夏目漱石がイギリス留学した研究報告書は「心理学」をベースにまとめました。

夏目漱石は小説を書く前に、1900年「英文学の研究」のためにイギリスに留学しました。以前からイギリスの文学を読んでいた漱石は、イギリスに留学する中でより深くイギリス文学を読みました。そして成果としてイギリス文学に関する研究報告書を書く必要があったのですが、漱石はどのようにイギリス文学の研究をまとめようか悩みました。

そこで出した結論が、「心理学」を使ってイギリス文学をまとめることです。
留学中、夏目漱石は化学者・池田菊苗と親交を持ち、科学者と文学者の在り方を考える機会に恵まれました。
科学者と文学者は全然違う職業のように思われますが、夏目漱石は並列して語ります。科学者は社会(世の中)を細分化して実態を突き止めるもので、文学者は社会を細分化した見識を使って読者の感情を揺さぶるものだとしています。
そして、漱石はイギリス文学を科学者という視点で、文学を科学しようと考えたのだと思います。その成果とも言える『文学論』においては、冒頭で文学的内容の形式を「F+f」(観念+情緒)と定義して議論を進めていきます。


心理学においては、一番アメリカの心理学者ウィリアム・ジェームズの影響が大きいと言われていています。ただ一番影響を受けたウィリアム・ジェームズの『心理学原理』は1902年帰国後に買ったもので、留学中より留学後『文学論』を構想する際に一番影響を受けたのだと思います(留学中にもジェームズの影響はあるようですが)。他には、ハーバート・スペンサーの著作はイギリス留学中に読んで、心理学から社会学まで結びつけるというスタンスは漱石の『文学論』の序文などに通ずるところがあります。


科学者観においては、一番カール・ピアソン『科学の文法』の影響が強いと言われています。カール・ピアソンは統計学の分野で現在も名が残っていますが、イギリス経験主義記述派として書いた『科学の文法』は当時広く読まれた著作のようです。留学中に親交を持った科学者・池田菊苗がピアソンと主張を同じくするマッハに影響を受けていて、その文脈で池田菊苗がピアソンの著作も読んでいて、夏目漱石に勧めたとされています(経験主義記述派とは、科学者は社会の実態を正しく知ることではなく、実態から受けた印象を明確に記述するという立場のことで、当時は原子も実在が証明されていなかったため概念上の記述として有効としていました)。


イギリス文学の研究をまとめなさいって言ったら、調べた作者やグループについてまとめたレポートを書いてしまいがちですが、漱石はそれでホントにイギリス文学全般の平等な評価に繋がるか、疑問に思って出した答えなんでしょうね。


■夏目漱石の渡英■


1900年、南方熊楠がイギリス遊学から帰る船とすれ違うように、夏目漱石が渡英します。
留学の目的は、日清戦争の賠償金で日本人の語学教育の質を上げようという目論見で始められた留学制度生第一号のため、当初「英語の研究」でしたが、帰国後東京大学のラフガディオ・ハーンの後任となるため、夏目漱石の独自性を出す狙いもあって、「イギリス文学の研究」に変更されました。
日本においては丁度、伊藤博文が立憲政友会を作り、山縣有朋から内閣を奪取した時期でした。
留学場所は、ロンドンの基本的に中心地でした。到着当初の案内は、美濃部達吉の兄でヨーロッパの商工業の視察に来ていた美濃部俊吉がしています。またロンドン大学でウィリアム・ペイトン・ケア教授の授業を聴講(そこの大学には結局入学しなかった)しており、そこでイギリス文学の発達史や心理的研究をしていて、後の漱石の研究の方向性を作ると共に、漱石が教えを請いにいく家庭教師グレイス先生(シェイクスピアを研究した著作を出していて、イギリス学会にも顔がきいていた人)を紹介してもらいました。
そのとき、イギリスではボーア戦争というイギリスの南アフリカの植民地に関する戦争が起こった時期で、その戦争で活躍した義勇兵がロンドンの街で凱旋のパレードを行っていました。また、ロシアと対抗するためにドイツと結ぶことを考えていたチェンバレン内閣から、ソールズベリー内閣に交代し反ドイツ政策に転換すると共に、ロシアの南下対策として海軍で多くの影響を与えた(戦艦「三笠」が当時の象徴)日本と手を結ぶことを検討しだします。
最初の下宿先では、台湾で後藤新平の名を受けヨーロッパの港湾を調査していた長尾半平と親交を持ちました。


年明け1901年には、大英帝国の絶頂期を作ったヴィクトリア女王が亡くなり、夏目漱石もそのセレモニーを観覧しています。
そして、5月にはドイツ・ライプチヒに物理・化学の研究のため留学していた池田菊苗が、イギリスの王立研究所に赴くため、イギリスに住み始め夏目漱石が親交を持ちます。 池田の研究所近くのトマス・カーライルというゲーテとも親交もあったドイツ文学者兼歴史研究家の家(その時にはカーライルはなくなっていて博物館として公開)を漱石は池田と尋ねたり、ラファエロ前派の画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの住んでいたという旧家にも行きました。
 また池田の影響もあり科学に対する関心が強まり、イギリスの物理学者A.W.Ruckerの大英学術振興協会グラスゴー総会の原子論に関する記事について日本の寺田寅彦に送ったり、カール・ピアソンの『科学の文法』を購入し記述式経験論に影響を受けました。
 この時期あたりに、中村是公とロンドン見物をしたり画家の浅井忠が訪ねてきたり、岡倉天心の弟・岡倉由三郎とも交流を持っています。
1902年にはソールズ・ベリー内閣が日英同盟を結びました。そのため、この時期に伊藤博文もロンドンに来ていました。
この時期から夏目漱石の神経症が重くなり始め、治療のため医者に自転車を乗ることを進められました。このころから自転車が普及し始め、イギリスでは流行していたようです。百貨店のハロッズなどは自転車で届けるサービスを行っています。
その後、岡倉天心の弟・由三郎の繋がりでスコットランドの来日経験もある日本画に関心を持っている富豪の家を訪れたりもして、帰国しました。
帰国後は1903年にラフガディオ・ハーンの後を継ぎ(解雇して)、夏目漱石が東京大学の英語教師となり英文学に関する授業を行い、それが留学の成果として『文学論』にまとめられます。

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