ウィトゲンシュタインは航空士だった。


 ウィトゲンシュタインが哲学者としてスタートを切ることになる「ケンブリッジ大学」に入った当初、師ラッセルには「航空士」と呼ばれ、ウィトゲンシュタイン自身もそう称していました。

 それは、ケンブリッジ大学に来る前に、ウィトゲンシュタインはマンチェスター大学で飛行機を試作し、自分自身もその飛行機に乗り、開発に努めていたからです。
 
 「ライト兄弟」が世界初の有人動力飛行に成功したのは1903年。まだヴィトゲンシュタインがマンチェスター大学にいた当時(1908~1911)は、継続的に長距離飛行できる飛行機の開発はまだまだ試行錯誤でした。ウィトゲンシュタインが卒業した1911年に、ライト兄弟の教えを受けたガルブレイス・ペリー・ロジャースがようやく米大陸横断が初めて成功した位でした(この横断も何回も離着陸を繰り返している)。

 ウィトゲンシュタインはマンチェスター大学で、燃焼させた蒸気をプロペラの先端で噴射させ回転させることで飛ぶ技術の特許を取っています(ジェット機の先駆けとも言われている)。これは飛行船ではなくヘリコプター(正確にはオートジャイロ)のように、プロペラで空を飛ぶことを想定した技術でした。当時はライト兄弟がガソリンエンジンで飛行船を飛ばしものの、安定して継続的に飛行できるものはプロペラによる飛行機という意見も強くあり、ウィトゲンシュタインはこちらの考えを採用したようです。

 、、、もっともウィトゲンシュタインの特許はその時点では飛行機の動力としては不足なもので、その後時代的には飛行船が進化していきます。ただ、少しの年月をおいて、噴射の発想はジェット機に、プロペラの独立回転はオートジャイロの開発に役立っています。

 そんな時期を経た後、ウィトゲンシュタインは飛行機の開発に使う数学自体と数学を支える哲学に傾倒して、大哲学者となっていくのです。

※『ウィトゲンシュタイン評伝』(ブライアン・マクギネス著、藤本ら訳)を基本的に参考にしました。ウィトゲンシュタインが実際飛行機にのって研究していたという資料はないものの当時の研究環境なら十分あり得ると書かれています。

■ウィトゲンシュタインと航空工学の関係■

 ウィトゲンシュタインは、1889年にウィーンで鉄鋼業で独占的に設けた大富豪の家に生まれました。そのため、兄弟姉妹ともに教育に力が注がれました。
 ただウィトゲンシュタインは、両親に望まれていた「ギナジウム」という学校に入るには成績が足りなかったことと、機械などに興味を抱いていたことから、「実科学校」という実技に重点が置かれた学校に通う事になります。
 場所は、リンツというウィーンから離れた地の学校が選ばれたのは、ウィトゲンシュタインは今まで家庭教師から学んでいたため、年齢に応じた学年で入学できるのはリンツであったようです。このリンツには、ウィトゲンシュタインと同じ年齢で官吏の息子であったアドルフ・ヒトラーが先に入学していますが、ヒトラーは成績が良くなかったため、ウィトゲンシュタインの方が2学年上に入学していたようで、接点はありません。因みにアドルフ・ヒトラーは成績不良のため途中で退学処分を受けて別の「実科学校」に通う事にもなっています。『わが闘争』ではこの時期をゲルマン民族の優位性を唱えた歴史教師に言及して触れています。

 その後、ウィーン大学の熱量の統計的研究などで名声をあげた「ボルツマン」のもとので学ぼうと考えいたのですが、ボルツマンは熱量の第二法則(熱は非可逆的)の証明のため「原子分子」説を支持していたのが(当時は原子分子はまだ証明されておらず、エネルギー説が有力がだった)大批判の的になり、双極性障害もあり自殺してしまい、ウィトゲンシュタインの願いは叶いません。この頃、ウィトゲンシュタインはまだ16歳であり、ボルツマンの科学理論自体は理解に及んでいなかったものの、科学の考え方などに影響を受けていたようです。(ただ注目に値するのがボルツマン自身は1894年、マキシム機関銃を発明したマキシムが蒸気エンジンによって飛行機の離陸に成功した時期に、今後飛行機が継続的に飛行できるのはプロペラによるものであると講演しており、このときからウィトゲンシュタインは航空工学の興味があったとも考えられます)

そして、ウィトゲンシュタインはドイツの一番有名な工学の大学「シャルロッテンブルク大学」に通います(ウィトゲンシュタインはドイツが一番工学が発展していると考えていた)が、下宿先の「画法幾何学」と「図式力学」を教えていた教授夫人が煩わしくなり、イギリスに渡ります。

1908年にイギリスに渡った際は、気象観測所の凧揚げの実験に参加しています。このときには航空工学の興味はあったようですが、本格的な工学の実技は行ったことがなく、この凧揚げの実験の際に飛行するための設計や実技を行ったりし、力を少しづつ付けていったようです。
ただ、ここは気象観測所であり、基本的には凧にのせた計測器で上空の気圧の変化などのデータ収集が目的でした。それなのに飛行に関する実技を行ったのは、この時代の科学者は実験に関する道具などは自分で作ることが基本であったためのようです。事実、後にマンチェスター大学で気象学の講師をしていたJ.E.ペタヴェルもここに気象学の実験に訪れ、後に凧の自由飛行を実施した際飛行に興味を持ち、工学教授に転身しているほどです。

この気象観測所は、マンチェスター大学の元教授でもあったアーサー・シュースターの研究計画の一環として作られたもので、その関係もありウィトゲンシュタインはマンチェスター大学へ研究生として通い始めます(アーサー・シュースターには大学でもお世話になっています)。

ただ、ここでもウィトゲンシュタインは原子核の発見などで名声を得る事となるラザフォードの門下生になる可能性もあったようです。ラザフォードは、ウィトゲンシュタインが入学する前年1907年にマンチェスター大学にきてラジウムなどの実験を行い、後にケンブリッジ大学のマクスウェルが初代所長であった伝統的な教授職につきます。ボルツマンは熱量の研究が有名で、ラザフォードは原子核の研究が有名で、完全に航空工学でなはい人に魅かれたのは、当時は物理学は多くの周辺分野を研究でき、さらに発見した原理で違う現象も説明する自由さがあったため、ウィトゲンシュタインも航空工学だけでなく周辺も考えていたのと、航空工学に特化した人に師事しなくとも航空工学が研究できるためだったのではないでしょうか。特にマンチェスター大学は専門よりも総合性を重視したようです。

最終的にはホラス・ラムという流体力学(ニュートンの静力学も重点的に研究)の古典的著作とも現在にもなっている人で、第一次世界大戦時には航空機体の構造の主導的助言者ともなる人のもとで研究を行います。ただ、ホラス・ラム自身も大学時代はマクスウェルのもとで学ぶなど、ホラス・ラムも次第に力学や航空工学をメインに周辺も研究していたと思われます。

ウィトゲンシュタインは1910年には特別奨学生になったほど、真面目な研究者として見られていたようです。ただ、財政面では家がお金持ちであったためあまり関係なく、実験で使う道具は自費で賄え、生活もそこそこ裕福だったようです。

そして、そこでウィトゲンシュタインは、燃焼室の蒸気をプロペラの先端から噴出させて回転させ動力とする技術などの特許と共に、自身も飛行機を試作し「飛行家」としてのアイディンティティも確立し始めます。

だた、その気持ちと並行して、設計につかった数学の魅力にも徐々に魅かれていったようです。

おまけとして、ウィトゲンシュタインの家族と人脈を解説した動画も作りました。

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