岡倉天心記念館で、横山大観は東京で岡倉天心と出会い、茨城の北部の五浦に岡倉天心に師事して引っ越し、五感でインスピレーションを発揮したような作品を残したことを知りました。その後、水戸にいって茨城近代美術館に行った際、出身は水戸であることを知り、水戸にある横山大観生誕の地に行きました。父親が水戸の藩士で尊皇攘夷派で、その影響を受け横山大観は国粋的な側面があり、富士を多く描き、天皇に対して忠誠があったと言われています。

仕事の側面では東京の方がメインとなっていますが、その活動の源は茨城にあるのではないかと感じました。

六角堂

「天心自身の構想に基づいて大工小倉源蔵によって建てられた。同時に現存の居宅も施工されている。…実現された建物は、そのいずれの専門家の腕にもかかっていない、素朴な、ほとんど素人の作」※1

「必ずしも、茶席とは考えていなかったであろう。」「仏堂、茶室という型を比喩に用いるならば、五浦六角堂の内部空間はそのいずれとも程遠い。…とすれば残るは中国園林にピクチャレスクな景観を構成するためにつくられる亭(東屋、阿舎)に近いというべきだろう。ここには道教の影響のもとに、自然との一体化を感知できるような場所をさがして堂塔がつくられ、その光景が圧縮されて、立体的な絵画になっている。」「そこに座り、周辺の光景を感知することが重要で、それこそが道教由来の自然と一体化する風雅と呼ばれているものである。」※1

※1…『磯崎新建築論集1』

茨城県天心記念五浦美術館に行ってきました。

こちらの記念館は、岡倉天心がフェノロサらと共に設立した東京美術学校の校長を経て、日本美術院を横山大観らとともに設立し、インドに東洋の原点を求めて旅をした後に、移り住んだ晩期の場所となっています。

しかし、この記念館の場所の五浦時代(1904〜1913)の天心は精力的で、「東洋のバルビゾンにする」と言いフランスの印象派などの文脈で活動グループを作り、東洋の精神に基づき手仕事での日用品の作成にこだわるなどイギリスのアーツ&クラフト運動を彷彿させるような活動をし、更にアメリカのボストン美術館の東洋部長になり海外に向けた東洋の著作を書くなど、精神は東洋に在りながら活動規模は世界に目を向けてました!

この茨城の辺境の地の自然の雄大さにインスピレーションを感じ、自身の邸だけでなく、横山大観らの邸や日本美術研究所を作り、日本画で在りながら光の表現や点描による手法を使ったり革新性のある創作がなされた場所でもありました。

記念館の周りの自然に触れる事で、そんな天心の精神に触れられる素敵な場所でした!

フェノロサは、日本在留時に日本の外国人社交界の中心的な女性を奥さんとしてもらいつつも、日本からボストン美術館の東洋部長になったとき秘書と結婚をすることにして、その妻と子供がいる中の結婚は一つのスキャンダルとなり、ボストン美術館をやめることになってしまう。

 その後、また日本に戻って職を探したりするものの、あまり上手く行かず。講演などをして暮らしつつ、ロンドンで客死してしまう。

お雇い外国人として日本に来た時も、哲学の教師でありながら、日本画などの収集や研究に傾倒してしてしまう。

まあ、そのお陰で日本で埋もれていた狩野芳崖を見出し、スキャンダルによってボストン美術館のポストが開いたおかげで岡倉天心がボストン美術館への道が開かれたり、人生と言うのは目的と派生と結果は分からないものなのでしょう。

☟以下、参照データです。☟

横山大観

「大観が好んで描いた太陽、月、末、桜、富士などすべて世界意志のあらわれであって、大観が描き出したのはその表象であったと見るべきなのである。自然の意志、歴史の意志を描くべき日本人の心と考えて、大観はそれを絵画化したのだ。…したがって、画面にあられた意志に同調できるかどうかが、大観作品と向きあう時の大きなカギとなる。そうした意味で、大観の芸術は、上手に描いて感心してもらおうとか、綺麗に描いて楽しんでもらおうとするものではなく、さまざまな意志を表現して同意してもらおうとする芸術であるということができるだろう。」※2

1868年 水戸にて生まれる。世代的には夏目漱石、南方熊楠世代。

 「父は水戸藩士として「水戸学」の尊皇攘夷思想により志士として活躍。大観の皇室への忠誠はここに発するものとも言われる。」※1

1878年 上京

1888年 狩野芳崖(近代日本画の父、フェノロサと出会い東京美術学校設立の契機を作る)に2.3か月教えを受け(芳崖はこの年に亡くっている)東京美術学校を受験。

1889年 東京美術学校に第一期生として入学し、岡倉天心、橋本雅邦(狩野芳崖と共に狩野派で学び、フェノロサの運動に芳崖と共に活動、東京美術学校に設立にも関わる)。に学ぶ。同期生に下村観山、3期生に菱田春草がいる。菱田春草とは無二の親友だった。

 卒業後、京都で仏画の研究。

「東京美術学校では、いわゆる日本画と木彫、牙彫、さらに一年おくれて金工、漆工といった伝統的な美術のみの授業が行われ、混とんとした美術領域を文化し、それぞれ独立する傾向を強めた。しかし、大分のちまで西洋画と西洋彫刻は含まれていなかった。」※2

1896年、東京美術学校の助教授に就任する。

 「黒田らの帰国や時代全体の大きなながれの中で開校当時は伝統的な芸術分野の学科しか置かなかった美術学校も、…29年には西洋画科が追加開設され、黒田や久米、藤島武二らがその授業を担当することとなる。こうしたなかで…岡倉天心が辞職することとなる。その背後には…美術界のいろいろな流れがからみあった塩飽があったのであろう。このとき岡倉の辞職に従った者に橋本雅邦、下村観山、横山大観らがおり、彼らによって同じ年に日本美術院が結成される。」※2

1898年、岡倉天心の排斥運動が起こり、大観もそれに従って助教授を辞す。

 日本美術院創設に参加。

 「美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。」※1

 院展第一回展に意欲的な作品「屈原」を発表。

 「歴史画が大流行していた…歴史画とはどうあるべきかという論争のきっかけともなった。この作品は大観の出世作となった。その後、画風は二転三転する大観だが、この作品にはいわば大観の芸術の原点が示されている。…直接的な感情は画面の内側に押し込め、おだやかな山並みや隠逸の高士たちの姿を描きながら、頑強で意志的な心の表現をもとめ続けたのである。」※1

 その後、朦朧体などと批判され、大観は春草と共に海外に渡る。

 インドのカルカッタや、アメリカのニューヨーク、ボストンで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。

1903年、妻死去。「インドを訪問し、釈迦の実像を描こうとした。天心の勧めるものであったが、天心は日本画の原点をインドと考えたのではないかという説もある。」※1

1904年、天心の勧めでニューヨークへ。

1905年、ロンドンへ。

1906年、五浦に天心と共に東京美術院を移す。

1907年、この年より始まった文部省美術展覧会の審査員に就任。

 大観や下村は日本画部門の第二科(新派)に属す(第一科は旧派)

 「欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。…欧米外遊での経験から、西洋の鮮やかな色彩が琳派との共通性がある事を見出し、大正時代における琳派ブームをけん引した。」※1

1910年、中国へ出発、ロバを買って帰る。

 地球に接近したハレー彗星を題材に水墨画『彗星』を描く。

1913年、日本美術院を下村観山らと共に再興。

 「以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き」※1

1928年、ムッソリーニに『立葵』が献呈。

1938年、アドルフ・ヒトラーに献呈するため『旭日霊峰』が完成。

1948頃、80代の頃、笠置シヅ子が好きで「東京ブギウギ」「買物ブギ」を愛聴

1951年、日本美術院会員を辞任。

1958、永眠。

※1…wikipedia「横山大観」

※2…『日本美術史』辻惟雄、美術社出版

フェノロサ

「私はお雇い外国人としての仕事は日本の近代化の礎をつくる役をしていたことを知っているが、もうすこし視点をひいてみると、コンドルと同じくコロニアリズムのおおきいながれのなかでの役割だったと考えている。コンドルの日本で設計したいわゆる洋館は、コロニアルと呼ばれていた様式に基づいている。…日本美術の発見者というフェノロサに与えられている賛辞も、やはりコロニアリズムのなかで世界各国の珍品蒐集が博物学、民俗学の大義の下に遂行されていた事態のなかであったことは確認しておかねばなるまい。コンドルが河鍋暁斎に弟子入りしたのことは、フェノロサが狩野芳崖に弟子入りし、狩野派の鑑定専門家になったここと同様なレベルでのコロニアリズムの時代の知識人の良い趣味を示していたにすぎない。」※2

1853年生まれ。

1878年、西洋哲学講師として来日。

1882 「『美術真説』という講演筆記を著してこの考えを理論化し、さらに自らのポケットマネーをつぎ込んで日本画研究会を発足させた。」※1

 狩野芳崖、フェノロサに見いだされ日本画の革新運動のリーダーとなる。

1886 狩野芳崖、伊藤博文から鷲の絵を注文をされ、西洋主義の伊藤に対して、日本が奨励へしむけようと『大鷲』を作成(1888年完成)。

1888 狩野芳崖、絶筆作『悲母観音』:「この作品は仏教の主題を出発点としながらも、宗教的な意志を超えて、母の愛という人類的なテーマを盛り込んでいる点で新しい時代の幕開けを予感させるものとなったのである。」※1

1889 東京美術学校開校。同時期に完成して明治宮殿も、当初はジョサイア・コンドル設計の予定が和洋折衷の様式になっている。

 天心は『国華』発刊の辞において「同時代の思想(この場合は国体)をいかに表現するかということが美術の目的であると明言し、画家たちを鼓舞したのである。」※1

 狩野芳崖は教授となるはずだったものの、前年に亡くなってしまう。

1890 第三回内国勧業博覧会、日本画だけでなく油絵によっても「歴史画」が主題となることが多く、「日本美術界全体として、何を描かなければならないかということが強く意識されていた事を物語っている。洋画の受容を振り返れば、明治10年代まで「何を」描くかということには、大きな関心が払われることなく、まずはいかにリアルに描くかが問題とされてきた。」※1

 フェノロサ帰国、ボストン美術館の東洋部長となる。

1893 「シカゴにアメリカ大陸のコロンブスによる発見400周年を記念する世界博が催され、鳳凰殿と呼ばれた日本館が出品される。フェノロサが監修し、岡倉天心がカタログの編集をした。この時の鳳凰堂からライトは日本に関心を持つ。

1894 フェノロサは日本をひきあげてボストン美術館に勤務していた。ハーンの『グリンプシス』が出版。

1895 「秘書であったメアリー・マクニールとの関係がおもてざたになり、その職を失う。」(フェノロサは妻子を捨てた結婚であったため)「前夫人は東京における在留外国人たちの社交界の中心人物であり、伊藤博文などとも親しくしていた」「岡倉天心がボストン美術館に職を得たのは、フェノロサのこのスキャンダルによる失職の後任だった」

1896 「日本で関西にあらたに国立博物館を創設する計画があることを聞きつけ、その艦長になるべく来日する。…そのとき、あのハーンの『グリンプシス』を想いだし、中国詩史の講義をきいてノートをとった。」※2

1912『東洋美術史網』(Epochs of Chinese and Japanese Art )

 「岡倉覚三(天心)の『東洋の覚醒』(1902年)のおくれた応答であった。」※2

※1…『芸術心論』

※2…『磯崎新論集1』

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