「イノベーション」とは、様々な物事を結びつけ新しい価値を生み出すことであり、現代の経営にとって必須なことです。しかし、この概念をいの一番に提唱したシュンペーターの時代は、まだ「イノベーション」が起こせる環境は整っておらず、理想の世界のことでした。

 1912年、オーストリアのグラーツ大学の教授シュンペーターによって『経済発展の理論』が執筆され、イノベーションともなる概念が提唱されました。

 1912年といいますとまだ第一次世界大戦より前の時期であり、またオーストリアにはハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー二重帝国の皇帝がいました。19世紀半ばに帝国はウィーンの城壁を取り払い産業が発展し、20世紀後半にはウィーンは世界の都市としてモダニズムが花咲いてきました。

 ただ、ウィーンが発展するにつれてブルジョワ階級が台頭してくるとともに、理念的には自由主義に転嫁しようとしつつもまだまだ体質的には変わり切れない貴族階級がいました。

 そこで出てきたのがカール・メンガー。

 彼は、皇帝の息子ルドルフの家庭教師となり、皇太子に自由主義の在り方を伝えました。それは現在のミクロ経済学の基本ともなる個人体の消費者の満足度の充足によって経済が成り立つモデルを作った『国民経済学原理』をバックベースにしたものでした。ただ、メンガーの考えは思うように世間に理解が得れず、また皇太子ルドルフも謎の死を遂げてしまい、メンガーの革新はこのときは潰えてしまいました。

 しかし、メンガーがウィーン大学で経済学を講義していた1870年代の聴講生であるベーム=バヴェルクやヴィーザーはメンガーの考えに衝撃を受け、共に大蔵大臣となるとともにウィーン大学の経済学の主軸となる教授になりました。そして、統計学やマルクス主義の批判などを通してメンガーの考えをより発展させました。

 そのメンガーの意志を継いだベーム=バヴェルクのウィーン大学のゼミにいたのが、シュンペーターです。シュンペーターはメンガーのモデルより、より完成度の高いフランスのワルラスの一般均衡モデルを直接支持していますが、帝国の保守的な体制から抜けきれないオーストリアの経済界に個人の消費者の満足度から作り出す自由主義の一般理論の体系によって理想を描くさまは、メンガーが作り出しベーム=バヴェルクやヴィーザーが引き継いだオーストリア学派の流れそのものでした。

 特にシュンペーターがアメリカに行く前のオーストリア時代においては、その理想の実現のために学者としてだけでなく政治家として経営者としてシュンペーターは奮戦しています。

 イノベーションの意義を問い直すために、またシュンペーターの源泉を問い直すためにオーストリア時代のシュンペーターを中心に紹介していきたいと思います。

【1.学生時代とオーストリア学派】

 シュンペーターは1883年にオーストリア・ハンガリー二重帝国のモラヴィアにおいて生まれました。父は早い内に亡くなるも、母がシュンペーターの教育のため帝国陸軍中将と結婚し、シュンペーターは古典教育を大切とする「テレジアヌム」に通えることになりました。

 ここでは、ギリシア語など色々な語学教育を受け、後にシュンペーターがドイツ語圏だけでない著作も多く読む力の下地となりました。

 1901年にはウィーン大学の法学部に通いました。当時経済学部はまだなく、官吏養成のためにメンガーの系譜で経済学の講座があった程度でした(メンガーも現役引退同然の状態でした)。しかし、1905年に今まで大蔵大臣であったベーム=バヴェルクがウィーン大学の教授となり、ウィーン大学の経済学は再興されました(メンガーの後任教授ヴィーザーはベーム=バヴェルクと幼馴染でベーム=バヴェルクと共に経済学の振興を協力しました)。

 そのベーム=バヴェルクのゼミにシュンペーターは参加したのですが、そのゼミの環境が多くの影響を与えています。ベーム=バヴェルクは『マルクス体系の終焉』を描いており、マルクス主義者の学生も対抗意識を燃やして参加したようです。当時、オーストリア帝国の隣国ドイツは帝国主義によって産業が盛んになっており、イギリスなどの自由主義によって盛んにすべきか、帝国主義によって盛んにすべきか、などまだオーストリア・ハンガリー帝国の体質が残っていたオーストリアにとっては自由主義だけでなく、マルクス主義のような社会化政策も同じ土俵に立って議論されていました(現にその後のドイツはオーストリアのマルクス主義が多く移住し社会化を進めています)。そして、シュンペーター自身も自由主義の考え方を持ちつつもマルクス主義の情熱を持った学生と交流を持てたことは大変有意義でした。

 ただ、シュンペーターはこのとき語学力を生かして、さまざまな言語の経済学書を読み、他の学生と違いドイツ語圏以外に目を向けたことが独自の視点に繋がっていきました。

 その後、1908年にはカイロ国際混合裁判所で弁護士(学位論文「ローマ法と教会法」であり法学も学んでいた)をやるかたわら、学生時代などに読み漁った経済学書などの記憶を頼りに、当時ドイツ歴史学派(法則よりも個別の歴史的展開が経済を作るとする学派)が主流であったオーストリア経済界にワルラス一般均衡を中心とした経済学の一般原理の必要性を紹介する『理論経済学の本質と主内容』を執筆します。

 こうして20代半ばの若さで大学教授の道が開かれていくのです。

【2.イノベーションの誕生】

 1911年、ウィーン大学の恩師ベーム=バヴェルクの働きかけと皇帝の勅命によりグラーツ大学の教授にシュンペーターがなります。

 そして1912年に『経済発展の理論』を出版し、後にイノベーションとよばれることになる「新結合」という概念が提唱されます。

 ワルラスの一般均衡理論は、個人の消費者の満足度充足から社会の需要と供給のバランスがとられるメカニズムを構築するのに非常に優れていますが、それは受動的なメカニズムでした。個人の消費者が満足度充足を求める量とその人口、そして生産する側の生産量などが所与の条件として与えられると、一般均衡のメカニズムが働くというものでした。

 しかし、現実にメンガーやワルラス、ベーム=バヴェルクなどが夢見た自由主義を牽引して豊かなものにしているのは、単にメカニズムがあるというだけでなく、意識的に成長していく企業者がいたのです。これは、ベーム=バヴェルクのゼミで議論を共にしたヒルファーディング『金融資本』(1910)に書かれている、ドイツで長期的に銀行がインダストリーに融資して融合している構造が一つの念頭としてあったようです。

 この新結合は、ニーチェの超人思想やウェーバーの「カリスマ的指導者」の影響がしてきされることもありますが、ニーチェやウェーバーは時代の舵を切る大きな流れを作る人物を想定していたのに対して個人的にはシュンペーターはもっと小規模だが確実に社会を変える一つのパーツとなっているような小さな革新の連続を考えていたのではないかと思ったりします。

 帝国主義よって力で産業が発展したドイツや自由主義のイギリスやアメリカに対して、保守的な体質が残っているオーストリア・ハンガリー二重帝国の中であったがこそ、このイノベーション革新の理想を強く唱えたかったのではないでしょうか。

【3.マックス・ウェーバーとシュンペーター】

 1918年、マックス・ウェーバーとシュンペーターは少なくとも二回は会って談義をしました。

 ウィーン大学は、ベーム=バヴェルクが亡くなり、ヴィーザーも引退が近くなり、新たな経済学の教授の人材を必要としました。そこで白羽の矢が立ったのがマックス・ウェーバーでした。

 マックス・ウェーバーはドイツ歴史学派の第三世代にいたのですが、歴史学派と理論派の両方を解決する「理念型」という概念を提唱しました。おそらくベーム=バヴェルクやヴィーザーに変わる名声を持ち、あるていどオーストリア学派に歩み寄る考えも持っていることから選ばれたのではないでしょうか。

 そのため教授就任要請を受けた夏季講義をウィーン大学にておこなっていました。

 その講義の際に、オーストリアのウィーンに訪れていたため、シュンペーターと対面する機会があったのです。

 そこでは、①第一次世界大戦中に起こったロシア革命に対する意見と、②経済現象に着目する視点について話し合われました。

 ①ロシア革命に関しては、ウェーバーは経済的基盤が整わない内に進んでしまった共産主義を断固反対し、シュンペーターはマルクス主義の学生と交流したことなどもあり、冷静に経過をみていきたいと論じました。

 ②経済現象に関しては、ウェーバーは灯台の光を灯すような時代の進路を変える人に注目するという意見に対して、シュンペーターは灯台の光自身や光が当たった人々など中心よりも環境の分析に注目するという意見を出しています。

【4.政治家として経営者としての挫折】

 第一次世界大戦が終わるとシュンペーターは、ベーム=バヴェルクのゼミの仲間である共産主義者に誘われ、ドイツでの社会化事業の論議を手伝いました。

 その後、その縁もあり、ベーム=バヴェルクのゼミの中心人物でもあったオット・バウワーの誘いでオーストリアの大蔵大臣に就任しました。

 第一次世界大戦後のオーストリアは、戦争のために多くの国債や貨幣を増刷したためインフレに見舞われていました。更に、武器等を戦争のために調達したために多くの借金があり、またオーストリア・ハンガリー帝国は敗戦により解体され、オーストリアは帝国の領土のわずか六分の一ほどになってしまい、以前まで国内として機能していたサプライチェーンが分断されてしまい、従来の生産力も大幅にダウンしてしまい、回復する見込みが見えない状況になっていました。

 そこでシュンペーターは、インフレを抑えようとしました。

 というのは、今後インフレは加速してくると見込んでいたからです。

 そのためシュンペーターは、財産税という財産に対する税金を課することで貨幣を回収しようと目論みました。また財産税の特例として、外国債など外国との取引を積極的に行う事で支払いを延期できるようにして、外国の信用を得ることでオーストリアの信用の回復に努めようとしました。

 しかし、オットー・バウアーは企業の社会化やドイツとの併合(当時オーストリアはオーストリア・ハンガリー帝国から無理やりオーストリアとして独立させられたためアイディンティティを喪失していて、併合を望むものは多かった)などを考えており、シュンペーターのオーストリアの企業の力によって回復する考えと対立してしまい、シュンペーターとオットー・バウアーは共に大臣の職を解かれてしまっています(厳密にはシュンペーターはアルプス鉱山事件というオーストリアで社会化しようとしていた鉱山をシュンペーターの計らいでイタリアの投資家に買われてしまったという事件に巻き込まれてしまったため)。

 その後、シュンペーターの考えた通り、インフレは更に加速していきオーストリアの国民は窮乏に窮乏を重ねて長い期間敗戦処理を済ませていく道を進むことになってしまいました。ただ、国民はシュンペーターのインフレ対策の本質を見抜けず、さらにシュンペーターの自身も国民感情を考えず冷静な対策に徹してしまったため、国民は大蔵大臣時代のシュンペーターは決して良い印象を抱いていませんでした。

 また更にその後銀行の頭取になるのですが、こちらも支持を得れなかったのと1924年の恐慌の波に襲われて解任となっています。

 その後、ボン大学の教授になり、更にアメリカのハーヴァード大学の教授になり学問の道に戻ってシュンペーターの人生はようやく軌道に戻り始めるのです。

※基本的に『シュンペーター』(根井雅弘・講談社.2001.10)と『シュンペーター』(根井雅弘、伊東光晴・岩波新書・1993.3.22)を参照して、細かいところは日本語版とドイツ語版のwikipediaを参考にしました。

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