなるまで至ったのがこのボディービルディング・コンテストである。

因みに、このボディービル・コンテストが行われた会場アルバート・ホールにおいて2か月後、夏目漱石がオペラ歌手のコンサートを聴きに来ている。この時期の夏目漱石はロンドンに留学したものの英文学の研究の方向性などの悩みなど色々あり神経衰弱が起きていた時期ではあった。

そして、この夏目漱石もユージン・サンドウの著作を読み、ボディービルを使った健康法を実践したとも言われている。

夏目漱石の生年は1868年だが、ユージン・サンドウもほぼ同じ1867年生まれである。

ユージン・サンドウはもともとプロイセン生まれだが、徴兵を逃れるため、ヨーロッパでパフォーマンスで食べていくことを志向し、ブリュッセルにおいて有名なジム・トレーナーに出会い、そのトレーナーがロンドンにもジムを開いたため、サンドウはロンドンを中心として力技を見せるパフォーマンスで名声をあげていった。

1893年には、アメリカの興業家フローレンツ・ジークフェルトに見出され、シカゴ万博でデモンストレーションさせようとしていが、シカゴ万博の客目当てにナイトクラブを建てて失敗していたジークフェルトの父を助けるため、サンドウを興行のメインとして復活させている。

そのジークフェルトの興行において、サンドウのパフォーマンスは怪力技よりも技を使う際の筋肉の動きにオーディエンスが目に行っていることに気付き、筋肉の動きを主体としたパフォーマンスに切り替えていく。それによって、サンドウは全米で大人気となる。

因みにサンドウを出そうとして1893年のシカゴ万博は、コロンブスがアメリカ大陸に到達した400周年を記念したもので、アメリカの優れた電気技術が披露され、その一つに世界初の観覧車が披露されている(エッフェル塔に対抗したとも)。また日本はそこで「鳳凰殿」という日本の建築を披露し、後に建築家の巨匠となるフランク・ロイド(日本では前の帝国ホテルや池袋の自由学園などを作っている)に影響を与えている。また、東京美術学校初代校長となった岡倉天心がその万博の「女性館」における日本の出典の選考を行っている。

また、エジソンが世界初の映画機として「キネト・スコープ」もこのシカゴ万博に出展している。しかし、エジソンは万博で「キネト・スコープ」を披露して先端の技術として大人気になったものの、その後「キネト・スコープ」を使った映画の内容に悩んでいた。

「キネト・スコープ」は原始的な映画機で、スクリーンに映し出すものでなく箱の中に映し出しのぞき込むもので、上映時間は1~2分くらい、更に音楽もまだ付けられないものであった。そのため、その条件で見ごたえのある映画を作れるか悩んでいたのである。

それを解決するために、筋肉によるパフォーマンスという無音でしかも短い時間で人気を博すものが選ばれ、その代表格であるサンドウの撮影が決まり、1894年に上映されている。

それと同じ年に、サンドウは『Sandow on Physical Training: A study in the Perfect Type of the Human Form』という著作をロンドンで出版している。サンドウは理想的な肉体をギリシャ彫刻やイタリア彫刻で描かれた人物像から導き出し、ボディービルの有用性を説いている。実際、ギリシャ彫刻をオマージュをした写真撮影なども行っている。このような文脈であったからヨーロッパにはボディービルディングは容易に受け入れられたのであろう。

ロンドンで出版しているのは、サンドウの原点であり、後にイギリスの女性とも結婚したり、サンドウのアメリカに次ぐ活動拠点だったのだろう(多分彼は英語が話し言葉だったのではないだろうか)。

その後、ストレスと病気で活動を一時休止するが、1897年には『Strength And How To Obtain It』をロンドンで出版し、ダンベル運動の提唱者として一躍有名になる。「個々の筋肉にそれぞれ一つのエクササイズを割り当てるのである。このシステムでは、ある部位の筋肉が使われているとき、それ以外の部位の筋肉はリラックスしていて緊張しないようにエクササイズを配する(90頁)」とあるように単一や少数の筋肉を目的として鍛えるトレーニング方法である。具体的に18種類のダンベル体操をあげて、さらに健康に繋がることも書いている。

この著作は翌年に講道館館長・嘉納治五郎が会長を務める雑誌『國士』で紹介され、その後一冊の本として出版され日本でかなりの重版として人気を得る(その本でも嘉納治五郎は序文を書いている)。

サンドウはというとその後、トレーニング雑誌を出し、ボディービルディングのブームを世界的に作り出しボディービルディングという分野を一般的なものとする。

そして、その流れで出てきたのが冒頭の「ボディービル・コンテスト」である。

1907年には『The Construction and Reconstruction of the Human Body』を出版し、コナン・ドイルが序文を書いている。そして、1911年には戴冠してまもないイギリス国王ジョージ5世がサンドウを特別指導者として招いている(ジョージ5世もサンドウのトレーニングをしていた)。

ただ、1925年に数年前に土手にハマった車を力で持ち上げた関係もあり脳溢血で亡くなったため、死後はボディービルビルディングの健康法に疑問を持たれたりもしたようだ。

※参照は日本語版と英語版wikipediaが中心。またダンベル体操に関しては『肉体改造並びに体力増強のしかた』窪田登を参照。

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